白猫の行方

isa

第1話:白猫の出会い

 目が覚める度にぎょっとする、見覚えのない景色。段ボール箱だらけで家具がなく、シーツからは防虫剤の臭いがほのかに漂っている。どこに何があるかも理解していない。これはまだ、僕の部屋ではない。

 この家に来てから三日経ったが、この新しい部屋にはまだ慣れなかった。荷解きをすれば少しは印象が変わるだろうか。それとも、そうしたところで無意味だろうか。

 僕はとりあえず、残り少ない夏休みを利用して部屋を整えることにした。手近な段ボール箱に飛び付き、そのビニールテープにカッターを入れる。最初に出てきたのは枕で、その次がパーカー。どうやら僕は柔らかそうなものをこの箱に詰め込んだらしい。そのあたりもぼんやりとしていて思い出せないのだが、そうなっているのだからそうなのだ。

 冬服が数枚出てきたところで、突然に服でもなく柔らかくもないものが出てきた。古い一枚の写真立て。その中には当然のように写真が一枚収まっている。それは、どうやら僕の両親の写真のようだった。ようだった、というのも僕は両親の顔をよく思い出せなかったのだ。こうして写真を見てもいまいちぴんとこない。二週間前までは一緒に暮らしていたというのに。

 両親は事故で亡くなった。僕もその事故に巻き込まれたのだが、その事に関しての記憶は他人事のようにぼんやりとしている。医者曰く、そうして自分に纏わる出来事を無意識の内に『他人事』にして自我を保っているらしい。受け入れたくはないが受け入れなければいけないので、他人のこととして受け入れた、とかなんとか。

「あ、あの」

 写真をまじまじと見つめていると、わずかに開いたままとなっていた扉の隙間から従妹である京子ちゃんが顔を覗かせていた。毎年のように親戚の集まりで顔を見せていたが、落ち着きのある大人しい子、ということ以外はよく知らない。憶えていないだけかも知れないが、深く話し込んだりしたことは今まで一度もなかった。

「朝ごはん、できたって」

 彼女はそう言って、僕が了解したことを伝えると、逃げるように扉の前から姿を消してしまった。そんなに僕は話しづらい人間だろうか。自分で言うのもなんだが、人畜無害さには自信があるというのに。

 僕は写真立てを再びダンボール箱にしまって部屋を出る。まだ馴染まない廊下。夏の気だるい空気。蝉の声。伯父一家との朝食を終えた頃にはもう、写真立てのことなど忘れてしまっていた。




 居心地の悪さを感じながらわずか数日の夏休みを消化して、ついに新学期が始まることとなった。新学期どころは僕にとっては転校初日という大イベントである。

 しかしながら、劇的なことは何もない。転校初日に十字路で美少女と衝突するということもなく伯父の運転する自動車で学校に辿りつき、始業式を編入クラスの最後列でぼんやりと眺め、人数の少なさに圧倒されている内に始業式は終了した。

 さて、今度は自己紹介だなと張り切っていると、予想を裏切り僕は一人だけ職員室へ連れて行かれて、事情を知っている教師陣から腫れ物に触るような態度でいくつかの説明を受けることとなった。その時に担任となる男性教師とも会ったのだが、その教師はその日初めて僕のことについて知ったようで(夏休みの間はずっとスペインにおり連絡がつかなかったらしい)、こんなことを口にしてから慌てて口を閉ざした。

「でも、ウチのクラスにはフッサが」

 フッサ、というのはどうも生徒の名前らしいということはすぐに判った。そして、その名はあまり口にしてよいものではないということも。

 僕はそのフッサなる人物について説明を受けることもなく、そのまま教室へと連れて行かれた。頭を抱えている担任教師のことを考えるととても「フッサって誰ですか」などと訊ける様子ではなく、僕はよく訓練された犬のように教師の少し後ろを歩き、近代的な内装ながらもどこか老朽化が進んだ校舎の中を見て歩いていた。

