9. 二〇三九年六月八日 一三時五五分

渋谷区神宮前四丁目 ジェネラル・ナノ・インデックス社

四階 情報技術開発部


 ハンマーが落ちると当時にプライマーが爆発し、薬室内の推進剤に火が入る。

 爆発的に燃焼する推進剤に押されて銃弾が薬室からバレルへと前進し、増大する圧力に銃弾が急激に加速する。轟音と共に直径二十ミリ近い巨大なサーモバリック弾が亜音速で銃口を蹴り飛ばす。

 重い銃弾は二次推進剤を瞬かせながら音速の二倍近い速度にまで加速すると、衝撃波をその身に纏いながら無力なマレスに襲いかかった。

 銃弾がマレスの胸元に吸い込まれ、即時に気化、爆発する。タングステンカーバイドの重い粉末を含んだ複合爆鳴気の爆轟がマレスの目の前で白熱する。

 巨大なサーモバリック弾の直撃を受けたマレスは、身体をくの字に折り曲げながら後方に吹き飛ばされた。

 背後の壁面に叩きつけられ、ものも言わずに崩折れる。

 がくりと俯いたその身体は、やがて横向きに倒れていった。

 倒した。

 七〇口径のサーモバリック弾の直撃を受けて無傷でいられるのはサイボーグくらいのものだろう。

 生身の人間だったら確実に即死する。

 だが、満足感はなかった。

 言いようのない違和感と耐えられない不快感。

 今まで味わったことのない喪失感。

 涼子が死んだ時とも異なる、底無し沼のような絶望感。

 泥沼の中で、分裂した自分が快哉を叫ぶ。

 だが、これは与えられた感覚だ。

 人工的な歓喜、喜び。

 喜ぶ自分の隣で、もう一人の自分が絶望に沈み込む。

 俺は、マレスを殺してしまった。

 俺の仲間を、俺の孤独を埋めてくれるかも知れない人を殺してしまった。

 俺が愛する人を、俺は再び殺してしまった。

 真っ黒な絶望感と、人工的な歓喜が交錯する。

 マレスはぴくりとも動かない。


 黒い絶望に囚われながら、壁に叩きつけられたマレスを見つめる。

「……く、うゥ」

 その時、マレスは微かに身じろぎすると、やがてよろよろと頭をもたげた。

「か、和彦さん、なんで……」

 起き上がったマレスのブラウスには大穴があき、丸く黒く焼け焦げていた。

 大きく開いたその穴から、ベージュ色のボディアーマーが覗いている。

 これは、いつぞや俺が与えたリキッドアーマー入りのボディアーマーだ。

 対物ライフルですら一発であれば止めるという、技術研究本部のボディアーマーがマレスの命を救ってくれたのだ。


 生きていた。

 生きていてくれた。


「マレス、無事か?」

 そのとき、俺はレディ・グレイのナノマシンの呪縛の外にいた。

「……うん。でも、どうして」

 マレスが助けを求めるかのように右手を伸ばす。

「ダメだ、俺に触るな」

 俺は鋭くマレスに言った。

「どうやら、今俺はレディ・グレイの支配下にあるらしい。……マレス、俺を無力化しろ」

 マレスの瞳が大きく見開かれる。

「それ以外に俺がマレスを護る手段がない。マレス、俺を撃て。このままだと、俺がマレスを殺してしまう」

 言っているそばから再び脅迫観念が這い上がってくる。

「急げマレス。銃を取れ」

 額が痺れる。

 まるで悪い酒にでも酔ったかのようだ。

「腹でも胸でも、頭でもどこでもいい。俺を撃て」

「え? え? 何を言っているの?」

 混乱したマレスが瞳を大きく見開いて俺を凝視する。

「和彦さん、何を言っているの?」

『和彦、待ちなさい』

 下からクレアが話しかけてくる。

『何がどうなっているのか説明しなさい』

「クレア、どうやら記憶を改竄されたようだ。俺は、マレスが敵だと思い込んでいる。強烈な脅迫観念も仕込まれている。このままだと、俺がマレスを撃ってしまう」

『でも今は違うじゃないですか』

「時間の問題だ。またすぐにダメになる。意識を持っていかれる感覚がある」

 上半身だけを起こしたマレスが絶望した表情で俺を見つめている。

「マレス、上官命令だ。俺を撃て」

 再び強く俺はマレスに命令した。

 命令という言葉に反応し、マレスがよろよろと立ち上がる。

 おぼつかない手つきでXMP34を俺に向ける。

 だが、とても射撃できる状態にはない。

 上半身が泳ぎ、銃口は一向に正面を向かない。

「無理、ムリだよ」

 マレスが構えたMXP34の銃口がブルブルと震える。

「和彦さん、何を言っているのかわからないよ」

