第4話

 速水さんのマンションに通い始めて、早6日目。いよいよ、11月も残すところ、あと3日となった。

 この日は朝から雲行きが怪しく、バイト終了間際にとうとう雨が降り始めてしまった。

「あー、ついに降り出しちゃったかー。 茉莉花ちゃん、傘持ってるー?」

「あ、はい。持ってます」

 奥の調剤室から薬剤師の大名おおな美貴みき先生が声をかけてくれた。この降雨に、私が傘を所持しているかどうかを案じてくれたようだ。

 鳶色とびいろのショートカットヘアーに、涼しげな目もと。左の目尻には泣きぼくろがある。さばさばとした性格だが、いわゆる姉御肌で、まだ40代前半にもかかわらず、ここの責任者(管理薬剤師)としての手腕を存分に発揮している。

 サーッという音を立て、撫でるように降り始めた雨だったが、しだいに重量を増し、叩きつけるようなそれへと変わっていった。

 今朝家を出る際、荷物が増えることに多少抵抗はあったが、面倒くさがらずに傘を携帯した自分を褒めてやりたい。

「もう上がっちゃっていいわよ。暗いし、足もと悪いから気をつけて帰ってね」

 調剤室の戸締りを済ませ、店のほうに出てきた先生。レジ横に設置されたパソコンに対峙し、本日の売り上げを集計している私に帰宅を促した。

「ありがとうございます。もう少しで終わるので、これだけ仕上げたら帰ります」

 すでにほかの従業員は業務を終了し、現在この場に残っているのは私と先生のふたりだけ。

 データを打ち込み、入力漏れがないか確認して、パソコンの電源をオフにする。それから、スタッフルームへと向かい、ロッカーから荷物を取り出すと、急いで帰り支度に取りかかった。

 ここの薬局には制服なるものが存在せず、私服でOK(薬剤師も私服の上から白衣を羽織っているだけ)なので、着替える手間がない。非常に楽だ。

 バッグの中のスマホを何気なく確認する。

 すると、タイミングよく1通のメッセージが入ってきた。

「あ」

 それは、速水さんからのものだった。

「……え?」

 なんですと?

 彼から送られてきたその内容に、つい画面を凝視してしまった。そして、『それ』を確かめるべく、視線を手もとから薬局の外にじわりと移す。

 ——迎えにきた。

 目に飛び込んできたのは、見慣れた青いスポーツカー。まぎれもなく彼の愛車だ。

 ライオンがガオッと立ち上がっているエンブレムに、スタイリッシュなフォルム。車にそれほど明るくない私でも、フランスの超有名なメーカーのものだということくらいは知っている。

 車をじーっと眺めていると、運転席の彼と目が合った。

 ……ん? 何か喋ってる。

 ——乗れ。

 目を凝らしてよく見ると、彼の唇がそう動いたのがわかった。左手の親指を立て、クイクイと助手席を指している。

 わざわざ迎えにきてくれるだなんて想定外にもほどがある。けれど、大名先生の口から発せられたこれまた想定外の言葉に、私の目玉は飛んでいきそうだった。

「あら、イイ男。茉莉花ちゃんの彼氏?」

 …………はあっ!?

「ち、違いますよっ!! そんなんじゃないですっ!!」

 とととと、唐突に何を言い出すんですかっ!! ってか、どこをどの角度からどう見たらそう見えるんですっ!?

 グルグルと目を回し、両手を体の前でブンブンと交差させながら力いっぱい否定する。

「なーんだ。そうなの? つまんなーい」

 すると、口を尖らせて先生は拗ねたようにこうのたまった。

 子どもかっ!? そんなふうに可愛く言ったって、違うものは違うんですっ!!

