第7話 それぞれの正体

 それからどれだけの時間が過ぎたのか。泣きながら眠ってしまったらしく、朱里はくらくらする頭を持ち上げて時計を見た。

 午前四時。もうそろそろ日が昇る時間だ。

 結局、青年の歌は聴けなかった。突然来なくなった自分を彼はどう思っただろう。

 タオルで涙をぬぐって、そっとカーテンの隙間から外を覗き…驚いた。いつものベンチに、彼の姿があった。

 驚きのあまりもう一度時間を確認して、朱里は慌ててベランダに出た。

 凍てつくような寒さの中、青年はギターをわきに置いて手をこすっている。もしかしてずっと自分を待っててくれていたのだろうか。

 声をかけようとするが、弥から向けられた軽蔑の視線を思い出して、体がすくむ。青年が待っていてくれて嬉しいのに、声が出ない。けれど、このまま部屋に戻るのは待ってくれていた彼に悪い気がした。

 どうしようか戸惑っていると、ふいに青年が顔を上げた。その視線の先には、一人の男性がいた。

(あの人は……)

 青年と目が合うなり笑いかけながら歩いてきたのは、確か以前にも彼と話をしていた人だ。歌を聴きに来たのだろうか。

 だが二人の様子を見ていても青年はギターを手に取ることはなく、話しているだけだ。

 歌が目的でないなら、あの人は誰?

 じっと二人を見つめて耳を澄ませていると、いくつかの単語が聞き取れた。

『しょうご』『うた』『せんせい』

 おそらく『しょうご』というのは歌鬼の名前だろう。だとしたら、先生というのは話している男性の事になる。

 なぜか急速に心が冷えていく気がした。

 少し話をした後、男性は立ち去り、青年が顔を上げた。視線が交差する。薄暗い視界の中でも彼が笑ったのが分かった。

「朱里! 良かった、今日はもう会えないかと思ってた」

 足早に近づいてきた青年に、ぎこちなくうなずく。なぜだろう。いつものように話せない。青年もそれを感じたのか、不思議そうに首をかしげる。

「どうしたの? 何かあった?」

 かじかむ手をさすりながらの問いに、朱里は自分のつけていた手袋を外して、青年の方に落とした。

 受けとめた青年が、きょとんと瞬く。

「ずっと、待ってたんですか? ……寒いのに、無理しないでください」

 嬉しいはずなのに、素直にそれを言えない。

 けれど、手袋を受け取った歌鬼は、少し間をおいてにっこりと笑った。

「ありがとう。使わせてもらうよ」

 いそいそと手袋をつけて、歌鬼は抱えていたギターをケースにしまう。その様子を眺めながら、何気ない調子で口を開く。

 先ほどから胸の中にくすぶって消えないわだかまり。その答えは半ばわかっていたのに、訊かずにはいられなかった。

「さっき話していたのは学校の先生ですか?」

 問うと、ギターケースのチャックを閉めながら、歌鬼はあいまいに笑った。

「うん、まぁそんな感じ。俺の先生だよ」

 歌鬼の答えに、心が沈むのが分かった。

(やっぱり、彼も普通なんだ………)

 たとえ夜にここで歌っていても、彼には彼の昼間の生活があって、学校があって、普通の暮らしを送っているのだ。

 やはり、自分とは違う………。それを嫌でも感じてしまって、冷えた心が鈍く痛む。弥から向けられたあの視線が頭から離れない。

 これ以上、誰かと話すのが怖い。

「……あの―――」

「あ、雪だ」

 今日はもう部屋に戻りたくて朱里が歌鬼に声をかけようとすると、歌鬼は空を見上げてぽつりとつぶやいた。確かに雪がちらちらと舞っていた。

「初雪だなぁ。どうりで寒いはずだ」

 空を見上げてふと何か思いついたのか、歌鬼は朱里に目を向けた。

「ねぇ、せっかくだし、一緒にここで初雪見ようよ」

 それは、外に出て来いということだろうか。

「でも、家の人眠ってるし、今日はもう………」

「大丈夫。ほら、こうして―――」

 とっさに朱里が出ることをためらうと、歌鬼はそばにあった木の枝に手をかけた。そのままひょいひょいと身軽に上ってくる。

「木を使えば、ここからでも降りられる」

「でも………」

「いいからいいから、大丈夫だって!」

 一気に近くなった距離に戸惑っていると、歌鬼は躊躇なく朱里の手をつかんで引いた。

 なんとなく彼に対して申し訳ない気持ちがあったので、されるがまま手すりを乗り越えてみるが、二階とはいえ結構高い。思わず身をすくませると、歌鬼がそれを支えながら笑った。

