第27話潔癖男子の期待

 ジャージに着替えてから、俺たちは作業を始めた。温室から花壇までの距離は五十メートルもないが、花壇一面を埋め尽くすほどの苗を運ぶのは、結構な肉体労働だった。


 台車を使っても何往復か強いられてしまうし、腐葉土を台車に積むのも面倒だった。やっと花壇の前に全ての材料を揃え終わった時には、三人とも額から滝のような汗を流していたくらいだ。


 不快だ。今すぐ頭からシャワーを浴びたい。シャツが背中に貼りついて気持ち悪いから着替えたい。手が土臭い。


 だが、本番は今からだ。そう思い俺が気合いを入れ直していると、羽柴は


「中学までのそーちゃんなら、汗が目に入った時点で半狂乱だったのに、成長したよねぇ……」


 と、縁側に座って茶をすする老人のようにしみじみ言った。


 基本は軍手での作業だが、花壇に生えていた髪の毛のように細い雑草を引き抜くなどの作業は、素手の方がやりやすいので軍手を脱いでやった。


「シナガセさん、だいぶ土を触っても、平気になってきましたね」


「ああ……。百日草に愛着がわいてきたのかもしれないな」


 俺はスコップで花壇の土を掘り返しながら言った。空いた穴へ、黒いポットに収まった状態の芽を植え変えるためだ。


 カップに入ったプリンを皿に移すような要領で、ポットをひっくり返し中身を取り出す。その際に、バサッと袖口に土を被ったのには悲鳴を上げそうになったが、それは、まあ、あれだ。そういうこともあるだろうと、気を確かに持つことに全力を注いだ。


 中腰になりながら、等間隔に植えていく。株元に腐葉土を盛った。途中、うなじに貼りつく髪が鬱陶しくなったのか、紫倉さんと羽柴は髪を一つに結んでいた。


「やっと終わった……!」


 叫んだのは羽柴だった。


  三人でグンと伸びをした時には、空はもうとっぷりと暮れ、辺りは深海のように群青色に染まっていた。腰に手を当てて背筋を伸ばすと、呻くように骨が鳴った。


 紫倉さんは腐葉土の入った袋の口を閉じながら「お疲れ様です」と俺たちをねぎらう。彼女は普段から植物の植えかえをやっているのだと思うと、頭が下がる思いだった。


 それに、紫倉さんがこんな重労働を一人でやる羽目にならなくて良かったとも思う。一人でやったら、何日かかることやら……。


「あー……オレ、香水の匂い消えちゃってる……」


 羽柴はジャージの襟を引っぱって鼻に近づけ、匂いを嗅ぎながら言った。


「牛ふん堆肥の匂いするもん」


「やめろ、言うな。人がせっかく考えないようにしているのに」


 お望みなら今すぐ消毒液の匂いに変えてやる……。


 俺がジャージのポケットから除菌グッズを取り出そうとしていると、いつもなら止めに入るはずの紫倉さんが静かなことに気付いた。


「紫倉さん……?」


 紫倉さんは、植えかえたばかりの花壇を見下ろし、くしゃっと猫のように微笑んでいた。その笑みに、俺は毒気を抜かれてしまい、羽柴を攻撃するのを止めた。


「百日草の花言葉は『絆』なんです」


 まだ花の咲く気配がない百日草を見つめたまま、紫倉さんは囁いた。


「私……嬉しくて。百日草と一緒に、まるで私たちの絆も、育っていくようで」


「絆……」


 たしかに、種を蒔いた時から芽を出すまでの間に、俺たちの仲も、育っていったように思う。きっと、花が咲く頃にはもっと……。


「そうだね。花が咲く頃にはもっと、俺たちの絆も深まってるよ」


 羽柴は可愛い妹を見守るような目で、紫倉さんに言った。


「ねえ、そーちゃん?」


「……ああ、そうだな」


 そしてその頃にはきっと、俺は…………。




 校舎から漏れ出る明かりを頼りに、俺たちは薄暗い中、余った肥料や苗を台車に積んで、温室へと引き返す。使った道具を棚に戻していると、紫倉さんは「うーん」と唸った。


 唇を尖らせる彼女の視線の先には、机に置かれた百日草の苗がある。


「花壇に植えきれなかった分は、植木鉢に移して育てましょうか……。でも、それにしても余りすぎて置き場所が困りますね……」


「あ、じゃあ、オレ、ちょっと貰っていい?」


 羽柴が手を上げて訊いた。


「母さんがガーデニング好きでさ。最近オレが放課後学校に残ってる理由教えたら、うちの庭にも百日草植えたいって、目輝かせてたんだよね」


「それは……もちろんです! どうぞ!」


「やったー! きっと母さん喜ぶよ」


「それは良かったです。あ、今、袋に詰めますね」


 紫倉さんは羽柴が百日草を持ち帰るために、苗を袋に詰める。苗が倒れないよう、ドミノを並べるように慎重に袋詰めしていく紫倉さんの背中を見つめながら、俺は羽柴の言葉を頭で反芻していた。


 母さん、か……。


 姉さんの発言では、母さんは、俺を家から出したことを後悔しているようだった。それがもし、もし本当なら……母さんの笑顔は、戻ってくるんだろうか……。


「俺も、少し分けてもらっても、いいだろうか」


 半ば無意識に、俺の口からその発言は滑り出た。紫倉さんは意外そうに目を丸める。


「え?」


「いや、その……姉さんが、花、好きだから」


「ああ、はい、お姉さんに苗をあげるんですね。それはステキです!」


 紫倉さんは「少し待っていて下さいね」と言いながら、快く袋に苗を詰めてくれた。


 その後は三人で帰路を辿る。駅前で紫倉さんと羽柴と別れた後、俺は苗の入ったビニール袋を持ちあげて、小さく息を吐いた。


「……絆、か……」


 何かを期待しているんだろうか。俺は……。


 百日草が咲き乱れる頃には俺の潔癖症も治って、何もかもが良い方向に進むんじゃないか、なんて……。


「う……っ」


 急に背中から叩きつけるような突風を食らい、俺はたたらを踏む。空を見上げると、どんよりとした雲が星を覆い隠してしまっている。一雨きそうだ。


「……早く帰るか」


 ビニール袋をしっかり持ち直し、俺はアパートへと向かう。その時の俺はこの数日後、事態が急変するなんて、砂の一粒ほども気付いちゃいなかった。

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