4. 二〇三九年六月一日 一二時三〇分

防衛省市ヶ谷地区 内閣安全保障局本部

地下二十階 特務作戦群管理部


 特務作戦群五課の宮崎課長はその出自も、そしてその外見も特務作戦群の中にあって極めて特異な存在だと言って良い。

 常にグレーのくたびれたスーツを身にまとい、眠そうな目に脂でくすんだ眼鏡をかけたこの男は短躯で、体型も小太りな部類に属するだろう。

 およそ戦闘に適するとは思えない、彼の古びたぬいぐるみのような外見は武闘派の内閣安全保障局の中ではとても目立つ。

 特務作戦群は、悪名高い内閣安全保障局の中でもひときわ攻撃性の高い部隊の一つだ。宮崎課長を良く知らないものが『なんであんな『トトロ』みたいな奴が』と陰口を叩くのも無理はない。

 だが彼の今の地位がその肉体によってではなく、その頭脳によって得られたものであることを俺は知っていた。

 穏やかな外見とは裏腹に、一見眠そうに見える垂れまぶたの向こうには恐ろしく明晰な頭脳と、極めて論理的かつ冷徹な思考回路が隠されていた。

 彼は決して情には流されない。必要であれば、もう会うことはないと知りつつ平気で部下を、あるいは自分自身さえをも死地に送ることのできる酷薄さが彼にはあった。


 装備開発部で装備品を受領したマレスと合流した後、俺たちは宮崎課長にマレスを紹介するため彼の居室を訪れていた。

 ついでに今後の行動計画についても簡単に説明する。

 俺が話しているあいだ、マレスとクレアは一歩下がって俺の後ろにいた。

 一切の装飾を拒絶した、冷たく殺風景な宮崎課長の居室は華やかな女性二人と訪れるにはもっとも適さない場所の一つだろう。

 後ろの二人の様子は俺からは見えない。

 だがどうにも居心地が悪い。

「……まあ、いいでしょう」

 黙って俺の説明を聞いていた宮崎課長は、それまで瞑っていた目を開けると俺に言った。

 硬そうなグレーの髪をきれいに刈り上げた頭を右手のボールペンでガリガリと掻きながら、再び何事か考え込む。

「霧崎君の最初の仕事を何にしたものか少々悩んでいたのですが、これで一つ問題が片付いた。沢渡君、好きなように進めなさい。後ろのゴチャゴチャは私が引き受けます」

 必要な手続きや物資、あるいは連携が必要な場合には自分のほうで手配するから何なりと言いなさいと俺に告げ、

「じゃあよろしく」

 とだけ言うと、宮崎課長は俺たちが入ってきていた時に眺めていたモニターに再び見入った。

 どうやら会見は終わったようだ。

 これも俺が宮崎課長を気に入っている点の一つだ。彼との会話は多くの場合簡潔で、決して議論に発展しない。二、三の質疑がある場合もあるが、大概の場合はいいGO悪いNO GOかがすぐに決まる。

「では、失礼します」

 軽く会釈し課長室を辞去しようと背を向けたとき、

「ああ、クレア君?」

 宮崎課長が後ろから声をかけた。

 宮崎課長はクレアのことを型式名称ではなくパーソナルネームで、そしてクレアに直接話しかける数少ない管理職の一人だ。

「はい、宮崎課長」

 クレアが振り返る。

「前から言おうと思っていたのだが、今度からで良いので警視庁のデータベースに侵入する時には私にも一言あると助かります。最悪は事後でも構いません。後片付けは意外と面倒なんですよ」


+ + +


「宮崎課長は怖い人ですね」

 再び三人で基幹エレベーターに向かう途中、歩きながらマレスは俺に打ち明けた。

「怖い? 宮崎課長がか?」

 意外だったのでそれが思わず口を伝う。

「はい。人と会って恐怖を感じることはめったにないんですけど、不思議です」

 左肩から下がる茶色い皮のトートバッグ──それがエルメスのヴィクトリアカバスなる長い名前のバッグであることを後でクレアが教えてくれた──の中を覗き込みながらゴソゴソやり、取り出したハンカチで両手を拭う。手に汗をかいているところをみると本当に緊張していたらしい。

 マレスは紺色のタオル地のハンカチを丁寧に四角く畳んでバッグにしまうと再び正面を向いて歩き始めた。


「沢渡一尉は宮崎課長に会う時に緊張しないのですか?」

 マレスは俺に尋ねた。

「うーん」

 しばらく考える。

「霧崎君がいうような意味での緊張は、しないな。そりゃ上長だから緊張はするが、それはたぶん意味が違うだろう」

「なるほど」

 マレスは頷いた。

「わたしは正直、宮崎課長が苦手です。どこか全部見透かされてる感じで。あの人の前だとどんなに上手に嘘をついてもきっと見透かされると思います。頭もよさそうだし、感情があるのかどうかも判らないし」

 これには少し驚いた。

 初対面で宮崎課長の本質を見抜ける人物は少ない。皆、見た目に騙されて冴えない凡庸な管理職だと勘違いしてしまうのだ。

 マレスは俺が思っている以上に繊細で敏感なのかも知れない。


 ふと俺は腹が減り始めていることに気づいた。腕の軍用クロノグラフに目を落とすと針はすでに一時に近づこうとしている。

「腹が減ったな」

 俺は振り返ってマレスに言った。

「俺は昼飯に出ようと思うが、君はどうする? 一緒に行くか?」

 言ってしまってから後悔した。

 山口も言ったとおり、俺はいつも地区外に出て一人で食事をとる。人と飯を食う時の世間話やもろもろが面倒だからだ。俺の家にはテレビがないから、昨日のドラマやスポーツの話題を振られても困惑するだけだ。

