第十九話:裏柳生・柳生蝶之進

 柳喜十郎は、名古屋城下に小さな道場を構える直心影流の剣客である。

 持って生まれた小柄な体躯と柔和な顔付きとを裏切ることなく、その人格は極めて穏やか。

 彼の道場付近に住む市井の人々はなかば親しみを込め、「あの人が剣術の先生とはとても思えないわな」などという失礼な感想を口にしてはばからなかった。

 確かに、この笑顔を絶やさぬ優男がかつて直心影流・山田一風斎門下にて秋山弥兵衛とともに「竜虎」「双璧」と呼ばれていた無類の名手であろうとは、その容貌から想像できる者などひとりもおるまい。

 事実、喜十郎はどこをどのように見分しようとも、まったく強さというものを感じさせない人物だった。

 まるで、茄子が人の身を得たかのごとき飄々とした中年男。

 強面がもてはやされることの多い剣客の世界で、そんな彼の見てくれはことさら不利な要因として働いていた。

 だが当の喜十郎は、巷で語られるそんな評価などほとんど気にすることがなかった。

 端から見る彼は、まさしくのほほんと雲のように日々過ごすことを本懐としているかのごとくだった。

 まさしく無欲恬淡むよくてんたん

 現世の欲に執着しないその人柄を高く評価する者は、決して少なくはなかった。

 ただし、主がそういう人柄であるゆえに、その剣客商売のほうは到底繁盛しているとは言えなかった。

 名古屋城下においては、まず無名の道場と言ってよかっただろう。

 もっとも、彼の下へ通ってくる門弟の数だけは優に二十名を越えていた。

 柳道場の規模から言えばかなりの人数だ。

 彼らの多くは年配の藩士や商家の息子たちで、どちらかと言えば剣の修行に明け暮れるというより剣術そのものを和気あいあいと楽しんでいるような面々だった。

 稽古風景ひとつ取っても、そこには竜虎の片割れ・秋山弥兵衛の道場とまったく対称的な雰囲気が実に色濃く漂っていた。

 そんな柳喜十郎道場にある意味場違いとも取れる来客が現れたのは、その日の夕七ツ午後五時頃を少し過ぎたあたりの出来事だった。

 それは、藍色の僧衣をまとったひとりの雲水だった。

 異様に背が高く、僧侶と呼ぶにはいささか抵抗があるほどの屈強さをその体躯から醸し出している。

 道場の玄関先に立つなり、彼は被っていた網代笠を取りつつ「御免下され」とひとつ大きな呼び声を発した。

 老齢とは言えぬ顔付きとともに、笠の下から雪のように白い頭髪が出現する。

 髪だけではない。彼の持つ眉も髭も、みな一様に純白だ。

 それまで稽古事に集中していた門人たちの視線が、一斉にその異相に向かって殺到した。

 あからさまな好奇の念がその眼差しには含まれていた。

 だが自身を刺すそんな代物を完全に無視し、白髪の雲水は淡々と言葉を続けた。

「それがし、城下の外れに住む法師で、名を頭白と申しまする。道場主の柳喜十郎先生はこちらにおられますかな?」

「私が柳喜十郎です」

 道場の上座にいた優しげな小男が、ゆっくりと歩み寄ってきてこれに応じた。

「頭白殿と申されたか。雲水殿がこの私に何用でございますかな」

「まずはこれを」

 頭白と名乗った異相の法師は、懐から取り出した一通の手紙を喜十郎に向け手渡した。

「飛騨高山の秋山弥兵衛殿より貴殿にあてての手紙でござる。此度、ゆえあってそれがしがこれを預かり申した」

「ほう、弥兵衛殿からの。左様でございましたか。ともかく奥へおあがりくだされ。お疲れでございましょう。茶の一杯も馳走いたしとうございます」

「それはかたじけない。ちょうど喉が渇いていたところでござる」

 門人のひとりに案内されて頭白が通されたのは、六畳ほどの小さな座敷だった。

 主自らの手で差し出されたお茶をいかにも武士然とした態度で口に運びつつ、彼は自分がこの手紙を預かることになった経緯を蕩々と喜十郎に語った。

 おのれの世話する子供たちのひとり・鼓太郎が、不埒な武家衆に絡まれたこと。

