一章:タイムスリップ

第一話:プロレスラー、時を渡る

「ケンタ、知ってるか?」

 雑談でもするような気軽さでそう語りかけてきたのは、角張った顔に伸び気味の無精髭を生やしたひとりの男性だった。

 ややだぶついた上下のジャージに身を包んでいるのだが、その分厚い胸板、すなわち人並み外れた筋肉の量を隠しきれていない。

 それは、プロレス団体「アーク方舟」不動のエースにして、同団体の社長をも務める「美沢みさわミツハル」だった。

 ニックネームは「ハイパーエルボー」

 ヘビー級の選手としては小柄な身体でありながら、並みいる巨漢レスラーを肘打ち主体の打撃技で薙ぎ倒してきたことから奉られた異名だった。

 だが、リングを降りた彼は、その激しい戦いぶりとは裏腹に温厚な人格者として知られている。

 むかしのレスラーが理想とした「リングの外では紳士であれ」を具現化していると評してもいいだろう。

 それを象徴するように、いくぶんかゴツさに欠ける穏和な表情で彼は言った。

「次の巡業先には、奇妙な祭をする神社があるんだそうだ」

「奇妙な祭、ですか?」

 バス中央の通路を挟んで隣りの席にいた青年レスラー「古橋こばしケンタ」が、読んでいたコミックから顔を上げて美沢に応じた。

 またエロ話なんじゃないだろうな。

 そう思って一瞬眉をひそめるが、一応は愛想笑いを浮かべる形で言葉を返す。

 美沢の「エロ話好き」は、社内ではもう常識とされている現実だ。

 対外的にはきっちりとした常識人を演じることができるのに、身内に対しては「専門家ですら思わず退いてしまう」ほどの下ネタを連発してくる。

 決して悪い人物ではない、というより、むしろ尊敬すべき男気あふれる好人物であるにもかかわらず、その手の話題を苦手とするケンタにとって、彼は天敵にも近い存在だった。

 総合格闘技ブームに押され、興行的にはいささか斜陽気味と言われるようになったプロフェッショナルレスリング。

 しかし、戦後間もなく、そうテレビ放映の黎明期から連綿とお茶の間に親しまれてきたその地力は、いまだ廃れる素振りを見せてなどいなかった。

 ケンタが所属している株式会社「プロレスリング・アーク」は、そんな伝統あるプロレス業界に出現した新興団体のひとつだ。

 ただし、所属するレスラーには、世間一般でも知られる一流どころが顔を並べていた。

 それもそのはず。「アーク」は、当時押しも押されぬトップレスラーだった美沢が、二強と呼ばれた主要団体の片割れから多数の選手を引き連れて離脱し起ち上げた団体であったのだ。

 ショーマンシップをできるだけ廃したうえで、既存の格闘技とは方向性の異なる「真剣勝負」を持ち味とした激しいプロレスを売りにしている。

 生死にかかわるのではとすら思われる激烈な肉体同士のぶつかり合い。

 その妥協なき戦いぶりは、一部の支持層から「『アーク』だけはガチ」と言われているほどだった。

 作られた試合運びの多いプロレス業界を揶揄しての発言だったとしても、それは彼ら「アーク」が目指すプロレスをわかりやすく表した言葉だった。

 古橋ケンタは、同団体においてエースの美沢に比肩するトップレスラーとして君臨している男だった。

 百九十に迫る長身を屈強な筋肉の鎧で包んだその肉体、そして対戦相手を真っ向勝負で粉砕する愚直なファイトスタイルから「剛腕」と呼ばれている業界屈指のパワーファイターである。

 またの名を「名勝負作成マシン」

 ことに美沢との大一番は、プロレスファンならずとも魂を熱くさせることで定評がある。

 先月行われた試合で彼は美沢から見事チャンピオンベルトを奪取してみせたが、その六十分を越える死闘は今年度の最優秀戦に決まりなのではないかと言われていた。

 だが、そんなケンタにも当然ながら弱点はあった。

 それは、俗に言う世間話の類だ。

 若手時代から「あいつの趣味は練習か?」と先輩レスラーから呆れ顔で評されてきた彼は、客受けするマイクアピールはおろか気の利いた台詞のひとつも言えない朴念仁として知られていた。