 さて、恐らくこれから自己紹介をすることになるのだろうが、困ったことに僕は自己紹介というやつは昔から苦手だった。わざわざ紹介するような事柄もなく、知ってほしい注意事項もない。今まで特に人の役に立ったということはなく、目指すべく未来も思いつかない。だというのにこの期に及んで何を紹介するというのか。僕の憂鬱な気持ちを知ってか知らずか教師がスライド式の戸に手を掛けて、僕にその場で待つように指示をした。

 先に教師だけが入って生徒と夏休みに関する小粋なジョークを二、三交え、それから仕切り直しと言わんばかりに咳払いをし、

「もう知ってるかと思うが、今日はこのクラスに転校生がやってくる」

 その言葉の後のリアクションは薄かった。さっき同じ列に並んでいたのだから、少なからず転校生情報は流れていたのだろう。それよりも終わっていない夏休みの宿題をどう誤魔化すかが心配という者も多いのかも知れない。

 ここでも新鮮な驚きとは程遠い雰囲気を味わいながら、教師の合図と共に僕は教室の戸を開いた。そして、僕はその喪服のように黒い制服の中に一点だけ、窓際最後列にぽつんと色が抜けたような白色を見つけ――――思わず立ち止まってしまった。

 真っ白な髪に、その白色が色移りしたかのようにほのかに白い肌。その視線は何者にも興味がないというように窓の外の高圧鉄塔を見つめていて、耳にはイヤホンが差さっている。一人分少ない窓際列の最後尾に座る彼女の席の前は不自然に間隔が広くなっているが、彼女の白色がまぶしすぎるのではないか、と僕はぼんやりと考えた。その隣の列だけ一人分少ないのもまた同様の理由ではないか、とも。

「……青梅一也です。よろしくお願いします」

 一瞬の硬直があったが必要最低限の挨拶を済ませ、特にそれ以上のクオリティを要求する声も上がらなかったので、教師は僕の座る席を指定しようとした。しかし、僕の目から見ても空いている席は一つもない。

「あー、しまった。用意してなかった。武蔵野、ちょっと空き教室から机一個パクってこい」

 そう指示を受けた武蔵野というらしい女子は、はいはいと慌てずゆっくりと最後列の席から立ち上がり、ぱたぱたと小走りで教室を出て行った。そこで僕はようやく『自分で取りに行く』という案を思いついた。

「あ、僕も机取りに行きます」

「いいからいいから。何も気にせずどーんと構えていたまえ、な?」

 恐らくは僕の『諸事情』によるものだろうが、しかし女子に机を持たせて自分だけが突っ立っているというのも忍びない。しかし、そんなことを考えている内に武蔵野さんは机をやや重そうに運んできた。そしてその机を、まるで避けられるように空白となっている白い髪の彼女の隣――――ではなく机を取りに行った武蔵野さんの後ろの、もう机を置くスペースもないような最後列のさらに後ろに配置された。

「え、そこ?」

 思わずそんな声が出るが、誰もその不自然な配置について言及することはなかった。僕は促されるがままにその席に座ろうとするが、あまりにも狭く椅子を引けばすぐにロッカーにぶつかって座れない。その様子を見ていた中で、ただ彼女だけがその白い髪を揺らしながらくすりと笑っていた。

「あの、先生。ちょっとこれは座るの難しいんですけど。これはアレですかね、なんか新入りに対するマイルドなタイプのイジメとかそういう」

「あ、違うの。ごめんなさい」

 咄嗟に謝罪を返したのは、ここに机を設置した武蔵野さん本人であった。どうやら本当に悪意はなさそうな反応で、しかし机を置くのにうってつけのそのスペースに移動させるという提案もなく、頑なに限界まで前方へ机を詰めるという方法を試みていることから、僕は一つの確信を得た。