 そんな彼を、名古屋までの旅中に通りがかった秋山葵と古橋ケンタというふたりの若者が救ってくれたこと。

 その両名に対し謝礼として一夜の宿を提供した次の日、件の武家衆が報復のため寺にやってきたこと。

 そして、古橋ケンタが正々堂々、それらの者を退けたこと──…

「されど、あの者たちが報復を諦めたとはそれがし到底思えませなんだ」

 神妙な面持ちで頭白は言った。

「ゆえに、柳先生にこの手紙を届けるという葵殿の任をそれがしが代わって承ったのでござる。彼の加藤十太夫とか申す侍にとり、この名古屋城下はまさしくおのれの庭のごときもの。翻って、当地は葵殿にとってある意味死地とも申せましょう。まこと、あのような良き娘子をあえて危難に晒すわけには参りませぬゆえ」

「それは、賢明な段取りでございましたな」

 わずかばかりの頷きをもって、喜十郎は頭白の手配を肯定した。

 剣術道場の主らしからぬ丁寧な言葉づかいが、その穏やかな人柄を好感とともに頭白の中へ浸透させていく。

 春風のような微笑みを浮かべて、喜十郎はさらに言葉を続けた。

「昨今この名古屋城下においても、おのれの身分を笠に着て、無頼のごとき真似をする若侍が増えてきております。御坊の申された者どもも、おそらく今頃は夜討ちの企てでも話し合っていることでございましょう。およそ今宵あたりが危のうございますな」

「いかにも」

 頭白もまた、喜十郎の推測に同調した。

「それがしもそのように考え、子供たちは寺から離れた主なき百姓家へと逃してござる。ここより寺へ戻りしのちは、時を置かず別の土地に移り住まねばなりますまい」

「さてもさても。御坊は近年珍しいお人好しにございますな」

 小さく破顔して、喜十郎は頭白に告げた。

 目の前に座る雲水、その人物への推し量りが済んだのであろう。

 おもむろに弥兵衛からの手紙を開封し、何気なくその文面に目を通す。

 それは、ある種の信頼が成せる行為にほかならなかった。

 そんな喜十郎の表情が見る見るうちに険しいものへと変化し始めたのは、ちょうど頭白がこの場を退出する頃合いを見計らっていたおりの出来事だった。

「御坊」

 やや青ざめた顔をはたと上げ、喜十郎は頭白に尋ねた。

「御坊が葵殿からこの手紙を受け継いだのは、確か今朝方のことと申されましたな」

「左様」

 喜十郎の豹変を訝しがりつつ、頭白は答えた。

「それが、何か?」

「この手紙には、これを持参した葵殿と古橋某という供の者とを当面の間我が道場にて留め置く旨、弥兵衛殿からの願い事が記されてあるのです」

「なんと」

「これを読むに、いま高山城下では何やら良からぬことが起きている様子。弥兵衛殿はひとり娘の葵殿にいらぬ心配をかけぬよう、あえてこのような回りくどいやり方でその身を送り出したのでしょう。私は幼少の頃の葵殿しか知りませぬが、およそ父の苦況を見逃すことなどできぬ娘子と見受けられました。それゆえに、弥兵衛殿も斯様な謀を施されたものと推測いたす」

「ふむ」

 やや顔色を失った感のある喜十郎を目の当たりにして、頭白は小さく頷いた。

 いま彼の見せた態度から、手紙の差出人である葵の父・秋山弥兵衛と柳喜十郎という剣客との間柄が並々ならぬ信頼で結ばれたものだと悟らされたからだった。

 美しきかな、もののふの絆。

 先に出会った加藤十太夫などには到底持ち得ないであろう、武を志した者同士の繋がり。

 それを察した頭白は湧き上がるかすかな感動を胸の奥で弄びつつ、手の中の茶碗をそっと皿上に戻した。

「よろしければ、それがしが葵殿を呼び戻して参りましょう」

 間髪入れずに頭白は言った。

 その意外な申し出に小さく驚きの表情を浮かべた喜十郎へ向けて、なおも微笑みながらこう告げる。

「何、すでに乗りかかった船でござる。また葵殿には我が寺にて世話しておった子供をひとり預けておりますれば、それがしも無関係を気取るわけには参りますまい。丸一日先を行くとはいえ、所詮は女子供の足でござる。五日も急げば十分に追いつけましょう」

