金曜日の追憶 - Sylvie Leclair (3)

 シスルは半ば呆けた顔でシルヴィを見上げていたが、何とか我に返って軽く首を振る。

「変な話だな。自分のことなのにわからないのか?」

 すると、

「私には、ここ数年以前の記憶がないから」

 あっさりと。あまりにあっさりと、シルヴィは言い切った。

 その答えは、シスルも予測はしていたけれど。それでも、こうも軽く言い切られてしまうとは思わなくて、絶句してシルヴィを見つめるばかり。

 シルヴィは、シスルの沈黙をどう捉えたのか、シスルを睨みつけて言った。

「……何か文句でもあるのか」

「文句はないさ。少し驚いただけで。ただ、どうして」

「任務中に、頭部を損傷した。それだけだ」

 嘘だ。シスルは叫びたくなるのをぐっと堪えた。淡々と喋るシルヴィに、嘘を語る様子はなかったから。彼女自身が事実だと信じているのであれば、余計なことを言うべきではない。

 それに――シスルがシルヴィの言葉を嘘だと断じたのも、あくまでシスルが持つ数少ない情報から導き出した「推測」にすぎない。その推測が誤っている可能性だって、否定はできないのだ。

 シスルは軽く咳払いをし、「話が逸れたな」と言葉に出すことで、己の意識をシルヴィの話に戻す。

「つまり、過去の自分がどういう奴か知りたい、ってことか?」

「いや」

 シスルの予想に反し、シルヴィは首を横に振った。

「過去の自分に興味はない。任務をこなす上で必要なのは、任務に対する知識と技術、それ以上でも以下でもない。己についての記憶に、何一つ意味はない」

 その言い方を、どこかで聞いた気がして。シスルは背筋がぞわりとするのを感じた。己の奥深くに閉じ込めておいた大切な何かに、意識せず触れてしまったような、感覚。

 そんなシスルの内心の動揺には気づかず、シルヴィは組んだ己の指先を見つめながら、ぽつりと言う。

「ただ、初めてあの場所を見た時に……忘れてはいけないものを忘れている、ということを、突きつけられた気がした」

 ――そんなことは、今まで、一度もなかったのに。

「忘れてはいけない、ということははっきりしているのに、いざ思い出そうとすると、酷く頭が痛む。先ほど倒れたのもその延長だったのかも、しれない」

「……そりゃあ、思い出したくないんじゃないのか?」

 果たして、シルヴィが「思い出したくない」のか、それともそれ以外の誰かがシルヴィに「思い出させたくない」のか――というところまで考えて、シスルは思考を遮断した。

 それ以上は、考えてはならない。自分は、シルヴィではない。

 どれだけ想像を膨らませても、結局彼女の力になどなれはしないし、そもそもなる気もないだろう? 単なる好奇心で自分の身を滅ぼすような真似は、二度も三度もすべきではない。

 そう自分自身に言い聞かせて、内心の動揺を押し隠す。

「案外、どうでもいい記憶だったのかもしれないぞ。アンタの、他の過去と同じでさ」

「ありえない」

 ぴしゃりと言いきられた。

 これには、シスルも少々むっとして、問いを投げかけた。

「根拠は」

「根拠なんてない。だが、わかるんだ。私を責め立てる声が、内側から、痛みの向こうから聞こえてくるんだ」

 実際に、痛みを堪える表情を浮かべたまま、シルヴィは己の指先からシスルに視線を戻した。

「だから、知っていることがあるなら、教えてほしい。どんなことでも構わない。今はただ、手がかりが欲しい。それだけなんだ」

 それは、今日、顔を合わせたその瞬間の態度とはまるで違った。あの刺々しさはもはや欠片も見えず、瞳には、すがりつくような色が宿っている。かつて、機械のような冷酷さでシスルの前に立ちはだかった代行者シルヴィ・ルクレールとは、まるで別人だ。

