第30話 豪華/絢爛/大合戦

 駿府すんぷ今川館。

 凍てついた闇の中に、その男はいた。

 今川氏親いまがわうじちか。今川家の英主は、畳敷きの広間に灯明ひとつさして、朱塗りの盃を片手に虚空を眺める。


 その隣には、恐ろしいほど白い肌の美しい女。

 中御門桂子なかみかどけいこ。氏親の妻たる女は、酔いを楽しむ風情の夫を邪魔せぬよう、静かに侍っている。



三浦荒次郎みうらあらじろう。おもしれえ男だな」



 氏親が闇に向けて吐き出すと、侍る女は艶然と笑った。



「うふふ……そうでございますか?」


「ああ。なにしろ、叔父御相手に、五分ごぶる男だ。あれだけ最悪な状況で、だぜ?」



 語りながら、今川氏親は貴種に似合わぬ獣の笑みを浮かべる。



「――大船おおふね合戦のときも感心したもんだが、その後の動きも見てみろよ。古河公方こがくぼう関東管領かんとうかんれい。大駒をモノにするために叔父御が捨てた端駒はごまを集めまとめて、あっというまに叔父御に対抗し得る勢力を作りあげやがった……いや」



 獣のごとく瞳を輝かせながら、氏親は口の端をつり上げ、言葉を継ぐ。



「――その幻想を、関東の者共に見せた」


「……幻想?」


「桂子。分かってんだろ? ここには二人しかいねえんだ。俺を立てる必要はねえぜ?」



 脇息きょうそくに体を預けながら、氏親は妻を見やる。

 その表情からは、氏親が説明したことに対する深い理解の色が見て取れる。

 生まれが公家うまれだからだろうか。この、中御門桂子という女は軍事、政略において、今川氏親や伊勢宗瑞に等しい視点を持っているのだ。



「――扇谷上杉おうぎがやつうえすぎ総州真里谷そうしゅうまりやつ。与党として集まった有象無象。みんな鎌倉公方かまくらくぼうって幻想の上で成り立った、信じらんねえほど脆い連携だ。すこしでも劣勢に陥れば、みな雪崩を打って寝返るような、な」



 手酌で濁酒を注ぎ、盃を傾けてから、この英主は涼しげに言う。



「だが、奴は叔父御相手に鎌倉を守りきった。いや、叔父御の戦略上、それは仕方ないさ。仕込みに仕込んで一気呵成ってのが叔父御の常套手段だしな。しかし大仕掛けの隙間を縫って、奴は幻想の鎌倉府を、強固な“本物”だと信じさせた。“強固な新秩序”。叔父御が関東に撒くはずの餌を、先に撒いて成果をかすめ取りやがったのさ。たいした詐欺師だぜ」



 心底面白そうに語る氏親に、妻は艶のある唇を笑みの形に崩した。



「ふふふ」


「どうした、桂子よぉ」


「いえ、旦那様があまりに楽しそうですので」


「そうかよ。まあ、叔父御も年だ。一緒に遊ぶ機会も、あんまりねぇだろ……遊び相手がりがいのあるやつなら、楽しくもなるさ」



 しみじみと言って、氏親は口の端をつり上げる。

 それをそばで見ていた桂子は、あでやかな笑顔を夫に向けた。



「よろしゅうございましたね。楽しい時間を逃さずに済んで」


「ああ。それに関しては、桂子。お前に礼を言うぜ。叔父御の大仕掛け、よく手伝ってくれた」


「あら? 今川寄りの甲斐領主たちと“お話”して、叔父さまに武田への“お土産”を用意させただけですわ。あとは、山内上杉と越後長尾への仲裁の御手紙を出していただいたくらいですか」


「お前やっぱえげつないわ。主語抜くなよ。将軍くぼうまで動かしやがって」


「今の将軍足利義稙は実績を欲しがっています。“結果”さえ用意しておけば、動かすのはわけのないこと。関東で成果を残せるとなれば、なおさらです。種々の障害も、金子きんすがあれば、諸事なめらかになってよろしゅうございます」