 マレスの顔は蒼白だ。

「無理だよ、撃てないよ」

 銃口が揺れる。

「マレス、理解しろ。俺はナノマシンを打たれたんだ。記憶を改竄されている。俺は、もう前の俺じゃない。俺を殺せ」

「いやだよ、そんなの」

「いいから早く撃て。そうでもしないと俺がマレスを殺してしまう」

 マレスが信じられないかのように俺を見つめる。

「マレス!」

「だって、そんなの判らないよ」

 マレスが銃口を俺に向ける。

 だが、銃口はすぐに俺から逸れる。

「ダメ、だよ」

 マレスの腕が震えている。

「撃てマレスッ」

 強く言っても、マレスはトリガーを引かない。

 俺は作戦を変えると、優しくマレスに言った。

「なあ、マレス、お前は生きろ。レディ・グレイを殺すのがマレスの復讐なんだろう。レディ・グレイを追え。俺がいなくてもお前にはクレアがいる。マレスは大丈夫だ。だから撃て」

『なにをバカなことを言っているんです。和彦、止めなさい』

 下からクレアが割り込んでくる。

 俺はクレアを無視すると言葉を続けた。

「俺がいなくてもマレスなら大丈夫だ。クレア姉さまがマレスを護ってくれる」

「でも……でも、和彦さんを撃つなんて、そんなの出来ない」

 マレスはXMP34の銃口を下に降ろした。

「ダメだよ……撃てないよ。そんなの、無理だよ」

「マレス!」

「無理、無理だよ、和彦さんを撃つなんて……そんなの出来ない」

 俯いたマレスが呟くように言う。

 救いを求めるかのように涙を流しながら、上目遣いに俺を見つめる。

「クソ、しくじった」

 今、この瞬間しかないのに。

 正気が戻ったこの瞬間を掴まなければ、俺はマレスを殺してしまう。

「クソッ」

 俺は手にしたベレッタを逆手に持ち替えると、銃口を自分の腹に向けた。

 もはやマレスを生かすためには、マレスを殺さないためには俺自身を行動不能に陥らせる以外に方法はない。

「えッ?」

 マレスが両目を見開く。

『待ちなさい、和彦。今方法を探しています』

 銃口が俺に向かったことに気づき、再び地下からクレアが俺に呼びかける。

「時間がないんだ、クレア。タイムアップだ」

 俺はクレアに言った。

『和彦、待ちなさい。短気はよして』

「いや、無理だ。これに対抗できる自信がない」

 マレスに微笑んで見せる。

「なあ、マレス。必ずレディ・グレイを倒せ」

『和彦、止めなさい、ダメッ』

「わッ! 和彦さん、だめーッ」

 俺の意図を汲み取ったのか、手にしたXMP34をかなぐり捨て、マレスが驚愕した表情で駆けてくる。

 本当の俺はもう一度微笑むと、親指でトリガーを引いた。


+ + +


 気がつくと、俺は唇を柔らかなもので塞がれていた。

 暖かく、柔らかな身体が俺に密着している。

 甘い、花のような香りが全身を包む。

 ベレッタを握った左手は、マレスの手で頭上に向けられていた。

 マレスは伸び上がりながら俺の頬に片手を添えると、再び唇を優しく俺の唇に重ねた。

 掲げた左腕から力が抜ける。

 俺の左手に握られたベレッタがだらりと垂れ下がる。

「だめ、和彦さんは死んではだめなの」

 マレスが両腕できつく首にしがみつき、俺の頭を引き寄せる。

「和彦さんがいなくなっちゃうなんて、そんなのダメだもん。わたしを生かして和彦さんが死んじゃうなんてそんなのダメ」

 マレスは俺の首から手を離すと、両手で必死に俺に抱きついた。

「そんなのダメ」

 きつく抱きしめたまま、下から俺を見上げる。

 身体が動かない。

 腕ごと俺を抱きしめるマレスの力は思いのほか強かった。

「あのね、和彦さんはまたどっかに行っちゃってるかもだからわたしが勝手に話すね」

 再び、もう一人の俺がマレスを殺せと俺に囁く。

 だが、マレスの声が俺をこの場に繋ぎ止めた。

「あのね、和彦さん、わたしね、宙君が死んじゃって、パパもママも死んじゃって、生きてる理由がなくなっちゃったの。それからずうっと復讐に明け暮れて……。あの事件JAL九二〇八便事件があってからずうっと、わたし、楽しいって思ったことなんてなかったの。だからあのね、わたし、いつも思ってたの。気が済むまで戦って、気が済むまで復讐したら、もう死んじゃってもいいかなって。だって生きてる理由がないんだもん。したいことなんて何もないし、だから気が済んだら宙君のところに行っちゃおうかなって、そう思ってたの」