「……フッサ」

 小さくそう呟くと、武蔵野さんは肩を跳ね上げて僕の顔を見た。

「な、なんで知ってるの」

「なんでだろうね」

 ちらと教師に目をやると、教師はわざとらしく咳払いを一つした。

「んー、んー……まぁ、仕方ない。青梅、お前はフッサの隣だ」

「でも、先生」

 教師の英断に、なおも食い下がる武蔵野さん。いよいよこのフッサという、どういう字を書くのかさえ判らない白髪女子の素性に興味が湧いてきた。

「仕方ないだろ。そんな所に座ったら腹が薄くなる。青梅、もし何かあったらちゃんと先生に言うんだぞ」

 何かある可能性があるのか、とは口にはしなかった。ふと視線を感じて窓の方を向くと、フッサという名の危険指定少女が微笑みを投げかけており、身の危険よりもその可愛さに今まで抱いたことのないような感情を抱きつつあった。


 これが新学期にして新学校生活の一日目、前半戦である。




■  ■




 初日は特に授業もなく、原住組が夏休みの宿題を提出した程度で解散となった。しかしそう簡単に転校生という存在が帰れるはずもなく、軽い質問攻めに遭うことに。どこから来たのか。どこに住んでいるのか。右利きか左利きか。血液型は。そんなおおよそ日常生活で活用されないであろう情報についての任意聴取に攻め立てられていると、救いの手かその逆か、教師に呼び出されて職員室へ向かうことになった。

 もう一、人クラス委員長であるらしい立川という女子も呼び出された。眼鏡の奥でやや気の強そうな目をしている立川さんは、なかなか背が高く、僕よりも数センチほど勝っている。しかし身長に栄養を吸われてしまったのか体は細く、そして薄い。

「……今何か言った?」

「ううん、まさか」

 ついでにやたら勘が鋭いというのも付け加えておく。

 職員室に入るなり僕と女子二人は職員室の奥の奥、校長室へと通され、最後に担任教師が外を確認しながら中へと入り、内側から鍵を掛けた。

「やぁ、青梅くん。新しい学校生活はどうかな?」

 校長室には当然のようにこの学校の校長がおり、やややつれた顔をした校長はなんとか保っているというような笑顔で僕にそう訊ねた。僕はなんて返せばいいのか迷い、

「なんといいますか、都会とは一味違った生活に胸が躍ってます」

 村八分的な意味で。

 そうかそうかと皮肉にも気付かず校長は頷き、途端に笑顔を崩して真剣な顔をした。

「ところで、フッサさんについては何か聞いているかな?」

「いえ、どういう字を書くのかもよく」

 校長はメモ用紙を手に取り、ボールペンで『福生』と書いた。

「これで『フッサ』と読む」

「なるほど。で、その福生さんがどうしたんでしょうか。なんだかすごい人気者みたいなんですけど」

 さらりと訊ねてみるが、校長は僕から目を逸らして部屋の隅に飾られていたタヌキの剥製に目をやった。校長が仕留めたのだろうか。

「いや、まぁ……その、なんだね。福生さんは根はいい子なんだが、その……」

 あれこれと言葉を濁し、そしてついには心の中でお手上げしたのが見えた。

「とにかく、福生さんのことはそっとしておいてほしいのだよ」

「そっと、ですか」

「そうだ」

「もし福生さんから関わってきた場合は?」

「その時は無視すればいいわ」

 言い淀んだ校長の代わりに口を挟んだのは、きつい目つきでこちらを睨んでいる立川さんであった。

「まぁ、向こうから話しかけてくることなんて絶対ないと思うけど」

「信用されてるなぁ」

 他人事のように笑うと、校長は疲れた表情により一層の影を落として深い溜息を吐いた。ハンカチで額を拭って、冷房のリモコンの表示を見て数回指ではじきながら、校長は外に漏れないようにか小さな声で続けた。

「とにかく、福生さんにはなるべく関わらないこと。そのことについての詮索もしないこと。いいね?」

「はい、わかりました」

 無駄に面倒事を起こす必要もないと考え、とりあえず場の雰囲気に合わせておこうと考えた。わざわざ波風立てるのは好きではなかったし、せめて学校くらいは落ち付いて過ごしていたかったのだ。