 先生は常日頃から、『彼氏できた?』や『彼氏作りなさいよ!』などと、私に対して謎のプレッシャーを与えてくる。あげく、『地元を飛び出して大学へ行く理由は、結婚相手を見つけるためよ!』なんてぶっ飛んだ持論を展開してくれる始末(ちなみに先生の出身は四国らしい)。

「じ、じゃあ、お先失礼します!! お疲れ様でしたっ!!」

「はーい、お疲れ様ー。また明日もよろしくねー」

 腰を直角に曲げる勢いで先生にお辞儀をした私は、薬局を出て速水さんのもとまで駆け足で向かった。道路に広く浅く溜まった水が、足を踏み出すたびにパシャパシャとはねる。

 助手席に乗り込む直前、私はもう一度頭を下げた。先生は、これに手を振って、笑顔で応えてくれたのだが……。

「……あの人、どっかで見たことある気がするのよねー」

 ぼそりと呟いた大名先生のこの声が、私の耳に届くことはなかった。




「ありがとうございました」

 速水さんが車を走らせてくれたおかげで、濡れることなく、短時間で、彼のマンションに到着することができた。近いとはいえ、この雨の中を歩くのは、やはり億劫だ。だから、迎えにきてくれて本当に助かったし、ありがたかった。

「いんや。『飯食いに来い』なんて偉そうなこと言ってる手前、これぐらいはしないとな。風邪引いても困るし」

 少々(いや、かなり)強引な彼だが、こういう気づかいをナチュラルにできる点は、なんといっても大人だ。仮に思っていたとしても、車を購入、維持管理する財力がないと実行なんてできないのだから。不覚にも尊敬してしまう。

 そういえば、速水さんっていったい何歳なんだろう? 尋ねればあっさりと教えてくれそうなものだが、なんとなく時機を逃してしまっていた。

 ……今、聞いてみようかな?

 いまさらな感じもするけど、気になるものは気になる。私の勘だと、四捨五入して40だ。

 彼と並び、マンションの入り口へと足を運ぶ。私よりも数十センチ高い彼の顔を見上げ、それほど構えることなく、気軽に口を開いた。

「速水さ——」

 そのときだった。

「あれ? あいつ……」

 不意に立ち止まり、私の呼びかけに被せるようにそう言った彼の視線の先。エントランスへと続く自動開閉式の扉の前で、その場に佇んでいるひとりの男性の姿を捉えた。

 顔だけ見ると、女性といっても通用しそうなほどの美人だ。茶色い髪は絹糸みたいに柔らかそうで、肌は透きとおるように白い。しかし、着ているスーツや、細いながらもガチッとしているその体格から、ひと目で男性だと認識できた。身長も速水さんに負けず劣らず高い。右の脇には、黒革のビジネスバッグがかかえられている。

 私たちの姿に気づいたその男性は、いきなりこちらを……というか、速水さんを指さしながら、目を丸くして、大声でこう言い放った。

「あ!」

「あ?」

「朔が若い外国人の女の子連れ込もうとしてる!!」

「人聞きの悪いこと言ってんじゃねぇぞコラ!!」

 突然開幕した大人ふたりのこのやり取りに目を白黒させる。思わず速水さんの後ろに半歩下がってしまった。

 彼に公然とひとさし指を向けたこの美人さんは、神田かんだいつきさんというらしい。ふたりは高校時代の同級生で、神田さんは現在、大手出版社に勤務しているサラリーマンとのこと。

 なにやらあらぬ誤解をしていた神田さんを、速水さんはズルズルと部屋まで引き摺っていく。そして、ぺいっと放り投げるようにリビングに正座させると、両手を腰にあてて、私との関係を一から懇々と説明していた。もはや、あれは説教だ。

