シャボン玉キチの正一

一齣 其日

浪人

「しゃらくせえ、なんでわりゃがこんなことやんなきゃならんぞ」


 それは、秋風が身に沁みる頃であった。荒れ果てた京都の視察をしながら、出鱈目な訛り口調で文句を言う男がいる。

 乱れた髪をひとふさにまとめ、欠伸をかますどこか不真面目なその男。御坂正一は、気怠げな目を浮かべては今日も今日とてシャボン玉を吹き散らしていた。

 本来の彼ならば、こんなマメな仕事など面倒の極みであった。そもそも仕事をすること自体、昔の正一からしたら想像の余地もなかったのかもしれない。

 江戸の長屋で、幼馴染にどやされながら、シャボン玉を吹かしてのんびりと暮らす。仕事なんぞは適当に、そんなせかせかなんてせず、まあでもやりたいようにするためのことはなるだけやる。

 そんな日々を夢想していたら、なぜかこれであった。幕府の命令を受けてせかせかと働く毎日。のんびりできるほどの余暇も無し。

 事の始まりは、幕府からわざわざお偉いさんがやってきて、隠密になれとの通達。たかが町人に一体なんで、そう思わずにはいられなかったが、報酬にシャボン玉を赦されたら、このシャボン玉キチはついつい乗ってしまったわけだ。

 そういうわけで、動乱の京都に放り込まれ、ついでに先日などは禁門の変などという争いに駆り出されもしたのである。

「いや、ほんとに思い返せば返すほど、なんでこうなっちまっじゃけなあ」

 彼のぼやきはどうにも止まらない。そんな態度であるから、仕事に関してもやはり不真面目である。

 例えば、彼の今回の任務である。行方不明となっている長州の大物桂小五郎の暗殺、その任務が池田屋事件で新撰組が彼を逃した後から極秘裏に伝わっていた。

 だが、桂の行方は新撰組も追っているので、彼はあちらが何とかしてくれるだろうと思い、そちらの仕事は全くといいほどしちゃいない。そのことで気を病んでる同僚がいるのにもかかわらず、だ。

 とはいえ、あまりに仕事をしないでいるとやはり、体面がつかない。そういうわけで、現在は面倒臭がりつつも、京都の見回りをし情勢視察という名の散歩を行なっているのであった。

 当時の京都は元治元年の夏に起こった禁門の変により、市街の多くを焼き尽くされてしまったのだ。戦闘自体は一日で終わったものの、町民達にとっては甚だ迷惑な戦いだったであろう。

その戦いから数週間が経ったものの、治安はいまだ安定せず(ただし禁門の変起こる以前より治安は悪かった)、また動乱の最中ということもあり、この被害から立ち直ることは難しかった。

 正一はそんな京都の情勢を気怠げに紙に書きつつ、片手間にシャボン玉を吹く。しすると、外で遊んでいた子供たちが寄ってきた。未だ焼け跡ばかりで、暇を持て余していた子供なのだろう、正一の吹かすシャボン玉に目にすると、途端に興味の色が沸いてならない。

「わー!」

「たくさんたくさん!」

 だが、大はしゃぎする子供に目もくれず、正一は作業を続ける。子供なんぞに興味は無いらしい。全くもってといっていいほどに、相手なんぞしちゃいない。

 だからか半刻ほど経つと、子供たちも別のところへ行ってしまった。きっと他のものに好奇心がそそられたのであろう、子供とはそういう生き物だ。

 やがて、夕闇が次第に正一の影へと迫る頃となっていた。正一は、これ以上外にいるのは危険と判断し、ついでにそろそろくたびれもしてきたので宿へ帰ることにした。

 禁門の変で長州藩士を追い出したとはいえ、前述のとおり未だ安心できないのである。故に、彼は足早に夕闇を駆けていく。不穏な陰が、彼の跡をつけている事を、知らぬまま。



「おかえりなぁ、正一はん」

 そう言って正一を出迎えてくれたのは、この宿の女将さんである。ここの宿の人達はとても温かみがあり、人情味が溢れていた。何より、多少のことでは文句は何もない。なので、だらしのない正一も幾分か居心地の良さを感じていた。

