第15話 風呂/湯けむり/エルフさん
それは、
「ふう」
と、息をついて。
少女は文机から顔を上げると、凝った肩を鳴らした。
小袖の
年は十七。文句のつけようのない美少女だが、世にもまれな金髪と長い耳が、ひときわ異彩を放っている。
三浦半島を勢力圏に納める三浦一族の当主、三浦荒次郎の妻である。名目上は。
夫荒次郎とともに
荒次郎や
「失礼します……お
と、部屋に入ってきた幼い侍女が、呆れたような口調で目を
初音付きの侍女であるまつは、女性としてたった一人、玉縄城に詰める主の身を案じて、戦の
「いや、違うんだ、まつ。これは玉縄城を必殺忍び殺し仕様に変えるために必要なことで……」
「怒りませんから。でもちゃんと御当主さまの面倒も見ていただかないと困ります」
初音はこの少女に弱い。あわあわと両手を振るエルフの少女に、幼い侍女は、ためいきをつきながら、また目を眇める。
まつの無言の圧力に、初音は言葉を濁すしかない。
「あー、はははは、まあ、うん」
「そういえば、お姫さま、お風呂を用意しております。準備もできておりますので、はやく入ってくださいね」
「風呂!? わかった、入ってくるよ!」
「……まったく、お
逃げるように部屋を出るエルフの少女の背に、幼い侍女はため息を落とす。
現代日本人ゆえ仕方ないが、そのあたりの感性は、戦国時代の人間から見れば狂気の域だ。
「まあ、わかりやすくて、いいんですけど」
はあ、とため息をついて。
幼い少女は、疲れたように初音の消えた先をながめた。
◆
「ふーんふふーん。ふふふふふふふーんふふーん」
と。某大河ドラマのメロディーを口ずさみながら、初音は脱衣所に入る。
自身で設計した風呂場は、急ごしらえの不格好ながら、彼女の住んでいた時代のものに近い。
そのままの格好で固まった。
浴槽には人影があった。
深い湯けむりで姿は見えないが、規格外の巨大な影を見れば、誰であるかは一目瞭然だ。
「な、な……」
「む? その声は、エルフさんか?」
驚き、扉を閉めるのを忘れていたためだろうか。湯けむりがすっと晴れていく。
「……ふむ」
「お、おい、見るなよ」
「ふむふむ」
「やめろ、舐めるように見るな! くっ、こんなところに居られるか! 私は出るぞっ――って扉が閉まった!?」
くるりと振り返ったところで扉を閉められ、初音は悲鳴を上げる。
「向こうにいるの、まつだろ! やめろよそういうこと! 出してよ! ここから出して! 今日は我慢して荒次郎と一緒に寝るから出してーっ!」
と、そこまで叫んだところで。
すでに侍女が、扉にかんぬきを掛けて去っていることに気づいて、初音は肩を落とす。
荒次郎から見れば、細やかな腰から尻にかけてのすべてが丸見えなのだが、彼女は気づいていない。
「……一緒に入るか、エルフさん」
「荒次郎……オーケー、一緒に入るなら、その股間の丸太をなんとかしてからにしようか。てかそれナニ? そんなブツが存在していいのか私の腕より太いぞふざけんな! 謝れ! 理由は言いたくないがとにかく私に謝れ!」
つつましい胸を隠すのも忘れて、全力で主張するエルフの少女。
顔を真っ赤にしてはいるが、羞恥からでは一切ない。
「落ちつけ、エルフさん」
「エルフ言うな! つか落ち着けって言うなら、そっちこそ丸太をどうにか落ち着けろ!」
「無茶なことを言う」
「わかってるよ理解してるよ元男だもの! でもその凶悪な丸太が立ってると、こっちは本気で怖いんだよ!」
「では、どうすればエルフさんは一緒に風呂に入ってくれるのだ」
「お前はホントに欲望に素直だよなあ!」
突っ込み疲れて、ぜいはあ、と肩で息をする初音。
荒次郎は丸太をどうにかしようと、股に挟みこもうとするが、びくりとも動かない。鉄の丸太である。
なにはともあれ。
全裸のまま浴場に突っ立っているほうが、よほど拙いことに気づいた初音は、結局荒次郎とともに湯船に浸かることになった。
湯船は広い。荒次郎と初音が離れて座っても、なお余裕がある。
「……しかし、よくやったよな、私たち」
心地よさからか、湯に溶け込みそうな表情をして、初音は荒次郎に声をかける。
三倍強の兵を率いた北条早雲に追い詰められた状態から、二ヶ月あまり。綱渡りの末、三浦半島を奪還し、荒次郎たちは鎌倉の北西、玉縄城に居留している。
戦火はいまだ燻ぶり、諸方復興に、国衆の慰撫にと、いまだ多忙を極める状態だが、首根っこを押さえつけられるような圧迫感が無くなった分、気は楽になっている。
「ふむ」
荒次郎が相槌を打つ。
「――また、これからのことを考えねばならんな」
「ああ。早雲も、玉縄城奪還に動いてくる。国衆をあやしつけなきゃなんないし、そのあたり、荒次郎や猪牙ノ助の爺さんに任せてるけど……なあ、本当に良かったのか? 三浦道寸の死を公表して」
