第二十六話:湧き起こる黒雲

 それは夜四ツ午後十時頃をわずかに過ぎたあたりのことだった。

 秋山弥兵衛は網代笠を目深く被り、ただひたすらにおのれの気配を消していた。

 呼吸音すら露わにせぬよう、じっと夜の帳へ身を沈める。

 闇に隠れて余人には見えないはずの双眸には、しかし隠しても隠しきれない鈍い光が爛々たる輝きを放っていた。

 あたかも獲物を狙う猛禽類のごとき眼差し。

 その奥にたたえられているものの正体は、断固たる覚悟と超然たる殺意の発露にほかならなかった。

 その日の夜空は厚い雲が低く垂れ込め、いまにも雨の滴をもたらしそうな雰囲気を如実に保ち続けていた。

 当然、降り注ぐ月明かり星明かりのようなものなどは欠片も存在していない。

 巷を照らす光などはまさしく皆無であり、その状況に応じる術を持たぬ者たちにとっては、わずか一間約一.八メートル先を見通すことさえ不可能事であると思われた。

 この時、弥兵衛が我が身を置いていたのは、高山藩城代家老・姉倉玄蕃の屋敷、そのすぐ側にある土塀際の暗がりだった。

 正門からは半町約五十メートルほども離れておるまい。

 剣術修行の一環として長年にわたり夜目を鍛えるのを日課としていた弥兵衛にとり、屋敷の様子をうかがうにはまず適度な間合いと言っても良かった。

 彼が斯様な真似をし始めてから、早数日が経過していた。

 その日数は、古橋ケンタを引き連れた愛娘・葵が名古屋へ旅立ってからのものと見事に重なる。

 慣れ親しんだおのれの道場はすでに引き払い、これまでよく尽くしてくれたふたりの奉公人には十分な金品とともに暇を申しつけてあった。

 そのうえで自らは人里離れた山間のあばら家などを転々としつつ、日没を待って玄蕃の屋敷周辺に足を運ぶという日々を送っている。

 理由は改めて言うまでもなかった。

 秋山弥兵衛は、おのれの血を分けた掌中の珠をその魔手から守るべく、この藩内屈指の実力者をおのが手にかけようと目論んでいたのである。

 弥兵衛の愛娘・葵を巻き込まんとする陰謀の首魁・姉倉玄蕃。

 彼とその腹心らによって密かに進められている謀は、いまだ水面下における動き以上の何物でもない。

 これが藩そのものの意思として表立つ以前に首謀者たるこの男を討ち果たすこと叶えば、形を成すことなくもろくも崩れ去るのは明白だった。

 そしてひと度その企みが潰えたなら、実行者にとって最も重要な駒と目されている秋山葵の存在価値もまたたちどころに雲散霧消する。

 玄蕃の死は、いま高山藩・金森家を襲わんとする陰謀に終焉をもたらすのみならず、弥兵衛最愛の肉親に市井の平穏を約束する結果にも繋がるのである。

 藩の重臣たる玄蕃に対抗するだけの政治的発言力を持たぬ弥兵衛にとって、このテロリズムという行為はその道義的な正否を別とすれば極めて有効な一手であることに疑う余地などどこにもなかった。

 だが、敵もさる者。

 あるいは弥兵衛がそのような考えに至ることをあらかじめ予想していたものか、彼の者らはひと足早く対応の手を打つことに成功していた。

 弥兵衛と姉倉家用人・生島数馬との談合が決裂したのちより、玄蕃の屋敷にはいささか場違いと思われる男たちが出入りするようなっていった。

 一見して浪人風の出で立ちを有する剣客たちがそれだ。

 弥兵衛はそれがいかなる由来の者どもかを知っていた。

 彼と同じく高山城下にて剣術指南の道場を営む、一刀流兵法・井川源三郎とその弟子どもである。

 かつての井川源三郎は金森家永代家老の地位に就くとある重臣を後ろ盾に持っており、贅沢な衣装をまとい門人たちを従えつつ肩で風を切るさまがたちまち地元の名物となるほどの使い手であった。

