第12話霧崎麻述と桐島怜①

 海はどこまでも青く、美しかった。

生徒達はここまで、枝と葉に覆われたひどい道を歩かされてきた。だが不平も、彼らが第一歩を砂浜に踏み出した途端、かき消えた。海水浴場なんて、私は行ったこと無かったけれど、ここがかなり手狭なものだということは分かる。海岸線は、校庭の長辺ほどしかなかったが、章連学園高等部一年の150名だけで独占するとすれば、これほど最適なサイズもない。

 この辺り数キロの地形は、切り立った高い崖が、いくつも海に向かって突き出している、という珍しいものとなっている。上空から見れば、歯がところどころかけた、櫛のように見えるかもしれない。

 その歯と歯の間に、出現した、奇跡のような砂浜が、この場所だった。

 一学期の終わり。私達は、今、二泊三日の臨海学校で、隣県のこの場所を訪れていた。

 浜辺の脇に、軍記もので兵士たちが野営するときに使うような大きなテントが二つ張られている。事前に、説明を受けていた、更衣室だ。体操服の生徒達が、そちらに向かって、男女に分かれて駆け込んでいく。

 私は、生徒の行軍の最後列についていたので、砂浜に足を踏み入れたのは、誰よりも遅かった。砂が跳ね、サンダルを履いた素足に降りかかる。存外、心地よかった。非日常が、熱を伴い、指の間から入り込んでくる。

 海での引率は、私の他に二人、男性教諭がついていて、彼らはすでにテントの前に立っていた。生徒達が着替えた後、集合させ、注意事項を読み上げるための待機だろう。最後尾についていた私も、追って彼らの元に向かわなければならなかったのだが、誘惑に耐えきれず、波の元へと駆ける。

 デニムを履いてきたことを、少し後悔した。動きにくいかと思ってやめておいたが、いつものロングスカートにしておけばよかったかもしれない。裾が、深く呼吸するように、熱された空気をたっぷりと吸い込むのを想像するだけで、心が躍った。

 浜辺の両端には、城壁のように、校舎より背の高い崖がそびえていて、この砂浜を、外の世界から隔離している。しかし閉塞感は全くない。風の吹きこんでくる方角を見れば、太陽の白から海の青までが、グラデーションの波を形成し、雄大に広がっているのだから。

 世界の端から端まで、足で行ける範囲は全て見通せて、それ以外の場所は美しく、夢を見せるように広がっているのだ。

 万能感に、飲まれそうになる。

 すると不意に、テントから漏れ出ていた生徒達の騒ぎ声が、大きくなった。そして、辺りを見回すとすでに、水着の生徒達で、いっぱいになっていたのだった。瞬きの間に、全てが変わったような気がして慌てていると、男性教諭二人が、笑顔で近づいてきた。

「生徒達に説明、終わらしちゃいましたよ」

「はわ?! ご、ごめんなさいっ! 私……」

 全く、気がつかなかった。思っていたよりずっと、私はこの場の虜になっていたようだった。

「いえいえ、お気になさらずに!」

「おとなしい方だと思っていましたが、百合屋先生も、お茶目なところがあるんですね」

 二人とも水着だった。道中は勿論、服を着ていたので、その下に着込んでいたのだろう。

 彼らは私に背を向けると、海の方へ笑い声を上げながら駆けだしていった。見回りの仕事の合間に、自分たちもエンジョイする気満々のようだった。

 私は、持ってきた防水バッグから、レジャーシートを取り出し座ると、日傘を広げた。砂浜の、比較的中央、勉強漬けの一日目を終え、開放的な気分になっている生徒達の妨げにならないように、海から少し離れたところに陣取った。

 近づいてくる、影があった。

 霧崎麻述だった。

「先生は、泳がないの?」

 学校指定の物ではなく、自前の水着を着ていた。この合宿では、学校指定の水着を持ってくる必要は無く、生徒達のほとんどは、それぞれの好みの物を自由に着ていた。

 座り込んだ私を、太陽を遮る様に覗きこんでいるため、彼の全身に影が掛かっていたが、それでも、彼の肌の白さを疑う余地は無かった。私は、彼と最初に出会った時のことを思い出していた。尻餅をついた私に、手を差し伸べてくれた時のことを。あの時は、霧崎君、もとい男の子の手に触れるだけで緊張していた私が、成長したものだ。今なんて、軽く見渡すだけで運動部の裸がダース単位で目に入ってくるにも拘らず、何も動じるところが無いのだから。だが、慣れ過ぎるのも困りもので、無意識のうちに、彼の身体に黒子を探している自分に気づき、思わず赤面してしまう。誤魔化すように、軽口が飛び出る。