 ころころと笑う女の瞳に、妖しの光が宿っている。



「ったく、物騒なやつめ……まあいいさ」



 ため息をつきながら、氏親は酒盃を脇に置く。

 そうして、桂子の体を乱雑に抱き寄せ、語りかけた。



「――桂子、今度は東へってくるぜ。いつも通り、留守は任せた」


「任されました。余計な手出しはいたしません。存分に遊んでらしてください」



 氏親に体を預けながら、彼女は妖しく微笑んだ。







 今川軍四千、東海道を進行中。

 武田信虎たけだのぶとらは国内に触れを出し、兵を集めている。こちらは北相模を狙う構えだ。

 長尾為景ながおためかげの加勢も脅威ではあるが、その脅威を正面からかぶるのは、三浦ではなく扇谷上杉である。


 相模玉縄たまなわ城。

 本丸御殿の一室で、荒次郎たちは頭を悩ませていた。



「今川が動き、武田が動いた……どうする荒次郎くん?」



 黒い顎鬚をしごきながら、猪牙ノ助ちょきのすけが試すように尋ねると、荒次郎は視線をもうひとりに向ける。



「エルフさん。想定出来る敵の動きは」


「えっ? うーん……」



 問われた少女――真里谷初音まりやつはつねは、首と長い耳をひねりながら考え込む。



「……武田が攻めてくるとしたら、国境を越えて北相模。こっちが抑えるとしたら津久井つくい城しかない。数は二千ほど。北相模衆の士気が若干あやしいけど、ちゃんと守れば、相手があの武田信虎でも、一、二ヶ月は持つ、と思う……問題は、甲斐方面への備えを考慮せずに済むようになったことで、今川がこっちに回せる兵力が増えたこと。まずいよホント。ただでさえカツカツな作戦だったのに」



