第29話 最大の危機

「とんっ……でもなくヤベー問題が勃発したぞコラァ!」

「何だオラァ!」


 ある昼休みのことである。

 輝く金髪、金のピアスにネックレスをジャラつかせ、赤シャツの上から短ランを引っ掛けた、どこからどう見てもヤンキー以外の何者でもない八王子(はちおうじ)が、猛々しい胴間声を張り上げた。

 弊衣破帽の由緒正しき番長スタイルでふんぞり返り、ドスを利かせて応じた相模(さがみ)の目の前に、見覚えのある紙切れが差し出されていた。


「学園祭有志出し物の応募要項じゃねぇか」

「そーだ。いいか、ヤベーのはココだ」


 八王子の指が示しているのは、参加条件その三という項目だった。


「ええと……二学期中間試験の順位が二百位以上であること、か。まあ、普通にやってれば大丈夫だろう」


 ゾンビ野郎は粗野な見た目からは想像もつかないような発言を平然としやがった。

 ビキィ!

 ――と音を立てそうな勢いで、八王子のこめかみに青筋が隆起した。


「あーオレが間違ってた。そりゃー相模さんは転入試験受けて転校してきたんだから、そこそこ勉強できますよねえぇ!」

「国語はサッパリだけどな」

「オレは国語と英語だけだぜ、ややマシな点数取れんの。あとの算数や科学や物理や日本史や世界史や地理やなんかは、全っ然ダメ。ヤマ張って勉強しても三十点が限界なんだよ! どーすんだ、出られねーぞ学園祭!」

「……算数じゃなくて数学ね」

「ツッコむとこソコかよボケェ!」

「番長ズのボケ、相模です」

「知ってるわァ!」


 ヒートアップした八王子が、イスの脚をガンガン蹴った。座席の主である相模が立ち上がると、当然のようにイスを占拠し、机の上に姉作の弁当を広げた。


「オマエなー、オレが……」と言い差してから、慌てて声を低くする八王子。「オレの恋が始まりもしねーうちから終わろうとしてんだぞ。もっと心配しろやァ」

「そう言われてもな。勉強を教えてやるくらいしか、俺にできることはないぞ」

「その言葉を待ってた」


 唐突に、八王子の声も表情も穏やかになったので、相模は面食らった。

 ポカンとしていると、まったく同じトーンで同じ言葉が繰り返された。


「その言葉を待ってた」


 眉間のシワとこめかみの青筋が標準装備で、三白眼をギラつかせ、鬼のような八重歯を剥き出しにして傍若無人に振る舞うのが八王子秋雄という男である。

 ――そう刷り込まれていた相模は、急に菩薩のような顔つきになった八王子に、どう接したらいいのかわからない。

 拝むべきか、何かしらツッコミを入れるべきか、それともスルーするのが安全か。


「ええと……とりあえず、勉強を教えればいいわけ?」

「そのとーりだ。いいか相模、オレはなにも、学年トップ二十に入る勉強を教えてくれと言ってるわけじゃねー。二百位でいいんだ」

「まあ、それくらいなら手伝えるかもしれない」

「三百位を二百位にしてくれるだけでいいんだ」


 さり気なく聞こえてきた衝撃発言に、眼窩の奥で決して大きくない相模の目が見開かれた。


「ちょちょちょちょっと」しれっと言う八王子に、慌てて相模が待ったをかける。「ずいぶん軽く言ったな。危うく流しそうになったけど、え、百位上げろって話か?」

「さっきからそー言ってるだろーが。何回言わせんだゾンビ野郎」

「いやいや、それは俺がサポートできる範囲を超えてるよ。そこまでいくともう、塾の仕事じゃない」

「なんだテメー、オレをバカにしてんのか? あぁん?」

「馬鹿にしちゃいないけど……」


 食パンの塊を租借しながら相模は考える。

 たった二週間で学年順位を百も上げるとは、無茶振りもいいところだ。


「参考までに聞くが、八王子は今までの試験、勉強はどの程度……?」

「するワケねーだろ、そんなモン。なに考えてんだ? オマエ頭大丈夫か?」


 相手のパンチを見切る動体視力を有した相模がギリギリ視認できる速さでタコウインナーを弁当箱から口に運んだ八王子に、憐れみのまなざしを向けられてしまった。

 これは――と、相模は思う。

 最大かつ最難関の壁だ。だが、希望もまたあった。

 八王子は、試験に際しこれまで勉強をしたことがないと言う。これがよくある「えー、オレ勉強全然してねーし」と言いながら実は血眼で一夜漬けしていたというパターンでなければ、あるいは。勉強ナシで三百位の人間に勉強をさせて二百位に引き上げるのなら、ギリギリなんとかなるか……。


 しばらくして相模は食パンを飲み下し、おもむろに口を開いた。


「応用問題は潔く諦めて、基本問題を確実に取りにいこう」

「よく噛んでんじゃねー。意外と育ちいいのかよ」

「スキンヘッドで鈍器振り回す親父がね、結構行儀にうるさいんだよ」


 なぜか相模の親父ネタが好きらしい八王子は、これだけで何度でも笑う。

 だからといって、本当はどういう素性の人間なのかを尋ねてくることはない。

 相模にとっては、この距離感が何だか不思議で居心地が良かった。


「じゃあオレが特別に、オマエに国語を教えてやるよ」


 気を良くしたらしい悪魔が、気まぐれにそんなことを言ったので、ゾンビ野郎はそれはそれは驚いた。


「ほ……本当か?」

「なんだよ。え、ガチで感動してんのか?」

「当たり前だろ。国語は……国語は魔物だよ、八王子」


 相模はいかに国語の試験問題が理不尽かを切々と語る。


「よくあるだろ、『このときの作者の気持ちは何か、三十文字以内で答えよ』ってやつ」

「あるっつーか、そういう問題ばっかだろ国語は」

「そんなもの、わかるわけないだろ? エスパーじゃあるまいし。『腹減ったな』と思いながら書いたかもしれないし、『耳の中痒くなってきた』とか思っていたかもしれないだろ。作者がいつ、どこでその文章を執筆したのか知らないんだから、予想することさえほぼ不可能に近い。予想し得る解答のパターンは、無限大なんだぞ?」


 今度は八王子が呆然とするターンだった。

 そういえば、と八王子は思い出す。

 相模という男は、絵の描き方が非常に気持ちが悪い。美術の授業にて、アタリを取ることもなく、画用紙の左端からプリンターが絵や写真を印刷するときのように静物を描画し始めたこの男を目にしたとき、八王子は心の底からゾッとした。

 ついでに、さすがゾンビ野郎だとも思った。


「ゾンビ野郎……オマエ将来、変な宗教にツボとか買わされんなよ? いいか、国語の試験で作者やら登場人物やらの気持ちを問われたときは、額面通りに受け取るんじゃねー」眼光鋭く、先割れスプーンを相模の眉間に突きつけて言う。「そういうときにオレたちは、『試験問題の製作者が求めている答え』を問われてるんだ」

「八王子は天才か!」


 手放しの称賛に、しかし微妙な表情を貼りつけたままの八王子をよそに、相模のやる気に日がついたようだ。


「よし。これから一週間の火木金と、試験一週間前の毎日、勉強しような。この学校って実習室はあるのか?」

「合同教室と会議室は放課後使えるみてーだな」


 こうして二人は急遽、放課後の自習を行なうことになった。

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