 それなのに、なぜ俺はマレスをランチに誘ってしまったのだろう。

 マレスはそんな俺の懊悩を気取ったのか、

「よろしいんですか?」

 と遠慮がちに俺に尋ねた。

 碧色の瞳でじっと俺の瞳を覗き込む。

 さすがにいまさら断れない。

「ああ。霧崎君もこの辺のランチスポットは知っておいたほうがいいしな。外の飯の方が旨いぞ」

 俺は無理に平静を装いながらマレスに答えて言った。

「わかりました。ではご一緒させて頂きます」

 マレスが首を縦に振る。

「では行くか」

 俺はマレスの先に立つと、地上へ繋がるエレベーターへと向かった。


+ + +


 固形の食物を必要としないクレアを局舎に残し、心の底では失敗したなと思いつつ俺はマレスを連れて地上に向かった。

 本人によれば、いまだにクレアは人間に関する知識を吸収するのに忙しい、のだそうだ。最近は暇さえあれば精力的にボーカロイドの楽曲の解析を進めている。

 彼女が言うにはボーカロイドの楽曲解析によって人の情動の本質により近づけると云うのだが、その真偽のほどは正直俺には良く判らない。

 少し前までは人工知能が歌う『千本桜』に凝っていたようだが──彼女に言わせると『これこそ時代を超えた名曲』なのだそうだが、俺には何がいいのかさっぱり判らない──、最近は人工知能の楽曲を人間がカバーしている楽曲がお好みの様だ。

 今日は『想い複雑』なる俺の知らない新しい曲を楽しそうに口ずさんでいる。

 脳内再生すればいいものを、わざわざ大きなヘッドフォンを被りビデオを眺めながら歌詞を口ずさむクレアは、俺から見るとただボーカロイドの楽曲が好きなだけのオタクに思える。

 別れ際、妙に嬉しそうだったクレアが気にかかる。常に冷静で、表情の乏しいクレアがあんなに嬉しそうな表情を見せたのは久しぶりのことだ。

 何がそんなに嬉しかったのだろう。まさかボーカロイドの楽曲を一人で楽しむ時間ができたことであれほど嬉しそうな表情を見せることもあるまい。

 途中、地下三階のガンロッカーから武器を取り出し、地上に出る。

「ずいぶんとでかいホルスターだな」

 肩から掛けたトートバッグを見ながら俺はマレスに言った。

「でも、これならグレネードもはいりますからね。街では便利です。それに目立たないし」

「しかし、お願いだから街でグレネードを使わないでくれ。『フラックッ』って叫んだところで誰にも判らん」

「はい。気をつけます」

 素直にマレスがうなずいて見せる。

 それにしても、なぜ俺はマレスをランチに誘ってしまったのだろう。

 答えの出ない疑問を反芻しつつ、俺はマレスを連れて北門を抜けた。

 市ヶ谷地区の敷地を北側の裏門から出て、マンションの立ち並ぶ住宅街を市ヶ谷地区の敷地沿いに東に進むと道はいずれ外堀通りに突き当たる。

 明るい初夏の日差しの中、俺は無言のままマレスと並んで歩くことをどこか楽しんでいる自分に戸惑っていた。

 俺は基本的に一匹狼だ。他人と一緒に行動することはめったにない。

 それなのにマレスは邪魔にはならなかった。

(不思議だ……)

 この感覚は妹の涼子と話している時と同じだった。涼子も無口な方だったが、沈黙が決して不快にならない。

「そういえば、」

 マレスは歩きながら俺の顔を覗き込んだ。

「帝国ホテルで沢渡一尉は発砲しませんでしたね。なぜですか?」

 妙なことを聞く。

「そりゃ、邪魔になったらいかんだろう。援護しようとは思ったが、その必要がなさそうだったからな」

「なるほど」

 納得したように頷く。

「しかし、なんでそんなことを聞く?」

 俺はマレスに尋ねた。

「ほかの人は乱戦になるとむやみに発砲することが多いんです。でもそれが邪魔になることが多くて……」

 マレスは答えて言った。

「でも、あの時はとってもやりやすかったんです。沢渡一尉が撃たないことは見ていて判ったから、自由に動けました」

確かに、銃は構えたがトリガーに指はかけていなかった。そこまで見られていたのか。

「大きな銃を構えていてくれたおかげで牽制にもなったから、とっても楽でした。こんな状況は初めてかも知れません」

「そうかね」

 楽でしたと言われても戸惑いしか感じない。

「こんな言い方はおかしいのかも知れませんが、歯車がピタッてはまった感じでした。本当に不思議です」


 米国大使館が比較的近いこともあって、市ヶ谷にはアメリカ料理の店が多い。

 駅前の商業地域にお目当ての店はあった。

 『ルディーズBBQ』という名前のこの店はテキサススタイルバーベキューの専門店だ。元々はアメリカの店なのだそうだが、最近になって日本でも精力的にチェーン展開している。

 軌道空母アルテミスの厨房長だったメキシコ人のおかげで、この店を知る前から俺はテキサススタイルのバーベキューが好きになっていた。

 アルテミスでは諸般の事情でバーベキューとは言っても大型電子レンジで加熱した牛肉にサラマンダーオーブンで焦げ目をつけたものだったが、地上では思いのまま直火で肉を焼くことができる。しかもスパイスとバーベキューソースはテキサスのルディの店から直送した本物だ。これが旨くない訳がない。

