06.皆を楽しませる
特定の時期にしか楽しめない事というのはたくさんある。だから楽しめるそのうちに、人生を謳歌しておこう。
たまには……羽目を外すのも悪くないだろう?
そのお誘いは、突然だった。
「春だし、どっか出かけようか。藤野」
いつも通りの授業中、街外れの塾に勤務する塾講師・桜井健人がいきなりそんなことを言った。
「……先生? 唐突に何を言い出すんです」
彼の生徒である藤野奈月は、持っていたシャープペンシルをくるくると手で弄びながら、少々呆れ気味に尋ねた。
「いや、別に唐突じゃないよ?」
至極不思議そうな表情で桜井は答えた。どうやら自らが変なことを口走ったという自覚はないようだ。
「ただ、毎日いい天気なのに、こんな古い建物の中で鬱々と閉じこもってるのもなぁ……と思ってさ」
桜井は窓の外をうっとりとした眼差しで眺めた。
「鬱々と閉じこもっているわけではないでしょう。一応は勉強しているんですから。……まぁ、確かにいい天気ではありますけれど」
奈月もぼんやりと窓の外を眺めながら答えた。穏やかな日の光が、塾の周りに生える木々や花々に優しく降り注いでいる。なるほど、桜井が外に出たくなる気持ちも分からないではない。
桜井は同意を得られたのがよほど嬉しかったのか、目をキラキラさせながら奈月を見た。
「でしょ!? やっぱりさぁ、こういう時はどっか出かけるべきだよねぇ……ほら、あるじゃん。バイキングとかさ」
「それを言うならハイキング、ですよ。先生。バイキングは食べ放題です」
「あれ、そうだっけ」
奈月の冷静な突込みに、桜井は頭を掻きながら首をかしげる。間違えたことが多少恥ずかしかったのか、その頬は少しだけ染まっていた。
「とにかく、どっか行こうよ! 明日日曜日だしちょうどいいからさ」
だんだん、と机を両手でたたきながら、駄々をこねるように桜井が言う。奈月は思わず苦笑した。
「……そうですね、たまには気分転換も必要ですし。行きましょうか」
◆◆◆
桜井は律儀にも、家まで迎えに来てくれた。
「では、奈月さんを一日お預かりさせて頂きます」
自家用車から降りた桜井は、出迎えた奈月の母親・咲葵子にぺこりと礼をした。咲葵子も深々と礼をする。
「こちらこそ、奈月をよろしくお願いいたしますわね」
男性と二人で出かけるというと、普通の親ならば反対するだろう――奈月もそう思っていた――が、咲葵子は存外あっさりと許した。それどころか逆に張り切り、早起きして作った沢山の料理を詰めた重箱を奈月に持たせたぐらいである。
「奈月、楽しんでいらっしゃい」
そう奈月に囁いた咲葵子は、自分が行くわけでもないのにやたらうきうきとした表情をしていた。
母親とは、得てしてこんなものなのか……?
長らく母親という存在が傍になかった奈月には、理解不能な世界だった。
見送る咲葵子に手を振り返し、桜井の車の助手席に乗り込むと、奈月は早速気になったことがあったので尋ねた。
「先生って、免許持っていらしたんですか」
「そりゃ、成人してるし」
桜井はエンジンをかける仕草をしながら、まるで何でもないことだといった風に答えた。奈月がシートベルトを着けたのを横目で確認すると、さっさと車を発進させる。
「一応仕事もしてるわけだから、やっぱり免許は取っておいた方がいいでしょ?」
「ほえー」
奈月は思わず気の抜けたような声を上げた。今まで聞いたことのないようなその反応に、桜井はつい吹き出してしまう。
「何だい、その声」
「笑わないで下さいよ」
拗ねたように唇を尖らせながら、奈月は運転する桜井の横顔を見た。
「意外だったんです。そんなイメージないんで」
「それ、遠回しに俺がガキだって言ってない?」
「あら、ばれましたか」
「ちょっとは否定してよ!」
よほどショックだったのか、桜井は勢いよく奈月の方を向いた。
「ちょ、先生!!」
奈月は思わず焦って声を荒げる。
「前見てくださいよ、前!」
「うぉ、やっべ!!」
――若干てんやわんやしながらも、二人を乗せた車は何とか目的地にたどり着いた。
桜井が指定した目的地は、とある公園だった。
塾や奈月の家からは少し遠い場所に位置するそこは、普通の公園にしてはやや大きめだった。春の風物詩である桜を始め、チューリップやすみれ、パンジー、マリーゴールドなどの色とりどりの花が周りを囲んでいる。それらは穏やかな太陽の光を浴びながら、そよそよと控えめに吹く春風に気持ちよさそうに揺れていた。
桜の木の下では、花見客と思しき団体の人たちが宴会をしている。別の場所では、プランターに植えられた花々を見ながら楽しそうに話す親子の姿も見えた。
奈月と桜井は空いていたベンチを見つけると、そこに腰を落ち着けることにした。
「ふう……」