「えやー、毎度のことながらお世話さんのう」

「ええのよ、べつに。お食事の準備をしますねぇ」

 正一はよろしゅう、とだけ告げると二階の自分の部屋へと上がっていった。しかし、毎度かますその欠伸は中々に大きく下にも響くものだから、宿の女中はくすくすと笑いがこみ上げる始末。

 さて、正一は部屋に入るなり、羽織を脱ぎ捨てばたりと倒れ込む。そして、さらに目を見張るのはたかが数秒で眠りの世界に落ちていることだろう。眠いのなら取り敢えず寝てしまう、彼にとっては至極当然のことである。

 しかし、先の戦ではこれを戦闘中にやらかしたので、彼の同僚は大層肝を冷やした挙句、なかなかな手練れを相手を相手にしたがために死にかけたらしい。戦後、この時ほどこの大馬鹿野郎を殺したいと思った事はないと、その同僚が言ったのは内緒である。

 それから少し後、食事を運んできた女中はこの光景を見て、またしてもクスリと笑う。まったく、しょうがない人だといったところか。そして、親切にも掛布団を出し、それを正一に掛けてやった。その眠りはあまりに深いものであり、これは朝まで起きないな、と判断した女中は食事を持って部屋を出る。しかして、その寝息もまた、部屋の戸を閉めてもなお聞こえてくるので、三度おかしさがこみ上げた。

 さて、女中が下に降りると、新たなお客が来ていた。身なりは汚いがそれなりに金は持っていたので、女将は宿に泊めることにしたらしい。

「不思議だねぇ。身なりはあんななのに、金は大層あったんで驚いたよ。旅の人にしては持ち物が少ないし……。どういう人かねぇ」

 義理人情で来る者拒まず気にせずで通している女将さんも不思議がっていたのは、女にとっても驚きであった。

 


 早朝、正一を訪ねてきた者がいた。彼の眉間には、シワが寄せられるだけ寄せられている。その彼こそが、正一の同僚である坂口金吾宗孝その人であった。

 正一が桂暗殺の任務を相変わらずサボっていることに加え、禁門の変で酷い目にあったのを未だに引きずっている彼の機嫌は相当に悪い。そりゃ、肝を冷やした挙句、死にかけたとあれば、この機嫌の悪さも同情の余地があるかもしれない。もうかれこれ一ヶ月ほどこの調子である。

 だからだろう、正一が泊まっている部屋に入るなり、彼は拳、蹴り、肘を怒りのままにぶつけたのは。

 こんな起こされ方されたらたまったものじゃない。だが、とうの正一はそれでも起きやしない。彼の惰眠根性は、暴力で崩れるほどヤワではない。これを承知しているが故の、所業である。

「まったくだ……。まぁ、叱責してこいと言われたから来たものの、これでは意味なしだなオイ」

 ここまで起きねば、如何しようもない。仕方なく、坂口は一度出直してみようか、などと思い始めていた。

が、

「何か他に御用があったのでは」

 と、低い声がどこからか発せられた。坂口は聞き慣れているのか、声の主が誰なのか容易に見抜く。

「厄か」

「当然」

 厄、その男は正一の部下である。ひょんなことから正一に仕えるようになった忍びのもの、とでも言えばいいか。主に諜報、暗殺に長けた男であり、しかして姿は容易に見せない男である。無論、それは忠誠を誓っている正一に対しても、だ。坂口になら尚更である。