「教師と言えど、まだうら若き乙女。男子たちの前に肌を晒すのは教育上良くないと考えての、自粛です」

「誰も気にしないと思うけどなぁ」

 彼は私のお茶目に、付き合うつもりは無いようだった。

「この場所、気に入ったみたいだな」

「霧崎君は、前にも来たことが?」

「ああ。実は、今、俺たちの泊まってる宿泊施設と、この海岸、半分くらい校長が持ってるようなもんなんだぜ。詳しい法律とか知らないけどな。臨海学校は今年からだけど、俺はこれまで何回か、一人で使わせてもらったことがあるんだ。最高の場所だからな」

 持つべきものは、金持ちの後見人、という所だろうか。霧崎君が羨ましい限りだった。

「校長先生も、上手いこと考えるよな。ここが、あの人のコネで使わせて貰えてるって、みんな何となく、分かってると思う。学年末の教師に関するアンケートで、好きな先生の欄に校長って書かない奴は、いないだろうな。こういうやり方で点数稼ぐのが、長く支持されるコツってわけか」

「……それは、なんだか意外な話です」

「どこが?」

「校長先生って、人間的な魅力だけで、生徒さんに好かれていると思ってましたから」

「……突っ走ってるようで、現実的なんだぜ、校長も。あの人は人を惹きつけるけど……自分の魅力を過信してない。だから、不動の地位を築くために、カリスマと実利、両方を生徒に振り撒くって手段をとってるんだ」

「教育者というより、政治家や社長のような印象を受けますね」

「実際、なりたかったんじゃないかって思うときあるけどなぁ……でもきっと、校長先生は、本気を出すのが嫌だったんだと思う」

「あの人、あれで校長業、本気でやってなかったんですか……」

「ていうよりは、余力を残してる、っていう感じだな。自分の能力の限界まで出世すると、そのポストでは無能にならなきゃいけないから、あえて二軍で戦ってる、みたいなこと、言ってたよ。色んな所から昔は誘われたらしいけど、断ってきたんだって」

 一軍でうだつが上がらないよりも、二軍で充実した人生を送りたい、ということだろうか。校長先生の歳を聞いたことはないが、丁度三十路に差し掛かったくらいに見える。世間一般の基準で言えば、仕事の要領が身につき、後輩も出来て、限界などまだ見えない年齢のはずだ。だが、彼女はあれほど有能でありながら、すでに自分の分というものを、自分で決めてしまっている。人間、いつまでも戦い続けられないというのは、頭では分かっていても、悟るには、まだ早すぎるだろう。

 聡明な彼女は、いつそれを実感したのか。

 私と同じ年齢の時だろうか、それとも、まさか霧崎君ほどの年齢の時だろうか。

 私は、先日、私の教育役である1-Aの本担任から、居酒屋に誘われた時のことを思い出していた。


 スマートフォンで、上手い下戸のフリの仕方でも、隙を見て検索しようと思っていたが、そんな必要は無かった。

 町合先生は、よき教師であると同時に、姉御肌の世話焼きだった。自身は、二杯で酔いが頭に回るにもかかわらず、赴任して数か月、彼女の基準で言えばそろそろ嫌気がさしてくるはずの新任を、ストレス解消に連れ出してくれるほどに。

