第10話(後編)

「いただきまーす!」

 カリカリに焼いたひとくちサイズのパンをピックフォークに突き刺し、グツグツといいかんじに煮立ったフォンデュ鍋の中へと突っ込む。くるくると回して入念にチーズを絡め取り、少し冷まして口の中へ。

「ん~~っ!!」

 待ち望んだ瞬間。旨味が頬の内側からじわっと広がる。

 落ちる! ほっぺた落ちてしまう!!

 先日、輸入雑貨店でゲットしたスイス製のチーズフォンデュセット。ここへ来て、ようやく日の目を見ることができた。

 一週間ほど前に朔哉さんから、この日何が食べたいかというアンケートを受けていた。そのときすでにセットを購入していたので、私は迷わず彼にこう申し出た。

 思う存分チーズを喰らいたいです、と。

「お前、ほんっとチーズ好きなのな」

 彼に対し、『私、乳製品大好きなんです!』と、ダイレクトアタックしたことはない。

 だが、私がこれまで幾度となくとった、本日同様あからさまな言動に、嫌でも気づかされてしまったようだ。

「好きですけど、今まで食べた中でこのチーズが一番美味しいです」

「そりゃよかった」

 さっきから動きっぱなしの私の口。面白いくらい食が進む。

 楽しいのだ、食べることが。

 彼曰く、この鍋の中には、チーズが3種類ほど投入されているらしい。さらに、白ワインも入っているとのことだが、アルコールをしっかり飛ばしてくれているおかげで、まったくもって問題ない。むしろ、いい仕事をしている。

 野菜を切っているとき、これらを調合している彼の手もとをちらっと覗いてみたのだが、手際がよすぎて逆によくわからなかった。

「朔哉さんって、どこでこんなに料理覚えたんですか?」

 彼に対する素朴な疑問。

 なんでも簡単にぱぱっと作ってしまう彼の手は、まさに神のそれだ。しかも、すべてプロ級の味。失敗作なんて、今まで一度たりともなかった。

「基本は、ばあさんに教えてもらった。あとは学生のころ、自分で適当に」

「独学ってことですか?」

「そんなたいしたモンじゃねぇけどな。大学って、地方から出てきたヤツ多いだろ? だからそいつら呼んで、ウチで料理して食べたりとかしてたんだ」

 大学時代、同じ学部の友人たちを自宅に招き、料理を振る舞っていたのだという朔哉さん。レパートリーは自然と増えていったらしい。

 ぎゅう詰めのカリキュラム。ハイレベルな講義。私の通っている大学にも医学部はあるが、みんな大変そうだ。それにひとり暮らしだと、学費や生活費を稼ぐため、私のようにアルバイトをしていた人も中にはいたはず。

 せめてご飯くらいはあたたかいものを……という、彼なりの気づかいだったのかもしれない。

「朔哉さんは、大学こっちだったんですね」

 これまでの話を聞くかぎり、彼から肯定の言葉が返ってくることは予測していた。

「ああ。お前と同じ大学」

 けれども、あとのプラスアルファの部分は、毛ほども予測していなかった。

 目をぱちくりとさせる私に、彼が続ける。……いけしゃあしゃあと。

「あれ、言ってなかったか?」

「初耳ですね、先輩!!」

 このパターン、前にもありましたよねっ!?

 そうか。だからこの前大学来たとき、迷わず薬学棟側の門に車停めたんだ。私が通ってる大学知ってるにしても、敷地まで把握してるなんて、ちょっとおかしいと思ったんだよね。……え? ちょっと待って。

