#09:出立

 まだ暗い時間に目を覚ましたクロンは、最小限に照らした琥珀灯の中で森林警備隊の緑の制服に着替え、昨晩のうちに準備を済ませたいつもの鞄を背負い、いつもの――元々は人間の大人用の革長靴をすっぽりと履いた。

 警備に出かけるのと何ら変わりない朝だった。なるべく足音を立てないように歩いたが、床板は容赦なくギシギシと鳴り響き、ついにシラが目を覚ましてしまった。

「クロン? 起きたら挨拶しなさいな」

 あっと言う間に部屋中の琥珀灯に火を灯され、クロンは観念したように荷を下ろした。

「……おはよう、母さん」

「おはよう、クロン」

 シラは重い身体を引きずりながら、数ヶ月ぶりに台所に立った。

「朝ご飯も食べずに行くつもりだったの? たまには母さんが作ってあげるから食べなさい」

「……うん」

 朝食どころか、母の手料理を食べるのは久々だったので、クロンは耳を動かす程に嬉しかった。

 食卓で顎に両手を乗せ、キビキビと動く母の姿に目を細め、頬を緩ませる。

 ――ああ、何年ぶりだろうか、こうして料理を待つのは。

 クロンは母の背をじっと見つめながら、心の奥底では黒いもやのような哀しみが広がりつつあるのを感じていた。シラがわざわざ台所に立ったその理由――クロンに母の温もりを忘れさせないためだと気付いたからだ。

「クロン」

 てきぱきと料理を作り続ける母は、振り返らずに言った。

「多めに作るから、起きてたらリーエちゃんも呼んできなさい」

「あ……うん、分かった」

 それが、クロンの推測を裏付ける結果となった。形こそ別居であれ、リーエは既に、この家族の一員なのだ。シラは、そんなリーエにも自分の手料理を味合わせたいのだろう。

 クロンは直ぐに駆けていき、飛び越えるように細い吊り橋を渡り、その先にあるリーエの家の戸を叩いた。

「……だれ?」

 中から小さく声が聞こえた。起きてはいるようだが、少しばかり眠たそうな声だ。

「ぼくだよ」

「クロン? 出発の時間はまだじゃなかった?」

 驚愕を含んだ声で訊ねながら、彼女は戸を開ける。

「母さんが朝食を作ってるんだ。キミを呼びたいんだって」

「……わぁ、嬉しい! 何年ぶりかしら。直ぐに行くから、先に行ってて」

 リーエにも、その意図は伝わったようだ。

 クロンが直ぐに家に駆け戻ると、シラは汗だくになりながら、出来たばかりの料理を皿に盛りつけていた。

「……母さん、大丈夫?」

 心配するクロンに、シラは笑ってみせた。

「ええ。今日は平気よ」

「皿はぼくが運ぶね」

 おかずは三品。山菜の油炒めと、豆とキノコのハチミツ和え、そして、三種の卵の玉子焼きだった。

「おじゃましまーす……わあ、いい香り!」

 並べ終えたところで、耳と鼻をひくつかせたリーエがやってきた。

 シラは用意した三つの皿にそれぞれ焼いたばかりの米餅を三つずつ並べた。

「さあ、二人とも召し上がってちょうだい」

 クロンとリーエはいただきますを言ってから、餅を一口サイズに千切り、そこにまずは山菜炒めをたんまりと乗せて口に放り込んだ。山菜のシャキシャキとした歯ごたえに、目覚めに良い香草のピリッとした辛さが突き抜ける。二人とも、この料理は大好物の一つだった。

 和え物は直接、小鉢から匙で掬って食べる。豆も茸も柔らかい食材だが、新鮮だけにコリコリとした歯ごたえがたまらなく美味しい。

 玉子焼きは三層仕掛けになっていて、砂糖を混ぜた白卵の甘さと、塩漬け卵の塩辛さ、黒卵の苦みが同時に口一杯に広がった。どれも片方だけ食べるのは苦痛なぐらい偏った味なのだが、三つを同時に食べると味は均等になり、全ての良さが活かされる。

