彼女のフィリア、私のエチカ

くすり

Before Snow

第1話 What is Love?

 恋ってなんだろう。

 高校生になって、そんなことを考える機会が前よりも増えたように思う。二年弱の高校生活をおくってみて、この思いはますます強くなってしまった。

 倫理の時間に習ったけれど、古代ギリシアの人々は愛をよっつに分けて考えていたらしい。ひとつ、性愛エロース。本能的で肉体的で、原始的な愛。ふたつ、神の愛アガペー。神さまの無償の愛、人間への隔てない博愛。みっつ、家族愛ストルゲー。親が子を慈しみ、子が親を労って、兄弟が互いを敬う愛。よっつ、隣人愛フィリア。友人、恋人や、自分でない他人を好ましく思う愛。

 そのどれもが、きっと美しいものなんだろうなあ、と漠然に思う。愛はきっと綺麗だ。そして、愛へとつながる架け橋である恋は、もっと綺麗なんだろう。

 けれど、少女マンガを読んでも、テレビドラマを観ても、恋愛小説を読んでも、友達の恋バナを聞いてもわからない。目があうだけでどきどきして、話すだけで緊張して、いつも彼のことを考えて、不意に突然会いたくなって。言葉では理解できる。それでも、ちっともわからないんだ。

 宮橋みやはしみやこには恋愛がわからない。

「わからなくたっていいよな」

 聞こえた声にゆるりと視線をあげると、見慣れた顔が笑っている。たちばな圭一けいいち。私の、、幼馴染だった。

 思索にふけっていた意識が、だんだんと現実に復帰してきて、窓から射し込む眩しい夕陽に思わず目を細める。突っ伏したままうつらうつらと考え事をしていたら、ずいぶんと時間が経ってしまったらしい。

「……どういうこと?」

 まだぼやけたままの視界に映る圭一に、私は適当に訊き返した。まさか、私の考えてたこと、口に出てないよね?

「それだよ、さっき配られたやつ。何になりたいか、なんて突然言われたら、わからなくたって仕方ないだろ」

 指されたところを見ると、確かに見覚えのあるものが私の机に載っている。真っ白い紙だ。白紙である。白紙であってはまずいこと以外は、何の変哲もないただの紙だ。

「……ぅぁー、圭一はなんて書いたの?」

「俺か? 俺は……まあ、俺も同じようなもんだよ」

 落ちていく陽を背にして窓際に立っている圭一の顔は、輪郭も曖昧でいまいちよく見えない。

 それから、今日のロングホームルームのことをおぼろげに思い出す。担任教師の言っていたこと。もう二年の十二月なんだから、真剣に進路のことを考える時期だぞ、受験にしろ就職にしろ、調査票にきちんと書いて提出──。

「……っはああぁぁぁ〜〜〜〜……」

「おい。そんなんじゃ幸せが逃げてくぞ」

 思わずついた大きなため息に、圭一は呆れたような声で注意してくる。圭一って基本的にリアリストのくせに、昔から変な迷信だけは信じてるんだよね。

「……幸せって、なんなのさ」

「あー……確かに。なんだろな」

 私がこう言うと結局、圭一も一緒になって悩みはじめてしまう。私たちは案外、似たもの同士なのだ。何かを漠然と理解した気になっていて、本当はそれが何なのかもわかっていない。

 みんな、そんなものなのかもしれない。誰だって、夕焼けの下みたいに、弱々しい光に照らされた、朦朧とした世界に生きている。目の前にあるものが何なのかさえ、はっきり見えない。本当はわからない。

 わからなくたって、いいのかな。わからないままでも生きていけるのかな。

「……まだ、時間はあるよね。調査票も来週提出だし」

 私がそう言って、もう一度机にぐったり伸びても、圭一から返事は返らなかった。

 ただ、しばらく沈黙があってから、そろそろ帰ろうぜ、と提案してくるだけ。

 普段の圭一なら、そんなこと言ってると提出日に忘れてくるぞーとか、なにやら口うるさいことを言ってくるのに。

 圭一らしくない、と思いながらも、別に気にすることでもないと高を括って、私はカバンに適当に荷物を放り込んで、圭一を追って教室を出た。

 気が付いたら陽はとうとう落ちてしまって、家に着く頃にはあたりは真っ暗だった。


      ◯


 自慢じゃないけど、私は朝に弱い。

 こんなしょーもないことを言ってたら、圭一なら、本当に自慢じゃないな、とか苦笑しながらつっこんでくるんだろうけど、あいにく圭一は朝から担任に相談があるとかで、少し前に職員室に行ってしまった。よって私はいま、絶賛暇を持て余し中である。というわけで、なんとなく前の席の諏訪さんに声をかけてみることにした。

「ねー、諏訪さんはもう進路希望調査書いた?」

 諏訪さんは黒ぶちメガネの女の子。二年E組の頼れる学級委員長で、今日も朝から授業の予習をしてるみたい。けれど実は、きっちりした印象とは裏腹に、彼女の趣味はかわいいものを集めることで、机の傍らに置かれたペンケースにも、もふもふしたクマのマスコットがつけてある。彼女は長い黒髪を軽く揺らして答えてくれた。