「それなりに理由がなければお主は来ないだろう。私が後で伝えておきましょうか」

 厄の声は聞こえるが、やはり姿形は見えやしない。それが当然であるように、坂口は話を続ける。

「まあ、そうだな、大した用事ではないが、伝えておいてもらおうか。ええと……」

「なんかあんのけぇ?」

「おまっ……!」

「おはようございます、主」

 いつの間にか正一は起きていたらしい。だが、とろんとした眼差しは、いまだに眠気を引きずっている証拠である。

「やっと起きたか正一」

「おんしらがうるそうて、目覚ましたが」

「そうかい。それは結構なことで」

 坂口はやはり喧嘩腰である。まあ、仕方ないことであるが。

「そんで? 一体何の用があんが?」

「取りあえず、お前仕事をサボっているだろ。上がたいそうお怒りで、こっちが叱られる始末だよ。ほんとに仕事くらいしてくれ」

「それは壬生の狼がやっちゅうが、やらんでいいかと……」

「そういう問題ではない! 取りあえず与えられた仕事をだな……」

「めんどくせぇ」

「この任務は主がやる必要はないと私は思います」

「……」

 相手が悪すぎる。

 坂口はそう思わざるを得なかった。めんどくさがりの男に、そいつに毒された部下……。なんということか、自分がしっかりしなければ、とますます気に病む坂口であった。

「んで、それ以外になんかあるんかいな?」

「そうだった。あと半月ほどしたら、ここの宿から引き払うようにだとさ」

「はぁ? 何故に?」

「他の仕事があるからだろう。それにこれ以上ここにいても仕方ない」

 正一は、少しだけ名残惜しそうな素振りをしてから、

「りょーけぇと伝えてくれな」

 とだけ返事をする。だが、やはりというか、ここは居心地が良かったのもあって、正一は少し不満げだ。

 それに坂口は若干の少し不安が残しながらも、そそくさと帰って行った。まだ、仕事が残っているというのもあるだろう。だが、それ以上にこのまま正一と顔を合わせてると、胃に穴が空きそうだからこそ、というのもあるとかないとか。

 対して正一は、朝からうるさい来客に疲れたので、もう一眠りしようと布団に包もうとする。相変わらず、サボるのをやめようとはしないらしい。

 だが。

「仕事の時間です」

 毒されてはいるが、基本正確無慈悲な部下の布団強奪により、結局眠ることはできないようだった。



 正一が部屋から出ると同時に、隣の部屋からも人が出てきた。身なりは汚いが、眼光は鋭い。達人、という雰囲気ではないが、その眼には確かなものがあった。

隣は空き部屋だったはずと正一は思ったが、どうでもいいか、と関心を持たずにとっとと下へと降りていく。

 対して、男は正一の後ろ姿を少しだけ見つめていた。その目がどのような色をしているのかは定かではない。やがて、彼は彼でどこかへ行くのだろう、階段を静かに降りていった。

 正一が朝飯替わりの茶漬けをサラサラ食っていると、どこからか声が聞こえてくる。

「……主」

「……おんしか」

 声の主は、やはり厄である。今度は天井か、それとも壁の裏か、それは誰にもわかりはしない。

「で、何用じゃけぇ? わりゃてっきり既に仕事に行ってらと思たがよ」

「御冗談を。気付いてなさったくせに」

「いや、知らんがな」

 と、意にも返さずに残りの茶漬けを、サラサラと喉に流し込む。そして、食い終わるや否や仕事に出ようとした、その時。

「……先ほどの男、見覚えありませんか?」

 突然のことだったので、正一は不思議そうな顔をした。正直その質問にどんな意図があるのか、御坂は全くわからない。

先ほどの男、と言われるとあの眼光の男か、と思い返すが見覚えがあると言われたら、否である。まあ、この男、人の顔を覚えないので、一度会ったとしても忘れることがザラであるが。

「……知らんが」

 厄の声は聞こえなかった。どうやら、もう出ていったようだ。

「なんじゃけぇ、一体」

だが、わけもわからぬことを考えても仕方ない。そういうことで、御坂は、シャボン玉を吹かしながら仕事に出る。不穏な陰は、御坂に未だ忍び寄る。

 


 正一は仕事から帰ってくるや否や、やはり昨日と同じようにばったりと倒れ臥す。もはや恒例行事となりつつある。

 しかして、今日この度は目がやけに冴え、一向に眠けがやってこない。そもそも、何故だか今日一日欠伸の一つももこみ上げてきやしない。いつもなら、もうぐっすりと眠っている頃なのだが、どうにも眠りの世界に落ちることができずにいた。

 そんな正一の目にふと留まったのが、シャボン玉用具。少しの間見つめると、それを手に取り窓を開ける。そして、ゆっくりとシャボン玉を吹かし始めた。やはり、こういう時はこれに限るというのだろう。

 天に昇ぼる無数の玉は、月の光に照らされているのもあるのか、随分と映えて見えた。御坂は、それを子供のような無邪気な眼差しで見つめている。

この瞬間こそ、正一の至福の時である。ただ、淡々と浮かぶシャボン玉。映るものはコロコロと変わり、天にのぼるだけのぼって、いつのまにやら、はらりと消える。

正一は、このシャボン玉が好きでたまらぬところがあった。子供の頃から、のんびりと浮かび、そしてのんびりと消えゆくその姿が、面白く見えて堪らなかった。このシャボン玉液が貰える、そういうだけで隠密になることに対して、頷いてしまうくらいには。