 寂しげな微笑みを浮かべる。

「んーん。なんか、違うな」

 ふいにマレスは俺の体から身を離した。

 ジャケットの袖から肩を抜く。

 ぱさり。

 小さな音を立てて、白いジャケットが床に広がった。

「そう、あのね、たぶん……もうわたしは死んじゃってるんだと思う。うん。わたしね、家族が死んじゃった時に一緒に死んじゃったの」

 次いで彼女は水色のリボンをほどくと、焦げてしまったブラウスのボタンを一つ一つ外し始めた。

 ブラウスが床に落ちる。

「でもね、あのね、和彦さんに会って、一緒にお仕事して、一緒に戦って、そして一緒に笑ったり怒ったりして、久しぶりに楽しいなって思ったの。一緒においしいごはん食べて、いっぱいおしゃべりして、たまに叱られたりもして。……でもそれがとってもとっても嬉しかったの。それまで白黒モノクロだったわたしの世界がまたカラーになった、そんな感じ……まだわたしは生きてる。またわたしは生きてる。だからね、もっともっと生きていたいなって思ったの」

 恥ずかしそうに目を伏せる。

 彼女は肩と脇のジッパーを下ろすと、ブラウスの下に着ていたベージュ色のボディ・アーマーを脱ぎ捨てた。

 輝く様な白い肌と、白くタイトなスポーツブラがあらわになる。

「ちょっと恥ずかしい……けど、これ着てると弾が止まっちゃうから」

 頬を赤くしながら両手で肩を抱く。

「でもね、あのね、わたしの居場所はね、和彦さんの隣だけ。ほかのところには居たくない。それに気がついたとき、わたしね、初めて、やっとわたしの居場所が見つかったって思ったの」

 マレスは下から俺を見つめた。

「あのね、和彦さん、わたしね、この人と一緒に居たいなあ、一緒に生きていたいなあって、本当にそう思えたの。和彦さんと一緒にいると楽しいな、もっとずうっとずっと一緒にいたいなあって」

 目の前で大きく両手を広げる。

「だからね、だからわたしのために和彦さんが死んじゃうなんて、そんなのだめ。だって……和彦さんがいなくなっちゃったら、わたしが生きてる意味もなくなっちゃうんだもん」

 マレスが慈愛に満ちた表情を浮かべる。

「だから、ね、和彦さん? さっきみたいにわたしを撃って。それで和彦さんが助かるんだったら、わたしは平気」

 じっと俺を見つめる。

 ふいにマレスは泣き笑いのような表情を浮かべた。

 大きな瞳が涙で潤む。作られた笑顔が不自然に歪む。

 涙が一筋、頬を伝う。

「でもね、あのね、和彦さん、これだけは覚えてて? 大好き。あのね、和彦さん……とってもとっても大好き。和彦さん大好き」

 涙の浮かんだ瞳でにこりと笑うと、マレスは悟りきったような表情を浮かべた。

「……お願い。それだけは覚えてて」

 身体の芯が熱くなる。

 今まで焦燥に駆られていたのが嘘のようだ。

 まるで船が嵐の目に入ったかのように、唐突に心が落ち着きを取り戻す。

 硬く凝り固まっていた焦燥感が溶けていく。

 薄もやのようだった意識が、晴れていく。

 なんだろう、この感覚は。

 俺は再び訪れた劇的な変化に戸惑っていた。

「ね、和彦さん」

 マレスが両手で俺の手を掴み、銃口をその胸に押し付ける。

 マレスは顔を逸らすと、静かに目をつぶった。

 穏やかな、慈愛に満ちた表情。

「マレス」

 すでに偽の殺意は消えていた。

 代わりに、暖かな感情が流れ込む。

 懐かしい、遥か昔に味わったほのかな感情。

 これは、親愛の情だ。

 あるいは愛情。あるいは恋慕の情。

 俺が自分の心に鍵をかけて、その奥に葬り去ってしまっていた感情。

 浮遊していた俺の心が俺の身体に帰着する。

 俺の心に暖かな気持ちが宿る。

 これは、きっと愛情だ。それも、とてつもなく強い愛情。

「いや……それは困るよ、マレス。お前に死なれる訳にはいかん」

 俺はベレッタをホルスターに戻すと半裸のマレスの細い腰に左手を廻し、優しくその身体を抱き寄せた。

 柔らかな髪に指を通す。

「なあ、マレス? お願いだから自分は死んじゃってるだなんて、そんな悲しいことを言ってくれるな」

 思いがけない言葉が口を伝う。

「お願いだからそんな変なことを言わないでくれ。マレス、ちゃんと生きろ。マレスがいないと困るんだ。マレスがいないのは、とても困る……何より、俺が困る」

 抱きしめる腕に自然と力がこもる。

「マレスに死なれたら、俺が困る。大体、なんのためにボディアーマーを渡したと思っているんだ」

 一瞬、とまどった。

 だが、今言わなければならないような気がした。

 それは愛情? それとも強迫観念?

