第29話潔癖男子の決死

 俺は二段飛ばしでアパートの階段を駆け上がり、ドアを閉めるや否や濡れた服をその場に脱ぎ捨てた。普段の俺なら雑菌が湧くことを心配して、絶対にそんな行動はしない。でも、今は別だ。一秒でも時間が惜しい。


 俺は濡れた靴下を履いたまま寝室へ行き、クローゼットから適当に服を引っぱり出して頭からかぶった。そしてそのままカッパをはおり、さっき履いていたのとは別の靴を引っかける。廊下に濡れた足痕が点々と残っていたが、構いはせずに扉へ手をかけた。


 扉を開けた瞬間、先ほどよりも強くなった風に家の中へ引き戻されそうになる。ふんばって耐えた俺は、鍵もかけずに、濡れた階段を駆けおりた。


「う……っ」


 弾丸のような雨粒が容赦なく顔を叩いて、前が見えづらい。排水溝からは水が溢れ、道路に流れ出ていた。坂道のせいか、道路には川のように水が流れている。


「風がきついな……」


 塀から飛び出た木の枝が、鞭のようにしなって俺に襲いかかる。俺は身を低くしながら、転ばないよう一歩一歩踏みしめた。途中、大きなワゴン車が向かいから走ってきて、泥を跳ねあげていく。


「……っく」


 俺のズボンに、一瞬にして泥の地図が描かれてしまう。


 最悪だ。ふくらはぎの辺りが冷たい。今すぐ戻ってこい今の車。完膚なきまでに洗車してやる……っ!


「うわ!?」


 今度は選挙のポスターが飛んできて俺の視界をさえぎった。足元から頭の先まで電流が走ったように震えあがった俺は、泥で汚れたポスターを、虫の息で顔から剥がした。


 ボディーブローのように吹きつける風と雨は、俺から体温を奪っていく。学校についた時点で海から上がったような状態になっていた俺は、震えをおさえながら先を急いだ。


 運動場は沼のようになっていた。校舎へと続く道に生い茂った木々はムチのようにしなって、女が怒りで髪を振り乱す様子に似ている。


「花壇は無事か……?」


 俺は寒さで真っ青になった唇を動かし呟いた。夢遊病のようにふらふらした足取りで花壇へと向かう。その途中、折れた小枝が飛んできて頬を叩かれた。指でそこを撫でると、ラテックスに血が付着していた。しかしその赤い血も、すぐに雨で流されてしまう。


 くそ、どうやら切ったみたいだな……。ラテックスをはめた手で触ってしまったが、大丈夫か……? 傷口に菌が入ったり……。


 そこまで考えて、俺は水気を払う犬のように首を振った。


 今は俺のことより紫倉さん! 百日草の方が先決だ!


 向かい風を押し切るように進み、俺は花壇の前まで辿りついた。花壇では百日草の芽が風に煽られていた。雨をたっぷりと吸った土が、心なしか膨張して見える。水を含んだコットンのように、押せば染み出してきそうだな、と思った。


 土から顔を出した芽は雛鳥のように頼りなくて、今にも空へ舞っていきそうだ。雨粒が一つ当たるだけで、うろたえたように震えている。


「百日草、お前……泥が跳ねるとダメなんて、俺みたいな奴に面倒な奴だな……」


 俺はビニールシートを広げながら呟いた。しかし暴風で泳ぐビニールシートは、中々ちゃんと広がってくれない。それどころか、脇に挟んでいた分のビニールシートは風にさらわれてしまった。


