#20:日没

 船頭はかいを動かす手を急がせていた。南西の岸でクロンを降ろすや否や、空いた手を目の前に突き出して駄賃を要求してきた。クロンが呆気に取られながら駄賃を支払うと、船頭は舟を置き去りにしてどこかへ走り去っていった。

 何を急いでいるんだろう、と思ったその時、空から大気を震わす鐘の音が降り注いだ。マテルの枝から鴉の群れが喚きながら一斉に飛び去っていく。

 鐘は更に続いた。クロンは一度ひとたび鳴るごとに急激に暗くなっていく空にようやく自分の置かれた状況を知り、脇目も振らずに駆け出した。

 目の前には住居が建ち並ぶ居住区。……それはなんという名前の建物だったか。

 もう一度地図の青い蜜蝋印を確認すると、「ウグイス荘」と記されていて、その下には、小さく「五号室」の文字があった。

 通りかかった長屋の木戸がクロンを拒絶するように、ピシャリ、ピシャリと閉じられていく。

 振り返れば、魂を引き抜かれるのでは、と思う程に影が伸びていた。視線の向こうもじわじわと闇に呑まれ、替わりに獣の目玉と見まごう街灯たちがパチクリと光を灯していく。

 案内板に「ウグイス荘」を見つけたクロンは、足先で軽く土を抉りながら直角に方向転換した。薄暗い路地の先に、色褪せた薄緑の――名前通りの壁の長屋があった。

 クロンは戸を乱暴に叩いた。……反応はない。焦りだけが色を帯びていく。他の戸も、気が狂ったように手当たり次第叩いてみたが、結果は何も得られない。

「お願いします! 誰か中に入れてください!」

 この長屋は無人なんじゃないか――と、頭を過る。

 ――二度ふたたび振り返る。影が、闇に呑まれていくところだ。

 さっと見上げると、あかから紫へと溶けていく空に、紅い星がふつふつと浮かんでいく。

「そん、な……」

 クロンは疲れて、とうとう座り込んだ。

 夜の闇は、終いにはクロンをも呑み込んでしまうだろう。この身を罰するのは、マテルの裁きか、それとも、アラネアの恐怖なのか……。


 ――諦めかけていると、長屋の戸が勢い良く開け放たれ、クロンを包み込んでいた闇は取り払われた。

「そこで何してんだ! 早ぅ入れ!」

 クロンは弾かれたように立ち上がり、長屋から放たれる光に向かって転がり込んだ。


 クロンを助けたのは、ゼッキよりも体格の大きな「半端者」の中年の大男だった。

 明かり一つに、座卓、箪笥、寝具――それだけで四隅が埋まるこの部屋に、クロンを入れて更に窮屈になっている。大男は迷惑そう、というよりは呆れた表情でクロンを見下ろしていた。

「ったく、どうかしてらぁ。俺が助けなかったら次のお天道さんは拝めなかったぜ」

「ごめん、なさい」クロンは息を整えながら頭を下げた。「この長屋に、これから住む、のですが」

「なんでぇ、新参者か。なら裏手から出て行きな。安心しろ。そっちは屋内だ」

 大男は奥の引き戸を横に開いた。別の長屋の勝手口と向かい合わせになっている狭い通路がそこにあった。

 クロンは軽く礼を述べ、直ぐに部屋を去った。


 間隔を空けて配置された琥珀灯からは、申し分程度に小さな光が灯されている。砂利で敷きつめられた床は、少し歩くだけでけたたましい音が鳴った。

(砂利は侵入者を報せる鳴子替わりか。この裏庭のような通路も、夜間に別の部屋を訪問するためにあるんだ……)

 感心しながら戸の横に掲げられた表札を確認し、ようやく五号室を見つけ出した。

 鍵は無かった。……そういえば、貰ってもいなかった。

 戸はやはり引き戸で、力を込めれば簡単に開いた。

(自分で鍵を付けるしかないんだ……)

 クロンは心の中で毒づきながら、天井からぶら下がった紐を引いて琥珀灯を点けた。まだ家具が置かれていない殺風景な部屋が露見する。

 クロンは適当に荷を置いて、大の字に寝転がった。どっと旅の疲れがしみ出るようだ。せめて風呂に入りたい、と思ったが、そんな気力さえ無くなった。代わりに、今日一日で起きたあらゆる出来事が、いっぺんに脳裏に浮かんできた。

 結局、今日中にリーエを見つけることは出来なかった。恐らく、あのか弱い手で琥珀を採掘することはないだろうから、明日はルニに上がって来るだろう。役人に連れて行かれたのなら、宿無しということもあり得ないはずだ。

(リーエ……。ごめんよ……)

 クロンは心の中で何度も謝りながら、膝を抱えて身を丸くした。

 明日は琥珀技師の工房へ向かわなくてはならない。リーエにもう一度出会えるかは運次第だろう。

 森での暮らしが何年も前のように感じられる。独り立ちした、と言えば聞こえはいいが、特効薬を手に入れる目的以外にこの街へ来た意味なんてあっただろうか。

(……強いて言えば、キナや父さんを探す、ぐらいか)

 生きているかも分からない二人を、どうやって探せばいいのだろうか。

 役所も探し人には答えられないし、仕事終わりから日没までの空いた時間と休日を利用し、手がかりを探すしかない。

 ……そうして色々考えているうち、クロンはいつの間にか眠りの海に沈み込んでいった。

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