雪ぐ炎 3

「ヤナ、逃げろ」

 リセアは上から目を離さないまま言った。

「え?」

「逃げろ」

「でも」

「先生を助けるならすぐに」

 数瞬の沈黙の後、足音が駆けだした。それに覆いかぶさるように、骨と肉の食らわれる音が降ってくる。石畳に雨垂れのように弾けた血がリセアの靴先を汚した。

 巨躯が壁をゆるゆると伝って降り、わずかな地面の震えも起こさずに立った。リセアはいつでも一撃を放てるように意識を澄ませる。標的に飢えた赤い蕾が瞬いた。大蜘蛛が音もなく脚を動かし眼前まで迫る。そして体の向きを変え、大通りの方へと進みはじめた――あたかもリセアを意に介していないかのように。リセアは脳裏に父母を見た。マリエラの腕の中から垣間見えた、炎に蹂躙される部屋の中、跡形もなく貪られていく姿を。すまない、ダーシャ。マリエラ、どうか、リセアをお願いね。

「貴様!」

 リセアは声荒く叫んでいた。

「忘れたのか、私を!」

 怒気に射られたかのように、大蜘蛛の目が一つこぼれ落ちた。子供の頭ほどあるそれが地面を転がり、リセアの足元で止まる。赤く禍々しい光の揺蕩いが次第に小さくなり、完全に凪いだ。

 目が合った。

 直感した瞬間、リセアは呪文を吐いた。振り下ろされる脚が一瞬火に包まれ、石畳を穿つ。リセアは揺らぐ地面によろけながら再び叫ぶ。炎が別の脚にまとわりつき、しかし一呼吸も終わらぬうちに消える。がなりたてて矢継ぎ早に呼ぶ炎が、その都度あまりにもあっさりと掻き消される。狙いは定まっている。全く歯が立たないわけではないのになぜ。自問が頭の中を巡って壁にぶつかる。この力は魔力を持つ者を拒む。ニオヴェだった男はそう言った。ならばこの悪魔もまた魔力を拒み、跳ね除けるのではないか?

 思考が動きを鈍らせたと悟った時には、目の前で牙が閃いていた。とっさに身を横へ放り出す。布の裂ける音、右肩に焼けつく痛みを感じながら転がった。仰向けになって目蓋を開けると、七つの目と目が合った。恐怖に体を鷲づかみにされる。

「思い出した」

 ニオヴェだった男の、そして食らった全ての者の声で大蜘蛛は言った。黒い脚がゆっくりと動く。先端が肩の傷を探り当て、貫いた。骨の砕ける音が全身に響く。リセアは体を反らせて絶叫した。

「あの娘」

 眉間の奥で赤い蕾がびりびりと震え、急いたように瞬く。大蜘蛛の顔を目がけ、燃えよ、と発したはずだった。しかしのどが強張り、舌が萎えて動かない。とめどない汗が恐怖のためだけでないのをリセアは悟った。拳を握ろうとしても、指一本曲げることさえかなわない。赤い目が肉薄する。リセアはそこに知らない女が映っているのを見た。舌を切られた女は泣きわめきながら腹を裂かれた。次の瞬間には男が映っていた。命乞いをする男は少しずつ食われて嬲り殺された。場面は目まぐるしく変転する。決まって誰かが大蜘蛛の毒牙に命を落とし、あるいはニオヴェだった男の手にかかった。何度目か、また場面が変わる。見覚えのある、否、見慣れた森の中だった。草の上に倒れる女が大蜘蛛を見据えていた。

「魔術師の汚れた肉だが腹の足しにはなろう」

 喘ぎ、嘲笑いながら、ニオヴェだった男が――否、ニオヴェが言う。悪魔が牙を動かして応えた。

「渡さない……あの子は、絶対に!」

 牙が肉薄する。その瞬間、マリエラが全ての力を託した言葉を放った。ニオヴェが顔色を変える。動きを止めない悪魔も、八つの目をわずかに揺らがせた。

 その時ふと、マリエラの眼差しが大蜘蛛から離れた。闇と木立の中をさまよい、リセアを捉える。リセアは声を成さぬ声で名前を呼んだ。双眸にかすかな驚きを走らせ、それからマリエラは微笑した。

「リセア」

 唇は開かなかった。だが呼び返す声がリセアの耳を打ち、体に入り込んだ。短い響きが消えかけた温もりをつなぎ止め、眉間の奥の氷を穏やかに揺り動かす――まるで子供を起こすように。氷は身じろぐように震え、無数の亀裂をまとうと砕け散った。その破片が溶け、きらめきながら赤い蕾に降り注ぐ。蕾は歓喜に腕を広げるかのように開き、そして繚乱した。花弁が舞い上がり、氷の破片とともに血に溶けて体を馳せ巡る。魔力がうねり、逆巻いて奔流となる。

 大蜘蛛が惑うように牙を動かして後ずさる。リセアは石畳に足を突き立て、まなじりを裂いて吼えた。

「燃え尽きよ!!」

 奔流がほとばしった。大蜘蛛に押し寄せるや業火に変じ、凍てる空気ごと巨躯を燃やす。反動で脳の髄から頭を揺さぶられ、全身が削がれるように痛む。リセアは涙と鼻血を滴らせ、胃の中の酸いものをぶちまけ、かろうじて顔を上げた。そしてとめどなくあふれる流れのなかに、自分に属さぬものを認めた。自分の力が炎の赤ならば、氷に封じられていたそれは、草木の茂りの緑。リセアは手を包んだ温もりが蘇るのを感じた。七年前の夜、彼女が与えてくれたもの。彼女の関わる記憶と引き換えに、手をとって託してくれた力。

 金切り声が闇を裂き、低い悲鳴が轟いた。赤い目が溶けて臭気を放ち、脚が崩れて縮こまり、体が残らず灰となるのを、リセアは目を剥いて見据えていた。

 風が灰をさらい、そして去った。リセアは膝をついて伏した。暗く、寒さもなかった。遠くで自分の名を呼ぶ声がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る