 テキサススタイルバーベキューとはスパイスを擦り込んださまざまな部位、種類の大きな肉の塊を直火で焼き、これを五ミリ程度の薄切りのスライスにして食べるスタイルのバーベキューのことだ。

 ただし食べ方が少々他のバーベキューとは異なり、トーストしていない薄い食パンに肉と調味料を挟んだサンドウィッチにして食べる。調味料はブラックペッパーが良く効いたケチャップベースの特製ソースの他、レリッシュ、ザワークラウト、フレンチスタイルのマスタード、あるいはメキシカンサルサや輪切りにした酢漬けのハラペニョ、果てはペースト状になったアボカドなどさまざまだ。具材も牛の肩肉やバラ肉の他、ポーク、七面鳥、チキン、あるいはソーセージなどバラエティに富んでいる。

 この店は他のファストフード店と同じく、カウンターでオーダーしたものを受け取り、好きな席で食べるスタイルだ。頼んだオーダーは、キッチンの壁面に備え付けられた大きなワックスペーパーに包まれて無造作に渡される。テーブルにも同じワックスペーパーが敷かれており、客は買い求めたバーベキューをテーブルの上に直に並べて好きなようにパンに挟みながら食べる。しかもパンは食べ放題だ。

 黒い煙突のような外観の店内中央のオープンキッチンでは、今も大きな牛肉の塊がゆっくりと回転しながら焼きあがる時を待っていた。その横で二人のバングラデシュ人と思しき店員が汗だくになりながら七面鳥の胸肉やポーク、チキンなどを大きな鋳鉄の網の上で忙しく裏返している。燃料の薪にはメスキートという植物のスモークチップが混ぜられており、これが独特の芳香を店内に充満させていた。

「本格的なお店ですね」

 マレスが感心したように鼻を動かした。

「こんなお店はミラノにはないです。いい匂い。楽しみです」

 油煙に燻されたこの店は決して女性と訪れるような綺麗な店ではない。

 マレスを連れているならもっと女性向きの店に行けと山口に言われそうだが、あいにくと俺はそうした店をよく知らない。

 俺たちは市ヶ谷の駅前の釣り堀がよく見える三階のテラスに席を取ると、ワックスペーパーのテーブルクロスの上に各々買ってきたものを広げた。俺は牛の肩バラ肉とリブアイのコンボ、マレスは牛のサーロイン、ハラミ、七面鳥の胸肉とポークロインだ。どのオーダーにも大量のフレンチフライが無料で添えられる。ボリューム満点、いや、過剰なくらいだ。

 韓国系のウェイトレスがマレスの服に気を使って紙のエプロンを持ってきてくれる。俺の分のエプロンはなかったが、まあそういう大雑把なところもテキサス風と言えなくもない。


「では、頂こうか」

 通りの対岸にはかれこれ百年近く営業を続けている小ぶりな釣り堀が広がっていた。平日の昼間だというのに四角い池では今日も数人の釣り人が糸を垂れている。都会の喧騒の中、ここだけ時間が停まっているかのようだ。

 それにしても、と俺は少々呆れながらマレスの前に広げられたバーベキューを見つめた。

 マレスのオーダーは少なく見積もっても俺がオーダーしたバーベキューの三倍はあった。傍らにはパンが一斤。半分で充分だと俺はマレスに言ったのだが、彼女はそれではとても足りないと言う。

「いただきます」

 マレスは早速食パンを左手の上に乗せると、右手に持ったトングでパンの上に細切りのポークを山盛りにした。列に並んでいる間に渡されたインストラクションに書いてあるとおり、その上にバーベキューソースとフレンチマスタードをかけレリッシュを添える。

 だが、いざ食べようとパンを折りたたんだ拍子にパンは無残に破れ、反対側から肉が飛び出してしまった。

「あれ、壊れてしまいました」

「欲張りすぎるからだ。中身が多すぎたんだよ」

「積みすぎました」

 パンクしたサンドウィッチを両手で持ち、はみ出た肉片から食べ始める。包帯を巻いたマレスの手元からバーベキューソースが滴り落ちる。

「わー、おいしい。いい香り。このソースも美味しい、ちょっと辛いけど。なんか懐かしい味」

 あっと言う間に一つ目を平らげる。

「楽しいですね、誰かと食べる食事って。こんなに食事が楽しいなんて思ったのは久しぶりです」

 マレスが満面の笑みを浮かべる。

 いつの間にかに、マレスはまた少し、俺に心を開いたようだった。

 マレスはすぐに次のパンを左手に乗せると、今度はビーフをパンに盛った。さっきよりは控えめだが、相変わらずの山盛りだ。

 案の定、二つ折りにすると再びパンは割れ、サンドウィッチからサーロインの端が顔をのぞかせた。

「あれ?」

 マレスがなんとかしてサンドウィッチの形を整えようと折れたパンの位置を整える。だが、いじればいじるほどソースは零れ、サンドウィッチは一向にまとまらない。

「あれ、あれ? バラバラになっちゃう。このパン変、脆すぎ」

 何やら苦戦しながら、マレスが笑顔でサンドイッチを口に運ぶ。

 悪戦苦闘しながらも楽しそうにバーベキューを頬張るマレスを無理やり意識の外に押しやると、俺はバーベキューソースとフレンチマスタードを一山絞り出した。そこに薄切りのビーフを浸し、最初に肉だけを味見する。かすかなメスキートの薫香が食欲をそそる。

 三つ目のサンドウィッチを食べながら、マレスが俺のしていることを興味深そうに見つめている。マレスは同じようにバーベキューソースをテーブルの上に絞り出すと、見よう見まねでバーベキューソースをすくいながら七面鳥を口に運んだ。

「わッ! おいしい!」

 しかし、この細い身体のどこにあの量の食べ物をしまうのだろう?