「かたじけのうございます」

 喜十郎はそう言って頭を下げた。

 ほう、これはまったく本物だ。

 それを見た頭白の胸腔で好意の体積がぐっと膨らむ。

 妙な遠慮を見せることなく、我が親切心を素直に受け取ってくれたか。

 なれば、こちらもそれに応えねばなるまい。

 腹を据えて頭白は言った。

「その代わりと言ってはなんでござるが、ひとつ柳先生に頼みたいことがございまする。よろしいか?」

 目で了承の意を示す喜十郎に向かって、彼はその頼み事とやらを申し出る。

 それは、自分が葵たちを追って旅に出ている間、おのれが面倒を見ている子供たちを預かってもらえないかというものだった。

 押しつけの親切心で恩を売るでなく、相手にそれを返すだけの機会を正式に設ける。

 それは、頭白にとって一期一会に基づく真摯な礼儀のひとつだった。

「それは造作もなきこと」

 考える素振りも見せず、喜十郎は返答した。

「当道場の門人をひとりお供させますゆえ、御坊は一度お帰りになり、その者に件の子供らを託してくださいませ。あとのことは、この柳喜十郎が責をもって承りましてございます」

「まことにかたじけのうござる」

 頭白は深々と頭を下げて、心から感謝の意をあらわにした。

 喜十郎が頭白の供を命じたのは、植田うえだ孫六まごろくという名の門弟だった。

 身分の低い尾張藩士の家に産まれた次男坊。

 寝ぼけた狸のごとき面相を持つ実に見映えのしない若者だったが、剣術の腕前については柳道場でも五指に入るほどだという。

 左様な若者を引き連れ、頭白は今日辿ってきたばかりの道筋を早々に引き返すことと相成った。

 軽い夕餉を終えてふたりが柳道場を出立したのは、夜の帳が降り始めた暮六ツ午後七時頃前のことだ。

 おそらく現地へ着くのは相当に夜遅くとなるだろうが、頭白はその時間帯での出立をいささかもためらわなかった。

 一刻も早く子供たちを安堵させてやりたいという親心にも近い情愛が、彼の心根を急き立てて止まなかったからだった。

 加藤十太夫やその手の者の目に留まらぬよう巧みに道筋を外しながら、ふたりは風を切って夜の街道上を突き進んだ。

 途中に数度の休憩を挟んだ彼らが目的地である百姓家に到着したのは、出立からおよそ三刻約六時間が経過した頃のことだった。

 その強靱な足腰ゆえか、ほとんど疲れた様子も見せず家の玄関となる土間へ上がった頭白は、その場からそっと子供たちの名を呼んだ。

「ゆき、はな、大治郎。私だ。いま帰ったぞ」

 だが、一向に返事は来ない。

 時間が時間だけに、皆が熟睡してしまっていて呼びかけに気付いていないのだろうか。

 いや、と頭白は、その完全な沈黙にはっきりとした違和感を覚えた。

 三人の子供が就寝しているにしては、その寝息すら聞こえてこないというのは明らかに不自然だ。

 嫌な予感が頭白の胸中をよぎった。

 彼はもう一度呼びかけを行いながら、草鞋を脱ぐことなくそのまま隣接する板の間へと上がり込んだ。

 最奥にある板戸を迷わず開ける。

 そこは、寝間の入り口となる扉だった。

 開けた先に広がるのは、三方を壁に囲まれた光の届かぬ深い暗闇。

 しかし、その中に子供たちの気配は寸分も感じられなかった。

 敷かれたままの布団に手を差し入れるも、肌の温もりは残っていない。

 慌ててほかの部屋を捜してみるが、やはり三人の子供たちは見つからなかった。

 莫迦な。

 頭白の背に冷たい汗が流れる。

 よもやあの侍どもにこの場所が見出され、三人はいずこかへ連れ掠われたものか。

 だとすれば、なんという失態だ。

 この自分が、彼らの力を完全に見誤っていようとは。

 もはや狼狽の色を隠そうともしない頭白に向かって植田孫六がそっと声をかけたのは、ちょうどそんなおりの出来事だった。

「頭白殿」

 単刀直入に彼は言った。

「子供たちは、御坊の寺に戻ったのではありますまいか」

「まさか」

 小さく唇を震わせつつ、頭白は応えた。

「あれらは、まだまだ幼き者どもでござる。それがしの言い付けを破り、そのようなことを考えるとはとても……」

「いや、子供だからゆえでござる」

 改めて孫六は言った。

「子供というものは、時として我ら大人が考えもつかぬ突拍子もない行動を取るものです。夜になり、いつもと異なる寝床に不安を覚えた子供らが、いたたまれずそれまでの住居に戻ろうとすることは十分あり得る話でござる」