身を寄せながら、初音が尋ねる。
荒次郎は、戦が終息した時点で、三浦道寸の死を援軍諸将に明かしている。
影武者である猪牙ノ助を本物に仕立て上げれば、各方面での折衝も、円滑に運べたはずだ。
三浦家の若き当主は、巨体を体育座りで固定したまま、「ふむ」とうなずいた。
「たしかに道寸の名を使えば、国衆を取りまとめることは容易かもしれない。だが万が一、道寸の死が露わになった時、道寸の名の元に従ったものたちは、容易く裏切るだろう。時期もいい。この戦で、俺は名を上げた。大船合戦でとっさに影武者を使った機転も、よくわからんが評価されたようだしな」
大船合戦に至る、道寸との高度な連携。玉縄城一夜取り。そして大船合戦で大崩れを防いだ、とっさの機転。
若き武将としては、過分なほどの実績を上げた荒次郎は、
とくに姉婿である
もっとも、これは義弟を助けるための世辞含みなのかもしれないが。
「まあ風魔も居るし、隠し事は怖いよな」
ふう、と、初音がため息をついた。
耳が、湯気にあたって赤くなっている。
「……にしても、あの城攻めは死ぬかと思ったよ。私はなんとか矢傷も受けずに済んだけど、荒次郎は大丈夫だった?」
「大鎧にはいくつか矢が突き立ったが、みなが防いでくれたのでな。たいした傷は無い」
「本当?」
ちゃぷ、と水の音。
初音が湯船から、手を引き抜いたのだ。
白魚のような手が、すっと荒次郎の肩に触れる。
「うわ、岩みたい」
体育座りになった荒次郎をさする初音。
しばらく為すがままになっていた荒次郎だが、ふいに、その大きな手が、エルフの少女のやわらかな胸を掴んだ。
「ひゃ――い、いきなり何をする!?」
ずざざざっ、と湯船の端まで身を引いた初音が悲鳴を上げた。
「うむ。エルフさんが触ってくるので、こちらも触ってよいものかと」
「いいわけないだろ! というかいきなり胸に行くなよ! お返しならせめて肩とかにしろよ!」
「うむ――うむ。心地よい」
「や、やめろよ。感触を思い出すみたいにエア胸揉みとかするなよ……」
「しかし、残念だ」
懇願する初音を尻目に、片手をなおワキワキさせながら、荒次郎がしみじみとつぶやいた。
「……なにが?」
「俺の手は大きい」
「ああ、そうだよな」
唐突な発言に首をかしげながら、初音は同意した。
二メートル強の巨体にふさわしく、荒次郎の手の大きさは、初音の倍近くある。
「エルフさんの胸は、やや小さめとはいえ手のひらサイズなのに、俺のこの手では、手のひらサイズにならない」
「死ねよ」
初音はめいっぱい冷たい瞳で吐き捨てた。
現在“小さい”という言葉には敏感なエルフさんである。
「そんなに大きい胸が好きなら
一人上手する初音を尻目に。
「話は聞かせていただきました! つまり荒次郎さまはわたくしをお求めなのですわねっ!!」
どーん、と、勢いよく扉が開かれる。
その奥から、浴場に入ってきたのは、年のころ十五、六の、黒髪の美少女だ。
三崎城の城代、
人質として新井城に居たのだが、荒次郎が居城を移して早々、侍女のまつと同時期に、玉縄城に越してきている。
冴は二人の前に、惜しげもなく裸身をさらしている。
すらりとした細身だが、乳房は大きい。
“荒次郎の”手のひらサイズだ。
「ほほほ、奥方さま、いかがでして?」
ずい、と胸を誇張して見せる冴に、エルフの少女は仏のごとき笑顔を返し、そして言った。
「ありがとう」
「ありがとう」
体育座りの荒次郎も、なぜか初音に
似た者夫婦である。
「え? なんですの? 奥方さまも荒次郎さまも揃って……ちょっと、拝まないでくださいまし! なぜ拝むんですの? なぜ拝むんですの? 怖い。怖いですから、拝みながらにじり寄ってくるのは止めてくださいまし!」
風呂の中であげられる叫び声を、城中の人間はどう受け取ったのか。
いずれにせよ、ひとり身のものには、想像を刺激させられる声だった。
ちなみに、その夜。
初音は荒次郎の部屋で寝る事を強いられた。
風呂場に閉じ込められた時に初音が叫んだ言葉を、侍女のまつは、きちんと聞いていたのだ。
「寝所が一緒だからって、なにもしないからな! なにもしないって言ってるだろ! だから期待して正座すんのやめろよ荒次郎!」
なにはともあれ。
不幸中の幸いがあったとはいえ、初音にとっては災難な一日だった。
◆用語説明
必殺忍び殺し仕様――石垣や忍び返しなど。参考熊本城。あとで荒次郎たちに止められ、分相応の備えに落ち着く。
小袖――現代和服と呼称されている着物。
打掛――小袖の上に羽織る装飾された着物。
丸太――丸太であって丸太でないもの。人によって細木であったり丸木であったりする。
国衆――在地領主。
期待して正座――荒次郎は紳士である。
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