 歓声をあげながらポークやビーフ、フライドポテトや七面鳥を交互に口に運ぶマレスを見ながら、俺もバーベキューサンドウィッチを頬張った。

「慌てて食べると喉に詰まらせるぞ」

「ふあい」

 マレスが早くも四つ目のサンドウィッチを組み立てながらもぐもぐと答える。

 マスタードの酸味、バーベキューソースのスパイス、それにレリッシュの甘味が口の中に広がる。それを追いかける牛肉と脂肪の旨み、そして汗の吹き出すハラペニョの辛さ。このコンビネーションは本当にすばらしい。肉を食べるという純粋な喜びを感じさせてくれる。

「で、マレス、結局銃は何にしたんだ?」

 ふと思い出し俺はマレスに尋ねた。

 宮崎課長に会う前、装備を受領するために俺はマレスと共に装備開発部に赴いていた。だがマレスが銃器火器開発課の小沢と銃のスペックについて激しい議論を始めたところで興味を失って、俺は最後まで付き合わずに途中で部屋を出てぶらぶらと時間を潰していたのだ。

「ミネベアのXMP34です」

 マレスが椅子の背にかけたトートバッグを少し開いて俺に見せた。

「バッグの内側につけられるようにホルスターも改造してもらいました。本当は二丁欲しかったんだけど、試作品だから今渡せるものは一丁しかないんですって」

「二丁はいらんだろう。両手で持ったらマガジンチェンジができん」

「そのマグチェンの時間が惜しいんです。ですから本当はマグチェンしないで六〇発撃つために二丁欲しかったんですが、」

 マレスは不満そうに言った。

「仕方がないので拡張マガジンを作ってもらいました」

 そういいながら長いマガジンをカバンから覗かせる。

「四十五発の拡張マガジンです。とりあえずはこれで凌ぎます」

 XMP34は小沢が開発を主導した純国産のマシンピストルだ。コストが見合わないために未だ採用には至っていないが、戦車砲と同じ仕組みの銃身安定機構と反動軽減のための慣性偏向機構を備えた四角く無骨なこの銃は、確かにマレスのスタイルに合っている。マシンピストルにしては命中精度が高すぎるのが難点だが、マレスならばむしろ有利に使いこなせる気がする。

「その銃は手入れが大変だぞ。機構が複雑すぎると以前、報告書を上げた覚えがある」

「はい。小沢技官にも念を押されました。でもそれはたぶん大丈夫です。慣れてますから」

 マレスは黒いプラスチックの箱をバッグの中から覗かせた。

「専用工具キットをもらいました。マニュアルもメールしてくれるそうです。小沢さんがフィールドストリップを実演してくれたんですけど、さほど難しそうではありませんでした」

「ま、組み立てられなくなったら電話するんだな。小沢の連絡先、聞いたか?」

「そういえば聞き忘れました。沢渡一尉はご存知なんですか?」

「いや、知らん。あとで本人から聞くといい」

「わたし、あの人嫌いです。なんか髪を書類を挟むクリップで留めてるんですよ、銀色の。信じられない」

「あそこにいる女性はみんなおしゃれとは無縁なんだよ」

「それに意地悪だし」

 話しているあいだにもマレスの手元のサンドウィッチがみるみる小さくなっていく。特に早食いしている様子もないのに、まるで魔法のようだ。

「そうか? 俺には親切だがなあ」

「それは沢渡一尉が男性だからです、きっと……」


 たあいのない話をしながらお互いサンドウィッチを飽食し、俺が三つ目のサンドウィッチに取りかかろうとしたとき、ふと俺はそれまで楽しそうに話していたマレスが急にふさぎ込んだことに気づいた。

 黙り込んだまま、俯いて手元を見つめている。

「どうした?」

「ごめんなさい……」

 マレスは小声で答えた。少し声が震えている。

 おずおずと顔を上げたマレスの目尻は赤かった。

 つと、目尻から涙が伝う。

「わたしこのバーベキュー、やっぱり昔食べたことがあります。テキサスのオースティンで」

 急に街の喧騒が遠くなった。

 マレスは少し言葉に詰まりながら、とつとつと話し始めた。

「わたしの父はお医者様、いえ、大脳生理学者だったんです。学者なので年に数回は学会に出席していたのですけど、そういうときはかならず家族旅行だって言って一緒に連れて行ってくれたんです。わたし、学校ではお友達ができなかったから、わたしの居場所は家族だけだったんです。父がいつもわたしたちを帯同したのもひょっとしたらそれが原因だったのかも知れません」

 サンドイッチを両手で掴んだまま、俯いたマレスは話を続けた。

「わたしが十歳、そら君、わたしの弟が四歳のときは学会がオースティンで開催されて、家族でテキサスに行ったんです」

「…………」

「そこで父が『アメリカのバーベキューはすごいんだぞ』ってわたしたちの頭を撫でながら食べさせてくれたのがこんなバーベキューでした。母はちょっと不満みたいでしたけど、宙君は口中ケチャップで真っ赤にして、すごく楽しそうにバーベキュー食べてた。宙君、お肉が大好きだったから」