 頭白は、孫六の言葉に頷くことで同調の意を表した。

 百姓家から頭白の寺までは、大人が歩いて四半刻約三十分弱の距離だった。

 頭白と孫六のふたりは、荒れ果てた田畑を突っ切るようにして最短距離で歩を進める。

 頭白の焦りが、その歩幅を否応なく大きなものへと変えていた。

 やがて、降り注ぐ月明かりの中に目指す古寺の姿が見えてきた。

 人気のない荒れ地の只中に浮かぶ、廃墟のごときその建て屋。

 一陣の風が生温く吹き、寺を囲む木々の枝葉を優しく揺らす。

 前を行く頭白がびくりと身を震わせつつ立ち止まってみせたのは、まさしくその瞬間のことだった。

 なんの前振りもないその行為を訝しんだ孫六が、「いかがなされた、頭白殿」とおもむろに理由を尋ねる。

 どこか遠くでその質問を聞いていた感のある素振りで、頭白は短く返答した。

「血の臭いがいたす……」

「なんですと!」

 その答えに孫六が目を丸くするが早いか、頭白は一気に駆け出した。

 それは、まるで放たれた弓矢のごとき鋭い踏み切りだった。

 ひと息に三町約三百メートル余りを走破した彼は、そのままの勢いで身体ごと寺の境内へと踏み込んで行く。

「これは……」

 そこで頭白が目にしたものは、文字どおり血の海に沈んだように横たわる複数の人体だった。

 人数は片手の指の数ほどか。

 そのどれもこれもが、全身をおのれの血液で濡らし驚愕に目を見開きながら息絶えている。

 おそらくは、鋭利な刃物で頸動脈を断ち切られたのだろう。

 地獄絵図とは、まさにこの光景のことだった。

「な、何が起こったのでござるか」

 遅れてやって来た孫六が、手で口鼻を押さえながら立ちすくむ。

 並の者であれば気を失いかねないような惨状を目の当たりにして彼がなお正気でいられたのは、剣客として培われた素養のゆえであろうか。

 頭白はひと言も発せぬまま、間近に転がる屍のひとつへと歩み寄った。

 調った仕立ての羽織を身に付けているうえ、腰には二本の刀が差してある。

 それなりの身分にある武家の者だと想像できた。

 頭白は、膝を屈してその者の顔を覗き込む。

 鼻の左側に大きく目立つ黒子があった。

 間違いない。

 加藤十太夫、その人だった。

 目をつぶり短く合掌したのちに、振り向きもせず頭白は告げた。

「孫六殿。この者が、昨日我が寺を訪れた不埒な輩の大将でござる」

 思いがけぬ頭白の発言に、孫六は「なんですと」と驚きの声を上げるのがやっとだった。

 そんな彼に構わず、頭白はなおも語り続ける。

「おそらく柳先生の御言葉どおり、この者らは今宵我らに夜討ちをかけようとしたのでござろうな。そして、待ち受けていた何者かによって命脈を絶たれた」

「いや、しかし」

 孫六が頭白に尋ねた。

「いったい何者がそのような真似を」

「わかりませぬ」

 冷静に頭白は答えた。

「ですが、これはいかにも武士の技ではないように思えまする。闇に乗じて不意を打ち、後ろから首を掻いたのでござろうな」

「ぬう」

 孫六は唇を噛み締めた。

「なれば、それらの者どもがまだこのあたりに潜んでいるやも……ひょっとして、御坊の世話していた子供らもその輩に連れ去られたのではあるまいか」

 ことん。

