第31話

「『名乗るほどの者ではございません。それに、元より名がないので。お好きにお呼びください」

』って、半吸血鬼の彼女に言ったつもりだったのだけど、覚えていないかい?」

「…は?誰が‟半吸血鬼”だって?」


 貴族の彼は肩をすくめ、確認でもするように「そうだろ?」と郁に問いかけた。顔を向けられた本人はフンとはなをならし、腕組みをしている。表情は苦々しく、歯ぎしりをする口元からはギラリと八重歯がのぞいている。


「やめてよ、その設定はあたしの本の世界でってだけ。本を抜け出したこの場所では‟ただの人間”よ」


 郁は最後に「何か問題でもあるわけ?」と喧嘩腰に付け加えた。

 ラムと勇者の彼女はオロオロとしてふたりの会話の行く末を見守っている。


「まあ、君がそう言うなら、そうなんだろうね」


 何がそんなに面白いのやら。彼は薄ら笑いを浮かべ、郁の発言を強くは否定しなかった。

 そうは言っても実際、彼女の身体能力が普通のレベルに収まるものではない事をラムはところどころ実感していたので、彼の発言も頷ける。そして、会話の流れをすっかり持っていかれてしまったと自覚をする。


「そ、そうだ。で、結局名前は?」


 そう切り出すと、彼はまた肩をすくめる仕草を見せる。


「『お好きにお呼びください』としか。私から言えるのは、そんなところだよ」


 彼は「いい加減分かるだろう?」とまで言い、ラムがこの後に言うべき言葉を催促する。

 横では郁がまだ腹を立てた様子で、その隣では勇者が気まずそうな表情でラムと貴族の彼の会話を聞いていた。


「そんじゃあ、あんたが勇者の言う‟魔王”なのか?」


 見え透いた展開、その核心に迫った。

 この、あまりに安易すぎる彼の誘導は、一体何を意味しているのだろうか。これではまるで一刻も早く正体を見破ってほしかったかのようだ。


 黙ったままのふたりの横ではムッとした様子だった郁がポカンと口を開き、黒目がちの瞳でラムと貴族の彼の間を行ったり来たりさせている。それとは対照的に微動だにしない勇者のルチルはようやく探し求めていた相手を見つけたかもしれないというのに、その表情はいまだ晴れない。


「…ここまでヒントを出しておいたのにラム君が気付いてくれなかったら、どうしょうかと思ったよ」


 やはりか、と思いつつラムは目を伏せた。そうしてラムが瞬きをする間もなく、あの人の好さそうな貴族の彼は姿を変えてしまった。

 勇者が身に着けているマントと似通った、しかし色合いは明らかに暗い紫と黒のマントを翻して、姿を変えた彼は勿体ぶったゆったりとした動作で格式ばったお辞儀をして見せた。


「見習い勇者のルチルよ、君が探し求めてきた魔王、そして物語上で倒すべき敵はこのわたしで間違いはないよ」


 温和な笑顔はその表情にはなく、悲しげな影を落とす瞳は弧を描き、見せかけの微笑みを浮かべてルチルに語り掛けた。

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