 そんなシルヴィを見据えて、シスルは深々と息をつく。

「かわいいお嬢さんの頼みじゃ、断れないな」

 冗談交じりの言葉ではあったが、どうにせよ、断れないのは事実だ。ここまで話を聞いてしまった時点で、シスルに取れる行動は一つだった。

「――私が知っていることは、本当に噂の範囲だ」

 これは、決して嘘ではない。

 シスルは、シルヴィが関わったかもしれない事件を、この目で見たわけではない。色々と想像することはできるけれど、今ここで必要なのは、一般的に知られている情報だ。シスルの推測ではない。

「今から数年前……五年くらい前だったかな、外周北地区に大勢の兵隊が派遣された。塔の連中が外周に来ることなんてめったにないから、そのことを覚えてる奴は結構多い。

 ただ、そこで何があったのか、知ってる奴はほとんどいない。知っていても、塔に口止めされてるのかもしれない。それは、私の知ったことじゃないが。

 表向きには爆発事故、と言われているが、実際のところ爆発の跡なんてどこにもなくて、塔が流した偽の情報だろうと言われている。

 はっきりしているのは、その日、大勢の兵隊が北地区に向かったこと。その周辺で、地元の人間とは思えない女の子が何人も見かけられていたこと。そして、北地区の一角で、大勢の兵隊と女の子が死んでいたこと」

 シルヴィが、変な音を立てて息を飲んだのが、わかった。

 この断片的な情報から、想像すべき点は多い。例えば、兵隊が何のために派遣されたのか、とか。現れた少女たちは何者だったのか、とか。何故、兵隊と少女どちらもが殺されていたのか、とか。

 ――仮に、その場にシルヴィ・ルクレールがいたとすれば、「どちらの立場」だったのか、とか。

 再び頭を抱えはじめたシルヴィの肩を、軽く叩く。はっと顔を上げたシルヴィに、意識して穏やかに微笑みかけてやる。言うなれば、闇の中で怯えて震える動物に、そっと手を差し伸べる感覚で。

 この強面でどれだけその努力が功を奏するかは、考えないようにして。

「ま、どう捉えるかはアンタの勝手だ。私の言葉を鵜呑みにしてもいいだろうし、法螺と断じてもいい。これをきっかけに調べてみる、という選択肢もあるだろう。ただ」

 言葉を切る。不安げに揺らめく青い瞳を見据えているうちに、これを言っていいものか、迷ったからでもあった。だが、どうしても……これだけは言っておきたくて。シスルは薄い色の唇を開く。

「私としては、聞かなかったことにして、忘れてしまうことをお勧めするかな」

「何故?」

「アンタが関わっていたとすれば、今の物語にハッピーエンドはありえないからさ。人間は悲しみに押しつぶされないために『忘れる』って機能を持ってるんだ、わざわざ思い出そうっていうなら、悲しい記憶よりとびきり幸せな記憶の方がいい。違うか?」

 シルヴィは、ぽかんと口を開け、何とかシスルの言葉を飲み込もうとしていたようだったが、やがてゆるゆると首を振った。

「……私には、理解できない」

「だろうな。ま、阿呆の戯言と思って聞き流してくれ」

 シスルはへらりと笑い、テーブルの上に置き去りになっていた粥の皿を指す。

「そろそろ食えるんじゃないか? 冷めるのを通り越して、すっかり冷えてるかもしれないが」

 自分でも食べられはするが、「味わう」ことができない以上、それができる人に食べてもらった方がこいつも私も幸せだから。そう付け加えると、シルヴィは何故か眩しいものを見るよな目でシスルを見つめ、それから、ぽつりと言った。

「つくづく、変な男だな」

 どこか呆れを含んだシルヴィの言葉に、シスルはミラーシェードの下で目を細め、毛のない頭をかいた。

「そうかな」

「ああ」

 シルヴィは、すっかり冷めてしまった粥をすくいとり、口に含む。その瞬間に、今までほとんど仏頂面だったシルヴィが、目を見開いた。

 もしかして不味かったのだろうか、と少しだけ不安になったが、シルヴィは……初めて、ほんの少しだけ微笑んで。

「だが……不愉快では、ないな」

 シスルの聞き間違いでなければ――そう呟いたように、聞こえた。

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