「だからなマレス? 一緒に生きよう。俺と一緒に」

 俺はもう一度マレスの髪に指を通すと、マレスの柔らかな唇にキスをした。

「あ」

 マレスがハッと息を呑む。

「……和彦さん、なの?」

 驚いたように自分の唇に右手をやる。

 大きな瞳を一際大きく見開いたマレスが下からじっと俺を見上げる。

「ああ」

 俺はうなづいて見せた。

「……帰って、来たの?」

「ああ」

「ほんとうに大丈夫、なの?」

「ああ。もう大丈夫だ」

「ほんとうに?」

「ああ」

 マレスの瞳を覗きこむ。

「安心したか?」

「……うん」

 大きな瞳に涙を貯めてマレスが微笑む。

「理由は判らないけどな。だが、いつおかしくなるか判らない。とっとと片付けよう」

 マレスの頭を抱えて眉のあいだにキスをすると、俺はマレスに微笑んで見せた。

「さあマレス、今のうちにレディ・グレイをぶち殺すぞ」

 大きな瞳に大粒の瞳が浮かぶ。

「は、はいッ」

 マレスは片手で涙を拭うと再び俺に抱きついた。


 ジャケットを羽織ったマレスに肩を借りながら非常口を伝って地上に降りるのとほぼ同時に、クレアが駐車場から回してきた濃紺のスケルツォが目の前に滑り込んできた。

 俺たちの姿を認めるなり、スケルツォの後席からクレアが飛び出してくる。

「ああもう、和彦、和彦、もうこれ以上私に心配させないでッ」

 襟首を掴んで俺を引き寄せ、逆手で首筋に細い銀色の棒状の物を押し付ける。

 バシュッ。

 なにかが首筋に打ち込まれる。

 無針注射器だ。

「今のは強心剤です。あと二本打ちます。次は解毒剤」

 使い終わった注射器を肩ごしに放り捨てながら次の注射器を取り出す。

 バシュンッ。

「抗生剤を打ちます。効くかどうか判らないけど、菌がベースになってるナノマシンなら少しは殺せるかも知れない」

 バシュンッ。

「マレス、あなたは大丈夫?」

 注射を打ちながら背後のマレスに声をかける。

「わたしは大丈夫です、クレア姉さま。肋骨が何本か折れちゃったっぽいけど」

「平気じゃないじゃない。待ちなさい、いま応急処置するから……和彦、これをはめて」

 乱暴に俺の右手首を取ると、クレアはそこに黒いベルトのようなものを巻きつけた。

「トランスミッターです。今から和彦のバイタルモニターにアクセスします。いいですね?」

 俺たち国連監察宇宙軍の兵士は全員、身体状態を司令部に通知するためのバイタルモニターを胸にインプラントされていた。存在そのものを忘れていたが、今更そんなものが活躍するとは夢にも思わなかった。

