蒼き太陽の詩

日崎アユム/丹羽夏子

第0章:紅蓮の女獅子と蒼き太陽

第1話 王都陥落の日――地下道にて

 地下道は無音であった。闇の中自分の息づかいだけが大きく反響しているように感じた。

 もっと静かにしなければと思って、自分の口元を押さえる。

 なかなか静まらない。むしろ苦しくなる一方だ。自分がどれほど動揺しているかを思い知らされる。


 自分は、今、恐怖に衝き動かされて何も考えずに逃げている。

 自分は逃げた。衝動的に戦場を捨てた――その事実がぐるぐると頭の中を回り続けた。


 怖かった。


 遠くへ逃げたかった。抱えているすべてのものを放り出してしまいたかった。

 それだけの理由で、自分は、今、戦友たちを見捨て、部下たちを見捨て、務めを、誇りを、何もかもを捨てて、こんなところにいる。


 突如右の爪先に痛みを覚えた。何かにつまずいた――そうと気づいた次の時には、前に倒れて体の前面すべてを地面に打ちつけていた。手をつくことさえできなかった。額や頬までこすれて、ユングヴィは無様な声を上げた。


 倒れ込んでから、地面が湿気ていることに気づいた。それもそのはず、この地下道は地下の用水路に通じている。


 ここは王都の下を縦横無尽に張り巡らされている地下水路カナートの一角だ。乾燥したこのアルヤ王国でひとびとの生命線となっている地下水の井戸へつながる道だった。


 王都の地下だ。

 王都エスファーナの地上が敵兵に荒らされているというのに、自分は地下でひとり転んで呻いている。


「……うう……」


 もがいた指先が石畳を引っ掻く。けれど湿気た石畳が金切り声を上げることはない。もしかしたら足音さえこの湿気が吸い込んでくれていたのかもしれなかった。地下道に逃げ込んだのは正解だったかもしれない。


 何を考えているのかと、ユングヴィは自分で自分を叱った。

 そもそも逃げたこと自体が間違いだ。

 自分は間違ったことをした。正解になどけしてもう辿り着けない。


 逃げてしまった。

 自分は、神剣をいただいた聖なるあか将軍という役職の立場にありながら、赤軍の副長以下兵士たちや、他の将軍たちや、誰より、何においても守らねばならないはずの国王陛下を見捨てて、地下道に逃げ込んでしまった。


 あか軍とは、この国の軍隊でもっとも市街戦に最適化され住宅街の壁と壁の間で戦うことを定められている部隊だ。


 本当は、最前線でみんなを率いなければならない。本当は、強く勇ましく振る舞ってみんなを励まさなければならない。性別も年齢も関係ない。紅蓮の神剣を抜いたこの世で唯一の存在の自分がやらなければならない。


 だが、今はまだ、十六歳の女の子だ。

 生まれて初めての戦争、生まれて初めての人殺し、何もかもが、ユングヴィにとっては重くて怖くてつらかった。


 自分はとても弱い。


「…………うう……」


 この国が、自分のせいで滅んでしまったら、どうしよう。


 お終いだ。

 国がなくなって守るものがなくなったら、自分には、もう、何の価値もない。まして自分は逃亡してしまった。生き残ったところで、同じく生き残った同胞たちにどう詫びればいいのだろう。詫びたところでゆるしてもらえることではない。


 そもそも、誰が生き残るのだろうか。

 王都が、敵の手に、落ちるかもしれない。

 王宮が――王族が――王が、敵の手に、落ちるかもしれない。

 王から神剣をたまわった自分が、その王を裏切って、自分の他に誰もいないこんなところにいる。


 死のう、と思った。

 王がたおれては生きている意味もなく、王が生き延びても合わせる顔はない。


 背に負っていた神剣の柄を左手で握った。留めていた革帯を緩めて柄を引いた。


 ところがそこで、今までにない強い手応えを感じた。

 途中で引けなくなってしまった。


 ユングヴィは目を丸くした。


 抜けない。

 神剣が、鞘から出てこない。


 建国のおりに初代国王が神から授かったという伝説の剣が――持ち主を選び、選ばれた者にしか抜けないという剣が――今は選ばれたユングヴィにだけは抜けるはずの剣が、今に限って抜けない。


 焦った。


 どんなに引いても――起き上がってその場に座り込み鞘を体の前へ持ってきてむりやり引っ張っても、神剣は絶対に刃を見せようとしなかった。


「えっ、なんで?」


 先ほどまではこの剣で敵に相対していたはずだ。それなのに、なぜ、今になって急に抜けなくなってしまったのだろう。


「ちょっと、言うこと聞いて。お願い」


 神剣に懇願する。


「こんな時に限って勘弁してよ。お願いだよ、最後の一仕事だから……!」


 その時だった。


「誰だ」


 女の声が響いた。

 我に返って顔を上げた。


 次の瞬間、あれほど粘っていた神剣が緩んだ気がした。

 剣が鞘から飛び出すように抜けた。

 紅蓮に輝く刃が、真っ暗だった辺りを照らし出した。


 目の前に誰かがいる。

 まばゆく光る紅の刃のきらめきが、目の前の誰かの顔を照らし出す。


「赤い御剣みつるぎ――」


 女の白い顔が浮かんだ。


「そなた、まさか、ユングヴィか」


 ユングヴィは急いで立ち上がり背筋を伸ばした。


「王妃様……!」


 髪を覆い隠す絹の飾り布も、金銀に輝く首飾りや指輪もなかった。つい先日拝謁した時には美しかった顔の左目辺りが潰れて赤黒く腫れ上がっていた。体液が宝飾品に代わって濡れた輝きを放っていた。