 そんなふたりを尻目に、オロオロしながらも、とりあえずお茶の用意なんかしてみる。

「なるほどー、そういうことだったんだね。良かったよ、親友が犯罪者になるところ見ずに済んで」

「……黙らせんぞ、樹」

「いやいやー、朔に黙らされたら冗談抜きで黙ることになっちゃうからね」

 速水さんに凄まれても、神田さんは独特の緩やかなテンポを崩すことなく、飄々としていた。頭上にふわふわとお花も浮かんでいる。

 この人、なんていうか……綿飴みたいな人だな。

「キミ、日本人だったんだ? ごめんね、早とちりしちゃって」

「いえ」

 緑茶を淹れて持っていった私に、神田さんは謝罪をしてくれた。これに対し、首を横に振ってにこりと微笑む。

 べつに気にしてなんかない。だって慣れてるもの。

 今まで絨毯の上で正座をして(させられて)いた神田さんだが、L字型ソファの短辺に腰かけると、合点がいったとばかりに、こんなことを言った。緑茶をずずっとすすりながら。

「あれだ。元医者としては見過ごせなかったわけだ」

 一瞬ポカンとしてしまう。

 私の聞き間違いじゃなかったら、神田さん、今『医者』って言ったよね? この話の流れだと、該当する人、この場にひとりしかいないよね? ……え?

「えぇっ!! は、速水さん、ドクターだったんですかっ!?」

「まあな」

「専門は……?」

「呼吸器内科」

 ソファの長辺に座って目を瞑り、平然とこう言ってのけた。こちらも緑茶をずずっとすすりながら。

 ほんとにどこまで見かけによらないんだ、この人は。俺様多才すぎでしょうよ。

 元内科医の料理上手な風景写真家——速水さんの肩書きが、またひとつ増えた。

「高校時代の朔はね、ほんっと嫌な奴だったんだよ」

 神田さんがにっこりと笑う。

「い、嫌な奴……?」

「樹!」

 都合の悪いことでもあるのか、はたまた単純に照れているだけなのか、速水さんは神田さんの発言を制そうとした。が、そんなことなどお構いなしで、ともに過ごした若かりし当時の速水さんについて、お花を浮かべながら神田さんは教えてくれた。

 それはそれは愉しそうに。

 お盆をかかえ、絨毯に両膝をついたまま、私は耳を傾ける。

「こいつ、空手部と写真部かけもちしててさ」

「わお、異色のコラボですね」

「空手はインターハイで優勝するわ、幽霊部員だったくせに写真はコンクールで金賞受賞するわで、『もう何コイツ!?』っていうね」

「あー」

「しかもコンクールの写真なんて出すつもりなかったのに、顧問に催促された締め切りギリギリのが受賞したんだよ!?」

「えぇ……」

「おまけに女子にはモテモテでさー」

「うわぁ……」

「ねっ、嫌な奴でしょ?」

「嫌な奴ですね」

 神田さんの話に得心し、同意を示す。力強く頷くと、私は心の中で彼と固い握手を交わした。ある種友情が芽生えた瞬間だ。

「……お前ら、初対面で意気投合しすぎだろ……」

 一方、速水さんは実に不快そうだった。眉をしかめ、呆れたようにこう漏らす。お情けで、彼の湯呑みにお茶をトポポと注いであげたのだが、『いいから自分の分淹れてお前も座れ』と指示されてしまった。仰せのままに、神田さんとは反対側の彼の隣に腰を下ろし、私もお茶をずずっとひとくちすする。

「で、お前今日は何しに来たんだよ?」

 速水さんは、気持ちをリセットするようにひとつ溜息をつくと、目の前でくつろいでいる自身の同級生を問いつめた。

「うん?」

 湯呑みの縁を口に当てたまま神田さん。その返事はくぐもって聞こえた。

 何か用事があってこの雨の中を訪ねてきたのだろうが、彼がしたことといえば、勘違いと暴露とお茶ぐらいだ。

「あ、そうだった」

 この詰問で、何かを思い出したように自身のビジネスバッグを手もとに引き寄せると、中から一冊の本を取り出した。それを速水さんに『はい』と手渡す。

「でき上がった写真集の見本誌」

「……ったく。お前そういうとこ、昔から全然変わんねーな」

 それは、今度出版予定の速水さんの新しい写真集だった。これほど大事な用件をあと回しにできるとは(本気で忘れていたのだろうか?)……どうやらただ者じゃないらしい。

 ふと垣間見えた表紙——満天の星空と湖に面した教会——だけで、これもまた、とてもすばらしい作品であることは容易にうかがえる。

 神田さんからそれを受け取った速水さんは、パラパラとページをめくっては、慈しむような眼差しを注いでいた。ファインダーを覗いた者にしかわからない、さまざまな想いが、これら一枚一枚には込められているのだろう。