 寺の本堂から小さな物音が響いてきたのはその時だった。

 それに応じて動きを見せたのは、頭白よりも孫六のほうがわずかばかり早いものだった。

 自らの推測に素直な義憤を刺激されたのか、彼は素早く腰の刀を抜き放ち、足早に本堂の入り口へと向かっていく。

「孫六殿! 軽率ですぞ」

 頭白からの制止の声も、彼の耳には届いていないようだった。

 孫六はおよそ感情のおもむくまま、月明かりが差し込むだけの本堂へと駆け引きなしに踏み込んでいった。

 ばん、と何かが床板に叩き付けられる音がそれに続いた。

 不気味な沈黙がそのあとを引き継ぐ。

 頭白は弾かれるように立ち上がり、しかし慎重に慎重を極めるような面持ちで本堂入り口に近付き、その中を覗き込んだ。

 本堂の中では、少し入った先で植田孫六が大の字に倒れていた。

 その目は見開かれたままとなっており、口の端からはひと筋の鮮血が流れ落ちている。

「孫六殿!」

 頭白はすぐさま孫六めがけて駆け寄った。

 身動きひとつしない彼を抱き起こすや、数回激しくその身を揺さ振る。

 孫六はすでに息をしていなかった。

 首の骨が完全に折れている。

 おそらくは即死であったろう。

 頭白には、そのことがはっきりとわかった。

 何者かに懐への侵入を許してしまった孫六は、そのまま首を極められ、硬い床板へと勢い良く投げ落とされたのだ。

 先に聞こえた大きな音は、彼が投げ技を喰らった際に発生した衝撃音であったに違いない。

 柔の使い手か。

 それも、よほど実戦慣れした──…

 孫六の亡骸をゆっくりと足下に降ろし、頭白は決然として言い放った。

「そこにおるのは何者ぞ。名を名乗られい」

「くくく……」

 押し殺したような笑い声に続いて、前方に横臥する暗闇の向こうから男の声が返ってきた。

「完全に気配を消していたつもりでおったのだが……さすがにそこまで鈍り切っていたわけではないということか、蝶之進。おっと、いまは頭白坊と名乗っているのだったな」

 時を置かず、男は音もなく頭白の前に姿を現した。

 それは、あたかも闇をまとう幽鬼のごとき佇まいであった。

 不敵な笑みを貼り付けた容貌が、かすかに差し込む月明かりによって晒される。

 朱と黒の顔料で彩られたそれを目の当たりにした頭白は、驚愕の表情を浮かべつつ震える口で言葉を紡いだ。

「おのれは……武太!」

 彼は叫んだ。

「この孫六殿を殺めたは、そこもとの仕業か」

「いかにも」

 互いに既知であることを濃厚に臭わせつつ、男はゆらりと頭白に向かって歩み寄った。

 にやりと口の端を吊り上げ、さも親しげに語りかける。

「おぬしと最後に会ったのは我が師・幻夢斎が健在であった頃ゆえ、こうして顔を合わせるのは十年ぶりとなるか」

 頭白の眼前に立つ異相の男「武太」──それは、紛れもなく姉倉家用人・生島数馬の雇用する忍びの者どもが長であった。

 およそ一間約一.八メートルの距離を挟んで向かい合う白髪の僧に向け、この男は皮肉めいた台詞を吐いた。

「あの頃と変わりなく重畳よ……と言いたいところであったが、どうやら事情が変わったようだ。さすがの俺も、よもやおぬしがこのような僻地で善人の真似事をしていようとは思っておらなんだわ」