「血圧百二十一、心拍五十四、体温三十五.四、有害な化学物質の検出なし。いまのところは大丈夫」

 マレスの細い腰にコルセットを巻きつけながら、クレアが空中のリードアウトをチェックする。

「和彦、あなたのバイタルモニターへのフルアクセスが必要です。承認しなさい」

 首だけで振り向いたクレアは俺に言った。

 これでは単なる命令だ。

「ああ、承認する」

 俺はクレアに言った。

「フルアクセス、承認されました。和彦、あなたのバイタルモニターは今から私の管理下にあります。万が一の場合には私があなたを失神させます。いいですね?」

 相変わらずクレアの口調は怒っていた。

「了解」

「だからもう絶対に勝手に自殺なんてしないで。自殺は私が許しません。マレス、あなたもですよ」

 クレアはマレスの腰に巻いたコルセットをチェックするとこちらを向いた。

「さあ二人とも、病院に行きますよ。三宿の自衛隊中央病院のベッドを二つ、いま空けました」

 腰に両手をあて、まるで小学校の女教師のように俺を睨みつける。

「いやクレア、駄目だ。レディ・グレイを追う」

 俺は反駁した。

「無理です、和彦。日を改めましょう」

「ダメだ。今追わなければ逃げられる」

 俺はクレアに言った。

「ダメです、和彦。あなたをそのまま放っておくわけにはいきません」

 クレアが再び俺を睨む。

 本気で怒っている。

 こんなに怒ったクレアを見たのは初めてだった。

 クレアは俺の上着の襟首を両手で掴むと、俺の顔を自分の方へと引き寄せた。

「和彦。病院に行きましょう。あなたの身体の中で何が起こっているのか私にも判らないんです。あまりに危険です、和彦。あなたを死なせるわけには行きません」

 俺の身体保護はクレアの優先命令の中でもかなり上位にある。

 だが、彼女の様子はそれを遥かに超えていた。

 クレアが俺の身体にしがみつく。

「……和彦、お願いです。これ以上は、許容できません」

「クレア……」

 俺はクレアの両肩に両手を置くと、彼女の身体を引き剥がした。

「……頼むよ、クレア」

「和彦」

 クレアがすがるような目で俺を見つめる。

「クレア、頼むよ。これ以上抵抗されたら俺は命令権を行使する。頼む、俺に命令させないでくれ」

 俺にはクレアに対する命令権がある。

 だが、俺はクレアに命令したことは今まで一度もなかった。

 それだけは絶対にしたくなかった。

 俺の言葉に目が泳ぐ。時折クレアがマレスの様子を伺う。

 しばらく逡巡した後、ようやくクレアは肩を落とした。

「仕方がない人ですね、本当に」

 わざとらしく嘆息する。

「でも運転はダメですよ。いつ失神するかわからないんですから」

「マレス、車の運転はできるか?」

 俺はマレスに尋ねた。

「大丈夫。免許はないけど、運転はできます」

「よし。クレア、マレスのドライブアシストを頼む。レディ・グレイの位置は掌握しているか?」

「はい。いま、レディ・グレイは私たちから五キロほど北に離れた地点を走行中です。首都高から関越道に抜けるつもりのようです。おそらく目的地は新潟港かその周辺です」

「関東圏を抜ける前に捕捉するぞ」

「今から警視庁の首都交通管制システムに侵入します。一秒待って下さい」

 言う間にも、目の前の信号がすべて緑に変わる。

 どこかと交信しているクレアを背後に、マレスはスケルツォのコクピットに滑り込んだ。

 ニュートラルレンジのまま、スロットルを軽く踏み込む。

 猛烈な轟音。

 耳をつんざくジェットサウンドが周囲を満たす。二基のマイクロガスタービンエンジンが咆吼し、爆音のようなエンジン音がビル街に反響する。

 これはドラゴンの咆哮だ。

「うわ、この子凄いパワー」

 正面を走る二本の出力メーターを見ながらマレスが歓声を上げる。

 可変エアインテークのフィンが動き、轟音を立ててガスタービンエンジンが空気を吸う。

「システム掌握。いつでも行けます」

 交信を終えたクレアがリアシートに座る。

 クレアがオペレーター席に収まったのを見てから、俺は助手席に座ってドアを閉めた。

「よし。行け、マレス。レディ・グレイを追え」

「はいッ」

 スロットルを床まで踏み込んだマレスに応え、スケルツォは激しくサイドワインダーしながら白煙と共に猛然とダッシュを始めた。


+ + +


 マレスの駆るスケルツォはテールを振りながら連なる車列を掻き分けると、一気に先頭に踊り出た。

 瞬時に車間を詰め、次の集団をかわそうとスケルツォの車体を左右に振る。

 アリの絵の描かれた小さな軽トラックが目の前をとろとろと走っている。遅いのだが、どうやら道を譲るつもりはないらしい。

「どいてー」

 マレスが狂ったようにクラクションを鳴らす。

「もう、邪魔だなー、どいてよう。撃っちゃうよ?」

 マレスが左手で俺の足元のバッグを探る。

「マレス、パトランプを出せ。ステアリングの左親指のボタンだ」

 ここで乱射されてはかなわない。

「わかった」

 前を向いたままマレスが親指のボタンを押す。後方に瞬く赤い光に、ようやく混乱した車列が左右に割れる。

「やった! 開いたッ!」

 マレスはスケルツォをセンターラインに乗せると、音を立ててスロットルを踏み込んだ。

 すかさず蛇のように踊りだしたスケルツォの車体を押さえつけ、まだ見えないレディ・グレイの後を追う。

 見る間に車速は百キロを超えた。

 クレアが道路閉鎖してくれているおかげで、前を走る車の数が徐々に減っていく。

 目の前の信号が常に緑ならもはやこれは高速道路だ。マレスは車の挙動さえ気にしていればいい。

「レディ・グレイの前で事故を起こします」

 後席からクレアが不穏なことを言う。

「軽自動車が交差点に入りました。今信号を開ければトラックが軽自動車に衝突します……あ、かわされました……残念、コリジョン・コントロールが搭載されているようです……信号を赤に戻します」

「早くしないと。和彦さんが倒れちゃう」

 気が焦るのか、マレスがスロットルを大きく開く。再び暴れだしたスケルツォの後輪をステアリング操作で無理やりねじ伏せる。

 スケルツォの速度が二百キロを超えた。

 走行速度が時速二百キロを超えると視界は両腕で作った円ほどの小さな窓になる。普通の神経なら怖くてとてもじゃないがスロットルを開けられない。市街地で二百キロオーバーは明らかに常軌を逸している。

 だが、どうやらマレスはスケルツォの化け物じみたパワーにも慣れてきたようだった。

 ステアリングを細かく操作し、時折パドルシフターを操作して高出力を維持しながら絶妙なスロットルワークで猛り狂うスケルツォをなだめすかしている。

 クレアが閉鎖した246を走り抜け、濃紺のスケルツォが白煙を噴きながら神泉町の角で山手通りへと合流する。

「和彦さん、大丈夫? 苦しくない?」

 マレスが俺を気にしてこちらを向く。

「大丈夫だ。それよりちゃんと前を向いて運転しろ」

 ジェットフューエルインジェクターがマイクロガスタービンエンジンに燃料を供給し、爆発的な電力を超伝導モーターに流し込む。燃え尽きたジェット燃料が白熱する排気となってディフューザーに吹き込まれ、青い焔がドラゴンの吐く爆炎のように長く伸びる。