 心底参った、というように、少女は耳を垂らした。



「ふむ。伊豆、相模の兵を合わせれば、東海道から攻めてくる伊勢方の総数は八千超、といったところか。こちらの動員できる兵力は……」


「どう絞っても、五千がいいとこ。北相模の連中を動かせたら、気休めにはなったろうけど……」


「――さすがに酷であろう。三浦が安全を担保できんとなれば、武田とまともに戦うかも妖しいわい」



 話を聞いていた猪牙ノ助が、口を挟んだ。

 ふたりが視線を向けると、老人は口の端をつり上げ、言う。



「であるから、吾輩が行こう。荒次郎くん。名前と横須賀よこすかの二百を貸してくれたまえ。それで北相模を押さえてやろう」


「……できんの?」


「おい、残念娘。吾輩を誰だと思っておる」



 不審げに視線を向ける残念娘に、猪牙ノ助は胸を張って問うた。



「……道路キチ」


「そう! 道路キチである! そして、同時に名うての戦上手、三浦道寸みうらどうすんの影武者よ!」



 初音の酷評に、名誉だとばかりにふんぞり返りながら。三浦猪牙ノ助は己を指差した。



 ――厳しい。



 荒次郎は冷静に判断する。

 たしかに猪牙ノ助は道寸の影武者だ。

 道寸の戦歴を知識として持ち、また戦う道寸のそばで彼の指揮を見ても居ただろう。

 だが、もし猪牙ノ助が道寸に等しい技量を持っているのなら、いままでの窮地でそれを発揮しても良かったはずだ。



 ――なにより、今回の敵は武田信虎だ。凡百の将とは桁が違う。



「猪牙ノ助さん」



 荒次郎の言葉を制するように、老人は笑った。

 童子のそれを思わせる透明な笑みだ。荒次郎はそれ以上何も言えなかった。


 この老人は、すべて承知なのだ。

 承知の上で、武田信虎相手に、時間を稼ごうとしているのだ。

 思えば、猪牙ノ助は“名将道寸の影武者だ”とは主張したが、“自分が道寸に等しい名将だ”とは言っていない。言外に匂わしただけだ。



「なに、わけもないことよ……かわりに帰ったら、鎌倉街道の整備、なんとしてもやらせてもらうぞ?」



 わざとだろう。おどけて言う猪牙ノ助に、荒次郎は口元をほころばせ、誓う。



「ああ。きっと、どうにかして見せる」







 北相模救援のため、猪牙ノ助は急ぎ退出した。

 残された二人には、伊勢、今川軍の問題が残っている。



「東海道はどうしよう?」


「当初通りだ。伊勢方が攻めてきた場合の決戦案を使う」



 エルフの少女の問いに、荒次郎は答えた。



「……想定より戦力差が開いてる分、ちょっと不安だけど」


「やるしかない。猪牙ノ助さんのほうが厳しいのだ。弱音など吐けない」



 猪牙ノ助は兵の数、質、士気、すべてが劣る状況で、武田信虎と対峙しなくてはならない。

 それに比べれば、準備ができている分、荒次郎たちのほうが恵まれている。



「エルフさん、武蔵はどう見る?」


「戦力的には、やや劣勢、じゃないかな。それより問題は長尾為景。万一あいつが戦の主導権を握り出したら、扇谷は一方的にやられかねない。それくらい戦上手で狡猾なやつなんだ」


「……だが、信じるしかないな」


「ああ。こっちはこっちで手いっぱいだもん。手を回せるとしたら真里谷信保あにうえだけど……あの曲者が素直に助けてくれるかなあ」


「この際だ。お願いしておいた方がいい。真里谷の助けがあれば相当に違う」


「“助けてお兄ちゃん”とか言ったら助けてくれるかな?」


「任せる」



 言ってから、ふと思いついたように。荒次郎はふむ、と唸る。



「そういえば、エルフさん」


「なに?」


「風呂に入らないか?」


「ふぁ?」



 脈絡のない誘いに、エルフの少女は妙な声をあげた。







「なんで急に風呂」



 と、耳元まで湯に浸かりながら、エルフの少女が問う。

 この頃は慣れてしまったのか、初音の警戒は大分に甘くなっている。

 その分、荒次郎は自制を求められているのだが、彼女は一切気づいていない。



「すこし、ゆっくりと話したかった」



 気を静め、深く息をついてから、荒次郎は語り始めた。



「……今度の戦い、伊勢との興廃をかけた決戦になるだろう。勝てば、北条の脅威を大幅に軽減できる。三浦家にも、すこし余裕が出来るのではないかと思う。そうしたら」


「内政したいよな!」



 一瞬で食いついた少女は、興奮した様子で白い裸身を隠さずに詰め寄る。



「――前に言ってた備中鍬とかサツマイモ! 簿記も、私がさんざ成果上げてるんだから普及させても大丈夫だろ!?」


「……簿記は、あれエルフさんの超能力か何かだと思われているぞ」


「なんでっ?」



 荒次郎の言葉に、エルフの少女は悲鳴を上げた。

 睡眠時間を削って帳簿をつけたのに、“超能力”で済まされてはたまったものではないのだろう。

 だが実際、いままでかつかつだった台所事情が、理解不能なまでに改善されたのだ。知らぬ者が超常の力かと疑うのも、仕方ないことなのかもしれない。

 子供世代は彼女が仕込んでいるため、そのような誤解は起こらないだろうが、それでも誤解を解き、理解を進めるには、いましばらく時間がかかりそうである。



「まあ、武蔵や下総しもうさ方面でまだごたつくかもしれないが、時間は取れる……本腰を入れて調べられると思う。俺たちが、何故この場所に来たのか。どうやって帰れるのかを」