 浮いた話のひとつもない。

 とあるプロレス専門誌では、新年の煽り文句が「今年、古橋は結婚できるのか?」になっているほどだった。

「面白そうですね。その話、聞かせてもらえませんか」

 唐突に美沢から話を振られたケンタは、社交辞令的に言葉を返した。

 その語りかけが、ともすれば浮いてしまいがちになる寡黙な自分に対する気配りなのだと理解していたからだった。

「面白いぞ」

 話題に食い付いてきたケンタに意味深な笑みを見せつつ、美沢は言った。

「まあ、相撲の一種なんだが、土俵は三本の荒縄で四方を囲った四角形。そこで男たちがひとりずつ、腰巻きひとつになって組み合うんだ」

 まるでリングみたいだろ、という美沢の言葉にケンタは激しく同意した。

「それだけじゃない。この相撲は、行司が三つ数える間相手を土俵に押し付けること、十数える間立ち上がれないでいること、それと降参の意思表示で勝負が決まる。どうだ、まさにプロレスのルールそのものじゃないか」

「なるほど」

 ケンタは大きく頷いた。

「それは確かに面白そうな祭ですね」

 ちなみに、いまケンタたち「アーク」の主力選手は、次なる興行地へ向け移動中の身だ。

 乗っているのは自社がレンタルした中型のバス。

 車内は十分な空間を要した居心地の良いデザインであったが、十人を余裕で越える大男どもが乗っていることを考えると傍目からはいささか窮屈に映ることだろう。

 彼らが向かっているのは岐阜県の北部、いわゆる飛騨地方と呼ばれる場所だ。

 純粋に利益を追求するならこういった地方巡業は避けて通るべき道なのかもしれないが、「プロレスとは、もっと身近なエンターテイメントであるべき」という美沢の信条により、「アーク」は時代遅れともいえる地方での興行にもいっさい手を抜くような真似をしていなかった。

 エースの美沢、チャンプの古橋を筆頭に団体の顔となる選手を軒並み引き連れてきたのがその証と言えるだろう。

「出てみたくなったか?、ケンタ」

 からかうように美沢が言った。

「神前に捧げる奉納相撲ならぬ、奉納プロレスって奴だな。その気になったのなら話を付けてやっても構わないぞ」

「遠慮しておきます」

 ケンタは言った。

「自分、まだまだ未熟者ですから。神さまの前で試合するなんて、とてもとても」

「おいおい、ウチのチャンピオンベルト保持者がそんなこと言うんなら、ほかの連中はいったいどうすればいいんだ?」

 呆れ顔で首を振りつつ、美沢は笑ってそう言った。

 ふっと車内の空気密度が変化したのは、彼がそんなことを口にした、まさしくその直後の話だった。

 背筋にぞわっと違和感を覚えたふたりが、バスの進行方向に目を移す。

 ブラインドカーブの向こうから一台の大型トラックが現れた。

 明らかにセンターラインを割っている。

 居眠り運転か?

 いや、そんなことはもうどうでもいい。

 問題は、そのトラックが自分たちのバスと正面衝突するルートを辿りつつあるという現実だった。

「みんな、何かに掴ま──」

 咄嗟に美沢が警告を放つ。

 しかし、間に合わなかった。

 バスがトラックを避けるよう左にハンドルを切ったその瞬間、凄まじい衝突音と破壊音とが車内一杯に響き渡った。

 クルマが傾き、座席上部の棚から、乗せてあった荷物が選手たちの頭上へと降り注ぐ。

 頭を抱えて丸くなったケンタの身体が座席から放り出された。

 視界が薄れ、彼の記憶と意識とが、その時点をもって途切れて消えた。

 それはまるで、深い海の底へと沈んでいくような感覚だった。


 ◆◆◆


 それからケンタが目覚めるまでの間、いったいどれだけの時が流れたのかは正直言ってわからない。

 いやむしろ、時の流れは正常であったのだろうかという疑問すら感じてしまう。

 いま彼の眼前で展開している情景が、とても二十一世紀に起こりえるものだとは思えなかったからだ。

 まるで現実離れしている。

 助けを求めてきた和装の少女。

 刀を構え、こちらを威圧する浪人風の男たち。

 時代錯誤もはなはだしい。

 というよりは、明らかに自分の生きてきた時代のそれとは考え難い彼らの様相。

 間違いなく時代劇の撮影などではない。

 視覚だけではなく、聴覚も嗅覚も、ありとあらゆる感覚がすべて、そのことをケンタに告げてやまなかった。

 いったい、何が起こっているんだ?

