5.平塚比奈の場合

 化学の授業でたまに使う実験室の匂いが好きだ。

 古くなった木製の机、すこし錆びてる水道、茶色い瓶のいっぱい入った戸棚、そのどれからも少しずつ染み出すように出てくる、化学的な、でも古っぽい匂い。


 図書室にあるすごく古い本の紙の匂いが好きだ。

 全集とかの、ぶ厚くて、紙が薄くて、きっとぜんぜん誰も開かないままで置かれっぱなしの本からする、粉っぽい匂い。


 プールの匂いが好きだ。

 消毒のための強い塩素の匂い。日光で石の表面が焼ける匂い。排水溝あたりにあるこびりついた藻の緑の匂い。

 海でも室内でもなく、屋外のプールからしかしない、人工的な水場の匂い。


 体育倉庫の匂いが好きだ。

 白線を引くための石灰の匂い、あらゆる球技のボールに染み付いた土と雨の匂い、野球部のグローブの皮の匂い。


 どれも人に言うと、ちょっと引かれちゃうものばっかり。

 幼いころから、ヘンな匂いばかりが好きだった。

 実際、五歳くらいのころは色んなものの匂いをくんくんしすぎて、両親からは怒られたり、心配されたり。

 けど、それも結局直らないまま今にいたる。ところ構わずくんくん、はさすがにしなくなったけど。

 理解してもらおうとは思わないし、自分でもヘンだとは思っているけど。

 それでも好きなものは好きなんだから、しょうがない。


 あたしは今、体育倉庫の中にいる。

 折りたたまれた体育のマットの上に鞄を放り投げて、平均台に腰かけ、ケータイをぽちぽちして時間を潰しながら、この好きな匂いに包まれてる。


 変な青春の浪費のしかた。


「ふつーは、この体育倉庫だって、忍び込むとしたらちょっとエッチなこととかに使うもんだよね」


 自虐っぽく言って……あたしは、ふと考える。

 ここって、あたしでも簡単に入れちゃったけど、ほんとに「そういうこと」に使ってる人もいるんだろうか。


 あたしは立ち上がり、いつもよりもっと集中して、あたりをくんくん嗅いでみる。

 そういう匂いはしない。そういう匂いがあるのか、あったとしてどんなものなのかはわからないけど、少なくともここには、ここにあるもので構成されてる匂いしかしない。


 ちょっとがっかりしたような、ほっとしたような。

 立ち上がってちょうどよかったので、あたしはそのまま体育倉庫を後にする。


「……曇ってる」


 天気予報は晴れだったと思ったけどな、とか考えて、グラウンドの端を校門に向かって歩いていく。

 グラウンドの中心にはサッカー部。外周には野球部と……あれは何部だったかな。


 集団があたしの横を通り抜けていく。風の匂いに人の匂いが混じる。

 人とすれ違うときに嗅覚をとがらせるのは、もう癖になっている。


 こんどは一人、長身の女の人が走ってくる。百七十センチくらいありそうな背、細く引き締まった身体。体育系らしいベリーショートで、ランニングにしてはペースが早い。


 すれ違い――汗っぽい、鼻の奥にふわりと触れるような甘酸っぱい――


 あたしは思わず、その女性のほうを振り向いた。

 頭になにかが走ったような衝撃。

 今までに知らない、匂い――


 べつに追いかけられたりしているわけでもないのに、あたしはそこから走って逃げた。


「なんだったの、あれ」


 あたしは自分の胸元に手を当てる。……どきどきしていた。

 初めて嗅いだ匂いだった。匂い自体は似たようなものを知っているけれど、でもたぶんそうじゃなくて。

 あの人が発していることが重要なのだと、身体がそう感じていた。


「フェロモン、ってやつ?」


 口に出したところで応えてくれる人がいるわけでもなく、あたしは自分の言葉をそのまま保留にして、帰り道を歩きだす。


「解明の必要あり、かな」


 明日、あの人が誰なのか、探してみようと、あたしは思った。

 気づくと、空はもう少し暗くなっていて、あたりには雨の前触れを感じさせる、土っぽい匂いが強くなっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る