 飲みニケーションという言葉に、私は人並み以上の感情を持っていない。つまり、『ちょっと嫌だ』ということである。

 私は、人との会話では、かしこまり過ぎてしまう性質だ。そんな私とのコミュニケーションを、彼女は前々から課題だと感じていたらしい。私も薄々、そのことには気づいていて、申し訳ない気持ちもあったので、誘いにOKしたのだった。彼女からしてみれば、お酒が入って、私が少し、リラックスして、本音なり何なりを語ってくれることを期待していたのだろうが、生憎私の肝臓は、校長先生ほど化物ではないにしろ、ビールをチェイサーにウィスキーを嗜む程度にはザルなのだった。よって、彼女の思惑は達成されることなく、会話は職員室と同じかそれ以上に、つっかえっぱなしだった。私はちっぽけなプライドから、緊張を、慣れないガード下の店に戸惑っているのが原因のように見せかけていたのだが、その態度はかえって、彼女に気を遣わせることになってしまっていた。

「よく使うお店なんだ。この時期は暑くもないし、こういう場所もいいかなって思って」

「そ、そうなんですか。……いい、お店、ですね、はは」

 会話が途切れた隙間に、喧騒が流れ込んでくる。店内と公道は、ビニールのカーテンで仕切られていて、すぐ外には、車が忙しなく行き来しているせいで、沈黙が、会話を急かしてくれることもない。安っぽい丸椅子の足が、コンクリートと直にこすれる感覚がする。

 町合先生が、焼き鳥の盛り合わせを追加するのを待ってから、私は耐えきれず、切り出した。

「ご、ごめんなさい、その……気を遣ってもらってるのに、私、人と話すの、そんなに得意じゃなくて、その」

 そんなことを言ったのは、ある種の自傷だった。私は、人と接するときには、いつも、相手の思いやりが叱咤に変わる境界線に怯えていて、時々、なぜか自分で、そのラインを飛び越えてしまうことがあるのだった。そういう時は大抵、恐怖より、実際の痛みを受ける方が、容易く感じられる瞬間であり、今もまさにそういう瞬間だった。

「あまり気にしなくていいと思う。色んな人がいて当然なんだから」

 てっきり、甘えるなと、檄が飛んでくるものと思っていた。町合先生は、私の顔を見て、微笑んでいた。町合先生は、私と、私の親世代の、丁度中間の年齢層に位置する女性だった。これまで、あまり接する機会の無かった世代の住人である彼女は、私にとってはまさしく、他人の象徴であったが、そんな彼女の笑顔は、私の想像外の母性を、宿していた。

「怒られるって、思った? そんなことしないって。あなたは本当、よくやってくれてるよ。小テストの採点や、生徒に配るプリント、私だけじゃなく、他の先生の分も手伝ってあげてるんだろう? 今度の臨海学校のマニュアルも、あなたがやってるって言うじゃないか。……教師は、授業以外の仕事の方が、負担は大きい。みんな、あなたに感謝してるんだよ。私個人としては、なんならこのまま、雑用を続けていてほしいくらいさ」

「きょ、恐縮です」

「いや……ごめん、今のはちょっと、配慮が足りなかったかな。……新任なんだ。嫌なことが多くても、まだ、教壇に立ちたくて立ちたくて、たまらない時期だ」

 町合先生は、たこわさを切なげにつつきながら、言った。

「貴方の気持ち、わかるよ。思ってた仕事と、実際の仕事って、違うよね。そして、その違いに気付いた後、自分が、これまで思ってたような人間じゃなかったことに気がつく」

 その言葉は、慈母のように優しかったが、とんでもない勘違いであった。

彼女は、私が、教職を目指すものが持って当然の使命感と動機に基づき教師となった後に、現実を思い知らされて弱気になっているのだと思っているようだ。

 私は、一切の混じり気なく、百パーセント、金の為に教職をやろうと思ったのだ。金の為だったからこそ、仕事の内容が、殺人鬼の世話になっても、こうして続けていられる。正直、ずっと雑用をしていられるなら、それに越したこともないとすら思う。もし純粋に教師になりたかっただけだったとしたら、校長から説明を受けた時点で、辞退していただろう。

