第3話


私はこの異世界で、生きることを決めたわけだが、何も元の世界に帰ることを完全に諦めた訳ではない。


だが、私は私の名前すら知らない。


 私は、私の母の名前も知らない。


 父の名前も、顔も、祖父も、祖母も、親友も、従兄弟も、友人も、上司も、学校の先生も、近所の人達も、何も、何も……覚えていない。


 そして思い出す当てもない。



 私にはそれがどうしようもなく虚しくて、そして同時に忘れてしまった人達へ、腹の底に重石が沈んだかのような罪悪感も感じていた。


......忘れてしまった。大切なものだったのに


 だからかも、知れない。



 異世界で生きることを、こんなにも早く決めたのは。



 ***


この異世界で暮らすにあたって、まず一番に決めなくてはいけないもの、それは。


推定ウォンバットの名前を決めることだ。



 何時までも推定ウォンバットだったらアレだしな。他にもしなくてはいけない事は山積みだろうが、取り敢えずこれを決めないわけにはいかない。


 今更かもしれないが、私は動物が大好きだ。


 私は私のことを覚えていないといったが、これだけはわかる。


 何故なら、殆ど無くなった私自身の記憶の中、唯一残っているのが『動物が好きだった』というただそれだけだ。


 自分の名前は覚えてないのにそれだけは覚えている。


 その他、一般常識も残ってはいるが、それも大半が動物の知識だ。

 犬にチョコレートと玉ねぎは食べさせていけない、ウォンバットはオーストラリアに住むカンガルー目、ウォンバット科の哺乳類だということ、など。そういうのばかり覚えている。


 異世界に来る前の私は、動物がかなり、それも超がつくほど好きだったのだろう。と簡単に推測できた。

 そしてそれは今の私も変わらない。


 これが私のアイデンティティーだ。





 ……というわけで、真っ先にウォンバットの名前を決めることにした訳だが、


「ウォンの助は?」


「ギャ!? ギャギャ!」


 どういうわけか、ウォンバットが物凄く嫌がる。それも恐ろしい鳴き声付きで。



「ウォン太郎」


「ギャーッ! ギャギャ!!」


 何もそんなに嫌がらなくても……。

 アニメでこんな名前の可愛いのから付けたのに……ハムスターサイズの手乗り赤ちゃんウォンバットだから……。


 そっか、嫌か。


 こうなれば数打ちゃ当たるではないが、沢山候補を出すしかない。結局のところ、名前は自分が気に入らなければただの音の塊に過ぎないからだ。


「ウォン太」

「ギャ!」

「バット」

「ギャ!?」

「バットハリケーン」

「ギャギャギャーッ!!」

「ウォンウォン」

「ギャーッ!」


 ふむ、全然決まらない。そんなに私の付ける名前は駄目なのだろうか。カッコイイのに。

 ならば、シンプルイズベストで!


「ウォンは?」


「キュ!」


 おお、今までで一番好反応だ。

 やっぱりシンプルが一番なのだろうか。わしゃわしゃと私はウォンバット……いやウォンを撫でまわした。

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