鎮む石 4

 空はいつしか曇っていた。大通りでカミーロと別れ、三人は帰路についた。石畳に混じって埋められた〈明かり石〉が往来を照らしている。オルダが先を行き、リセアとヤナが後ろで並んで歩いた。

「リセアさんはえらい人ですね」

 ヤナが足元を見たまま言った。リセアは聞き返す。

「リセアさんはえらい人です。みんなのためにニオヴェさんを止めるんでしょう」

「ああ」

 一拍遅れてから答えた。

「仕返ししたいのかな、って思っちゃいました。一瞬ですけど」

 今度こそ言葉を返せなかった。ヤナはそれを気にする風でもなかったが、少し進んでから出し抜けに顔を上げた。リセアも視線を前方に移し、呂律の回らぬ怒声に気づいた。通りの反対側、路地の入り口で、酔っ払いらしき男たちが大きな塊を囲んでいる。声には猥雑な罵りのほか、魔法や化け物といった言葉が混じっていた。男のひとりが大きな塊を踏みつける。細い呻きがあがった。

「彼らに言わせれば、私らがいつ暴れだすか不安なんだろう」

 オルダが言った。行く手を折良く警吏が通りかかり、呼び止めに向かう。

「今まで暴れたことなんかないのに」

 ヤナが唇を噛んだ。

 オルダが小走りに戻り、警吏が制止の声を発して男たちに近づく。赤い顔をした男たちがなおもわめき、ふらつきながら通りに出てきた。男たちの視線の先から、大きな塊――女がぎこちなく這って痣のある顔を現した。警吏が馬から降り、手に光を呼びながら女のもとに向かう。大丈夫か、と屈みかけた半身が、女を飛び越えて躍り出た影に引きちぎられた。酔いどれたちがその場に硬直し、女が鋭い悲鳴をあげた。リセアたちはとっさに建物の陰に身を寄せる。

 蜥蜴が尻尾を揺らして咀嚼する。体長は大人の男の背丈を優に上回り、頭には血をこごらせたような赤い目が光る。鱗には一枚ごとに小さな棘が生え、光を硬く弾いた。

「あれが君の言っていた蜥蜴だね」

「そのはずです。様子が変わっているようですが」

「魔術師を捕食して成長したんだろう」

 オルダが一歩後ずさった。

「逃げよう。今のうちに」

「でも女の人が」

 ヤナが言う。オルダは無言で通りから目をそらした。

「あんた、お前、魔術師食いのバケモンだろう!」

 だみ声の男が女を指差して叫んだ。

「なあ、そこによ、いるんだ、気味悪いあまが! 早いとこ食ってくれよ、ほら!」

 だみ声がなおも続く。蜥蜴が声の主へと頭を向けた。

「おい、そこに――」

 声が途切れた。オルダが通りを振り向くのと蜥蜴が男を飲み込むのが同時だった。ついで棒立ちのままの一人を食らい、逃げようとする三人目に飛びかかる。

「な……なんでだよ! 俺は……俺は魔法使いなんかじゃ――」

 頭を食いちぎられ、男の胴体が突っ伏す。女がすすり泣きながら這って逃げようとする。その背中を、路地の奥から伸びた黒い鉤爪が貫いた。すすり泣きが止み、火のついたような絶叫に変わる。

「今だ!」

 リセアは身を翻した。オルダがヤナの手をとって走った。屋根の上で、足元で、闇が身じろいだような錯覚に襲われる。細い道を目まぐるしく曲がり、見覚えのある界隈が現れた時、視界の隅を黒い尾が駆け抜けた。

「叔父さま!」

 青い目の蜥蜴が壁から離れ、オルダの前に着地する。血の臭いがした。オルダがヤナの手を離す。代わりにリセアがヤナの一歩前に立った。オルダが何事かつぶやく。蜥蜴が口を開けて踏み出し、その途端に均衡を崩した。石畳が泥沼のように歪んで沈み、蜥蜴の足を捉えていた。

「打て」

 地面が小さく震えた。数枚の石畳が浮き上がり、重く風を切って飛んだ。蜥蜴の頭を殴りつけ、肋を軋ませ、脚をぐらつかせる。

「抱擁せよ」

 たたみかけるようにオルダが言う。足元に再び震動が響く。蜥蜴の周囲で石畳が絨毯のようにめくれ、波打ちはじめた。

「固く、強かに!」

 大波が轟音と土煙をあげて巻き上がる。逃げようと向きを変える蜥蜴に向かって殺到し、黒い体に覆いかぶさった。

 オルダが喘ぎまじりに促し、三人は再び走った。一言も交わさずに家に飛び込み、扉に鍵をかける。リセアは鎧戸を閉めながら素早く外を確かめた。地面の〈明かり石〉が点々と道を示すのみで、人影も蜥蜴の気配もない。それでもかすかに聞こえる悲鳴は、耳にこびりついた余韻か、それとも遠くで今あがっているのか。

「うまく逃げられたはずだよ」

 リセアが目を移すと、オルダが寝台に横たわるところだった。顔から血の気が失せているように見えた。

「叔父さま」

「派手に使ったから、少し目が回ってしまってね」

 オルダが力なく笑った。ヤナから濡れた布を受け取って汗を拭う。

「二人とも早くおやすみ。明日のことは明日考えよう」

「分かりました」

「おやすみなさい、先生」

 ヤナが布を片付け、リセアのもとにやって来る。オルダの隣の寝台を指差した。

「使いますか?」

 リセアは首を横に振る。

「私はいい」

「そうですか」

 ヤナがなおもリセアを見上げる。

「あの」

「なんだ」

「おやすみなさい、リセアさん」

「おやすみ」

 リセアは外套を掻き合わせ、椅子に深くかけた。昼間の会話を思い返す。オルダの推測が正しければ、ニオヴェが魔術師であるマリエラを狙い、父母が巻き込まれたことになる。だがニオヴェはなぜ、父に長い時間をかけて接近したのか。なぜマリエラの警戒を招く前に行動しなかったのか。

 目蓋を閉じる。規則正しい寝息が二つ、そして鳥のさえずりが聞こえる。

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