 たっぷり釘を刺されて帰路につくが、まだ道を憶えていなかったので早速道に迷ってしまった。これだけ建物がなく田畑だらけなら道に迷うまいと思っていたのだが、その実態は丘を迂回するような曲がりくねった道や、切通しのような細い谷間の道があったりと複雑に入り組んでおり、気付けば山の反対側についてしまっていた。

 地図を持たされてはいるが、それも自分が今どこにいるかを把握していなければ意味はない。やはり伯父や京子ちゃんに頼んで一緒に帰るべきだったろうか。しかし、教師陣の手厚い歓迎によってこれだけ時間が掛ってしまったのだから、そうしたらたっぷりと待たせることになっただろう。

「参った。まだ助けを呼ぶほど親しい人がいないぞ」

 辺りを見回すが、人の気配はない。両側を鬱蒼とした竹林に挟まれたこの細い道路にあるのは、どこかへと続く石段と、雨風で朽ちたプラスチック製の消火器ケースくらいである。

 とりあえず高い所へ行けば道が見えるかもしれないというのを口実に、好奇心に押されて僕は石段を登った。角が欠けて苔が生えた石段の幅は狭く、その先が見えぬほどに急勾配であり、かつ長さがある。半ばにして上り始めたことを後悔し始めたが、ここで上るのを止めるのは癪だ。


 肩で息をしながら石段を登り切ったその先にあったのは、

「……神社?」

 と、

「……廃墟?」

 を足して割ったような建築物であった。鳥居や狛犬がないので神社ではないだろう。ともすればこれは純然たる和風一般住宅の廃墟である。

 僕は特別廃墟が好きというわけではないが、廃墟というものは男心をくすぐるものがある。かつて人間が建設し、人間が使用していた建造物が、時間の流れと共に主を失い朽ちていくその過程にあるもの――――それが廃墟である。廃墟は人の手があまり入らないところにあるべきだ。人類の文明から隔絶された場所にあり、そしてそれは隣り合っている必要がある。一歩境界を踏み越えた途端に文明が滅亡した区画になってしまうというこのオンオフが廃墟にとってのスパイスとなるのだ。


 ふと、人の気配を感じた。廃墟に向けた心がその気配へと移り、僕はその気配を感じる方へと向かった。丁度その廃墟の裏側から感じる。気配などと言うとややオカルトじみているが、幽かな物音が聴こえると言えば現実っぽいだろうか。

 近付くにつれて物音が大きくなってくる。ビニール袋の擦れる音と、何か硬いものがコンクリートの上に置かれるような音。そして、声。

「ほらほら、おいでー」

 女性の声だ。僕に向けられた言葉なのかと思ってその足を止めたが、こちらは見えていないはずである。どちらかと言えば犬や猫に向けられた言葉のようであり、僕はまた足を進めた。

 こっそりと廃墟の裏を覗き見る。すると、そこには夏の日差しに眩しい白髪があった。白い髪の少女――――福生さんは廃墟の基礎部に座り込んで草むらに何かを呼び掛けていた。

「おいでおいで。ほら、いい子だよ」

 福生さんの視線の先には一匹の仔猫がいた。まだ生まれたばかりの小さな仔猫で、可愛らしく鳴いている。福生さんの手の中には開封された猫用の缶詰があった。なるほど、学校で八分にされている彼女はその心の拠り所を小動物に求めているのだな、と微笑ましいその光景に僕は時が経つのも忘れて見入っていた。

 やがて、五分もすると仔猫の警戒が解けて福生さんの方へと歩み寄り、福生さんは缶詰の中身を地面に出してじっと待った。仔猫は山盛りのキャットフードに顔を突っ込んで食べ始め、福生さんはそれを見て微笑んでいた。僕の顔も緩みきっていただろう。無視という名のイジメを受けた彼女が、小動物に優しさを見せる――――僕はこういった感動ストーリーにめっぽう弱いのだ。テレビでそういった特集が組まれる度に僕は嗚咽を漏らして啜り泣いてしまっていたのだが、しかしあの日以来そこまでの反応はできなくなってしまっていた。