桜井は奈月が持ってきた、咲葵子手作りのお弁当が入った重箱をベンチの上に置いた。続いて自らもベンチに腰を下ろす。
「すみません……持っていただいてしまって」
奈月は立ったまま、きまり悪そうにうつむいた。
「気にしなくてもいいよ。荷物を持つのは、男の役目でしょ?」
桜井はにっこり笑ってそう言うと、自らの隣を指し示した。
「とりあえず、座ろう?」
早くこのお弁当、食べたいしね。
そう言っていつも通り朗らかに笑う桜井の姿に、奈月はなんとなく安堵を覚えた。
「――おぉ、美味しそうじゃん!」
「すごいですね」
三段ある重箱をそれぞれ開くと、色々な料理が隙間なく敷き詰められていた。一段目は炊き込みご飯、二段目は卵焼きや唐揚げなどといった定番のおかず。そして……。
「これ……」
三段目を開き、奈月は思わず手を止めた。そこに入っていたのは、半分は果物。そして、もう半分は……。
「チーズケーキ?」
桜井が中身を見て、声を上げた。
ぶどうやイチゴなどの果物たちとは隔離されたスペースに、綺麗に切り分けられたチーズケーキが入っていた。
「チーズケーキって普通お弁当には入れないけど……?」
桜井が不思議そうに首をかしげる。奈月は目線をさまよわせながら、小さな声で答えた。
「小さいころ……あの人がよく、チーズケーキを焼いてくれたんです。わたしの一番の好物でした」
それを聞いた桜井は初め、びっくりしたように目を見開いていたが、やがて微笑ましげに目を細めた。
「お母さんは、君の好物をちゃんと覚えていてくれたんだ」
「…………」
「帰ったら、ちゃんとお礼言わなくちゃ。ね?」
うつむく奈月の顔を覗き込み、桜井はいたわるように微笑んだ。
「……そう、ですね」
ようやくそれだけ答えると、奈月は曖昧な笑みを返した。
桜井はそんな奈月の頭を軽く撫でると、気を取り直したように自らの割り箸を取り、それで重箱を幾度か叩いた。コンコン、という無機質同士がぶつかる音がする。
「さ、食べようか」
その音と桜井の言葉で我に返った奈月は「はい」と小さな声で答え、自らの分の割り箸を手に取った。
お弁当はいつもと何ら変わらない、咲葵子の手料理の味がした。思えば昔はこの味が好きだったんだよな、と、味わいながら奈月は振り返る。
桜井も「美味しいね」と言って、たくさん食べてくれた。自分が作ったわけではないのに、なぜだか嬉しくなってしまう。
そして、幼少期に好物だった、母親手作りのチーズケーキ。
具体的にどんな味だったかなんて、昔のこと過ぎて正直あまり覚えていなかった。それでもその優しい味は、不思議と奈月の心を懐かしさでいっぱいにした。
桜井はケーキを一切れ口に運ぶと、何も言わず微笑んだ。母親の愛情が詰まったチーズケーキの味を、うまく言い表す言葉が見つからなかったのかもしれない。
思い出したくもなかったはずの、幼少期。
だけどいつかはその思い出とも、しっかり向き合わなければいけない時が来るのだろう。
そして、母親とも……。
――今はまだ心の整理がつかないから、それはできないのだけれど。
◆◆◆
重箱三段分のお弁当を二人ですっかり空にしてしまったあとは、二人で公園を散策したり、桜井の車で適当な場所へドライブしたりして過ごした。
普段学校や塾で勉強して過ごすことは、別に奈月にとって苦痛だったわけではない。それは昔からずっとやっていたことだ。
けれど桜井といろいろな場所に行って過ごす時間は、休息や娯楽というものをあまり知らなかった奈月にとって、とても新鮮なものだった。
「――今日はありがとうございました。楽しかったです」
夕方ごろ、桜井に家まで送ってもらった奈月は、運転席の桜井に深々と礼をした。
「どういたしまして」
桜井はひらひらと手を振り、朗らかに笑う。
「先生」
「なぁに?」
奈月が呼び掛けると、桜井はコテンと首をかしげた。
「わたし、今日はちゃんと咲葵子さんとお話しする時間を作ろうと思います。いつもは気まずくて、あまり話せないので」
そう言って照れ臭そうにはにかんだ奈月に、桜井は「そっか」と呟き、優しく微笑んだ。
「……さて、そろそろ帰るね」
「はい。ありがとうございました」
「どういたしまして」
奈月が改まったようにもう一度お辞儀をすると、桜井もにっこりと笑って返した。そして……。
「じゃあ、また。今度は君の手作り弁当が食べたいな」
最後にウインクとともにどこぞのチャラ男が言いそうなセリフを奈月に投げつけた桜井は、悠々と車を走らせ帰っていった。
奈月は不意打ちのその言葉にしばし唖然としながら、去っていく車を見送っていた。
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