 もう何度目になるのかわからない自問をまたしても繰り返す。

 じりっと三人の男たちがにじり寄った。

 中段に構えられた切っ先が、殺意とともにケンタの喉元に向けられた。

 肉体の緊張が、それに戸惑うという贅沢をケンタの心に忘却させる。

 男たちの放つ殺気が本物であると察したからだった。

 そう、それはまさしくむき出しの殺意であった。

 プロレスの試合でしばしば口にされるアピール、「ぶっ殺してやる!」というそれとは一線を画した殺しの波動。

 自分の身に何が起こっているのか、ケンタにはさっぱりわからなかった。

 だが、男たちが自分と、そして自分の背に隠れるよう寄り添うこの少女に危害を加えようとしているのだけははっきりとわかった。

 そして、彼らの持つ得物もまた紛れもない本物であろうこともだ。

 鋼の持つ鈍い煌めきが、その事実を何よりも雄弁に主張していた。

 幾多の戦いを経てきた歴戦のプロレスラーであるケンタだが、さすがに刀を前に戦ったことは一度もない。

 もっともそれは、実戦武術を謳う多くの格闘技であっても同じことだったろうが、少なくとも彼らのいくばくかは、それに向けての対処法を技術体系に含んでいた。

 理論上のことだけとはいえ、それがあるのとないのとでは、立ち合いの場において無限の隔たりが存在する。

 翻って、肉体同士の激突を旨とするプロレスには、最初からそういった類の技は存在しない。

 互いの攻めを受け止めあう。

 そのことを主軸に置いたプロレスは、武器を用いた命の取り合いなどそもそも想定していないからだった。

 どう戦う?

 おそらくは避けられないであろう戦いを覚悟して、咄嗟にケンタは知恵を絞った。

 幸い、あたり一面は竹藪だ。

 太い青竹が邪魔になるから、刀を振り回すことも複数方向から一斉に斬りかかってくることもできないだろうと思われた。

 事実、目の前で対峙する浪人はただひとり。

 あとのふたりはその背後に距離を置き、各々が彼を援護する位置に着いていた。

 寝技に持ち込むべきか。

 ふと浮かびあがった対応策をケンタは瞬時にして否定する。

 いや駄目だ。

 一対一タイマンならともかく、この状況で動きを止めれば残った連中が確実に手を出してくる。

 その選択は余りにも愚策。

 では、どうするか。

 ケンタは意志を固めて唇を噛んだ。

 すっと目の高さにまで両手をあげて、構えの姿勢を取る。

 白刃を向けてくる正面の浪人と目を合わした。

 気合負けしたら終わりだという戦いの根本を、彼は本能的に理解していた。

 もちろん恐怖はある。

 管理されたプロレスという競技と異なる単純な暴力を前に、チャンピオンベルトを巻くほどの実力者であってもそれを抱くなとは言えない。

 だが、ケンタはそれを飲み込んだ。

 意識して背中の少女を思いやり、自らの退路を心の中で排除する。

 ケンタは、ゆっくり浪人と呼吸を合わせた。

 打撃系の技を避けるコツは、相手の呼吸を読むことだ。

 人間は、息を吸いながらでは瞬発的な力を発揮することができない。

 だから、こちらに打撃を打ち込んでくる時、そいつは必ず息を止めるか息を吐く。

 すなわち、吸気の次にくるタイミングこそが危険領域だと言えた。

 呼吸に合わせ、浪人の向けてくる切っ先がゆらゆらと揺れた。

 その先端を見詰めながらケンタは、突き込んでくるか、それとも打ち込んでくるかのどちらかだと見切る。

 浪人の口が、小さく息を吸った。

 来る!