「あはは。まあ、いいじゃない。もうかれこれ15年来の付き合いなんだし」

「馬鹿野郎。15年なんざもうとっくに過ぎたわ」

 見本誌をパタンと閉じると、神田さんに悪態をついて、速水さんは立ち上がった。おそらく本棚に仕舞い込むためだ。そのとき、彼に顔を正視されていることに気づいた。

 ——見るか?

 声には出していないが、たぶんこう聞いてくれている。私は、それに対し、ふるふるとかぶりを振って応えた。

 出版されているものならいざ知らず(それでも厚かましいと思った)、まだ公表されていないものを目にするのは、さすがに気おくれする。断らなければ……私の中の『良識』がそう言っていた。

 もちろん、彼の作品には興味がある。だから、今度はちゃんと書店へ足を運び、じかに手に取って、彼の芸術に浸ろうと思う。

 けれど、彼には失礼だが、それよりも興味を抱いてしまったことがある。さきほどのふたりの会話の中に含まれていたキーワード——『15』。推察するに20年は経過していない。それなら、『15』ではなく、『20』という数字を呈示するはずだ。マンション到着時に解消できなかった疑問を、今ここで解消できるかもしれない。

 高校時代の同級生であるふたりが、15年以上20年未満つるんでいるということは……。

「おふたりはおいくつなんですか?」

 速水さんが再度ソファに腰かけるのを待ってから、単刀直入にこう尋ねた。

「34」

「34だよ」

 口を揃えてすんなりと答えてくれたふたり。さすがは15年来の親友、息もぴったりだ。

 34……四捨五入して30か。惜しかった。

 神田さんは20代っていっても違和感ないかも。速水さんは年相応? でもこれ髭剃ったら若く見えるんだろうな。顔は整ってるんだよね。女子にモテモテだったって、神田さん言ってたし。

「大学4年ってことは……あ、もしかしてオレたちと干支一緒?」

 心の中でいろいろ思案しながら呟いていると、神田さんにこんな質問をされた。すかさず返答する。

「私、とりです」

「あー、じゃあ俺らと一緒だわ」

 ひとことだけこう発し、速水さんはぬるくなったお茶をごくごくっと飲み干した。




 ついつい話し込んでしまった。お茶がどんどん進む。

 花が咲いたのは、おもにオジサマふたりの高校時代の話題だった。

 ふたりは3年間同じクラスだったということ。速水さんは空手部の主将を、神田さんは弓道部の主将を、それぞれ務めていたということ。

 ほかにも、文化祭で行われたミスコンで女装した神田さんが優勝しただとか、告白してきた女子を速水さんがかたっぱしから泣かせていっただとか(全力で否定した速水さんに、神田さんはしばかれていた)、いろいろと面白いネタは尽きなかった。

 その後、夕食の準備にかかるため、速水さんはひとりキッチンへと入ってしまった。『そいつの相手してやってくれな』と私に言い残して。

 上から目線のこの発言には、さすがに神田さんも気分を害したのではないだろうかと懸念したが、当の本人は、『女子大生と話ができるなんて幸せ!』などと、これまた頭にお花を浮かべていた。

「それにしても茉莉花ちゃん、ほんと日本人離れの容姿してるね。髪染めたりとか、カラコン入れたりとかしてないんでしょ?」

 そんな彼に、首から上をしげしげと見つめられる。

「はい。……入学するたび、学校に『地毛証明書』を提出してました。大学はそういうのしなくていいから、ほんと助かります」

 今まで、幾度となく好奇の眼差しを投げつけられてきた。けれども、自分ではどうすることもできないし、みんなと同じように黒く染めるのもなんだか違う気がした。それに、べつにこの容姿が嫌なわけではないし、目に留まってしまうのは仕方のないことだとも思う。

