火曜日の書窓 - Maria Lovelace (2)

 二十分ほどしてシスルは、立ち読みしていた一冊から目を上げた。品定めのつもりだったが、続きは家で読んだほうが良さそうだ。

 それを含めて三冊ほど本を抱えたまま、棚から顔を出す背表紙たちに再び目を滑らせていく。と、少し高い棚に、かねてから探していた一冊があった。補修の痕が目立つ、もう随分古いものらしかったが、そのかすれたタイトルはきっと間違いなく……シスルは少年のように胸を高鳴らせながら手を伸ばす。と、

「あっ」

「きゃ」

 同時に背伸びして本を求めたらしい例の少女の手が、シスルの指に触れて跳ねた。そのまま不安定な少女の足は床を滑り、手にした本ごと――シスルの腕のなかに崩れ落ちた。バサバサと、不規則な音が響く。シスルの手を逃れ落ちた本が、板張りの床に撒かれた。

「アンタ……」

 と、思わずシスルは口走っていた。

 一つには、少女の顔に見覚えがあったからだ。――ただし、一方的に。この少女の名はマリア・ラブレス。上級学校を今年で卒業する予定だったはずだ。黒髪眼鏡に三つ編みという典型的なまでの文学少女としての記号を持ちつつも、残念ながら三つ編みが二本ではなく一本であることに、シスルは彼女に関わった当時(何とも勝手なことに)地団駄を踏んだ覚えがある。

 もう一つは、ぱっと見た印象よりも彼女の胸の膨らみが大きかったから。そして最後には、指に触れた少女の項に、覚えのある感触が――決して喜べはしない感触が、あったからだった。

「あっ、あの」

 半ば呆然と少女を眺めるうちに、まさか自分とシスルが関わっていたとは露ほども考えていないであろう彼女は、驚きの呪縛を解かれて、微かだが、不思議に伸びやかな声で囁いた。

「ごめんなさい、あのっ、いま、どきますからっ」

「あ、いや、ごめんごめん」

 シスルは同じく囁くように言いながら慌てる少女を抱き起こす。ついでに乱れた襟元とスカートの折り目を軽く整えてやった。「怪我、ないかな」

 帽子があるとはいえスキンヘッドにサングラス、その上視覚補助装置のためのケーブルが見える顔では流石に引かれるかと思ったが、意外にも少女はそういった慄きは見せなかった。それどころか、

「本、」

 と言うなり、彼女を抱きとめるためにシスルの手からこぼれた本を拾うと、丁寧に埃を払って頁の角を正し、「すみません」と手渡してくれる。シスルはちょっと拍子抜けしたような気分になりながら「こちらこそ。ありがとう」と受け取った。珍しく、度胸の座った子だ。

 物音を聞き付けて駆けてきた司書に「ちょっとぶつかってしまって」と浅く低頭し手刀を切る。気を付けてくださいね、と微笑をくれたきり、通路には再びシスルと少女だけが取り残された。いかんともしがたい沈黙が、二人の間に横たわる。

 耐えかねたシスルは首の後ろを軽く掻くと、何気ない調子で訊いた。

「取りたかったの、どれ?」

「え?」

「本」

「え、あ、……アリス、です」少女はそう言ってから慌ててふるふると首を振り「鏡の国のほう」と小さく付け加えた。

「わかった」

 シスルは再び上の棚に手を伸ばすと、自分が取ろうとしていた本……古びた『鏡の国のアリス』を棚から抜き取った。背表紙の印象どおり、ずいぶんと古く、もはや表紙の絵がほとんど擦り切れている。本を綺麗に保つためには、本の「地」を棚にこするのではなく、表紙と背表紙を、ほかの本とすり合わせて出し入れする。だから、こういうところにある本ほど、表と裏の印字は先に消えていきやすいのだ。それでも(擦り切れてしまったあとからではあるが)上から保護テープが貼られているので、マシな方だ。

 シスルはちょっと本を眺めたが、そのまま少女に差し出した。

「はい、どうぞ」

「すみません」

「気にしないで」

 何となく気まずくて、シスルはただ軽く微笑むと、そのまま棚を抜けようとした。しかしそれを、肘のあたりを引く感触に引き留められる。

「うん、何?」

 シスルはなるべく温かく聞こえるように気を付けながら、振り向いた先のマリア・ラブレスに問いかけた。少女は、すっ、と先ほどの『アリス』を差し出す。

「これ、取ろうとされてたんですよね」

「……どうして?」

「何も借りずに他の棚に移るなら、これを借りたかったんじゃないかって……えと、違ったらすみません」

 シスルは内心、ふむ、と感心した。

「確かにそうだけど、いいんだ。気にしないで」

「いえっ。その、私はいつでもいいので」

「いいよいいよ。レディ・ファーストってことで」

「私は学生ですし、必要なら電子メディアで」

「いいんだって。どうせ内容は覚えてるんだ。好きだから」シスルはそう言って、歌うように続けた。

「『ひとつだけたしかなのは、白い子猫は何にも関係ないってことだ。』」

 すると静かな、しかし張りのある声があとを引き取った。

「『なにもかも黒い子猫のせいだったんだよ。』」

 少女は眼鏡の向こうからサングラスの下のシスルの眼を覗いて、にっこりと微笑んだ。シスルもまた、つられるように笑い返す。

「……いい冒頭だ」

「ええ、とっても」

「『不思議の国』もいいけど、冒頭だけを見ると、『鏡の国』のほうが素敵だ」

「私もそう思います」

 シスルは本をそっと少女のほうに押し戻した。

「私はまた再来週、借りに来るから」

「でも」

「いいんだ、好きだという人のもとに行くなら」

 追い縋りかけた少女をよそに、シスルは棚を抜け、公用語以外の言語で書かれた作品の棚に向かった。

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