 そんな、至福の中に響く声が一つ。

「おお、綺麗ですな」

 突然のそれに、正一はひょっこりと顔を出し、その声の主を見る。誰かと思えば、朝に見た、あの眼光鋭き男である。しかして、先程とはどうも雰囲気が違う。どこか、穏やかな心地があった。

「おや、もしかしてお主が吹かしていたのですかな」

 男は正一の顔を見るなり、問う。正一はなんのけなしに、首を縦に振った。

「シャボン玉がお好きなのですかな?」

「んが。シャボンは綺麗がかな」

 正一はそう言って、さらにシャボン玉を吹かした。宿の前を通る人たちもおもわず上を見上げ、そして見とれていた。

「いやぁ、いいですな。こういうものも……」

 男は酒を飲む。正一もつられて、熱い茶をずずっと啜った。

「そういえば、まだ名乗っていませんでしたな。拙者、勝井佐久郎と申します」

「わりゃ御坂正一が。よろしゅう。おんし、結構シャボンのことがわかるようじゃな」

「ええ、拙者も中々、シャボン玉には凝ってまして」

 それからの二人は、時を忘れてシャボン玉の話に花を咲かせる。それこそ、まるで初対面とは思えぬほどに、話が合うものだから終わりようがないものであった。



 その日以降、正一は勝井とよく会話を交わすようになり、たびたび飲めない酒も交わすようになった。話す内容は勿論シャボン玉。勝井という男もまたシャボン玉に魅かれた一人であるのだろうか、随分と熱くシャボン玉に語ってみせる。そういうわけで酒を飲んではシャボン玉ばかり、朝帰りも珍しくなくなっていった。

 だからというか、当然というか、ここ最近の正一の挙動に怒りを募らせている者が、ここに一人。

 言わずもがな、坂口金吾宗孝である。生真面目、堅物、石頭の三拍子が揃っているこの男は、この行動を許すはずもない。しかも、半月以内に宿を引き払うようにという命令を、正一が無視してはや一ヶ月であるのも、彼が怒りを募らしている原因でもある。

 その日、坂口は今日こそはと思い正一の宿を訪ねたが、肝心の正一はまたしても留守である。今日もまた、あの男と飲みに行ってるに違いない。

「あんの野郎……」

 そろそろ我慢も限界、堪忍袋の緒が切れるのもそう遅くはないだろう。

と、その時。

「……金吾」

 低い声が部屋に響いた。

 姿形見えずということは、厄である。

「どうした? 何かあったのか」

 厄が坂口を呼び捨てにするときは、大抵何かあった時だ。坂口は先ほどまでの怒りを忘れたかのように冷静になる。私情と仕事をわかるあたり、やはり仕事人な男である。

「隣の男……、勝井佐久郎の素性についてわかったことがある」

「あのバカがここに滞在し続けている元凶か。それがどうかしたのか?」

「はい。私はあの男をどこかで見た覚えがあった。なので、勝手ながら調査したところ、少々懸念すべき事実が発覚した」

「懸念すべき事実?」 

「彼は松井修三という名前で、先の戦に参加していた。そして、同じく参戦していた弟を殺されていた……我らが主によって」

 坂口は戦慄した。いつの間にか握られた拳は、小刻みに震えている。

「それじゃあ……今あの馬鹿と一緒にいる男は、まさか……」

「……目的は多分、金吾が考えている通りかと」

 坂口の背筋に冷たいものが走る。

 もはや、戸惑う暇などない。早く手を打たねば、取り返しのつかないことになることは必至であった。

「お主はその勝井某という男を見た覚えがあると言ったな?」

「はい。それに、金吾も見たことがあるはず。それも、忘れずにはいられない状況で」

「なんだと?」

 坂口は自分の記憶を遡った。こういう時の彼の頭の回転は、驚くほど速い。すぐに答えを導き出す。だが、その答えは彼を青い顔ににさせるのに十分な代物だった。

「……まさかだろ」

「そのまさか、だ」

「あの男なのか……!」

 彼の脳裏に浮かぶのは、先の戦いで自らを追い込んだあの男の姿だった。



「拙者の弟もシャボン玉が好きだった」

 そう言うと、勝井は酒を一息に飲み込んでいく。

「ほう、弟がか」

 正一も飲めない酒を飲みながら、勝井の話を聞いている。若干頰が赤くなってるあたり、既に酔いが回り始めてはいるらしい。そんな正一を横目に、勝井は話を続ける。彼も御坂ほどは酔っていないものの、若干口が普段より多くなっているように思われた。