 まるで天使のようにさえ見える。彼女の髪が白いのは、失われた天使の羽の代わりなのではないだろうか。そんなことを考えながらそっと立ち去ろうとした矢先の出来事である。

 餌を食べていた仔猫は急に苦しそうに鳴き出して、ごろごろと地面を転がり始めた。かと思えば急に体を丸め、四本の脚を痙攣させ、口からは吐瀉物と血が零れ出ていた。

「し、しし、死んだ!?」

 思わず声を上げてしまったが、福生さんはそんなことなど意に介さないというようにじっと猫を見つめていた。

「ほんの三十秒で瀕死。今度の『福生スペシャル』は大成功ってとこね」

 そう言ったのが彼女であると気付いたのは、数十秒後のことだった。目の前で起こった小動物虐待と、それに対して悪びれる様子もない彼女の両方が同時に僕に襲いかかり、どちらから対処すればよいのかまったくわからなかった。

「な、なにやってんの」

 なんとかその言葉を絞り出すと、彼女はその微笑みのままこちらを向いた。目に眩しい白色の髪が、今は死神の頭蓋骨のように見える。

「何って、実験?」

「実験って、何を」

「『福生スペシャル』。まぁ、俗に言う毒物かしらね」

「そんな……」

 僕は猫の死骸に目をやった。酷く苦しみもがいていた仔猫は、もうぴくりとも動かない。どうして死体というものはこんなに存在感を失うのだろうか。確実に生きている頃にはあった『何か』が欠けているその死骸は、しかし自分の両親のそれとは結び付けられない。

「なんで猫で実験したの」

「猫じゃないなら何で実験するの?」

「ね、ネズミ、とか」

「ネズミならいいの? でもネズミあんまりいないんだけど。君は何が気に入らないのかしら」

「とにかく、生き物を殺すのはよくないよ。ノーモア・キリング、だよ」

 英語が正しいかはわからない。いつも英語の成績は下から数えた方が早かった。

 彼女は困ったように首を捻って、散々うなった後に僕の顔に顔を寄せてこう言った。

「なんで殺すのはよくないの?」

「それは……道徳上の問題じゃないかな」

「どうして道徳に反するの?」

「生き物がかわいそうだから……?」

「どうして殺すとかわいそうなの?」

「何事も相手の身になって考えてみるべきだよ。もし君が猫だったらどう思う?」

 そう訊かれた彼女は即答した。何の迷いもない答えだった。あらかじめ用意していたのではないかと疑うような、そんな正確さと素早さであった。

「私が猫なら、きっと気付かずに『福生スペシャル』を食べて死んでるわ。一瞬も疑うことなく、ね」

 僕は説得は無理だと思い至った。それと同時に、校長や立川さんがどうして福生さんに関わるなと言っていたのかを理解した。こちらの意図がまるで伝わっていないのだ。考え方がそもそもこちらと違うからその行動がずれ、そのずれた行動が彼女と我々の間に隔たりを生み、その隔たりがさらに彼女の行動を逸脱させる。きっとそういうシステムなんだろう。

「ねぇ、どうしてかわいそうなの? 殺されるのはかわいそうなの? 殺されるのは嫌なことだけど、本当にかわいそうなの?」

 彼女の質問は続いた。なぜ。どうして。実のところ、そんなことは僕にだって判らなかった。

「と、とにかく動物には愛を持って接するべきだと思うな」

「……愛?」

 もしこの時の僕に冷静な気持ちがあったなら、彼女のその表情の変化に気付いていただろう。しかし僕にはその笑顔は何も変わっていないように見えたのだ。

「愛なんて知らないわ。愛って何なの? それを持って動物に接すると何か得があるの?」

「そ、そんなこと言われても」

 僕は今すぐにでも尻尾を巻いて逃げ出そうかと思ったのだが、明日以降も教室内で遭遇すると考えたらそれは得策ではないような気がしてきたのだ。

 そうこうしている内に、彼女は何かを思いついたように「あ、そうだ!」という言葉と共に手を打った。とても嫌な予感しかしない言葉に僕は目を瞑り、この山と畑と寂れた商店街しかない田舎を呪った。