 その容貌はまこと押し出しが強く、衆目の見る「達人」とやらをまさしく体現する人物のごとくうかがえた。

 そんな源三郎が多数の門人を引き連れ秋山道場へやって来たのは、いまより五年ほど前のことだった。

 この時、源三郎は「秋山先生より一手の御指南にあずかりたい」と、まっすぐに道場主である弥兵衛との立ち会いを要求した。

 いかに土地の名物と称えられてもそれはあくまで武に関わらぬ庶民たちからの評価であり、井川道場がその剣名を広く知られるようになったわけではなかった。

 主たる源三郎にとり、それは心底歯がゆい実情だったに違いない。

 ゆえにこそ彼は、その頃すでに実力をもって知られるようなっていた秋山道場へ真っ向戦いを挑んだのだ。

 ここで自らが名人・弥兵衛を打ち倒すこと叶えば、井川道場はその光彩をさらに煌めかせることと相成ろう。

 その生々しい思惑は、もはや誰の目にも明らかだった。

 しかし、現実は彼にとってあまりにも無情だった。たすき・鉢巻きも物々しい支度の源三郎は、なんとも気楽な調子で間合いへと踏み込んできた弥兵衛の一撃によってその身体を壁際近くにまで吹き飛ばされてしまったのだ。

 それはまさに一瞬の出来事だった。

 双方の門人たちが固唾を飲んで見守るなか、弥兵衛の突きをまともに受けた源三郎はついにその場で起き上がることができなかった。

 完全に意識を失ってしまっていたのだった。

 この完膚なきまでの惨敗は、わずかの日時で高山城下へと広まった。

 秋山弥兵衛の名は改めて剣士たちの口々に登るようになり、それとは対称的に、井川源三郎のほうは門人たちのみならずその実力に失望した後ろ盾にも見捨てられ、失意のうちに一度はおのが道場をたたむ羽目に陥った。

 そんな彼がようやくのことで新しい道場を構えたのは、ちょうどおととしの暮れだった。

 もっともかつてのごとき栄華は求めるべくもなく、剣術指南の看板は掲げつつも、実のところは得体の知れぬ無頼の者どもを集めてあまり表沙汰にできない仕事に手を染めているというのが本当のところであった。

 あたりまえだが、周囲からの評判は到底芳しいものではない。

 弥兵衛も、人づてにではあるがそのような噂を耳にしていた。

 御家老は、彼奴を手駒に雇ったか──妙に冷め切った心で弥兵衛は思った。

 なるほど、ある意味で人を見る目だけは確かと言っていい。

 いや、むしろその目を持っていると評すべきはあの用人殿のほうか。

 痩せても枯れてもあの一刀流・井川源三郎であれば、いまだそこいらの不貞浪人などに遅れを取るような腕前ではあるまい。

 しかも、おそらく彼奴はこの秋山弥兵衛を深く恨んでいる。

 当然だ。

 かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだったあの者が半ば無頼の輩と成り果てているのも、もとを正せばこの自分との立ち会いに敗れたことがきっかけなのだから。

 だからこそ、いまの彼奴はおのが主の意に背くことなどないだろう──そんな風に弥兵衛は結論づけていた。

 姉倉玄蕃という男がこの自分と対立している以上、源三郎にとって彼の人物はおのれと敵を同じくしている「同志」以外の何者でもない。

 それはある意味、理想的な主従関係のひとつとさえ言えるかもしれぬ。

 歪んだ利で結ばれた縁とはいえ、その絆の強さまでを否定することはそうそうできるものではない。

 なんともやっかいな忠犬を手に入れたものだ。

 弥兵衛は苦笑いを浮かべるとともに、その人選に舌を巻くおのれを認めるしかなかった。

 姉倉家の屋敷に常駐する剣客たちの数は、弥兵衛が数えた限りにおいて源三郎以下十人を余裕で超えるものだった。

 どう贔屓目に見積もっても、単身真正面から挑めるような戦力比ではない。

 無論、玄蕃自身は高山城における諸々の努めもあるため朝早くにはこの屋敷を出立するのだが、その行き帰りにも屈強な護衛複数が付けられており、弥兵衛はこれまで襲撃を仕掛ける隙を見出せずにいた。