 反射的にケンタが身を沈めるのと、浪人が正面から踏み込んでくるのとは同時だった。

「いやぁっ!」

 奇声とともに白刃が打ち込まれた。

 稲妻のごとき一撃。

 面打ちだ。

 しかし、下方に沈んだケンタの動きが、その切っ先に空を切らせた。

 浪人の眼が驚愕に見開かれる。

 打ち込まれた刃の下を潜り抜け、ケンタの巨体が突進した。

 タックルだった。

 それもアマレス式にテイクダウンを狙うそれではない。

 「スピアー」と呼ばれるアメフト式の「ぶちかまし」だ。

「ぐはぁっ!」

 百キロを余裕で越えるケンタの身体に土手っ腹を直撃されたのだからたまらない。

 浪人の肉体は文字どおり宙を舞った。

 刀が手からこぼれ落ち、後ろにいたもうひとりの浪人に向け背中からぶつかっていく。

 もんどりうって、ふたりは倒れた。

 これをきっかけに、男たちの空気が怯みをみせた。

 戦いだけに留まらず、勝負事では心が折れたほうに女神が微笑むことはない。

 ケンタが、この「喧嘩」の主導権を握ったことに間違いはなかった。

 それは、疑いようもない絶対の好機だ。

 ケンタの巨体が翻った。

 精神が、でなく肉体がひとりでに反応したのだ。

 流れるような滑らかさで残ったひとりに剛腕が迫る。

 逆水平チョップ。

 丸太のような左腕から放たれた手刀が、浪人の喉元に吸い込まれた。

 めき、という異音とともに喉仏を一撃する。

 人語とは思えぬひしゃげた声を発して、浪人は地面に倒れ込んだ。

 激しく身を捩り、手足をばたつかせて地面の上をのたうち回る。

「くそっ、おぼえておけ!」

 衝突による転倒から立ち直ったふたりの浪人が、喉を押さえて悶絶するもうひとりに駆け寄った。

 まるで劇中どおりの捨て台詞をケンタに向けて投げ付けつつ、脱兎のごとく逃げ去っていく。

 それは、生まれて初めて経験するケンタにとっての「実戦」が、正式に終わりを告げた瞬間だった。

 緊張の糸が切れたのか、男たちの背中が遠く見えなくなるのと同時に、彼はすとんと尻餅をついた。

 右腕で額の汗を拭いながら大きく深く息を吐く。

 とりあえず目の前の危機は撃退したが、自分の置かれた状況をさっぱり飲み込めないことに変わりなどなかった。

 頭の中は、相変わらず混乱の極みだ。

 「くそ、何がいったいどうなってるんだ」と短く悪態さえついてみせる。

 いつものケンタであれば、決して表にしない態度であった。

 和装の少女がケンタの前に回り込んできたのは、ちょうどその時だった。

 両膝を屈して、彼女はケンタの顔を覗き込む。

「お怪我はございませんか?」

 心の底から心配そうに彼女は尋ねた。

 純真さをそのまま固形化したような黒い瞳が、ケンタの両目をまっすぐに指す。

「あ、ああ、大丈夫です」

 その輝きにややうろたえてみせながら、ケンタは答えた。

「そちらこそお怪我はありませんか?」

「私のほうなら大丈夫です」

 ぱっと表情を明るくさせて少女は言った。

「すべては、あなたさまのおかげです。ありがとうございました」

 矢庭に立ち上がり深々と腰を折る彼女に釣られて、ケンタもまた尻を払って立ちあがった。

 その彼を大きく見上げ、少女は名乗る。

「私は、当高山藩にて剣術指南役を務めております秋山あきやま弥兵衛やへいの娘、あおいと申します。失礼ながら、あなたさまのお名前は?」

「お、俺は古橋。古橋ケンタ」

「古橋さま、でいらっしゃいますか」

 ちょっとどもり気味に名乗ったケンタの言葉を受け継いで、葵と名乗ったその少女はひまわりのように屈託のない笑顔を浮かべた。

「この度助けていただいたお礼は、秋山の名において必ずさせていただきます。よろしければ、どちらにお住まいかお聞かせ願いませんでしょうか? 後日、改めてお伺いさせていただきますゆえ」

 どちらにお住まいか、と問われてケンタは自分の置かれた立場というものを速やかに思い出した。

 そう、むしろ聞きたいことがあるのはこっちのほうだ。

 いったい自分の身に何が起きたのか。

 そもそもここはどこで、なぜ自分はこんなところにいるのか。

 もちろん、そんな質問を目の前の少女に投げかけたところで仕方がないことぐらい、ケンタの頭も重々承知していることだった。

 だが、それでもなお、彼は問わずにいられなかった。

 そうしなければ、いま自分が立っている地盤が成り立たないような気がしてならなかったからだった。

「あの……実はひとつお聞きしたいことがありまして」

 いかにもばつが悪そうに後頭部をぽりぽりと掻きながら、ケンタはおそるおそるといった風情で葵に尋ねた。

「ここはいったい、どこなんでしょう?」

 それを聞いた葵の眼が、驚きの余り皿のように丸くなった。

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