「笑わないで聞いてね、あなたを見てると、昔を思い出すんだ」

 酔いが回った人間の目は、素面の時より真剣に見える時がある。私が彼女の言葉に、冗談はやめてくれと思うことが出来なかったのは、それが原因だろう。

「私も、昔は情熱に燃えてた。物心ついた時から、教師になるんだって思ってたし、自分は教師にしか向いてないんじゃないかとも思ってたし、どんなに辛いことがあっても、教師をやるためなら耐えられるって思ってたんだよ。私の受け持つクラスでは絶対にいじめなんて起させやしない。不真面目な生徒も、誠実に接しさえすれば、私に感化されてくれるはずだ。親たちとも真剣に対話して、でもモンスターペアレントには毅然と接して……なんてね。勿論私は、自分にも厳しかったよ。子供に何を言っても恥じない自分でいるために、意識して、何年もかけて心を綺麗に磨いてから、スタートラインに立ったはずだったんだ」

 それは、出発点から、私とは真逆の方向に走り出した人間の話だった。私には、関係の無い話のはずだった。なのにどうしてか、聞き入ってしまう。

「でもいざ教師になった途端……二年、だったかな。担任受け持つまで、信念は持たなかったよ。よく、現実を見ろって、大人は言うだろう。なぜか、分かるかい? 現実は、夢なんかよりよっぽど大きな力を持ってるからさ。ドラマに出てくるような先生になりたかったけど、生徒はドラマの中みたいな生徒達じゃないし、私っていう器も、お話の登場人物みたいな人間になるには小さすぎた。夢なんて、10年かけて育てても、枯れるときは、本当に呆気ない。よく、何々になりたいって、言うだろう。でも、その何々になった瞬間、その名前は、理想を表す言葉じゃなくて、ただの肩書になるんだ。夢を叶えた瞬間、夢は、終わるんだよ」

 どうみても、酔って本音を零している様子にしか見えなかったが、私には、町合先生の言葉が、信じられなかった。

 町合先生は、熱血教師属性だ。寝ている生徒の机の脚を、教科書の背で叩いて起こすパフォーマンスは学年を超えて知られている。鬼教官だったが、人によって厳しさを変えたりしないので、生徒からも信頼されていた。赴任翌日からお友達教師属性を得た私からしてみれば、彼女は十分、若かりし頃の理想の中に生きていると思えたのだった。

「ただそれが虚しいことかって聞かれると、それも違うと思う。私の毎日は今、充実してる。二十代の頃に期待したものとは別の何かで、私の人生は満たされてるけど……このまま一生が過ぎても、後悔はしないと思ってる。もう私にとって学校っていうのは、ストレスの堪えない職場以上の意味は無くて、道理の通じない、呆れるような問題に、立ち向かえず流されることも多いけど……それでいい。自分の叶えられなかった夢は、この世のどこかで誰かが叶えてくれてるんだ。若いころは、そのことに嫉妬もするけど、歳をとってくると、安心を覚えるようになる。私は幸せ者だ。何せ、そういう存在が、目に見える場所に居てくれるんだから。校長先生と同じ学校で、本当によかったと思ってるよ」

 町合先生は、生徒達に対してはずっと、その葛藤を隠しながら生きていくのだろう。町合先生は、高等部の教員だ。生徒達とは、普通の学校の教師と同じように、三年間しか付き合えない。たった三年間の付き合いなのに、どうして信頼なんかできるんだよと、冷めた生徒が、教師を突き放すことがある。だがそれは、教師の方も同じ思いなのだ。たった三年で、他人に何をしてやれるんだと、我に返る時が、あるのだ。

 生徒も教師も、学校を世界の全てにすることは出来ない。ここは、交差点に過ぎないのだ。なのに、人生を決定づけるような素晴らしい出来事が起こったり、毎年少なくない自殺者を生み出したりもする。彼女は、何年もかけて、そのギャップを受け入れたのだ。信号機であることに、努めて慣れるしかなかったのだ。

 三年間という時間の短さに対し、不貞腐れずに済む方法を、彼女は理想を捨てることで見出した。

「すごい、と思います」

 それしか言えなかった。

 何がすごいって、町合先生は、自分が語った内容を、自分だけの特別な経験として捉えているわけではなく、あくまで有り触れた話として、私に語ってきかせたのだ。挫折を大事のように騒げるのは、若いうちだけなのだろうか。