「なんとでも言うがいい」

 はっきりとした怒気を込め、頭白は応えた。

 隙を見せずに立ち上がり、身構えながらこの異相の男と対峙する。彼は言った。

「武太よ。そこもとは、相も変わらず卑しき道を歩んでおるようだな。それがしに何用だ。まさか、昔話をするためだけに我がもとを訪れたわけでもあるまい」

「仕事の頼みだ」

 睨み付けるような眼光を送ってくる頭白に向けて武太は告げた。

「金五百両にて、おぬしの武を我が主に貸してもらいたい」

「断る」

 頭白は即答した。

「それがしは、もはやあの頃のそれがしとは違う。巷がかつてのそれがしをいかに求めようとも、いまさらそなたと同じ畜生道へ堕ちるつもりなど毛頭ない。縁なき子をこの手で育て、仏の道を語ることこそ我が本道。いまのそれがしが選びし道だ」

 それは一本芯の通った発言だった。

 不退転の決意にも似た何かが、明らかにその裏打ちを成している。

 言葉のひとつひとつが彼の本心から来たものであることに、疑いなど寸分もなかった。

 だが、そんな頭白の言葉を武太は高らかに笑い飛ばした。

 「ははは」という嘲りを込めた笑い声が本堂内に朗々と響き渡る。

 その不躾な態度を受け不快感もあらわに「何がおかしい」と尋ねた頭白に対し、武太は応えた。

「おかしいさ。これが笑わずにいられるか」

 轟然と胸を張りつつ彼は言った。

「かつて、公儀より禁じられし柔術の闇試合にて立ち会った八人ことごとくを地獄に送り、柳生心眼・久我道場の『当て身の羅刹』とまで謳われたおぬしが、その血塗られた手で子を育てようてか。仏の道を語ろうてか。それは、なんの冗談だ? 赤子が乳を求めるがごとく一心不乱におのれの強さのみを磨いておったあの頃のおぬしは、一体全体どこへ消えた?」

 罵倒にも近い言葉の奔流に直撃され、頭白は歯軋りするしか術がなかった。

 なぜなら、それが反論のしようもない厳然たる事実であり、皆が納得する正論であったからだ。

 そんな彼に追い討ちをかけるべく、武太はさらなる言葉を投げ付けた。

「『武というものは、すべからく殺をもって完とすべし』 そううそぶいておったのは、果たしてどこの誰であった? 我が師の下で体術を学んでおった頃のおぬしではなかったか? それをいまとなって変節するとは……過ぎし日のおのれ自身を裏切るか。おぬしに敗れ志半ばに黄泉路へ去った者ども──ともに同じ頂を見据え目指しておった武芸者どもを真っ向から裏切るか。答えよ、頭白坊。いや、裏柳生・柳生やぎゅう蝶之進ちょうのしん重明しげあき!」

「……ひとつだけ尋ねたいことがある」

 がっくりと肩を落とし沈黙した頭白──武太が柳生蝶之進と呼んだ異形の僧侶がようやくのことで口を開いたのは、それから少しの間を置いてからのことだった。

「それがしの世話していた子供たちを連れ去ったのはそこもとか?」

「案ずるな」

 勝ち誇ったような口振りで武太は答えた。

「あれらは我が手の者が預かっておる。粗末な扱いはせぬよ。約束しよう。俺も、つまらぬことでおぬしの怒りを買いたくはないからな」

「それはつまり、それがしが是の返答をせねば子供たちの無事は保証せぬ、ということか……」

「おぬしがどのような受け取り方をしようとも、それは我らのあずかり知らぬことだ」

 武太は告げた。

「改めて答えを聞こうぞ、蝶之進。是か非か。いずれかをこの場にて決めよ」

 彼の放ったその言葉は、頭白、いや蝶之進の信念に止めとなる致命の一撃を喰らわすことに成功した。

 どっと崩れるように膝をつき小刻みに両肩を震わせつつ彼は、やがて振り絞るようにして短い台詞を口にした。

「承知した」

 彼は答えた。

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