 正直な話、手詰まりに近い状況であるとさえ評し得た。

 だが、それでもなお弥兵衛は待った。

 待ち続けた。

 それが人である以上、永遠に緊張を維持し続けることなどできるわけがない。

 どこかで必ず弛緩する。

 そのわずかな緩みを見逃しさえしなければ、求める好機はいずれ間違いなく訪れる。

 そう心の底から信じていたからだった。

 葵、待っておれ。

 この父が、誓ってそなたを目に見えぬくびきより解き放ってみせるぞ。

 愛する娘のために我が身を捨ててなお悔いなしとする無垢なる思いが、いまの彼をその根幹で力強く支え続けていた。

 そんな弥兵衛の眼前で、おもむろに屋敷の気配がそれまでと異なる色を見せ始めた。

 過去数日の間、ただうずくまる亀のように沈黙を守っていた壁の向こうで、やにわに人の動きが活発となっていくのがわかる。

 それは余人には感じ得ない、実に小さな小さな変化であった。

 だが、長年にわたり剣客としての修行を経てきた弥兵衛の感覚を欺くまでには至らなかった。

 何が起きたのだ?

 訝しみ、なお慎重に機をうかがう弥兵衛の視界に、突如として屋敷の門から吐き出されてきた複数の男たち──布を巻いて顔を隠した剣客どもの影が否応なしに飛び込んできた。

 数は八つ。

 そのどれもが、あからさまな殺気を身にまとっている。

 我が存在を気取られたか。

 一瞬そのように危惧した弥兵衛であったが、それが杞憂であることはたちまちのうちに明らかとなった。

 屋敷のうちより現れ出でた八人を数える剣客どもは、そもそも周辺を探索するような素振りなど毛ほども見せはしなかった。

 彼らはむしろどこか定められた目的地へ向かうかのごとく、一団となって闇の中へと走り去って行く。

 実に奇妙な動きであった。都合八人もの剣客となれば、その数は井川源三郎が引き連れてきた門人たち、その過半を上回る。

 よほどのことがないかぎり、雇い主たる姉倉玄蕃、いや切れ者と評判の用人・生島数馬がそれだけの手勢を屋敷の外に繰り出すとも思えなかった。

 そんなことをすれば屋敷の守りが必然的に薄くなってしまうからだ。

 では、なぜ弥兵衛による奇襲テロリズムを警戒しているはずの彼らが左様な愚策をあえて選択してみせたのか?

 その答えも少し考えれば簡単に思いつくものだった。

 つまり、自陣の守りにいささかの不備が生じてもなお十分に引き替えとなるだけの魅力ある獲物、それが彼らの目に留まったということである。

 それはいったいなんだ?

「まさか──」

 弥兵衛の胸中に嫌な黒雲が湧き起こった。

 きびすを返すようにして駆け出す。

 向かう先は、すでに無人となっているはずのおのが道場屋敷だった。

 先行する剣客たちに悟られぬようあえて道々を通らず、あぜを走り草地を突っ切り、ただ最短距離をまっしぐらに疾駆する。

 その甲斐あって、弥兵衛は剣客たちが姿を現すよりも早く目的地へと辿り着いた。

 見慣れた建物から漏れ出してくるほのかな灯りと明らかに火の入ったかまどから立ち上る薪の煙が、そこに存在するあからさまな人の息吹を主張している。

 弥兵衛は足音を忍ばせながら、そっと屋敷の中をのぞき込んだ。

 縁側に面した畳敷きの座敷では、ちょうど四人の男女が質素な夕餉を嗜んでいるところだった。

 彼らの表情はなんとも楽しげで、その口々からはときおり笑い声なども飛びだしている。

 旅先からようやく故郷へと帰還したことで心地良い疲労に心底その身を任せている、とでもいうべき場面なのだろうか。

 それは、なんとも心温まる団欒の光景であった。

 だが、その有様を確認した弥兵衛の表情は一瞬にして凍り付く。

 なぜならば、その場で談笑しているいる面々の中に、本来ここに居てはならない人物が混じっていたからだった。

「葵! 古橋殿!」

 血走った目を見開いて弥兵衛は叫んだ。

 彼の視界に認められた四人たちとは、過日、剣友・柳喜十郎のもとへと旅立たせたひとり娘の葵と客分の古橋ケンタ、それに暇を出したはずの奉公人・おみつとひとりの見知らぬ少年という内訳だった。