「ウチの医学部、偏差値74だか5ですよね? バケモノですか」

「言うじゃねぇか、後輩」

 もはや点数と見まがうほどの偏差値。それを叩き出していた人物が目の前にいる。

 頭脳明晰であることは重々承知していたけれど、よもやここまでとは。

 ……また今度、試験前に手合わせて拝んどこう。ご利益りやくあるかもしれない。

 そんなことをひそかに目論もくろみながら、雪をかぶったように真白くなったブロッコリーを、最後にひとくち頬張った。

「満足したか?」

「大満足です」

 お腹いっぱい。

 チーズを思う存分喰らいつくした私は、彼のこの問いに大きく頷いた。

「ケーキは?」

「食べますよー、もちろん。別腹ですから」

「だったな。じゃあ、紅茶淹れるわ。ダージリンでいいか?」

「うん、お願いします。私、テーブル片しときますね」

「ああ。食器は水につけとくだけでいいぞ。あとでまとめて洗おうぜ」

「はーい」

 冷蔵庫から本日の勝者を取り出し、彼が用意してくれたダージリンとともにいただく。

 満腹にもかかわらず、甘いものが入るスペースができるなんて、人間の胃袋は実に神秘的だ。

 しっとりとした生地に、トロトロのカスタードクリーム。上に乗っかっているのは、ルビーみたいに真っ赤なイチゴ。

 こちらも、今まで食べた中で一番美味しいイチゴタルトだった。

 口に運び、頭上にこのイチゴと同じ色のハートを飛ばしていたところ、ふとさきほどの一件が蘇った。

 彼の流れるようなあの動きを脳内再生してみる。あいだは見えなかったゆえ、その部分はまるっとカットされているけれど。

「さっきの朔哉さん、かっこよかったです」

 惚れ直してしまいました。

 男の人同士のケンカとかって、もっと怖いものだと思ってたんだけど。なんだかスカッとした……なんて、不謹慎かな。

「ん? ああ、あれな。長年やってたことが、ちょっとは役に立ったみたいだな」

 私の告白に、ダージリンを飲みながら朔哉さん。

 謙遜している彼に、身を乗り出して抗議する。

「ちょっとだなんて、そんな! 朔哉さんがいなかったら、あの子たちもっと怪我してたかもしれないですよ」

 ふたりが抵抗しないのをいいことに、さらに調子に乗っていたかもしれない。あのハチ。

 この日の功労者は、間違いなく朔哉さんだ。そう心の中で少々興奮していた私に、彼が言う。

「でも、あの場でのお前の存在は、ある意味俺よりデカかったと思うぞ」

 私は、眉をしかめて首をひねった。

 はて?