「いいこと思いついたわ。君が私にその『愛』とやらを教えてくれればいいのよ」




 ――――その言葉が全ての始まりだった。僕と彼女と、その他何名かの記憶に残り続けるであろう中学生活最後の一年の後半分の始まりだった。




■  ■




「おはよう、青梅くん」

 ただその挨拶だけで教室を真冬のような張りつめた空気に変えることができるのは、他でもないこの福生美空という白髪の少女だけだろう。僕は周囲の視線を感じながらも挨拶を返した。挨拶を返さない人間は最低だと、父が生前に口を酸っぱくして言っていたものだ。多分。そんな気がする。

「お、おはよう、福生さん」

 福生さんは僕の机の上に肘を載せ、期待の眼差しを僕に向けている。ああ、すみません。僕はあなたの期待に答えることはできないんです。そう視線で返事を試みるが、悲しいことにまったく伝わっていないようであった。

「青梅くん、今日は私はすごく気分がいいの。どうしてだか判るかしら?」

「ごめん、さっぱりわからないな」

「答えは簡単よ。やっと私の真人間化が始まるんだもの! これが楽しみじゃなければ何なのかしらね」

 すごいですね、頑張ってください! あ、僕がやるんでしたっけ。

「これまでずっと私は『愛』ってなんなのか判らなかったの。人を愛するとか、動物を愛するとか、自然を愛するとか、よく判んなくて。でも、それもこれもみーんな青梅くんが教えてくれるのよね!」

「あの、福生さん。声大きいよ、ちょっと」

 僕が注意してもまったくの手遅れであり、教室は嫌な雰囲気に包まれてしまっていた。それは当然のことだろう。恐らくは昨日までまったく誰とも関わろうとしなかった彼女が、朝に僕が登校するや自らの席を立って挨拶をして話し始めるというのは、僕と彼女の間になんらかの深い関係があるからだろうと考えるのはとても自然なことだ。ただし、その『深い関係』が猫殺害の黙殺であるということは誰も思い当るまい。ましてや愛だのなんだのと、もはやいかがわしい関係以外に想起される何かが思い付かなかった。

「ちょっと福生さん。転校生たぶらかすのは止めてくれる?」

 救いの手か、はたまた蜘蛛の糸か。目をきらきらさせながら昨日仔猫に毒を盛った手で頬杖突いていた福生さんに、教室へ入ってきたばかりの立川さんが語気を強めてそう言った。しかし、福生さんはそれに怖気付くこともなく視線だけを向け、

「たぶらかすなんて人聞きが悪いわね。私はただ、私の人生の師匠に『愛』について教えを請うているだけよ」

「ほぼ強制だけどね」

「日当もナシよ」

 ブラックすぎる。

 立川さんは不機嫌さを隠すことなく表情に貼り付けていた。裏表がない性格なのか、単純に沸点が低いだけなのか。僕の中のクラス委員像というものは、もっと大人しく生真面目な女子というもので固まっており、立川は確かに大人しく生真面目ではあるのだが、もっとおしとやかでないとダメなのだ。どちらかと言えば武蔵野さんの方が僕の中のクラス委員像に近い。

 立川さんは眼鏡越しの視線で福生さんでなく僕を睨みつけた。福生さんに何を言っても無駄だというのは彼女らの方が承知しているのだろう。

「青梅くんも、関わるなって言わなかった?」

「いや、まぁ……様々な偶然と不可抗力が重なりまして」

「別にあなたがどうなろうと知ったことじゃないけどね、福生さんを調子付かせるようなことだけはしないで」

「あ、はい」

 深く頷くが、その本人の目の前でそんなことを言わされるこちらの身にもなってほしいものである。

 立川さんは肩を怒らせながら自席へと戻って行った。気付けば福生さんも隣の席へと戻っていて、その耳にはイヤホンが差し込まれ、顔は窓の外をぼうっと眺めていた。なんとなく、これで全て終わったのだとこの時は考えていたのだが、それは甘く儚い考えであったとその翌日には知ることとなるのであった。



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