 後者のふたりはともかくとして、喜十郎に預けたはずの葵とケンタが高山城下へ帰還するというのは、弥兵衛にとってまったくの計算外とでも言うべき現実だった。

 彼のなかで、綿密に積み重ねてきたはずの目論見が音を立てて瓦解していく。

 何故だ。

 どうしてだ。

 おまえたちが、なにゆえにいまそこに居るのだ。

 しかし、激しい自問が弥兵衛自身を打ちのめしたのもほんのわずかな時間だけだった。

 彼はたちまちのうちに事実というものを把握しておのれ自身を取り戻す。

 弥兵衛は思った。

 そう、これは戦だ。

 戦なのだ、秋山弥兵衛。

 戦であれば、およそどのようなことでも起こり得る。

 おのれの企てがすべて滞りなく展開するなどと考えるのは、ひととしてまこと思い上がりもはなはだしい愚か者がすることだ。

 おそらくは、こちらが予想していなかったなんらかの齟齬が彼らの道中にて発生したのだろう。

 そしてその出来事が、思いもよらなかった事態の変化をいまこの時に及ぼしたもうたに違いない。

 この世のすべては、さまざまな因果によって縦横に手織られた布生地のようなもの。

 その糸のことごとくを見切ることが叶わぬ以上、いまさら呪詛の言葉を口にしたとて始まらぬ。

 弥兵衛は素早く屋敷の外壁を乗り越え、脱兎のごとくその身を庭先へと躍り込ませた。

 先の叫び声に気付いた葵とケンタが、彼の姿をはたと認めてなんとも緊張感のない笑顔を見せる。

「お父さま。葵、ただいま戻りました」

 すかさず葵が姿勢を正し、座ったままで頭を下げた。

 ケンタとそして彼らともにいた下女のおみつもまた彼女の態度に追従する。

 だが、弥兵衛はそんな彼女らの行為に一瞥すらしなかった。

 あたかも血を吐くような勢いでもって、愛娘に向け彼は告げる。

「葵、そなたはこれよりすぐさま尾張名古屋へ引き返し、その足で国境を越えよ。そして、二度とふたたび飛騨国へと戻ってはならぬ。急ぐのだ!」

 あまりにも唐突に発せられたその口上に葵は一瞬言葉を失い、次いで激しく困惑した。

「お父さま、いったい何をおっしゃって──」

「詮索は無用だ。古橋殿、おみつ。突然のことだが我が娘のことをよろしく頼む。これは、この秋山弥兵衛一生の願いぞ!」

 この時、弥兵衛が何を言っているのか、何を言わんとしているのか、当人より名指しで伝えられた葵を始め、話を振られたケンタやおみつもまたさっぱり理解することができずにいた。

 ましてや、完全な部外者としてこれを傍観することしか許されていない少年──鼓太郎であるならなおさらだった。

 ただかろうじて全員が受け止め得たことは、いまこの瞬間にもなんらかの切羽詰まった出来事が葵の身に迫りつつあるという一点だけだった。

 少なくとも、目の前の弥兵衛が悪質な冗談を言っているようには見えないだけに、それはまず間違いないことと思われた。

 だとしたら、言われたとおり一刻も早くこの場を離れるべきだろう。

 そう短絡的な結論に至ったのは、利発な葵や実直なケンタ、木訥なおみつなどではなく、子供特有の単細胞的一面をもった鼓太郎が最初だった。

「何ぼーっとしてるんだよ師匠! 葵姉ちゃん! おみつ姉ちゃん!」

 少年は、事態の変化に対応できずに唖然としている年長の三人を飛び跳ねるように立ち上がりつつ叱りつけた。

 まるでのんびりと草を食み動こうとしない駄馬をぴしゃりと鞭打つがごとくに、駆け引きなく強い言葉を叩き付ける。

「わけなんてあとからいくらでも聞けばいいじゃん。いまはとにかくここから出よう。なんか物凄くやばそうな感じじゃないか!」

「そ、そうだな」

 その勢いに押されるようにケンタが応えて腰を上げる。

 脇に置いていた道中差を腰に差し、「先生がおっしゃられているように、いったんここから離れましょう」と、まだ惚けたように動かないふたりの女性に進言した。

 ケンタの言葉にふたりは頷き、彼を追って立ち上がろうと腰を浮かせる。

 だが次の刹那、急速な状況の変化が彼らの行動を完全に捕捉した。

 布で顔を隠した複数の剣客たちが次々と屋敷の壁を乗り越え、秋山邸の庭先へと侵入を果たしたからである。

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