黒狼吠ゆ 3

 目が覚めるとそこは海ではなかった。湿った土と黴のような臭いが満ち、雨音がきれぎれに聞こえている。横たわる身を小さく動かしたところで、手を縛る縄と、首を圧迫するものに気づく。

 洞穴のような狭い空間だった。中心で五人ほどの男が焚き火を囲んで座り、その向こうに通路が伸びている。リセアは意識を澄ませ、縛めを焼き切る呪文を囁いた。しかし縄は変わらず手首を締めつけていた。再び試すが手応えはない。

 目の前の地面に影が揺れ、リセアは視線を上げた。男の一人が火を離れて立っていた。右頬に向こう疵が走っている。

「その首輪は魔法を封じる特別なもんだ。残念だが同じ手は食わねえぞ。――お前ら、お嬢さまがお目覚めだ」

 応えるように男たちが腰を上げ、リセアを取り囲む。

「尻拭いに付き合わされるなんざついてねえと思ったが、こりゃ来ねえ方が大損だったな」

「何が尻拭いだ。お前だったら情けねえ面さらして逃げてたってんだ」

「俺なら引っ担いで土産にしたぜ、なんなら連れの小僧もな」

 男たちが下卑た笑いをあげた。

「覚えてるか、嬢ちゃん?」

 向こう疵の男がしゃがみ込み、リセアの顔をのぞく。腰に帯びた剣の鍔に、目をかたどった印が刻まれていた。

「この前あんたらに一杯食わされたこそ泥だよ。俺はラデクって呼ばれてる。よろしく頼むぜ」

 リセアは唇を引き結んでいた。ジアスタの路地で見た女たち、ついでティズの姿が頭に浮かぶ。ティズは無事だろうか。同じように捕らえられたかもしれない。だとすれば近くにいるのだろうか。

 意識を引き戻し、リセアは身を固くした。ラデクの顔に歪な影が現れた。

「価値を下げる真似はしねえが、商品はちゃあんと確かめなきゃな」

 ラデクがリセアの外套を剥ぎ、ベルトをむしり取る。脈が高く騒ぎ、リセアは体をよじって罵った。男たちが薄ら笑いを浮かべて囃し立てる。

「男に見られるのは初めてか? 今のうちに慣れるんだな」

 ラデクが再び口を歪めて笑い、リセアの胸元の紐に手をかける。リセアが顔を背けた瞬間、男たちの喚き声が響き渡った。視界を大きな黒い影がかすめる。影は縦横無尽に駆け、男たちを壁に叩きつけ、焚き火へと突き飛ばした。

「なんだ一体!」

「お、狼だ!」

 男の一人が転がりながら叫んだ。

「ばか言え! こんなでかいのがいてたまるか!」

 ラデクが唾を散らして剣を抜く。

 肢を地面に突き立てて狼が咆哮した。洞穴が震え、何人かが転がるように外へ逃げ出す。狼はそれを意に介さず、山吹色の目でラデクを射抜いた。逆立つ毛や尾に殺気がみなぎっていた。

 ラデクが剣を狼に向ける。しかし発しかけた怒号が途切れた。

「――あ?」

 狼が着地し、咥えていたものを離す。引きちぎられたラデクの手が、剣を握ったまま転がった。一拍遅れてラデクの悲鳴が響く。

 狼がリセアの方を向いたかと思うと、鼻先をリセアと地面の間に差し入れた。リセアは戸惑いながらも身を起こした。狼が低く唸り、腰を抜かした男たちを威嚇するように睨み回す。その後ろをリセアは駆け抜け、洞穴を飛び出した。

 雨は止み、林にじっとりとした冷たい空気が降りていた。狼がいつしかリセアに並び、促すように尻尾を揺らした。濡れた草を踏みしめ、ゆるやかな斜面を下る。

 しばらくして狼が立ち止まった。夜露を払うように体を震わせる。すると黒い体が陽炎のように揺らめき、引き伸ばされ、リセアの背丈を追い越した。闇に溶けるような黒髪に山吹色の瞳が光る。

「お前は――」

「リセア!」

 叫ぶが早いか、ティズが首輪と縄を解く。

「大丈夫か? 怪我してないか?」

 リセアはうなずいた。ティズが手を引っ込め、後ずさる。木立のどこかからツグミに似た声がこだました。

「黙っててごめん。卑怯じゃないかとは思ってた……けど、嫌われるのが怖かったんだ」

 ティズが顔を伏せる。

「生まれつきなんだ。呪いでも魔法でもない。兄さんも、きっと母さんや父さんだってそうだった。俺、ふつうの人間じゃないんだ――人狼って言うんだって」

 ――リセアが俺を嫌いになったら、いつでも別れるから。いつかの言葉が脳裏をよぎった。眉間の奥で氷が小さく鳴る。リセアは静かに息を吸うと言った。

「なんだろうが構わない」

 ティズが小さく肩を震わせ、顔を上げた。

「お前が来たければ来い。それは変わらないことだ」

「ほんとにいいのか?」

「ああ。本当だ」

「……分かった。ありがとう、リセア」

 かすかに光る目を拭い、ティズが深くうなずく。

「ほんとにありがとう」

 その時、リセアの視界が揺れて落ちた。膝が力を失い、草の上に崩れていた。

「大丈夫か? やっぱり怪我してたのか?」

 木を支えに立ち上がろうとし、手が小刻みに震えていることに気づく。ラデクや男たちの声が耳の底に焼きついていた。背筋が夜露のせいでなく冷たい。

「なんでもない」

 リセアは小さく首を振った。

「なんでもない。――早く宿に戻らなければ」

「夜中に歩くのは危ないぞ」

 ティズがリセアの隣にしゃがんだ。

「それにリセア、疲れてるだろ? 俺が見張ってるから朝まで寝とけばいい。朝になったらちゃんと起こすよ。そしたら歩いて戻ろう。あんまり遠くないから大丈夫だ」

「――そうか」

 リセアは幹に背中を預けた。途端に体が重くなり、身じろぎさえ億劫になる。

「ティズ」

「なんだ?」

 ティズが瞬きをする。リセアは一つ息を漏らし、目蓋を閉じた。

「ありがとう」

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