 俯いたマレスの細い鼻筋を涙が伝う。

「あれ? おかしいな。もう、絶対泣かないって決めてたのに」

 肩を震わせながら無理に笑おうとする。

「いつもは、大丈夫なのにな。……ごめんなさい。ちょっと、ちょっとだけ、待ってください」

 マレスは両手で顔を覆った。

 マレスの細い肩が小さく震えている。

「沢渡一尉……わたし、宙君とはとっても仲良しだったんです」

 言葉に詰まりながら、マレスが再び口を開いた。

「歳はちょっと離れてたけど、とっても仲良しの姉弟だったんです。家族も仲良しで、いつも一緒で、ママもパパもやさしくて……でも、その家族が全員、突然いなくなっちゃって、もうどうしていいか判らなくなっちゃったんです。だからわたし、もう誰もいなくなっちゃったおうちの居間で、クリスおじさまが来てくれるまでずっと、ずうっと一人で泣いていたんです」

 マレスの流す涙が、ぱたぱたと小さな音を立てながらワックスペーパーの上に丸い水玉を作る。

「でも、でもね、沢渡一尉、わたし、気づいたんです。こんなふうに泣いていてもわたしの家族はもう帰ってこない。だったらわたしは、もっと、もっとずっと強くなって、こんなふうに泣かない子になって、ママや宙君を安心させてあげなくちゃいけないって気づいたんです」

 大きな両目に涙をため、マレスは顔を上げた。

「だからね、沢渡一尉、わたしはもう泣かないって決めたんです。……でも、でも……そう、そう決めたのに……」

 マレスは再び顔を伏せると、両手で顔を覆った。

「泣いてたら、泣いちゃ、だ、だめなのに……」

 両手の隙間から苦しげな嗚咽が漏れる。

「ウグ…フッ」

「霧崎君」

 彼女の姿を見ながら、俺は無意識のうちにマレスにかける慰めの言葉を探していた。

 部隊で仲の良かった連中は皆死んだ。あるものは俺の目の前で、あるものは俺の腕の中で、あるいはある日突然いなくなる形で。

 そしてとどめが涼子の死だ。

 あのような思いをするくらいなら、あのような喪失感に苛まされるくらいなら、一人でいるほうがずっといい。

 それなのに、なぜ、俺はマレスを慰める言葉を探すのだろう。

 なぜ俺は、マレスと心を通わせようとするのだろう。

「霧崎君?」

 俺はもう一度マレスに話しかけた。

「霧崎君、無理に明るくする必要はないんだ。無理に笑わなくたっていいんだ……辛いんだったら、素直に涙を流すと心が楽になる。我慢なんてしなくていいんだぞ」

 ようやく、それだけをマレスに伝える。

「ありがとうございます、沢渡一尉。でも、もう大丈夫です」

 やがてまだ涙の溜まる瞳を上げた時、マレスは元の笑顔に戻っていた。

「ダメですね、わたし、泣き虫で」

 長いまつげに残った涙を手の甲で拭い、ぎこちない笑みを浮かべる。

「ごめんなさい、湿っぽいお話しちゃって。なんでこんな話しちゃったんだろ。……沢渡一尉、食べましょ?」

 その時俺は、その笑顔の裏にマレスの底知れない悲嘆が見えるような気がした。


+ + +


 どことなく気まずいまま終わったルディーズBBQでの昼食の後片付けをしている時、ふと俺は窓の外に見える駅前から人が散っていくことに気づいた。

 靖国通りに面した駅の改札口の人垣が急激に小さくなっていく。

「なんかあったな」

 思わずぼやきが漏れる。

 十年ほど前に中国が突然内戦状態に陥り、それに呼応するかたちで北朝鮮が崩壊して以来、日本周辺、そして日本国内の治安は著しく悪化している。さらにプリンターガンと呼ばれる3Dプリンターで作られた銃器のおかげで国内の銃規制が事実上形骸化してしまったことも事態の悪化に拍車をかけた。

 今ではこの手の騒動は日常茶飯事だ。毎日どこかで銃撃戦や籠城戦が発生している。

 かつては物見高く騒動に集まっていた日本人も、最近では騒ぎがあると蜘蛛の子を散らすように逃げていく。これも治安の悪化の結果と言えるだろう。

「沢渡一尉、なんの騒ぎでしょう」

 マレスも気づいたようだ。

「さしずめ立てこもりか、あるいは発砲か、どちらにしても大したことじゃないだろう。警察に任せておけばいい」

 丸めたワックスペーパーをトレイからゴミ箱に押し込みながら、気のない返事をマレスに返す。

 だがマレスは、

「行きましょう、沢渡一尉」

 と俺を待たずに駆けだした。靴音高く螺旋階段を駆け降りていく。

「あ、待ておい!」

 仕方がなく俺も後を追う。


 俺たちが駅に駆けつけた時にはすでに警官が犯人を取り囲み、状況は膠着状態に陥っていた。

 どうやら状況はプリンターガンを持った二人の男が何らかの事件から逃走途中に駅の雑踏で警察に捕捉された、というもののようだ。

 どうせ銀行かあるいはコンビニ強盗、どちらにしても俺たちが扱うべき事件ケースではない。

 それにしても間抜けな連中だ。市ヶ谷には警視庁の第四方面本部がある。今はまだ二台のパトカーで現着した六人ほどの制服警官しかいないが、すぐに機動隊の青い兵員輸送車に乗った増援が合流するだろう。彼らが逃れる術はない。