「うう、本当は、ちょっと戻りたいよぉ……金八先生見てた頃に、戻りたいんだよぉ……」

 油が、炭に落ちる音が、連続して聞こえて来た。焼き鳥の匂いだけで、ビールが飲めそうだった。

 二時間後。私は、潰れるまで飲んだ町合先生に肩を貸し、タクシーを呼び止めていた。タクシーに乗り込む直前、彼女は言った。

「あなたは、辞めないよ……私が、守るもの……」

 今日の会合は彼女からしてみれば、私はずっと無口のままで、自分だけが一方的に話していたように感じられたかもしれない。だが、彼女の知らないうちに、彼女の当初の目的は、達成されていた。

 この日を境に、私は町合先生のことを、人として、どこか愛おしく思い始めた。

 タクシーの背中を交差点が呑み込むまで、私は見つめていた。


 喉の渇きを潤そうと、私はバッグからスポーツドリンクを取り出した。

「あ、いいな、先生! 俺にもくれよ!」

「……君は本当に、人から食べ物や飲み物を貰うのが好きなんですね」

「好きな飲み物は回し飲みだ!」

「はいはい」

 不思議と卑しさを感じさせないのも、彼の人間性故であろうか。

 霧崎君は、私の手からペットボトルを受け取ると、良い飲みっぷりで半分ほど飲み干した後、返却した。

「足しといたよ」

「……気色の悪いジョークはおやめなさい」

「悪い悪い! 大自然が、俺をさらけ出させるんだ!」

「海と大地に謝りなさい」

「何言ってんだ、我が校の性犯罪者ツートップは、この大自然が育んだんだぜ? 正しい楽しみ方だろ」

「海に入れない私から、情緒まで奪いに来たんですか、君は」

 ツートップ。無論、相良さんと、森田君のことである。二人はここの県出身であった。通っていた学校自体は、ここからはそれぞれ、大分離れているそうだけれど。

 その相良さんと森田君は、あの波乱の昼休み以降、クラスで腫物に―――なることもなく、期末テストが始まる前には、教室は、元の秩序を取り戻していた。

 霧崎君が走ってきた方向に、視線を向ける。

 天宮さん、叶瀬さん、森田君に、相良さんも加えたメンバーで、ビーチバレーを楽しんでいた。

 高校生の人間関係を、硝子細工のようだと評するのは、もう古い考え方なのか。それともこのタフさは、彼らだからなのだろうか。

「来年は……私も泳いでみましょうかね」

 そんなことを呟いたのは、この学校での生活が、私の中の何かを変え始めていることの、表れだったのかもしれない。

 ここ数か月は、本当に、衝撃的経験の連続だった。学校に足を踏み入れた直後に、生まれて初めて死体、それも他殺体を目撃し、息つく間もなく、その死体を作り上げた殺人鬼、霧崎麻述の世話役を任されたのだ。しかも、私の前に表れた異常者は、彼だけで終わらなかった。天宮さんからは幾度となく震え上がらせられたし、森田君も相良さんも、経歴は散々で、相良さんに至っては更生もしていないのだ。

 じっと、汗ばんだ手を見る。

 百合屋かおる子は、かつて小説家だった。だが私の書いた小説の影響を受けた誰かが、六人もの人間を殺してしまったせいで、世間に叩かれ、仕事を干され、どんな巡り合わせか、この地に流れ着いた。

 私は、特異だと思う。だが1-Aの彼ら彼女らも、十分に特異だ。なのに、この子たちは、私より、生き方というものを心得ている。

 私より年下の生徒達は、日常をパテのようにして、特異を埋め合わせ、自然に生きる術を知っている。

 私より能力のある先生たちが、自分の分を知り、その中で幸せを探している。

 そんな人々に囲まれている内に、私の中で過去が、段々と、その力を弱めていった。分かるのだ。自分が、後何年もしないうちに、本を必要としない人間になることが。

 夏の日に照らされ、氷が溶けていくように、焦りや不安が消え、私の人生に安らかさが訪れようとしていた。

 人並みの人生に、落ち着けるような、気がした。波打ち際が、濡れて平らになるように。

「いいんじゃないか。こういうのは、若いうちだぜ」

 霧崎君は笑って、ビーチバレーの輪に向かってかけていった。私の口から、あくびが漏れる。屋外で眠気が訪れるなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。閉じていく瞼の向こうで、霧崎君が急に立ち止まった。