 そういえば、面と向かってはっきり言われたの、速水さんに次いでふたり目だ。やっぱりこのオジサマたち、なにかと似てるのね。……だけど、黙ってジロジロ見られるより、こっちのほうがずっとマシかもしれない。

 ふたりにとってみれば、単なる素朴な疑問なのだ。悪意はまったく感じられないし、嫌味を言われているわけでもなかった。

「あっ、そうだ! 茉莉花ちゃんって、あの有名なシャンプーのCMに出てくる、ロングヘアーの人形に似てるよね!」

「……へ?」

 手をポンッと叩き、すっきりした様子で、突然こんな台詞を吐いた神田さんに、私は素っ頓狂な返事をしてしまった。このリアクションをしたのも、速水さんに次いで2度目だ。

 それってたぶん、CMソングで名前を連呼されてるあの人形のことだよね? まあ悪い気はしないけど。実際あの手の人形、何体か持ってるし。でも、それにしても……。

「私、あんな目力ありますか?」

「あるある」

「……」

 こんな例え方をされたのは初めてだ。本当にこの人たちは、予想の斜め上をいく。

「最近娘にせがまれて買ったばっかだから、すごく印象に残ってるんだよね」

「娘さんいらっしゃるんですか?」

「うん。小学1年生のね」

 ちょっとビックリ。だけど、34歳だったら、結婚して子どもがいたって全然不思議じゃない。

 ここで、とある疑問が、ふっと脳内をよぎった。

 じゃあ、速水さんは……?

 彼が結婚——こう想像しただけで、とたんに鼓動が速くなった。その音が、体の内側で、ドクンドクンと鈍く大きく鳴り響く。

 速水さんは、独身……だよね? じゃなかったら、私を家に呼んだりしないよね? そうだよね?

 自分にそう言い聞かせ、納得したと同時に湧き上がってきた複雑な感情。

 もしかして私、ほっとしてる……?

「飯できたぞ」

 速水さんのこの呼びかけに、思わず肩がビクッとはねた。完璧に上の空だった。

「あ……はい」

 ようやく『こちら』に帰還できたが、このときは、喉の奥からこれだけ絞り出すので精いっぱいだった。

「お前も食ってくか?」

「いや、今日は遠慮するよ。奥さんに何も言ってないから。また今度食べさせて」

 帰り支度を始めた神田さんに、速水さんは『ん』とひとことだけ返すと、彼を見送るため、玄関へと向かった。慌てて私もふたりについていく。

「例の件、上司には報告しといたから」

「悪ぃな、面倒かけちまって」

「ううん、こっちのことは気にしないで」

「サンキュ。気ぃつけて帰れよ」

「うん、お邪魔しました。 じゃあね、茉莉花ちゃん」

「あ、はい。お気をつけて」

 手をひらひらとさせながら、神田さんはマンションをあとにした。重たい音をともない、玄関の扉がガチャンと閉まる。それを見届けてから、私と速水さんは部屋に戻った。

 最後のふたりの会話がちょっとだけ気になったけど、仕事の話を私が聞いたところで無意味だということはわかりきっている。

 この日の献立は、八宝菜にかき玉スープ、それから具だくさんの春巻きだった。彼の料理は、今日も今日とてすこぶる美味だったので、しっかり一人前をぺろっとたいらげてしまった。

 本当に『慣れ』というのは不思議なもので、彼とこうして向かい合って座っていることに、今ではなんの違和感もない。自分の中で完全に『日課』と化してしまっているようだ。というか、むしろ落ち着く。

 これって、もしかして……。

「餌づけ?」

「……あ?」

「え! あ、いや……」

 しまった。心の声が心の声じゃなくなっていた。あーもー、陽奈ちゃんが変なこと言うから!