 現場の周りには早くも黄色いテープが引かれ、簡易な立ち入り禁止区域ポリスラインが作られている。みどりの窓口のシャッターはすでに固く閉じられ、改札口と地下鉄に連絡する通路のシャッターも今まさに音を立てながら閉じられようとしているところだ。

 三方を閉鎖され、彼ちはもはや袋の鼠だった。

「これならもう解決したも同然だ。すぐに捕まるだろう。行こう」

 俺はマレスに告げた。

 だがマレスは黙って険しい表情のまま、年代物の分厚いボディーアーマーを着た犯人の二人を睨み続けていた。ひょろっとした細身の男と筋肉ゴリラのようなレスラータイプの男の組み合わせだ。

 顎の長いレスラータイプの男には軍人特有の妙な威圧感があった。退役軍人なのかも知れない。

 俺たちの背後に野次馬の姿はすでになく、いるのは偶然居合わせた数人の報道関係者だけだ。黄色いテープの内側で二人の若い警官が両手を広げ、少しでも近づこうとしている命知らずの報道カメラマン達を制止しようと躍起になっている。

 厄介なことに細いほうの男は泣き叫ぶ子供をその腕に抱えていた。

 歳の頃は五、六歳、幼稚園児と思しき女の子だ。幼稚園のものなのだろう、紺色の制服を着たおさげの女の子が男の腕の中で火がついたように泣き叫んでいる。

「ママーッ!」

 両手両足でもがいているが男の腕は強く、逃れるには至っていない。

 母親と思しき若い女性が二人の駅員と一人の婦人警官に付き添われながら、駅備え付けの水色のストレッチャーに乗せられて駅舎に運ばれていく。撃たれたらしく、婦人警官が女性の右肩に押し当てているタオルが赤く血に染まっている。意識はあるようだが顔色が土気色だ。

「降ります……降ろして……」

 弱々しく抵抗し、ストレッチャーから降りようとしているが、それを大柄な婦人警官が力任せに押し留める。

「ダメです、動かないで! 撃たれたんですよッ」

『今投降すれば発砲はしませんよ、落ち着いてくださーい』

 年かさの警官が拡声器を使って犯人たちに呼びかけている。

『お話はあとでゆっくり聞きますからー、今はその子を離してくださーい』

 人質を取られた場合には犯人に対して絶え間なく話しかけることが重要だ。対話が続いている限り人質に危害が及ぶことが少ないことは統計が証明している。今のように犯人が追い詰められて興奮している時はなおさらだ。