 それでもなお気丈で気品ある声は、紛れもなく、この国の第一王妃のものだった。


「そなた、何ゆえ、このようなところに」


 ユングヴィは言葉に詰まった。王妃を前にして逃げてきたとは言えなかった。自分は彼女の夫に死ぬまで仕えると誓って神剣を抜いた身なのだ。言い訳は許されない。


 しかし王妃はユングヴィを責めなかった。

 むしろ、「良かった」と言って息を吐いた。


「王妃様……?」


 王妃が膝からくずおれた。

 ユングヴィは神剣を松明の代わりに壁へ突き立てた。空いた手を王妃に向かって伸ばした。急いで抱きかかえる。

 王妃の体に触れた瞬間手がぬめった。

 大怪我をしている。


「王妃様、お怪我を――」


 抱きかかえてから気づいた。王妃は何か大きな荷物を抱えている。王妃自身の体躯の三分の二くらいはありそうな大きさの荷物だ。黒い布に包まれていて中身が何なのかまでは分からなかったが、よほど大事なのだろう、王妃の白い手は荷物を離すまいとしていた。


「サータムの兵士たちが宮殿に砲弾を放ちよった」


 ユングヴィは蒼ざめた。


 蒼く輝く石片タイルの宮殿、我らがアルヤ王国の象徴たる蒼宮殿そうきゅうでんが、敵兵の砲撃にあって破壊されている。戦場には近づかなかった王族までもが傷ついている。

 あってはならないことだった。

 王族の皆を死なせてはならない。この国の神を殺させてはならない。


「王妃様、すぐに逃げましょう」


 ユングヴィは彼女を抱き上げようとした。将軍になってからこのかた二年一心不乱に体を鍛えてきた自分であれば彼女一人くらいは抱えて走れると思った。


 だがいざ腕に力を込めると、なかなか持ち上がらなかった。やはり重過ぎると感じてしまった。


 結局、王妃の体を地面に下ろした。


 王妃だけであればまだどうにかなったかもしれない。王妃の抱えている荷物が邪魔だ。この荷物が予想外に重い。


「よい、よせ」


 王妃が静かな声で言う。


「わらわはもう助かるまい」


 ユングヴィは顔じゅうを歪めた。


「何をおっしゃいます……! 今すぐに手当てを受ければ、あるいは、王妃様だったら――」


 投降すれば、と言い掛けて口をつぐんだ。

 ユングヴィが言わんとしていることを察したのか、王妃が自嘲的に笑んだ。


「わらわであったら――サータム帝国からアルヤ王国に嫁いできた、サータム帝国の皇女であったわらわなら、サータム兵たちも助けてくれるに違いない、と。ユングヴィは、そう考えるのか」


 答えずに首をすくめたユングヴィを、王妃は叱らなかった。


「そなたは良い子だなえ」


 王妃の頬を雫が伝ったのが見て取れた。それは血液よりも滑らかに流れて服へと落ちていった。


 王妃の左手が、荷物から離れ、ユングヴィの頭に向かって伸びる。ユングヴィのぼさぼさの赤毛を撫でる。


「わらわは、本当は、反対したのだぞ」

「何に、ですか?」

「おなごに……、それも、年端も行かぬ乙女に、将軍をやらせるのなど。ましてゆく先はあの都のごろつきがわんさかいる赤軍ぞ。アルヤの将軍とは神剣を携えるだけのお飾りであると分かってはいた。だがそうあったとしても軍属は軍属。陛下はなんとむごいことをと、ずっとずっと思っておったのだ」


 ユングヴィは目を丸くして口を開けた。まさか王妃が自分のことを気にかけてくれていたとは思わなかったのだ。


 冷静に思い返せば、王も王妃も他の将軍たちより自分をひいきしてくれていた気がしないでもない。軍の宿舎ではなく蒼宮殿の敷地内に新しく小さな家を建てて賜ったほどだ。

 それほどまでに恩義のある王を捨ててここにいる、と思うと、ユングヴィの胸はなおも痛んだが、


「だが、今となっては、良かったのかもしれぬ」

「何が、どう――」

「そなたは良い子だ。陛下にもよく尽くしてくれたなえ」


 王妃は「他のどの将軍よりも信頼できる」と、断言した。


「そなたに託すぞ」


 王妃は、それまで大事に抱えていた荷物を、ユングヴィに押しつけた。

 受け取ってから、気がついた。

 人間だ。人間の子供だ。人間の子供を、大きな布で包んでいる。

 温かい。生きている。




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