 荒次郎の言葉に、エルフの少女は息をのんだ。

 それから、すこし咎めるように、問いかけてくる。



「荒次郎。お前、万一帰る方法があったら……帰るのか?」


「冴さんのことか?」



 逆に尋ねられて、エルフの少女は押し黙った。

 荒次郎は困ったように首をひねると、しばらくして、ぽつりと漏らした。



「俺は、変人だ」


「知ってた」



 迷いなく返答され、荒次郎は口の中で「なぜだ」とつぶやいてから、気を取り直したように言葉を続ける。



「……どうも昔から、人とは違うところがあったらしくてな。母の胎の中に恐怖を置いてきたような、と、よく言われた」


「ちょっと。話そらしてない?」



 少女の非難めいた視線に、しかし荒次郎は動じず、話を続ける。



「俺は母の顔を知らん。生まれる前に、母は死んだのだ」


「……生まれるに?」


「交通事故でな。死んだ母の腹から取りあげられた。そのせいかどうかは知らん。俺は人より感情の働きが鈍いらしい」



 話を聞いて、初音が気まずそうに眉をひそめた。



「――だが、それでも、うれしい時はうれしい。哀しい時は哀しい。早雲を相手にして怖いとも思う。子供が生まれると知った時、本当に嬉しかった。

 そして思った。この子供には、母がいて、父が居る。そんな当たり前の中で育ってほしいと」


「……つまり……帰らないんだよな? よかった。ちょっと、安心した」



 心底ほっとしたように、エルフの少女は耳をお辞儀させる。

 そんな彼女に、荒次郎は問いを投げ返す。



「エルフさんはどうなのだ。帰りたいか?」



 荒次郎の問いに、少女はしばらく沈思して、それからゆっくりと、語り始めた。



「正直な。女になったのは、嫌というか、ショックだったけど……こっちに来てから、本気で死ぬと思った。本気で頑張って、本気で生きてるって実感した。そして、憧れてた、夢に見た戦国の時代で、私は精いっぱい、運命に抗ってる。

 でも、私はまだ何もしてない。この世界に、何も残してない。歴史に残るような何かを、まだ私はやってない。だから、だから私はっ」



 思いあまって声を震わせる。

 そんな少女の姿に。荒次郎は、静かに手を回した。



「――ちょ、おまえ、いきなり抱きつくなっ!」



 エルフの少女は全力で抵抗するが、荒次郎は肩に回した手を、決して離さない。



「エルフさん。いい機会だから言っておく。初対面の時、新井城の部屋に入ってきたエルフさんを見たとき……俺はエルフさんに見惚れた」


「……うぇ?」


「まあ、そういうことだ」



 言って、荒次郎は手を離し、少女に背を向けた。

 理性と煩悩がしのぎを削っているのか、その動きは非常に機械的だった。



「……いや、そんな熱い告白されても……困る」



 荒次郎から開放された少女は、身を抱きながら、居心地悪そうな様子で抗議する。

 荒次郎は背を向けたまま、抑揚のない声で応じる。



「困ると思ったから、言わなかった。が、今を逃せば言う機会がなさそうだったのでな」



 どうも腑に落ちない様子で聞いていたエルフの少女は、ふと長い耳と眉をはね上げた。



「私のことは置いといて、冴さん自分のものにしといて他の女口説くなバーカ!」



 嫉妬や怒りや羞恥、それらがないまぜになったような表情で叫ぶ。

 そのまま湯船を出て浴室を出ようとする少女の背に、荒次郎は声をかけた。



「……そういえば、猪牙ノ助さんが北相模に行ってしまったせいで、手が足りない。猪牙ノ助さんの代わり、エルフさんに任せていいか?」


「うええっ!?」



 いきなり落とされた爆弾に、エルフの少女は悲鳴を上げながらすっ転んだ。







 武蔵国。

 山内と扇谷、両上杉の争いも、動いている。

 まず、長尾為景が、鉢形はちがた城に合流。ほかにも古河公方の声かかりで多くの武士が山内上杉家のもとに集い、最終的にその数は四万をうかがうまでに膨れ上がる。


 対して扇谷上杉は二万を川越かわごえ城に集めていた。

 数ヶ月前とは攻守ところを変え、今度は山内上杉軍が川越城まで押し寄せてくる。


 同時期、東海道を東進する今川氏親軍が、大庭城の伊勢宗瑞と合流する。

 荒次郎たちは鎌倉に兵を集めると、西進。江の島を真南に見る片瀬かたせ浜付近で、両軍は互いの姿を視認する。


 鎌倉合戦と、川越合戦。

 奇しくも同時に行われた二つの戦いは、関東大戦最大の戦となる。







◆用語説明

脇息……時代劇なんかで殿さまが肘を掛けてるアレ。

武田信虎……信虎で統一してます。一応。

道路キチ……どう考えても名誉な称号である。

“助けてお兄ちゃん”とか言ったら助けてくれるかな?……当然です。

知ってた……共通認識である。

自制を求められている……しかし見る。漢である。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る