四つ目の鉢:廻るいのち 4

「……貴様、城の者ではないな」

 強い警戒心。口調には感情が籠もっていないけど、張り詰めた空気が、下手な動きをすれば危険だと教えてくれる。僕は唾を飲み込んだ。料理人を名乗る? いや……正直に言った方が、いい。

「すみません。自分はピエリスと……あ、いえ、料理人のではなくって、」

 ダメだ。これじゃあ身分証明ができない。僕は与えられた名前しか持っていないというのに、その名前が埋没してしまう世界に“僕”を定義する手立てが果たしてあるのだろうか。

 男のひとは無表情で黙ったまま。見下ろされると、まるで睨まれているように感じて身が竦む。

「あの、ソルさんとルナさんというひとから仕事を頼まれて」

「……」

「じ、女王様に会いたいんです! どうか僕を連れて行っていただけませんか!」

 僕はもう泣きそうだった。仕事への責任と、目の前の男性への得体の知れない恐怖と。僕は何をしているんだろう、誰のために頑張るんだろう。

「貴様は自分が他者と異なると判るのか?」

 男のひとは尋ねた。

「私と貴様が違うように“見える”か?」

 当たり前のことは答えが単純過ぎて、裏があるのではないかと変に勘ぐってしまう。けれど首を振っては嘘になる。彼が求める正解を探るように、黙って首肯した。

「貴様はこの国の外の世界を見た……」

 彼はそう言って踵を返す。翻る、光沢のある黒いビロードの法衣。

 呆然とする僕に、ぶっきらぼうな声が掛けられた。

「来い。陛下のところまで案内してやる」



 男のひとの足取りは迷いなく。けれど僕に気を遣っているのか、複雑に曲がりくねった回廊を進んでも、僕が黒い背中を見失うことのない速さで歩いてくれている。

 どのくらい経ったろう。ある木製の扉の前で立ち止まるまで、僕達は一切の言葉を交わさなかった。何も言わず止まるように手と視線で制した彼は、ちょっと無口なひとなのかもしれない。

 焦げ茶色の重たげな扉が叩かれる。一度、二度。

「――はい」

 女性の声。これが女王様? 返事を期待して見上げたけど、男のひとはこちらを見る気もないみたいだった。

「クストゥス義姉ねえさん、私です。少しお時間宜しいですか」

 “ねえさん”……?

「どうぞ、入って」

「失礼します」

 男のひとは「待っていろ」と言い置き、扉の向こうに滑るように入っていった。一瞬だけ隙間から漂った芳香は甘い。

 そわそわと待つ。来ない。あの男のひとは女王様をねえさんと呼んだ。女王の弟は何だっけ? 王子様じゃない、あれ、王様? 来ない。もしかして義理のお姉さんか何かだろうか。来ない。

 落ち着いて思考なんてできるわけがない。ひとりで残された廊下は嘘みたいに静かだった。

「っ?」

「……入れ」

 突然開いた扉。押さえてくれる黒衣の男性に会釈して、中に足を踏み入れる。それと入れ違いに出て行こうとする彼に、僕はもちろん、勇気を出して聞いた。

「あなたのお名前はっ?」

 肩越しの真っ直ぐな瑠璃色の視線。彼はしばらく僕を試すように見つめ、結局は無言で背を向けてしまった。

「……ビアノール」

 と思ったら、ぼそりと。

「早く戸を閉めろ。陛下のお身体に障る」

 はっとした時には長身は小さく。僕は少しだけ迷って、大きな声を張り上げる。

「ありがとうございましたっ!」

 届いていたらいいけど。顔の熱さとドキドキする心を抱えて、またしてもぼんやりしてしまった僕の脳裏に蘇る、無感動な声。

 ――“早く閉めろ”

「あっ」

 開け放した扉から冷気が中に入ってしまう。僕の馬鹿。

 慌てて扉を閉めて振り向く、頭を下げる。

「す、すみませんでした!」

 女王様、怒っているだろうな。せっかく会えるのに。

 恐々と顔を上げて……――僕は、解った気がした。

「ピエリス」

 それは一国の王の居室にしてはひどく質素な部屋。けれど温もりと豊かな愛情に満ちた部屋。

 暖炉の前、ロッキングチェアに座った白髪の女性。微笑んだ顔には老いてなお遠い日の美女の面影があり、優しい皺が重ねた日々の証として刻まれている。そして毛布をかけたそのお腹は、大きい。

 ああ、それで、だったのか。

「……だから蜜集めが必要なんですね」

 女王様は動けない。独裁なんかじゃなかった。僕はすぐコリアスに――数多の“ピエリス”と“コリアス”にも――教えてあげたかった。

「本当はそんなにたくさん要らないのよ」

 女王様は少し困ったように。

「言い訳になってしまうけれど、お触れを出したのは私ではなくビアノール。あの子は私をとても気遣ってくれるから」

「さっきの、彼」

「ええ。私の義理の弟で、宰相と守護騎士を兼任しているわ」

 そんなふたつを兼ねることができるものだろうか。頭が良くて剣も上手ってことだ、簡単に言ってしまえば。

「彼は他のひとと違うように思えました」

「でもあなたはビアノールの才能を知らなかった。それなのに“違う”と感じた……それは、この国ではすごく貴重なことなのよ」

 女王様は優しく言う。

「ひとりひとりが違っていること、それがわからない者は多いわ。同じ種族だと一纏めにするから、違いが違いとわからない。……でも私やビアノールのように違いが存在する事実を知る者や、あなたのように外の世界を見て帰って来た者は、個性を見留めることができる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る