「私、ハンカチにくるんだ保冷剤渡すくらいしかしてないですよ?」

 それだって、朔哉さんのおかげで思いついたことだし。保冷剤持ってたのだって、たまたまだし。

 合点がいかない。

 すると、いまだ首と頭をひねっている私のことを、彼はこんなふうに評価してくれた。

「まあ物理的に制したのは俺だけどな。あんな目に遭ったあとって、精神的に相当ダメージ被ってるから……お前のソフトな対応に、かなり救われたと思う」

「……」

「いい薬剤師になれるよ。お前なら」

 あのとき、とくに何かを意識していたわけではなかった。自分ができる唯一のことを実行しただけ。それも、たいしたことじゃない。

 だから、朔哉さんの言うように、ふたりに対する自分の接し方そのものが、直接傷を癒すことに繋がったのなら……。

「……ありがとう」

 これほど嬉しいことはない。




「朔哉さん」

「ん?」

「Merry Christmas!!」


 パアァンッッ——


「うおっ!?」

 ディナーを終え、ソファでリラックスしている彼めがけて放ったのは、大型クラッカー。

 かけ声は、ネイティブさながらの発音を意識してみた。

 派手な音を炸裂させ、煙とともに飛び出したカラフルなテープ。きらきらしていて、予想以上の見栄えだった。

 目もとに茶目っ気をたっぷりと含み、驚いて呆けている彼に問いかける。

「ビックリした?」

「めちゃめちゃビビったわ!!」

 大成功。

 ケラケラと笑う私がお気に召さないようで、彼は少々ムッとしていた。

「ほら、見て見て。これ、片づけ超ラクなんですよ」

「んなこたどーでもいいわっ!!」

 巷で噂の、お掃除要らずのクラッカー。

 テープの根もとがひもで本体とくっついているので、散らかる心配がないのだ。

 鼻歌まじりに飛び出したテープを巻き取っていると、さらに彼は不機嫌になってしまった。

 その顔が可愛くて、ついついニヤけてしまう。もちろん口には出さないけど。

「お騒がせしました。 はい。これ、どうぞ」

 ここで謝意も兼ねて、先日陽奈ちゃんとショッピングした際に購入していたものを彼に差し出す。

「クリスマスプレゼントです」

「俺に?」

「ほかに誰がいるんですか?」

 意外だといったかんじで若干戸惑う彼に、眉を下げて笑ってみせる。

 彼は、躊躇いながらも、なかなかに厚みのあるこの箱を手に取ってくれた。

「開けてもいいか?」

「はい」

 私の了承を得て、彼は丁寧にラッピングをはがし、中のB4サイズの白い箱を開封した。

 彼に選んだもの。それは、

「ストール? すげぇ。カシミヤじゃん」

 カシミヤの大判ストールだ。

「まだこれから寒さ厳しくなるし、使えるものがいいかなって思って」

「いい色だな。サンキュー」

 深い海のようなインディゴブルー。

 彼の手からそれを拝借し、そのまま包み込むように、彼の双肩にふわりとかけた。

「あっ、似合う似合う」

 あえてチョイスした寒色。

 暖色系のものもいくつか店頭に並んでいたのだが、彼なら、この洗練された大人の色を自分のものにしてくれるだろうと信じていた。

 思い描いていたとおりだった。大正解だ。

 グッジョブ、私。

「これ、肌触りよすぎ。あったけぇし」

 左手でストールの端を掴み、口もとへと持っていく。そんな彼の姿に、はからずもキュンとしてしまった私は、相当彼にご執心のようだ。

 気に入ってくれたみたいだし、本当によかった。

 しかし、目を細め、可愛らしいその光景を眺めていたのもつかの間。

「ちょっと座って待ってろ。あ、目瞑っといてくれな」

「え?」

 唐突にそう言うと、彼はストールを羽織ったまま、リビングから出ていってしまった。

 とりあえず、彼と入れ替わるようにソファに座ってみる。

 ……目瞑るの? なんで? 何するんだろう? あ、もしかして何かされる? 何かって何? まさかさっきのクラッカーの仕返しとか?

 瞼の裏を右往左往する疑問符たち。変に身構えてしまう。

 それでも、忠犬よろしく言いつけを守る私のもとへ、ご主人様が戻ってきた。

 ゆっくりと近づいてくる朔哉さんの足音と匂い。

 ……ん? なんだか首筋が冷たい。

「おー、いい感じ!」

 彼のこの声に、閉じていた目を開ける。どうやら、彼は私にペンダントを装着してくれたらしい。

 ひやりとした部位を確かめようと、自身の視線を胸もとに向けるも……。

「見えない……」

 かろうじて、トップの下の部分がちらりと映るだけだった。

 色はピンクみたい。……ピンク?

「あ、悪ぃ。ひとり満足してたわ。……ほい、鏡」

 棚の上から、黒い木枠の卓上ミラーを取って、私に手渡してくれた。受け取り、自身の胸もとを鏡で確認する。

 シンプルなハート型のトップ。その中に施された、中世ヨーロッパの門扉をモチーフにしたようなデザイン。

 私は、思わず驚倒した。

「えっ!?」

 ピンクって……ローズゴールドっ!? 18金じゃないですかっ!!