「ほら、俺につかまって」

「う、はい………」

 歌鬼の手を借りながらゆっくりと木を降りていく。あと少しのところまで降りると、先に地面に降りた歌鬼が手を伸ばした。

「ほら、もう少し」

 その手につかまろうと手を伸ばした時だった。ずるりと足元が滑り、朱里の体が傾く。

「きゃ!」

「っ、危ない!」

 一瞬の浮遊感のあと、どさりと地面に落ちた。けれど、痛くない。どうしてだろうと思った時に寄り添う暖かさを感じ、歌鬼に受け止めてもらったのだとようやく理解した。

「いてて。ごめん、受け止めきれなかった」

 一緒になってひっくり返った歌鬼の声を聴いて、朱里は慌てて立ち上がった。

「あ、ごめんなさ―――」

 ぱっと離れると、ふいに頭の軽さを感じた。かぶっていたフードが外れている。

「朱里、だいじょう―――」

「見ないで!」

 とっさに叫んだが、遅かった。

 歌鬼の目が、朱里の顔に刻まれた火傷の痕を捉える。

 見られた。

「―――っ!」

 驚いた様子の歌鬼を無視して、思わず走り出していた。

 見られた。傷を見られた。醜い傷跡。汚い顔。それを彼に見られたことがすごくショックだった。

『相変わらず醜い顔してんな』

 弥の言葉が何度も頭の中で繰り返される。

 隠していたのに。きっと彼も近づくのを嫌がる。そうして離れていく彼を見るのがつらい。彼の口から拒絶の言葉を聞きたくない。

 歌鬼から離れたい一心でがむしゃらに走っていたが、靴を履いていないせいで足が痛む。痛みで足元がふらついて、走っていた勢いのまま倒れこんだ。

「朱里!」

 男の足なら追いかけることは簡単だろう。すぐに追いついた歌鬼から、隠れるようにうずくまる。

「やだ! 来ないで………見ないで!」

「朱里、落ち着いて。何をそんなに怖がることがあるのさ?」

「だって、私の顔……………」

 両手で顔を隠して泣き崩れる朱里を見て、歌鬼はそっと朱里の背中を撫でた。

「火傷のあとがなんなのさ? 傷跡なんて、誰でも持ってる。朱里はそれがたまたま顔だっただけだ。そうだろう?」

 冷静に諭されて、波立っていた心が少しずつ静まっていく。体を起こして涙をぬぐいながら、朱里は嗚咽交じりに口を開く。

「きもちわるく、ないの? みんな、これをみた、ら・・・にげてくのに」

「気持ち悪くなんかないよ。俺がそんなことで君を避けるような人間に見えるの?」

 問い返されて、朱里はふるふると首を横に振った。それを見て、歌鬼が優しく笑う。

「ほら、顔あげて。俺は絶対に君から逃げたりしないから」

「っく………しんじて、いいの?」

「当り前だろう。好きな人から逃げるもんか」

「………え?」

 自然と口にされた歌鬼の言葉に顔を上げて、歌鬼の向こうに明るい光を見つける。

 夜が明ける。朝が来る。

「あの………鬼さん、すきなひとって―――」

「―――うっ」

 太陽の光が二人を照らした直後、歌鬼の体がぐらりと傾いた。そのまま地面に倒れこむ。

「え? おに、さん………?」

 慌てて歌鬼の体に触れると、その体は驚くほど震えていて、汗がにじんでいる。呼吸もどこか苦しそうで―――。

 どうして? なんで彼は苦しんでいるの?

 混乱しながら思い出すのは、彼が口にした言葉。

『ほら、吸血鬼って太陽の光に当たると死んじゃうだろ?』

 まさかあの言葉は事実だったの? 本当に彼は鬼で、日に当たると死んでしまうの?

 慌てて自分の体で影を作って歌鬼を抱き起すが、女の自分に青年ひとり分の体重は重い。彼の頭を膝に乗せるのが精いっぱいだった。

「――っ誰か! 誰かいませんか!?」

 とっさに叫ぶと異常を察したらしい近所の人が騒ぎ出す。

「誰か、彼を助けて―――」

「あかり………」

 ぽつりとこぼれた声にはっと視線を下ろすと、歌鬼がうっすらと目を開けていた。

「鬼さん! 今助けを」

「あかり………きいて」

 朱里の言葉を遮って、歌鬼は苦しそうな声で話し始めた。

「あかり………人にさけられて、異常だっていわれて、つらいのはわかるよ。俺も普通じゃないから。でも、だからって世界を拒まないで。わかってくれる人は、必ずいるから」

「……うん」

「ほら、見てごらん。世界はこんなに明るいし、優しい。怖くなんかないよ。みんなが俺たちを心配して集まってる」

「っ、うん………」

 歌鬼の言葉に頷くことしかできなくて涙が止まらない。彼はこのまま消えてしまうの?

「俺は、朱里が好きだよ。君と出会えてよかった。………ねぇ、もし、君とまた会えたら、俺と付き合ってくれる?」

「うん、付き合う。何でもする。だから鬼さん、死なないで!」

 すがりつくようにして泣いている朱里を見て、歌鬼は穏やかに笑った。

「ありがとう。朱里、大好きだよ―――」

 その言葉を最後に、歌鬼のまぶたが落ちた。

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