 最高性能に達した時のみ発生する、これが悪名高いスケルツォの『ドラゴンブレス』だ。

「クレア姉さま、次どっち?」

「マレス、右のランプから首都高に乗って」

「了解」

 濃紺のスケルツォが横滑りしながら首都高の富ヶ谷ランプへと向かう。

 減速が間に合わずマレスはETCのゲートを粉砕しながら首都高に乗った。

「壊しちゃった」

「かまわん。行け、マレス」

「はいッ!」

 轟音とともに両側面の可変エアインテークから大量の空気が供給され、八基の超伝導モーターと二基のマイクロガスタービンエンジンが高周波の諧謔曲スケルツォを絶叫する。

 強烈な加速に目眩がする。

「和彦、体温が上がってきましたね。三十七.九度。大丈夫ですか」

「大丈夫だ。クレア、レディ・グレイはどこにいる?」

 俺は青いネクタイをかなぐり捨てると胸元のボタンを開けた。

 背筋に嫌な感覚がある。寒気が徐々に迫ってくる。

 渦巻き状に伸びた地下の路肩を疾走するスケルツォのジェットサウンドが薄暗いトンネルに残響する。

 レディ・グレイは来た時と同じ白いクラウンに乗っていた。

 クレアは駐車場出口の防犯カメラからレディ・グレイの車種とナンバーを特定すると、掌握したNシステムを使って追跡を続けている。

 いまや全てのNシステムがクレアの目だ。幹線道路を走っている限りクレアから逃れるすべはない。

「ランプ閉鎖が間に合わなくて板橋から首都高に乗られました。現在レディ・グレイは私たちの四キロ先を時速百八十キロで走行中です。でもこのペースで追撃すれば藤岡の手前で捕捉できます」

 無限遠に結像するヘッドアップディスプレイの速度表示は二百三十キロのあたりをふらついている。

「もっと飛ばす? でも、そろそろ限界かも。車が多くって」

 助手席と運転席との間に備えられた統合戦況ディスプレイの上でレディ・グレイの車が赤く点滅している。

 レディ・グレイの車は美女木を抜け、関越道に差しかかるところだ。

 俺はディスプレイを操作して関越道をチェックした。

「クレア、大泉から川越のあいだに無人路面清掃車両ドローンの基地はないか?」

「あります。大泉に一箇所、所沢にも大きいものが一つ」

「乗っ取れるか?」

「問題ありません、侵入します。でも、何をするつもりなんです?」

 それには答えず、俺はクレアに指示を続けた。

「基地を乗っ取ったら全機ドローンを発進させるんだ。こいつらで車線封鎖後、レディ・グレイを挟撃する」

「渋滞しちゃわない?」

 ステアリングを操作しながらマレスが言う。

「かまわん。クレア、新座で事故表示。少しでも車を減らすんだ。VICS2から強制迂回指示を発信しろ」

 これでオートパイロットされている車は強制的に関越道を降りて違うルートを探索し始める。事故表示が出ていればマニュアル走行している一般車両も関越道を降りるだろう。

「ランプ閉鎖。これ以上関越道に車を入れるな」

「はい……ランプ閉鎖、完了Done……ドローン掌握……首都交通管制システムに欺瞞情報送信開始……事故情報展開開始……」

 キーボードの上をクレアの両手が忙しく走り回る。

「レディ・グレイ、予定位置を通過します。ドローン射出」

 所沢と大泉のドローン基地から無人の路面清掃車両が吐き出される。

 まるで氷の上を滑るかのように、画面に黄色い輝点が十二個ほど現れた。レディ・グレイの前に八台、後ろに四台。

「所沢のドローンで車線封鎖。一般車両を逃がしながらレディ・グレイの車をブロックしろ。車速設定は六十」

「はい」

「ドローンの最高速度は何キロだ?」

 俺はクレアに尋ねた。

「百二十までは行けるようです」

「よし、大泉のドローンは最高速度で追撃。取り囲め」

「了解」

 それまで漫然と走っていたドローンの動作が明らかに有機的な動きに変わった。

 前を走る所沢基地のドローンが傘状に展開する。

 左側の一車線を残し、ドローンが路面をブロックする。

 大きく開いたドローンの傘がゆっくりと前方からレディ・グレイに襲いかかる。遥か後方から一直線に並んだ四台のドローンがレディ・グレイの車めがけて突進する。

「会敵まであと三分。マレス、がんばって」

「うん。頑張る」

 マレスはさらにスロットルを踏み込んだ。


+ + +


 甲高いジェットサウンドを轟かせ、青い爆炎を吐く濃紺のスケルツォが高島平のゆるいカーブを駆け抜ける。美女木のジャンクションで白煙を引きながら盛大にドリフト、外環道に乗り換え、大泉ジャンクションのループを横滑りしながら関越道に合流する。