 私の謎の発言に、当然のことながら、訝しげな表情で彼がこちらを見つめている。彼の目に詰め寄られた。『説明しろ』との無言の圧力だ。

 観念した私は、瞼を閉じて、大きく嘆息たんそくする。

「この前、親友に言われたんです。『あんたの健康が保持できるんなら、餌づけでもなんでもいい』って」

 そして、先日の陽奈ちゃんとの例のやり取りを、しぶしぶ白状することに。

 すると、これを耳にした彼は、

「あはははっ!! 餌づけって……あはははっ!!」

 なんと、お腹をかかえて爆笑し始めてしまった。

「ちょっ……笑いすぎですよ、速水さんっ!! そんなに可笑しいですかっ!?」

 涙目で笑い転げている彼に、身を乗り出すようにしてもの申す。

 そんなに笑わなくてもいいじゃないっ!! 『餌づけ』がそんなにツボったわけっ!? まったくっ!! 速水さんも陽奈ちゃんも失礼だっ!!

 彼がこんなふうに大声で笑ったところを目にしたのは初めてだったので、ほんの一瞬呆気にとられてしまったが、私の中での怒りのゲージはすぐさま急上昇した。

「はーあ。……あー久しぶりだわ、こんなに笑ったの。いやー、言い得て妙だな。すげぇ面白いじゃん、お前の親友」

 左手で涙を拭い、やっと鎮まった彼だったが、まだツボが揺さぶられているらしく、ときたま肩を小刻みに震わせていた。

 なんだか腑に落ちない。そう思いながらも、まるでフグのように頬をぷくーっと膨らませ、目を据わらせるくらいしか、抗議という抗議を形にすることはできなかった。

 でも、怒気を含んだこの態度とは裏腹に、今の私の心模様は上々だ。彼とこうして過ごせることが、嬉しくて楽しくてたまらない。

 私が片づけをしているあいだ、速水さんはまたベランダで紫煙をなびかせていた。すっかり上がった雨。だが、外気はぐっと冷え込んでいた。

 彼が一服し終えたころにそっと近づき、その大きな背中越しに声をかける。

「寒くないですか?」

「……超さみぃ」

「中で吸えばいいのに」

 私に風邪を引かせまいと迎えにきてくれた彼。その本人が風邪を引いてしまえば、それは本末転倒というものではなかろうか。

 室内の暖気を少しでもベランダに流そうと、窓を開け放したまま外に出た。

「内科医なのに煙草吸うんですね」

「ははっ。肺に悪いことは百も承知だけどな。やめらんねぇんだわ」

 両肘を折り曲げて手摺りに乗せ、姿勢を低くしている彼の右肩と、自身の左肩を並べる。左利きの彼が手を動かす際、邪魔にならないように。

「……周りにちゃんと配慮できてるだけで十分ですよ」

 彼と顔を合わせることなく、私はぽつりと呟いた。

「え?」

「なんでもないです」

 彼は優しい。彼は——速水さんは、とは大違いだ。

 優しい彼に少しでも近づきたいと願ってしまう。近づいて、それからどうなりたいのかは、自分でもまだよくわからない。

「なあ」

「なんですか?」

「どうして、さっき見本誌見なかったんだ?」

「……今度は、ちゃんと自分で買おうと思って。持っときたいんです、手もとに」

 でも、この気持ちの名前は、今日はっきりとわかった。

「……嬉しいこと言ってくれんじゃん」

 私の頭に乗せられた彼の右手。わしゃわしゃと、少々武骨に撫で回された。なのに、ちっとも厭わしくない。それどころか、安らぎすらおぼえてしまう。

 さきほど、彼が結婚しているかもしれないと想像して、私は抱いてしまった。あろうことか、嫌悪感を。

 この気持ちの名前は、薄々勘づいていた。

 餌づけなんかじゃない。きっかけは、そうかもしれないけど。

 間違いない。私の中で芽吹き、花開いたのは、


 速水さんに対する『恋心』だ。

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