 え、ちょっとこれって……。

「ティ○ァニーっ!?」

 ブランド名を口にした瞬間、ネックレスが急に重みを増した。

 跳ね上がった心臓が飛んでいかないように、必死で引きとめる。

「見ただけでどこのかわかるんだな。すげーじゃん」

 何言ってるの、この人。『すげーじゃん』はあなたなんですけど。……しかも絶対桁一個違うやつでしょ、これ。

 つい先日、美容院で手にした雑誌に偶然これが載っていた。冬の新作だと。

 頭に金額が浮かぶ。本当にあった。怖い話。

 今にも意識が遠退きそうな私の左隣に、ドカッと腰を据えた彼。カラカラと笑いながら、こんなことをのたまった。

「甘やかされるときなんて年に限られてんだから、今日ぐらい甘やかされとけ」

「……いや、わたくし常に甘やかされまくってるんですが」

 この前からどれだけいい思いさせてもらってると思ってるんですか!! この人、自覚ないのかな……。

 溜息を漏らしてしまったが、すぐさま気を取り直す。

 そして、用意していた『アナザープラン』を実行するべく、私は彼にひとつお願いをした。

「朔哉さん、手出してください」

「?」

 不思議そうにしながらも、言ったとおり、握手を求めるような形で左手を差し出してくれた。彼のその手のひらに、あるものを置く。

「なんだ、これ」

 ストールと比べると、簡易なラッピングの小さな箱。

「もうひとつのプレゼントです」

 私が開けるように促すと、彼はまた丁寧に包装紙をはがしていった。

 すぐに顕わとなった、商品の写真がプリントされている外装。

「これ……」

 中身は、ハードディスクドライブ。

 デジタルアーティストには、保存媒体がいくらあってもありすぎることはないとの勝手な思い込みで選んだ。

 ある種、私の一方的な『想い』みたいなものだ。

「ドクターに戻っても、朔哉さんには、ずっと写真を撮りつづけていてほしいから」

 彼には、これからもフォトグラファーでありつづけてほしい。

 私の『想い』を彼に押しつけているだけの、プレゼントと呼べるのかどうかも怪しい代物。

 けれど彼は、手のひらのそれを、愛おしそうに見つめてくれていた。

「なんか悪いな。ふたつももらっちまって」

「そんなこと言ったら、私このペンダントもらえません。……私のほうこそ、すてきなプレゼント、ありがとうございました」

 毎日つけますね、と宣言すると、彼は微笑んでそれに応えてくれた。

 きちんと保管しとかないと。大学から帰って、『その辺にポイッ』とかしないようにしないと。うん。

 と、ここで最上級に『いいこと』を思いついてしまった。頭の上でフィラメントがぴかぴか光る。

「あ。じゃあ、もうひとつだけお願いしてもいいですか?」

「もちろん。俺にできることなら」

 隣の彼に目を輝かせながら注文を入れると、すんなり聞き入れてもらえた。

 できます、できます。すぐにできます。

 ペンさえあれば。

 そうして、バッグをあさり、アグレッシブに引っ張り出したのは、

「これにサインしてください」

 買ったばかりの朔哉さんの写真集。

「……マジで言ってんのか?」

「マジもマジ。大マジですよ」

 こんなナイスアイディア、今の今までどうして思いつかなかったのか。

 呆れた様子の彼だったが、私の要望を拒んだりはせず、空いたところにサラサラとサインペンを走らせてくれた。

 まあ、なんて達筆。

 彼のサインは、ローマ字の『SAKUYA HAYAMI』をベースにしているようだった。

 サインの中には、まるっきり原型をとどめていないものも多々あるが、彼のはちゃんと読みとれる。

「卒業したあとどうするか、もう決めてんのか? ……つっても、6年制だから、まだあと2年残ってるけど」

 ペン先が終着点に辿りつき、キャップが被せられる。思いがけず彼から尋ねられたのは、卒業後の進路についてだった。

 写真集をパタンと閉じ、『ほら』と彼。お礼とともにぺこりと頭を下げ、レア度が増したそれをありがたく頂戴する。