「書いたよ。宮橋さんは? いつも提出物ぎりぎりで出してるんだから、今回ぐらいは早めに出しとかないとダメだよ。進路希望調査はとくべつ大切な書類なんだから」

「うへぇ〜、諏訪さんもそんなこと言うの?」

 も、と口に出してみて、〝も〟じゃないことに気がついた。言われてない。そういえば、言われなかったんだった。

「も、って。他の人にも言われたの?」

「あ……いや、うん。言われたような気がしてた、いや、言われるような? でも……言われてなかった」

「…………なにそれ?」

 諏訪さんはちょっと笑ってる。私もつられて少しの間二人で笑いあった。

「あ、そうだ。言われるような気がしてた人って、もしかして橘くんのこと?」

「あー、そうそう。圭一ぐらい口うるさいのなんてなかなかいないからね」

 眠い目をこすりながら応えると、諏訪さんは思いがけないことを言い出した。

「そういえばさ。前から気になってたんだけど、橘くんと宮橋さんってつきあってるの?」

「…………は?」

 一瞬、私は固まってしまった。というのも、いままで全く考えたことがない、想像したことすらない話だったからだ。私と、圭一が、つきあう? そんなの──

「──ありえない。まさか、私と圭一にかぎってそんなことあるわけないでしょ!」

「そう? だってあなたたち、仲良いじゃない」

「いやいやいや、それは幼馴染だからであって──」

「まあ、つきあってないならつきあってないで、私は別にいいんだけど」

 ──なんて、諏訪さんが含むところありげな切り上げ方をするものだから、私はなんとなく気になってしまって、おそるおそる追求する。

「…………けど?」

 諏訪さんはなんでもないような顔で、けれども少しだけ隠しきれないにやつきを垣間見せて。

「橘くんってけっこう女子に人気あるみたいだから。それを聞いたら喜ぶ子もいるんじゃないかなあ、ってね」

「いや、嘘でしょ? まさか圭一がモテるなんて」

 思わず笑ってしまう。圭一がモテるとか、あまりにもおかしい。あの、つまらなくて、堅苦しくて、口うるさいだけの朴念仁を好きになる女の子なんて、どこを探してもいるわけがない。

 けれど、諏訪さんはちょっと声を低めて続ける。

「プライバシーだから名前は言えないけど、相談してきた子はいるよ。橘くんと仲良くなりたいって」

「…………マジで?」

「マジで」

「うわあ…………」

 頭を抱えて、圭一みたいな奴がモテるらしいことへの疑問を、意識の海にぐるぐる転がしていると。

「──おはよう、宮橋さん」

「あら、朝比奈さん。今日も早いね」

 聞こえた声に顔をあげると、クラスで一番というくらい整った顔立ちが目に入った。そうだよ、モテるっていうのはこういう子につかう言葉なんです。

「おはよ、朝比奈さん」

 朝比奈あさひな瑠璃るり。潤って艶のある肩までの黒髪と、信じられないくらい白い肌。表情はいつもアンニュイな無表情に閉ざされている。

 朝比奈さんはあまり人と積極的に関わるタイプではないようなのだけど、こういう挨拶は、何故だか私にだけちょくちょくしてくれる。今日も、朝比奈さんは私からの返事を聞くと、眉ひとつ動かさないで、自分の席に戻ってカバンを脇に置くと、おもむろに取り出した文庫本を読み始めた。

「──やっぱり綺麗だよね。朝比奈さん」

「あ……うん」

 諏訪さんの声に生返事を返す。私の思考は、一時彼女のことで占領されていた。朝比奈さんの表情はいつも変わらない。凍てつくほど冷たくて、だけど恐ろしいほどに綺麗で──。

 私ははっと我に返ると、すぐに諏訪さんとの会話に立ち返ってきちんと返事をする。

「……あれくらいの美人をモテるって言うんだよ。きっとすごい数の男子に告白されてるはず」

「一年生の時には、それこそものすごい告白されたらしいけど、誰ともつきあわなかったみたいだよ?」

「へえ…………」

 そんなにたくさんの男の子から恋を打ち明けられても誰にも応えない、なんて。

 もしかして、朝比奈さんにもわからないのかな。

 恋が、どんなものなのか。

 ──それなら、朝比奈さんと私は、きっとだ。

「とにかくちゃんと、進路希望調査は期日前に提出しなよ。宮橋さん」

「あ……うん。わかった、気をつける」

「……もう、それわかってない返事だよね?」

 確かに、私はわかってなかった。

 私の頭の中は空のコップに結露の水差しからゆっくりと水を注いでいくみたいに、謎めいたクラスのマドンナのことで満たされていって、次第に集まるクラスメイトのたてる話し声なんかは気にならなくなってしまった。

 ぼうっと、教室の一番前に座っている朝比奈さんの席を見ている目は、いつまでも焦点が合わないままだった。

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