咲む雫 2

 船は追い風を受けて順調に進んだ。いつものように甲板に出ていたティズが、船室の入り口に現れてリセアを手招きした。顔にはすっかり生気と笑みが戻っている。

「晴れててきれいだぞ! たまには見てみないか?」

 リセアは金目の物と外套を身につけて腰を上げた。階段を上るや否や冷たく湿った風が体に叩きつけ、外套が暴れるように翻る。痛いほどに澄んだ日の光が目を刺した。

「あっちに山みたいなのが見えるだろ? あの手前におととい寄った港があるんだ」

 リセアは手すりに触れた。稜線が深く光る空に溶けようとしていた。

「ずいぶん離れたな」

「風向きがいいから遅れずに進んでるって」

 ティズが一段高くなった船尾の甲板を顧みる。舵をとる者や下へ指示を出す者が見えた。

「さっきそこのおじさんに聞いたんだ。何日かしたらまた港に着くらしいぞ」

 そよぐ髪の房を指ですくいつつ、リセアは海へ視線を戻した。くすんだ青い波に白い光が散りばめられている。船首の方から人々の話す声が届いた。父と母は海を見たことがあっただろうか。疑問がふと頭をよぎった。

 リセアはめくれた外套を整えた。ティズは時折鼻をすすりながら身を乗り出している。

「ずっと出ていると風邪をひくぞ」

「そうだな、もうすぐ戻るよ。お腹も空いたし――わっ!」

 重い音と大きな揺れが船首から響き、足元を震わせた。すさぶ風に戸惑う声と悲鳴が紛れる。船員が帆へと伸びた綱に取りついて叫んでいる。銛のようなものを持って走る者もいた。

「何やってる、あんたらもさっさと逃げろ!」

 舵をとる男のしゃがれた叫びが降る。

「あ、あれ!」

 ティズが上ずった声で叫ぶ。

 船室へと押し寄せはじめる人々の向こうに、帆柱のように太い影が海から伸びていた。それがしなって甲板を打ち据えるたびに、船体が傾ぎ、悲鳴があがる。

 いつ誰に聞いたかは分からない、しかし海に潜む怪物の話には覚えがあった。揺れに足をとられ、リセアは手すりにしがみつく。目の前で小さな人影が転がった。同じ船室の少年だった。立ち上がろうとするその脚に怪物の腕が巻きつき、腕が誇るように獲物を高々と掲げた。

「燃えよ!」

 リセアが言い放つや腕が炎を帯び、力を失う。少年が解き放たれて落下した。リセアは力の限り甲板を蹴って腕を伸ばし、少年ともつれるように倒れ込む。

「親はどこにいる」

 しゃくり上げる少年の肩をつかんだ。少年が震える指で船室の方を示す。

「何があっても親から離れるな」

 リセアは少年を立たせて背中を押した。少年がうなずき、逃げる人々にまぎれて走ってゆく。

「こ、このままじゃ沈んじゃうよ!」

 ティズが顔をぐちゃぐちゃに歪める。リセアは歯噛みした。触腕は代わる代わる何本ずつかが現れては甲板を荒らしている。船体に穴があくか帆柱が折れるかは時間の問題だった。魔術で撃退できる可能性はあるが、狙いを誤れば燃えるのは船の方だ。

 高く振り上げられた一本に炎を呼ぶ。赤黒く焦げたそれは縮みながら海へ沈んだ。再び意識を澄ませようとした瞬間、左の腕と脇腹を熱い衝撃が打ちのめした。船首の方へ吹き飛ぶ。身を起こそうとして激痛に伏した。

「かないっこねえ」

 甲板の隅で船員が腰を抜かしている。

「運の尽きだ! 魔法だかなんだか分からんが、一人じゃまず――」

「魔法使いならここにも」

 聞き覚えのある声が響いた。リセアは頭を船尾に向ける。船室に駆け込む人々を掻き分けて現れたのは、穏やかながら自信に満ちた笑みの男。

 男は大股に進むとリセアに手を差し伸べた。

「また会いましたね、お嬢さん。立てますか?」

 リセアは甲板から身を引き剥がして立ち上がる。

「私の術は奴といささか相性が悪い。とどめを刺すことは難しいでしょう。あの腕の動きを封じますから、そこをお嬢さんが丸焼きにしてください。できますか?」

 唇を吊り上げて男が言った。脇腹が砕かれたように痛む。額に汗がにじみ、しかしリセアは答えた。

「ああ」

「そうこなくては」

 男が脇に抱えていた葡萄酒の瓶を足元に叩きつけた。破片と渋い香りがぶちまけられる。船員の一人がすくみ上がった。

「そ、そいつは商品――」

「気にしてられるか!」

 男が一喝した。波の間から歪で大きな塊が突き出ていた。表面は毒々しくぬめり、濁った一対の目が緩慢に動いて船上をうかがう。

「さあ、始めますよ」

 男が親指で唇をなぞった。眉間の奥で膨らみゆく赤い蕾を感じながらリセアはうなずく。

 男が一つ足を踏み鳴らし、行け、と叫ぶ。甲板に広がっていた葡萄酒が薄い網を成し、数本の触手に飛びついて締め上げた。怪物が低く喇叭のように唸る。

「今です!」

「燃え盛れ!」

 リセアが叫ぶ。網の絡まる腕が炎をあげた。悶える怪物の頭部が波間に消え、焦げた腕も水面を打って沈んでゆく。たっぷり数呼吸をかぞえたのち、海が凪いだ。

「た、倒したのか……」

 立ち上がれないままつぶやく船員を、ティズがよろけながら助け起こす。

「息の根は止められなかった」

 リセアは言った。

「あの様子だと懲りましたよ。船を襲うことは当分ないでしょう」

 男が軽く眉を上げてリセアを見た。

「お見事でした。――名乗るのが遅れてしまいましたね。旅の芸人、怪物退治もしております、ゲルト・クノーファーと申します」

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