「バイトしてるから、調剤薬局にも興味はあるんですけど……やっぱり、病院に就職して、入院患者さんに向き合いたいなって」

 私は、写真集を膝の上に乗せ、そこに視線を落としたまま答えた。

 調剤薬局も、とてもやりがいのある職場だとは思う。大名先生のような管理薬剤師を目指すのも、それはそれで、また自分の可能性や道が大きく拓けるかもしれない。

 だけど、私は病院薬剤師になりたい。これは、私が大学を受験する前から決めていたことだ。

「それは……」

「……鈴原先生の、影響です」

 私の目標は、鈴原先生のような薬剤師。

 老若男女問わず、患者に真摯に向き合うその姿勢に、私は感銘を受けた。

 中学2年のときから、入院中先生に出会ったあのときから、けっして揺らぐことはない。

 それほど、私の中での先生の存在は偉大だ。

「あ、あの……」

 だけど、それは、

「どした?」

 彼にとっても、同じこと。

「あまり聞いたり話したりしたくないですか? その……先生のこと……」

 いや、同じなんかじゃない。

「つらい……ですよね」


 彼の中での先生の存在のほうが、貴いに決まっている。


 今でも、瞳の奥に、胸の奥に、先生との日々が焼きついて離れないはずだ。

 それはきっと、これからもずっと。

「……つらくないとは、嘘でも言えないけどな」

「……」

「けど、聞きたくないとか、話したくないっていう感情は、ほとんどない。お前と過ごすようになってから特に」

「……え?」

「俺は大丈夫。だから、そんな顔すんな」

 先日、花ノ井で先生の名前を出したとき、言葉を濁した彼。

 てっきり、先生をうしなった哀傷から、口にすることを避けているのだとばかり思っていた。

「それよか、お前は嫌じゃないのか? 瑠璃子のこと知ってるとはいえ、俺の口からあいつのこと聞いたりするの……」

 ようやくわかった。あのとき、彼が口をつぐんだわけが。

 私は大きな勘違いをしていた。彼は、私に配慮をしてくれていたのだ。

 本当にこの人は……どこまで優しいんだ。

「嫌ではないです。……変な話かもしれないけど、先生に対して嫉妬心とかはまったくなくて。……比較すること自体、おこがましいです」

 首を横に振り、彼の目を真っ直ぐに見つめて、飾らない自分の気持ちを伝えた。

「鈴原先生は、私にとっても、かけがえのない存在だから」

 先生がいなければ、今の私はいない。確実に。

 先生がいなければ、今の朔哉さんもいなかっただろう。

 先生の分まで幸せに……なんて、そんな大それたことは言えない。言いたくない。

 以前朔哉さんが言っていた。『瑠璃子が出会わせてくれた』のだと。私もそう思う。だから、先生がくれたこの出会いに感謝し、大切にあたためながら、彼との時を紡いでいきたい。

「この表紙の写真も、ニュージーランドで撮ったんですよね?」

「ああ。……その教会、知ってるのか?」

「知ってます。グッドシェパード教会でしょ?」

 グッドシェパード——善き羊飼い。

 イエス・キリストの象徴ともいえるこの呼称が名前の由来になっているのだと、いつだったか、本で読んだことがある。

 美しいと有名なテカポ湖に面した石造りの教会。空は無数の星々で、隙間なく埋められている。

 神田さんが持ってきてくれた見本誌を覗いたときはわからなかったが、じかに手に取り、これを目の当たりにして、私はひとり部屋で震えた。

 憧れのニュージーランド。中でも世界有数と謳われるこの絶景に。

 彼の卓越した素晴らしいその才能に。

「ニュージーランドはおふたりにとって、思い出の国なんですね」

「……ああ」

 彼がニュージーランドにこだわる理由。それは、ニュージーランドが鈴原先生と朔哉さんにとって、かけがえのない場所だからだ。

「お前に見せた瑠璃子の写真は、新婚旅行のときのなんだ。ニュージーランドは、あいつの希望でな。……また行きたいって言ってたんだが、それを叶えてやることはできなかった」