 もぐもぐ、と一口一口を大切に味わいながら食べていると、クロンは突然思い当たった。

「料理が三つ、使う卵も三つ、餅も三つずつ……。母さん、これって……」

「よく気がついたわね。三という数字は、とても縁起がいいのよ。均衡の象徴だから、万事上手く行くように……とね」

 しかし、三が付くのはこれだけじゃないということを、クロンもリーエも感付いていた。

 ――それは、家族の人数だ。

 リーエは心の中で気遣いに感謝しながら、この味を絶対に忘れまいと心に誓った。

「ご馳走様でした」

「おばさま、最高に美味しかったわ」

 二人が手を合わせ、食の完了を告げると、まだゆっくりと食べているシラは満足そうに微笑んだ。

「じゃあ……今度こそ行ってくるね」

 クロンは荷物を再び背負い、シラと軽く抱擁を交わした。料理の温もりで満たされたせいか、昨夜のように泣いたりはしなかった。

「行ってらっしゃい、クロン。……ほら、リーエちゃんも」

「おばさま……」

 同じように、リーエも抱擁を交わす。

「クロンをお願いね。……クロンも、リーエちゃんを頼んだわよ」

「はい!」「うん!」

 二人は同時に明るい返事で返すと、開いた玄関の戸から僅かに光射す外に向け、第一歩を踏み出した。

「行ってきます!」

 クロンが最後にそう告げると、シラはやり遂げたような安らかな微笑みのまま、何も言わず、ただ、軽く手を振った。

 木製の戸が軋んだ音を立てて閉じられる。以降、母の様子は窺い知れない。後ろ髪を引かれる想いだったが、クロンは唇をきゅっと結んで前を向き、先導で吊り橋を渡った。その後ろを、いつもの調子に戻ったリーエが付いていく。

 監視塔の傍に来た時、鎮かな森の方から盛大に木の葉を撒き散らす音が聞こえてきた。役人の馬車だった。

「ちょうど来たみたいだ。……行くよ、リーエ」

「ええ!」

 クロンは監視塔の足場を蹴って宙に舞い、根渡りで馬車の付近まで移動した。

 リーエも負けない機敏さで次々と根渡りをし、クロンの後を追う。

 二人は馬車の脇に落下し、広大な落ち葉の海に沈み込んだ。

「おはよう、諸君」

 昨日の役人が手を差し伸べ、今度は紳士的に二人を引っ張り上げた。

 クロンは警戒しながらも礼を述べ、板履きで落ち葉の上に立った。

「その様子だと、二人とも都行きを決めたようだな」

「まあね」

「それは結構。見送りがなかったところを見ると、挨拶がまだだろう。それぐらいは待ってあげるから、行ってきてはどうかね?」

「いや、その必要はないぞ!」

 背後から掛かった声にクロン達が驚いて振り返ると、村長のガブルや、ゼッキを初めとする森林警備隊の十三名全員と、僅かではあるが、各家庭に残った村民が一斉に家の戸を開け、次々と吊り橋や浮橋の前に並んだ。

「みんな……!」

 クロンは胸が熱くなる想いだった。

 それもそうだ。村を裏切るような形で都へ行くというのに、わざわざクロン達を見送りにやって来たのだから。

 クロンは浮橋に近付くと、村長と手を取り合った。

「あの、ガブルじいさん……ぼく――!」

 ガブルは、言いかけたクロンの唇にそっと人指し指を乗せた。

「クロンや。自分の選んだ道を信じなさい。わしから言えるのはそれだけじゃ」

 そこへ、ゼッキが大きな手でクロンの肩を強く叩いた。クロンは軽くよろめいたが、何とか踏み止まる。

「村長の言う通りだ。後のことは俺らに任せればいい。良ければ、シラさんのことも引き受けようじゃないか」

「ありがとう……頼みます、ゼッキさん」

「おうよ」

 クロエもリーエも、残る面々と別れを告げ、馬車の傍まで戻った。

「いってらっしゃい!」

 皆が贈るその言葉は、クロン達の背を押し、苦難へ立ち向かう勇気へと転化された。

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