 とりあえず時間を稼いで、増援が来たら一気に人海戦術で押しつぶしてしまえばいい。

 マニュアル化されているのか、警官の呼びかけも時間を稼ぐことを優先しているようだ。

 男たちが背中合わせに右に回ったり、左に回ったりしながら時折意味のないことを喚く。

 細いほうの男がいたずらに銃を振り回し、時折わざとらしく銃口を子供に向ける。

「霧崎君、行こう。俺たちの出る幕じゃない。あれは警察の仕事だ」

 だがマレスは歯を食いしばりながら男たちを睨む顔を動かそうとしない。目が凶暴に据わっている。

 ときおり目だけできょろきょろと周囲を見回し、状況を掌握しようとしているようだ。初撃を置く場所を計算している。

「霧崎君?」

 俺がマレスの手首を掴もうとしたとき、意を決したようにマレスは一歩前に出ると黄色いテープを右手で押し下げた。

「ちょっと殺してきます」

 食いしばった歯の隙間から殺意そのもののような言葉が漏れる。

「お、おい」

「入らないでください、下がって」

 押し止めようとする警官の腕を片手で邪険に払いのけ、テープを跨ぐ。

 マレスは左肩から下げたトートバッグに右手を突っ込んだまま、ずかずかと二人の男に歩み寄って行った。

「来るな、撃つぞ」

 ひょろい方の男が空いた歯の隙間から唾を飛ばしながらわめき散らす。

「撃てば?」

 マレスの足は止まらない。

「バカかおまえ」

 ひょろがそれまで子供に突きつけていた白い銃を構え直し、マレスに向けようとする。

 だがそれよりも速く、マレスはバッグからXMP34を抜き出すとすかさず片手で発砲した。

 バン。

 続けてもう一発。

 子供を抱えていた男の右目に着弾したフランジブル弾はそのまま眼底部を突き破り、頭蓋骨後頭部で粉々に砕けながらソフトボールほどの穴を開けて外に飛び出した。

 灰色の脳髄と鮮血が男の背後に赤い霧を作る。

「……ふう」

 力の抜けた男の腕から子供の身体が落ちていく。

 マレスは撃つと同時に駆け出すと、スライディングしながら男の腕からこぼれ落ちた子供の身体を受け止めた。背中を丸め、懐に子供の身体を抱え込む。

 男の体が膝から崩折れ、半分無くなってしまった後頭部の大穴から噴水のように鮮血が吹き上がる。

 二人の犯人の足元を滑るマレスの全身に、驟雨のような音を立てながら鮮血のシャワーが降り注ぐ。


 後から放った弾丸は軍人タイプの後頭部を直撃した。だが銃弾は嫌な音を立てながら頭蓋の外周と皮膚の間を半周し、粉々になって右こめかみから外に抜ける。


 何かがおかしい。


 小口径の弾ならともかく、九ミリの強化強装弾P++が頭蓋骨の上を滑ることは普通あり得ない。

 頭を強烈に左側に振られながらも男は持ちこたえ、たたらを踏みながら踏みとどまると、死んだ細い男の手からこぼれた銃を太い指で拾い上げた。

 あっというまの出来事だった。

 子供を庇うマレスに向かって男が発砲する。

 背筋がマレスを失う恐怖に凝固する。

「マレスッ!」

 だが銃弾は際どくマレスの上腕を擦過し、人工大理石のフロアの上で火花を上げながら跳弾するに留まった。

 男はジャラリと音を立てながら左手をポケットに突っ込むと、太い指で次弾を取り出した。

 太い親指と人差し指で巨大な銃弾をチャンバーに装填し、手のひらでボルトを閉める。

「クソッ」

 俺はジャンパーの裾を右手で払うと、左手で抜いたベレッタのトリガーを絞った。


 ドゥンッ


 マレスの銃とは比較にならない猛烈な轟音。閉じた空間に発射音が充満する。

 筋肉ゴリラに着弾した弾頭が閃光を放ち、強烈な衝撃に男の巨体が独楽のようにくるりと回りながら大きく揺らぐ。男の右手がベレッタから放たれたサーモバリック弾で粉々に吹き飛ばされる。

 だが、男はそれにも持ち堪えるとゆらりと再び立ち上がった。

 マレスの銃撃で皮膚がはぎ取られた右側頭部から、鈍く光る金属が見て取れる。

 部分機械化された戦闘サイボーグだ。

「マレス立てッ」

 俺は男が体勢を整えるよりも早く走り出した。

 黄色いテープを飛び越え、マレスの元へと駆ける。

 マレスが子供を抱いたまま身体を捻り、不自由な姿勢でXMP34のトリガーを絞ろうと銃口を男に向ける。

 だが男の方が速かった。

 巨体には似合わない素早い動作でマレスの右手を蹴り上げ、その手からXMP34を弾き飛ばす。

「あッ」

 マレスが悲鳴を漏らす。XMP34がカラカラと乾いた音を立てながらフロアの上を滑っていく。

 背後から迫る俺には構わず、男は背中からさらにマレスの脇腹を蹴りつけた。

「グゥッ」

 肺から空気が押し出され、マレスが悲痛な悲鳴を上げる。

 マレスは懐の子供の頭を両手で抱え、全身で子供の身体を護るようにさらにきつく背中を丸めた。

 男は蹴り上げた足をそのまま振り下ろし、渾身の力を込めてマレスの頭を踏みつけた。

「アグッ」

 衝撃と痛みにマレスの瞳が大きく見開かれ、身体が一瞬硬直する。

 踏みつけられ、頭が床に叩きつけられるガツンという嫌な音とマレスの漏らす呻きが聞こえる。

 懐に子供を抱えた両腕の隙間から、怒りに爛々と輝くマレスの瞳が見える。だが子供を抱えているため身動きがままならない。

 再び男がマレスの頭を踏みつけた。

 脳震盪を起こしたマレスの瞳が一瞬力を失う。

 全身の血が逆流する。

 俺は全身の力を込めて左肩から男の背中に体当りした。

 バランスを崩し男がフロアに膝を突く。

 マレスを飛び越えながら肩を支点に前転、振り向きざま下から男の頭に向けマガジンが空になるまで銃弾を叩き込む。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、


 二キロ近い重量のベレッタM758A2は近接戦闘に特化した、いわば突撃銃だ。ソードオフしたショットガンに似たこの銃にはアイアンサイトすらない。スマートガンユニットの支援があるにせよ、ほとんど腕の感覚だけで当てるこの銃は究極の近接戦闘兵器だ。