「おい待て! どこに行く気だ!」


 道端を転がっていくビニールシートを捕まえようと俺は走りだす。その途中でぬかるみに足を取られ、顔面から地面へ衝突した。唇に砂の食い込む感触がして、総毛立つ。


「……っ」


 一瞬、何やってるんだ、と思った。


 妙に冷静な気持ちになった瞬間だ。こんな苦痛を味わうくらいなら、潔癖症のままでいいんじゃないかって。


 痛いし寒い。極寒の地に裸で投げ捨てられたように身体が震えて、肺が刺されたように痛い。何より、汚い。みじめだ。みじめすぎる。


 俺は泥まみれの砂利をかき集めるように握った。


「……それでも……」


 何度も何度もくよくよしたり、めげたりした女々しい俺にも、愛想を尽かさず傍にいてくれる人たちがいた。ゆっくりと俺の成長を見守ってくれる人がいた。


 降りしきる雨は、紗幕のように俺の視界から花壇をさえぎろうとする。それでも、俺は視界の悪い中、百日草を熱心に見つめた。


「お前は、そんな人が大切にしている花だからな……目をかけてやらんわけにはいかないか」


 俺は立ち上がり、飛んでいった分のビニールシートを探す。幸いなことに、サッカーのゴールポストに引っかかっていたので回収はかなった。


 膝を落として低い姿勢で花壇までにじり寄る。何度も風に殴られて後退したが、粘って辿りつき、俺は背中を丸めて手早くビニールシートを広げた。


「……っつ!!」


 ビニールシートの上から、花壇の隅に杭を打つ。が、雨でトンカチが滑り、杭に添えていた俺の手を打ってしまった。電流のような痛みが一瞬で手首まで広がり、あとからズキズキとした痛みを寄こしてくる。


 具合を確かめるために手袋を剥がすと、軽いラテックスは蝶のように飛んでいってしまった。


「……ああもう、くそ!!」


 盛大に舌を打つと口の中に雨が入った。あと十メートルもの長さがある花壇を、手袋なしで保護しろって神様は言うんだな。そうなんだな!


「……ヤケだ、もう。やってやる!」


 耳をつんざくような風の音に負けないよう声を張り上げ、俺は濡れたトンカチを握り直す。かじかんで、いまいち感覚が分からない。むしろ、死後硬直のように手が固まって、持ち手から指が離れないんじゃないかと思った。


「……もう腹は括ったんだ」


 百日草に向かって俺は語りかける。


「だから、お前もダメになってくれるなよ」


 家族や友人、クラスメートを不快にさせるだけじゃなくて、俺にも何かを守れるんだと、慈しむことが出来るんだと教えてくれ。何より……。


 俺は冷えきった唇を噛んだ。


 何より、ぽっと心に火が灯るような……紫倉さんの温かな笑顔を、消さないでくれ。


「お前が俺や紫倉さん、羽柴を繋ぐ絆なら、これしきの台風になんか、負けないでくれ」


 身体の芯から冷えきっていた。麻酔を打ったように全身がぼやっとするくせに、鳥肌が止まらない。そんな中、ひたすら杭を打ち続けるのは孤独な作業だった。永遠にも続く苦行のように思えた。


 やっと終わりが見えた頃には、小学生が眠るような時間になっていた。びしょ濡れの髪から滴る水滴を、首を振って打ち払った俺は、深刻な顔で花壇に向き直った。


「…………もうシートも杭も足りない……」


 花壇を覆いつくすまであと五十センチといったところで、手持ちのシートも杭もなくなってしまった。

どうする。どうすべきだ?


「……考えろ……俺……っ」


 一本だって枯らしたくない。なら……。


 俺は小さく息をついてから、カッパを勢いよく脱いだ。そしてそれをそのまま、雨ざらしの花壇へかける。そのままでは吹き飛んでいってしまうので、覆いかぶさるようにカッパをおさえた。俺は一気に豪雨を浴びて、滝に打たれているような感覚を味わった。雨が口に入って息がしづらい。


 俺の手が届かない部分のカッパが風ではためく。台風が過ぎさるまでの間手を離してはいけないと確信し、俺はカッパを押さえつける力を強めた。


 ……雨が止み、風が凪いだのは、深夜を回ってからだった。

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