 何かあったのかと思いながら、彼の様子を伺っていると、私も、そのことに気付いた。霧崎君は、空を見上げていた。

 いつの間にか、空に、濃い灰色の雲がかかっていた、サイズの合わない蓋を、無理にかぶせたような雲だった。水平線はまだ青く、まるでこの辺りだけが、太陽から置き去りにされたみたいだった。霧崎君が振り返る。目があった。彼の気持ちは、よくわかった。私も、この雲が自分にしか見えていないような気になって、不安になっていたのだ。他の生徒達や、先生たちも、まるでまだ、自分たちが太陽の下にいることを欠片も疑っていないかのような調子で、はしゃぎ続けていた。それはとても、不気味な光景だった。

 だが、私達の気づきが、彼らに共有されるまで、時間はかからなかった。

 雨が、降り始めたのだ。

 一番早く、切り替えたのは、男性教諭の二人だった。二人は、とくに示し合せる様子も見せずに、同じタイミングで、それぞれ近くにいた生徒達に、海から上がる様に指示を出し始めた。私も、海に駆け寄り、同じ様に促し始める。

 この辺りの海は、普段は穏やかで、泳ぎには最適なのだが、雨の際には、用心が必要なのだ。確か、この辺りの地域を訪れる観光者向けのウェブサイトに、「雨の際のみ、特殊な地形の影響で、沖に行くにつれ強まる、珍しい離岸流が発生する可能性を議論する余地があるという見解を確認した」といった、首脳会談後の政府みたいな文章が掲載されていた。この臨海学校のマニュアルを作ったのは私なので、よく覚えている。

 生徒達が、「これくらいまだ泳げるって」などとぶつくさ言いながら、テントに入っていく。中には、簡易シャワーもついているので、そこで塩を洗い流し、体操服に着替えてもらうのである。

 持ち物リストの中に、一応合羽は入れてあったのだが、先ほどまでの天気が天気だったので、持ってきている人間はほとんどいないはずだ。濡れて帰ることになるだろうが、途中で雨が降り始めた場合の段取りとして、生徒の希望が多ければ、この後すぐ、浴場を使わせてもらえるようにはしてあるので、一先ずは安心だった。

 私が自分の持ち物をまとめていると、テントの前で、水着のままの先生たち二人が、私の名を読んだ。生徒達に混じって着替えるわけにもいかず、彼らは水着のまま、山道を行くつもりのようだ。

 彼らの声に反応して振り返る直前、目の端を何かが掠めたような気がした。

「どうしましたー?! 百合屋せんせーい」

「いえ、今……」

 浜辺は、二つの高い崖で囲まれている。宿舎側から見て右手の崖の上に、誰か、居たような気がしたのだ。

「なんでも、ありません」

 さすがに見間違いだろう、と思った。案の定、点呼の際にも、生徒は全員、欠けることなく揃っていた。

 だが宿舎に帰ってからというもの、私は、あの崖の上に見た何かが、急に気になり始めた。海水浴の見回り担当でなかった先生たちが、施設内の見回りをしてくれているので、私は今、自由時間を頂いている。

 魔がさす、とはこういう気持ちを言うのかもしれない。

 何かに急かされるように、人目につかないよう、施設から出た。合羽を着こみ、浜辺への山道に入り、途中で、いくつか別れている道の中から、崖の上に通じていそうな道を、辿っていく。

 樹に覆われ、雲のせいで木漏れ日もささない暗い道を辿っていくと、ビニール紐で封鎖してある、わき道への入り口を見つけた。しめた、と思った。なぜ封鎖するのか。その先が危険な場所だからだ。例えば、切り立った崖のような。

 木と木の間に張られたビニール紐は、ところどころ弛みが見られ、私にはそれが、人の通った痕跡に思われた。

 潜り抜けるのに、造作もなかった。デニムを履いてきたのは、やはり正解だったようだ。

 やがて、開けた場所に出た。

 目論み通り、そこは崖の上だった。

 一人の少女がいた。私が何か言う前に。

 ボタンを押されたように機械的な態度で、彼女が、名乗ってみせた。

「桐島怜」

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