 着弾するたびにサーモバリック弾が一気に気化、爆発し、眩い閃光を放つ。

 だが、サーモバリック弾の弾幕は閃光を発しながらも次々と男の皮膚を毟り取るのみに留まる。

 俺はトリガーガードを支点にしてホールドオープンしたベレッタを手の甲側に送ると同時にフロアを蹴って男に飛びかかった。

 コンバットスニーカーのつま先に仕込まれたタングステンカーバイドのスパイクがフロアの石材に喰い込み、血糊で足が滑るのを防ぐ。

「フンッ」

 両手でボディアーマーの襟を取ると、俺は男を力任せに投げ飛ばした。

「グブゥッ」

 頭から落ちた男の身体がフロアに広がる血糊に白い軌跡を描きながら滑っていく。

「マレス、その子を連れて早く下がれッ!」

 起き上がろうともがく男から目を離さず、俺は背後のマレスに声をかけた。

「はいッ」

「いやー、ママー! 怖い、怖いッ!」

 子供が新たな脅威にさらに暴れる。

「大丈夫、大丈夫だから」

 視界の隅に、立ち上がったマレスが子供を抱いてよろめきながら駅事務所の方へと向かうのが見える。中にいた警官がドアを開いてマレスを招き入れる。

 男から目を離さないまま手の甲側に回っていた銃を握り直すと、俺はマガジンリリースボタンを押して装填されていたマガジンを下に落とした。

 同時に右手で腰のマガジンポーチから予備マガジンを抜き、空いたポートに新しいマガジンを押し込みスライドを閉じる。


 捨てたマガジンが足元で弾む。


「ヴォーッ!」

 男はふらふらと立ち上がると両腕を広げ、ヒグマの様な咆哮を上げた。

 低く構え、雄叫びを上げながらタックルしてくる。

 両足を開きアイソセレス・スタンスで銃を構える。トリガーガード裏のパドルスイッチを人差し指で操作し、スマートガンユニットを強制解除。

 これで銃弾は正しく狙った場所に到達する。

 今度は高速徹甲弾HVAPだ。

 相手のボディアーマーはいかにも旧式だった。

 この弾頭なら、おそらく抜ける。


 ガゥンッ


 タングステンカーバイドの重い弾頭を発射する激しい反動と強烈な轟音。

 一発、二発、三発、四発。

 音速を超える、秒速五百メートルで発射されたタングステンカーバイドの弾頭が銃弾底部のロケットモーターを閃かせながらさらに加速、男の身体に殺到する。


 ガンッ、ガンッ、ゴンッ、ガンッ


 着弾するたびに破鐘のような破壊音を響かせながら、男のボディアーマーに大きな穴が穿たれる。

 強烈な衝撃に男の上半身が大きく泳ぐ。

 だが男の突進は止まらない。

「ウォーッ」

 大きく踏み込みながら肩をひねって残った左手の拳を引き絞り、渾身の力を込めたパンチを放つ。

 俺は拳が目前に迫るまで待ってから右腕を捻り上げてその左腕を上に逸らした。すかさず身体を沈めて懐に入り込み、肩口を掴んで相手の身体が開くようにその重心を引き倒す。

 男の身体が側面を滑り、半身を開きながら床に倒れる。

 俺は右腕を男の左腕に絡めて固定したまま、開いた脇の下に向け左手で発砲した。

 五発、六発。

 左肩が砕け、男の左腕がごそりと身体から抜け落ちる。

「この野郎!」

 俺は外れてしまった男の左腕の手首を掴むと、棍棒よろしくバックハンドで男の頭を殴りつけた。

 二回、三回、四回、五回。

 怒りに任せ男を殴打し続ける。

 金属同士がぶつかる鈍い音。丸い肩が頭蓋に衝突するたびに火花が散り、断面からセラミックの破片が弾け飛ぶ。

 ときおり血管が砕け、裂けた皮膚から鮮血が噴出する。

 あまりに凄惨な光景に辺りが重苦しく沈黙する。


 ガンッ、ボグッ、バンッ。


 静寂の中、鈍い打撲音だけが駅構内に反響する。

 度重なる打撃に屈服し、ブチッという嫌な音を立てて握っていた左腕の肘が砕けた。

 千切れた人工皮膚をひきずりながら太い上腕部が人工大理石の上を滑っていく。

 構わず短くなってしまった腕でさらにもう一撃。

 起き上がりかけたところに下から再び殴打を喰らい、男の身体が大きく泳ぐ。

 すかさず発砲。七発、八発。

 タングステンカーバイドの徹甲弾が左腿に着弾すると同時にポケットの銃弾が次々暴発する。

「グゥッ」

 衝撃に男が尻餅をついて後ろに倒れる。

 まだ男は活動を停止していない。

 脳を破壊しないかぎり、戦闘サイボーグが活動を停止することは有りえない。

「うぅ……」

「うるせえ」

 俺は立ち上がろうともがく相手を蹴り倒すと、胸の上に膝を突き、暴れるその身体を無理やり押さえつけた。

 歯をへし折り、右手を添えたベレッタの銃口を相手の口の中へと叩き込む。

 頭蓋が強化されていても、内側からなら弾は届く。

 九発、十発。

 猛り狂うスズメバチのような音を立てながら、徹甲弾が強化された頭蓋の内部で暴れまわる。

 弾けた両眼窩から嫌な音を立てて黒い鮮血が溢れ出る。

「ガボッ」

 砕けた口腔から鮮血が溢れ出し、男の身体が一瞬硬直する。

 だが、宿主の脳がグシャグシャに粉砕されたにも関わらず、その義体はまだ動こうとしていた。

 俺の身体ごと上半身を起こし、砕けた右腕を突いて立ち上がろうとする。

 俺はバックステップしながら銃を構えなおすと、胸の中心に向けて徹甲弾を放った。

 十一発、十二発。

 ボロボロになったボディアーマーを貫通し、胸部に大きな穴が空く。

 虚ろな穴に、破壊された生身の背骨が白く見える。

 あと一発で弾切れだ。

 銃を構えたままマガジンを落とし、最後のマガジンをポートに押し込む。フランジブル弾のため心もとないが、それでもないよりはまだマシだ。

 男はバタバタと黒い鮮血を吹き出しながらその場にへたり込むと、音を立てて膝を突いた。


 まだだ。まだ安心はできない。


 トリガーを引こうとしたその時、俺は何か柔らかいものに優しく右腕を絡め取られたことに気がついた。

 右腕になにかが絡みついている。

 振りほどこうと腕を振る。

 だが、その柔らかいものはさらにきつく俺の腕を抱きしめた。

 マレスが俺の右手にしがみつき、一生懸命俺に話しかけている。

「沢渡一尉、大丈夫、わたしは大丈夫だから」

 マレスは返り血を浴びて全身真っ赤に染まっていた。

 だが、怪我はないようだ。頬に打撲の跡があるが怪我をした様子はない。

「沢渡一尉、あの人、もう死んでます」

「……あ、ああ」

 ようやく我に返り、俺はゆっくりとホルスターに銃を戻した。

 思わずマレスの頬へと手を伸ばす。

「無事か、マレス」

 マレスの頬に俺の指の跡が白く残る。

 マレスは頬に当たった俺の左手を片手で覆うとかすかに微笑み、小さくうなずいた。

「はい」

 男の義体が鈍い音を響かせながら頭から先に床に崩れ落ちる。

 俺たちの背後で戦闘サイボーグは静かに活動を停止した。


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