 広い関越道で再び増速。

 ヘッドアップディスプレイの速度表示が二百七十を超える。

 猛烈なジェットサウンドが狭い車内に充満する。

 マレスは所沢を超えたところでついにレディ・グレイを捕捉した。

「見えた!! 追いついたッ」

 マレスが歓声をあげる。

 道路清掃を行う黄色いドローンに囲まれながら、時速六十キロでのろのろと走行しているレディ・グレイの車が地平線の彼方に小さく見える。

 追い抜こうにもクレアが操作するドローンに阻まれ前に出られないのだ。

「潰せ」

 俺はクレアに言った。

「え?」

 驚いたようにクレアが俺の顔を見る。

 俺はクレアへの指示を重ねた。

「ドローンをぶつけろ。押し潰せ」

「は、はい」

 クレアの操作に答え、遥か前方に見えるかたつむりのような形をした黄色いドローンが徐々に幅を寄せていく。

 黄色い回転灯を閃かせながら、二台のドローンが後ろに下がろうとするレディ・グレイを押し戻す。

 と、突然、クラウンは減速すると二台のドローンを危うくかわした。

 ドローンも途中で接近を停止し、まるで磁石の反発のように再びクラウンから離れていく。

「クレア、コリジョン・コントロールが生きている。ドローンのシステムをオーバーライド。コリジョン・コントロールを強制停止」

「了解」

「この周辺の携帯電話基地局を緊急停止。クラウンを圏外に落とせ。ドローンはVICS2に制御移行」

 携帯電話網が止まっても、スケルツォのタクティカルリンクに問題はない。

 だが、市販車はどうだ?

「了解」

 クレアの両手が二枚のキーボードとトラックボールの上を走り回る。

「よし、行け。もう一回だ」

「はい……四秒後に衝突…………二、一、今」

 加速しながら四台のドローンがクラウンに体当たりする。

 四方から幅寄せされ、レディ・グレイのセダンがギシギシと潰れていく。

「マレス、あの後ろにつけられるか?」

「うん」

 マレスが回生ブレーキを効かせながら減速し、左側のドローンの後ろに占位する。

 ドローンに囲まれてセダンのレディ・グレイの姿は見えない。

「クレア、あそこにレディ・グレイあのばばあはちゃんといるんだろうな?」

「はい。マーカーの反応に変わりはありません。あそこにいるのはジェネラル・ナノ・インデックス社の駐車場でマーカーを踏んだ人物と同一です」

「あの車を走行不能にするんだ。破壊しろ」

「はい」

 後ろから白いクラウンを押していたドローンが少し後ろに下がり、代わりに左右のドローンが両側から情け容赦のない体当たりを始めた。

 ドローンがクラウンに当たるたび、猛烈な衝突音が聞こえてくる。白い車体から火花が散る。クラウンの側面が無残に歪み、長々と深い傷跡が刻まれる。無数についた傷からアルミの地肌が鈍く光る。

