第2章 6

 食事を終え、エスカレーターで上へ登っていく。わたしは彼より一段上の位置に立っているのに、目線がほとんど変わらないため、内心ですこしムッとする。彼は細身なくせに身長が百七十センチ以上あり、わたしとの身長差が二十センチほど。ちょうど、エスカレーターの一段分と同じくらい。こんな些細なことでムッとするのは不条理なことだとは分かっているので、文句を言うのは我慢する。そのかわりというわけではないが、自分がムッとしているのを彼に悟られないように、なんとなくエスカレーターの向かう方向に体をむけて、彼のことを見ないようにずっと前を見ている。

 今はとくに会話もない。聞こえるのはエスカレーターの動く音だったり、家族連れの和やかな会話だったり、カップルたちの睦み言だったり。うるさいとまでは言わないけれど、そこはかとなく騒がしい。ただ、意識しなければなんともない、そんな程度。そのわりには、意外とエスカレーターは空いていて、前後に人はいない。

「ねえ」

 わたしはとくに意図もなく沈黙を破った。

「なに?」

「あのさ、この身長差、なんかムカつくんだけど。もう少し縮んでよ」

特に話題はなかったけれど、つい口をついて出てきたのは、やっぱり彼との身長差についての文句だった。わたしは心の中でちょっとだけ笑う。なんだ、不条理だのなんだの言っておいて、結局口に出しているじゃないか。

 ちなみに、別段この身長がコンプレックスとかそういうわけではない。彼に抱きしめられたときとかの暖かさとかは、これくらいの身長差でないと味わえないと思うし、むしろチビな男は恋愛対象として好きではない。

「うーん、そんなこと言われてもな」

 彼は、そう言いながら困ったように笑い、頭を掻く。

 ムカつくなどと言うと、学校のクラスなんかで一人くらいは居そうな皮肉屋の男子なら、「え、ムカつくの? 脂っこいものでも食べた? ガスター10でも飲む?」などとからかってきそうなものだけれど、もちろん彼はそんなことは言わない。

「いや、本当に縮んでほしいとか、そんなふうに思ってるわけじゃなくて、エスカレーターに乗ってるときは身長差を見せつけられる気がして、なんとなく腹が立つなーって思ってね」

 わたしはそう明るく言った。

「ふうん、でもさ、ずっと前見てて、俺の方に向いてくれないじゃん? それだと身長差とか分からなくない? ちょっと寂しいし」

 彼がそう言ったので、体ごと振り向くと、距離が存外近くておどろいた。鼻と鼻がくっつきそうなほどだ。

「え、近っ!」

 急なことで、わたしは顔が熱くなっていくのを感じた。今の自分を鏡で見たら、きっと頬に朱がさしていることだろう。そう思うと、もっと恥ずかしくなってきて、わたしは再び前を向いてエスカレーターを一段上がる。

「え、ちょっと」

 彼は軽い抗議の声を上げる。そうして彼も一段上がってくる足音が聞こえたので、わたしはもう一段上がる。すると彼も、もう一段。わたしも、もう一段。

少し楽しくなってきたので、ほかの人の迷惑にならない程度に小走りで彼から逃げる。彼もそれに合わせて追ってくる。

 目的の七階に着くと、少しだけ息切れした。

 彼は言う。

「なんで逃げるのさ」

「え、何となく。でも、ちょっと楽しかった」

「うん、俺も」

 そう言って彼は笑ったので、わたしもからからと声を立てて笑った。

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