 悔やむように、惜しむように、彼は私の膝もとに目線を下ろした。そっと表紙を指でなぞる。

「気持ちに整理つけるために、去年の1月に仕事も兼ねて行ってきたんだ。そんとき、そこに飾ってあるのと、写真集に載せてある何枚かを撮ってきた」

 顔を上げて、今度は壁の写真を眺める。『結局何も変えることはできなかったんだけどな』と、彼は自嘲していた。

 現地で彼は何を思ったのだろう。

 ファインダー越しに思い出を映しながら。いなくなってしまった存在を悼みながら。

 涙をこらえていたのだろうか。無理して笑っていたのだろうか。

 もし、そうなら……今でもまだ、そうだとしたなら……。


 ——頑張ってるところ、あまりほかの人には見せないのよ。弱音も絶対吐かないし。


 私の前では、我慢しないでほしい。

「……さ、朔哉さん!」

 顔を近づけ、必死に呼びかけた。

 私が彼にしてあげられることなんて、たかが知れている。迷惑をかけていることのほうが、気をつかわせていることのほうが、圧倒的に多い。

 彼が与えてくれる半分も返せていないというのが実情だ。

「私、もっともっと大人になります!」

「……」

 それでも、この人を守れるようになりたいし、受け止められるようになりたい。

 それこそ、あさはかな考えかもしれないけど。

「一人前の薬剤師になって、一日も早くあなたにふさわしい人間になれるように頑張ります! だからっ——」

 ひと息でここまで言いきった一瞬の後。突然、言葉を発することができなくなってしまった。

 右頬に感じた手のひらのぬくもり。目の前に迫った朔哉さんの顔。

 漂う沈黙。


 私の唇は、彼の唇によって塞がれていた。


 長かった……と、思う。

 どれくらいの時間だったか、はっきりとはわからないけれど。

 そうして離れた唇。触れていた箇所の感触と熱は、なかなか引かなかった。

 茫然自失。

 何が起こったのか理解できず、放心している私に、静かに彼がこう言った。

「噛みつかれたりしたらどうしようかと思った」

「……そ、そんなことしないですっ!!」

 ここでようやく我に返った。

 彼が緊張をほぐしてくれようとして放った言葉だとはわかっている。わかってはいるのだが、ほんの少しだけカチンときた。

 そんなこと思いつきもしなかったですよ!! もうっ!! ファーストキスなのにっ!! ファーストキスな、の…………っ!?

 前言撤回。

 ここで、ようやく私は我に返った。

「ささささ、朔哉さんっ!?」

「何?」

「『何』じゃないっ!! 今、キスっ……!!」

「そうだな。キスしたな」

「~~~~っ!!」

 なにしれっと言ってるのよ!! 今のが私のファーストキスだって知ってるでしょっ!? 俯き、超弩級に真っ赤になった顔面を両手で覆い隠す。顔が熱いのか手が熱いのかもよくわからなかった。

 恥ずかしすぎて、とにかく彼の顔をまともに見ることができない。

「ほらほら、茉莉花。顔上げろって」

 そんな私の頭を、彼は両手でわしゃわしゃと撫でまわした。

 私の反応見て絶っっ対に楽しんでる、この人っ!! だって声が楽しんでるもんっ!!

 怒気と羞恥心で、血液が沸騰しそうだ。

 しかし、次に彼がとった言動で、荒れていた私の心はたちまち凪いでいった。

「……ありがとな、茉莉花。さっきのお前の言葉、すげぇ嬉しかった。……でも、今でもう十分だ。十分すぎるくらい、お前は俺にはもったいないよ」

 耳もとでそっと囁き、朔哉さんは私を優しく抱き締めてくれた。

 彼のこの声は、本当にずるいと思う。

 そんなことあるはずないのに……否定したくても、否定できない。

 込み上がってくる『愛しい』という情に感化され、彼が羽織っているカシミヤの内側から背中に腕を回す。それに応えるように、彼は、私を抱き締める力をさらに強めてくれた。

 この人が好きでたまらない。大好きで大好きでたまらない。

 喜びも、悲しみも、楽しみも、苦しみも……この人と、分かち合いたい。

 きっとこれが、人を愛するということなんだろう。

 しばらく抱き合っていた私たちは、どちらからともなく腕をほどくと、互いに顔を見合わせ、笑みを交わした。

「27日からだっけ? 神戸に帰るの」

「あ、はい」

「そっか。久しぶりにお袋さんとゆっくりして来いな」

「……はい」


 きよしこの夜。

 幸せな聖夜を過ごす彼らに、彼らの未来あすに、


 歌え、ハレルヤ。

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