 と、突然、クラウンの後端からバンパーが千切れ落ちた。

 大きなバンパーが弾みながらこちらに向かって転がってくる。

「わあっ」

 マレスはステアリングを操作して素早くスケルツォを左にスライドさせると、転がってきたリアバンパーを際どくかわした。

 再び、三台のドローンが一斉にクラウンに体当りへと向かう。

 遠い衝突音と共にクラウンのリアウィンドウが白く曇る。露出した後輪がドローンに接触し、クラウンが再びバランスを崩す。

 強烈な右からの体当たりに一瞬クラウンのトラクションが抜け、大きな車体が大きく滑る。

「もう一発」

 クレアが低く呟く。

 路肩に乗り上げ、俺たちの後ろから回り込んできた二台のドローンが猛スピードで左側面から体当りに向かった。

 背後から高速で接近する二台のドローンが仲間の作った回廊を駆け抜ける。

 モーター音が更に高まり、黄色いドローンは最高速でクラウンに激突した。

 猛烈な破壊音。さらにもう一台。

 ついにクラウンのフロントストラットが音を上げた。左前輪のサスペンションが抜け、ガクンとクラウンが擱座かくざする。

 そのままスピンに陥ると、クラウンは火花を飛ばしながら路側帯へと滑っていった。


+ + +


「チェックメイトだ、レディ・グレイ」

 俺たちが着いたとき、まだレディ・グレイは失神していた。

 雑草が生い茂る路側帯に、初夏の風が吹き抜ける。

 微かな風切り音を立てながら、背後を乗用車やトラックが静かに駆け抜けていく。

 ベレッタを抜き、俺は銃口をレディ・グレイに突きつけた。

「あは、坊や、強いね」

 レディ・グレイがぼんやりと瞳を開いた。血のついたエアバッグの隙間から俺を見つめる。

「それにしても、なんで私のナノマシンが効かなかったかねえ。不思議だよ、まだバカタレだね、あの子達は」

「いや、あれは効いた。だが」

 俺は親指で後ろにいるマレスを示した。

「彼女が治してくれたんだ。どうやったんだか判らないけどな」

「へえ、そりゃあいい研究テーマだね。あはは、面白い研究ができそうだ」

 背後から近づいてきたマレスが黙って俺の右手を握る。

「……ああ、なるほどねえ」

 それを見たレディ・グレイは一人頷いた。

「私はあの子達に坊やの『同僚』の霧崎マレスを殺すようにプログラムしたんだよ。そりゃ、『恋人』じゃあ効かんわなあ。そりゃあ、さすがに塗りつぶせない」

 レディ・グレイは妙に晴ればれとした表情で嘆息した。

「まあ、そういうこともあるわな。でも、悪くないよ、沢渡ちゃん。こんな終わりも悪くない」

 レディ・グレイは再び目を閉じた。

「それにしてもまさかお掃除ロボットを使うとは思わなかったよ……私の負けだね」

 気になっていることがまだひとつだけあった。

 ベレッタの銃口を向けたまま、レディ・グレイに尋ねる。

「あんた、自分のバックアップを取ってたりはしていないだろうな? まさかあんた、もうひとりがいるなんてことはないよな」

「何をバカなことを」

 目をつぶったまま、レディ・グレイが苦笑を漏らす。

「例え人格をコピーしたところで、やっぱり他人は他人なんだ。仮に私の人格を誰かにコピーしたところで、それは単なる知識に過ぎないんだよ沢渡ちゃん。その誰かは私にはならないし、たとえ私が誰かになりたくたって、それは絶対に無理なのさ。最初に『彼女先代』の全生活史を私にコピーした時に思い知ったよ」

「それを聞いて安心したよ」

 俺はレディ・グレイに言った。

「あんたの言うことだ。信じるよ」

 レディ・グレイは嘘をつかないだろうという妙な確信があった。

 彼女は研究者だ。研究者は自分の研究を裏切るようなことはしない。

 面倒くさげに目を開いたレディ・グレイはしばらく黙って俺を見つめていたが、やがて、

「フッ」

 と笑みを漏らすと目を閉じた。

 ため息を漏らしながら細い身体をシートに委ねる。

「人の良いこった。どうやら長生きはできなそうだねえ」

「……さて、あんたをここで殺すのは実に簡単なんだが」

 背後のマレスに尋ねる。

「マレス、どうする? マレスが自分で殺るか? 最後の一人なんだろう?」

 マレスは俯いたままだ。

 黙って足元を見つめている。

 俺の手を握るマレスの力が強くなる。

「……いいえ」

 やがてマレスは顔を上げると、寂しそうな笑みを浮かべながら静かに首を横に振った。

「殺しても仕方がありません。だってもうわたしの家族は戻ってこないもの。この人を殺しても宙君は戻ってこない。逮捕しましょう。お仕事ですもの」

「そうだな……」

 俺はマレスの言葉にうなづいた。

「マレス、よく我慢したな」

 俺はベレッタを右腰のホルスターに戻した。

 左腕でマレスを抱き寄せ、柔らかい髪を撫でる。

 マレスは俺の腕の中に顔を埋めると、静かに嗚咽し始めた。

「ウ、フッ……」

 マレスがくぐもった嗚咽を漏らす。

 やがてその鳴き声はまるで血を吐くような鳴き声に変わった。

「ウ、ウウーッ、ウワーッ」

 殺意もない、害意もない。ただ、目的のためだけに実行されたテロ事件。

 マレスにそれを受け止めろと言うのが無茶だろう。

 だが……。

 何をしたらいいのか分からず、俺はいつまでもマレスの髪を優しく撫で続けた。


+ + +


「あと五分で来るそうです。入間基地の警務隊を呼びました」

 交信を終えたクレアが俺たちに告げる。

「判った」

 マレスが落ち着くのを待ってから、俺たちはクラウンから引きずり出したレディ・グレイの頭に黒い袋を被せ、両手を後ろ手にナイロンタイで縛り上げた。

 車載されていた救急キットの簡易ギプスをレディ・グレイの折れた右脛にはめ、後ろ手に縛った両手と左足首を背中側で連結して身動きできないようにする。

「沢渡ちゃん、痛いよ。私は怪我人なんだ。脚は折れてるし、おなかには穴が開いてるんだよ?」

 レディ・グレイが文句を言う。

「クレア、高畠警部殿に連絡しておいてくれ。身柄確保、いずれ渡すと」

 レディ・グレイの苦情を聞き流し、それだけをクレアに告げると俺はその場にべったりと座り込んだ。


+ + +


 身体が、とても怠い。

 マレスの復讐は、これで終わった。

 復讐は虚しい。

 心に残るのは虚無だけだ。

 だが、これでマレスの気持ちに区切りが着いたのなら……

「和彦?」

 遠くの方からクレアの声が聞こえる。

 身体を支えられない。

 俺はそのまま横倒しに倒れてしまった。

 自分の身体が地面を打つ、ドタンッという音が聞こえる。

 目の前の草が風に揺れる。

 視界が急激に狭くなっていく。周囲の色彩が流れ落ち、まるで視界が白黒写真のように色あせていく。

 まだ日があるはずなのに周囲が暗い。

 音が聞こえない。

 焦点の合わない、白黒映画のような横向きの視野の中、クレアとマレスが駆け寄ってくるのがおぼろげに見える。

 そのまま黒く幕が降り、俺の意識はやがて途絶えた。

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