「弟もよくシャボン玉を吹いていた。ガキの頃は一緒に吹いて遊んだものよ」

「ほー……、中々ええもんじゃな」

「ああ。あのころは楽しかったよ」

 話を進めていくたび、勝井の顔が若干思い出を懐かしむかのようにほころぶ。しかし、その姿はどうも寂しげに感じられた。

「わりゃ弟はいなかったがか。じゃけん、おんしがちょいと羨ましゅう感じるが」

「ほう。でも、お主は長屋で暮らしていたんだろ? そこに弟みたいなやつはいなかったのか?」

 当時の長屋は、住人が共同生活をしているような感じであった。だから子供たちも共に生活することで、友人以上の何かを感じることもあった。

 しかし、正一の場合は事情が少し違った。

「わりゃ、元々長屋に住んでたわけではあらへんが。」

「ほう? そいつはどういう意味で?」

「なんつうか、捨てられてたというか、行き倒れになってたというか、そんなところらしいがな」

「は?」

 あっけらかんと衝撃の過去を語る御坂に対し、勝井は口をぽかんと開けているしかなかった。

 そんなこと普通平然と話すか? と返せば、

「別に拾われたんじゃからええじゃろ」

 とあっけらかんと返すのだ。

 そんな正一に言葉を無くしたのか、困惑したのか、

「いや、もう話さなくていい……。済まなかった」

 と勝井は話を止める始末。正一は別にそれがどうしたという様子で酒を飲み進める。勝井は勝井で思うところがあったのか、酒をあまり飲まず、物憂げに何かを考えているようだった。

 二人の間に沈黙ができたころに、店は閉店の時間となった。閉店なら仕方ない、ということで二人は勘定を払って店からでる。

 外は冷たい夜風が、何かを切り裂くように吹き荒いでいた。



 無理に飲めない酒を飲んでいたせいか、正一はしばらく千鳥足にならざるを得なかった。だが、意識はどうにか保っているし、万が一倒れても、勝井がなんとかしてくれるだろう、みたいなところもある。

 対する勝井は、平然と歩いている。彼はどうやら、酒には自信があるようだ。しかし徐々に速度を緩めて、正一の後ろにぴたりと着くように歩き始めた。その雰囲気は、穏和ではなく、まるで暗殺者がこれから仕事をこなそうか、というような緊張に漲っていた。酔いが回ってる正一は、それに一切、気づくことができなんだ。

 そして、二人は明かり一つない路地に入っていく。ここを抜ければ宿はすぐだった。しかし、勝井はこの路地に入ると同時に、静かに鯉口を切った。そしてそれは、路地の中間のところまで歩いた時だった。

「御坂」

「ん? なんが?」

「お前は、ここで死んでくれ」

 一瞬だった。正一が振り向くや否や、彼は踏み込みと同時に居合を繰り出す。

一気に間合いを詰められた正一だったが、とっさに懐の十手を取りだし刃を流す。すると、勝井はすぐさま後ろへ下がり正眼の構えをとった。

 正一は十手を持つ右手を突き出しながら相手を牽制する。刀はまだ抜こうとはしなかった。

「一体どういうことじゃけぇ」

「……」

 勝井は正一の質問には答えようとしなかった。

 正一は戦闘の最中だというのに、左手で懐からシャボン玉用の筒をだし、それを腰に掛けてある液につけて口に咥えて吹かし始めた。

 それはもはや正一にとって癖みたいなものだったのだが、勝井はそれを見るや、

「貴様はまたしても、武士の戦いを馬鹿にするのかっ!」

と、激昂を浴びせかます。だが、たかがシャボン玉、そこまで激昂するほどのことか。だが、かの怒りはまだ続く。

「貴様……、戦いの最中にシャボンを吹くなど言語道断だろう! 真剣勝負ならば、その勝負に誠心誠意立ち向かうが道理だろう!」

「……じゃがおんしはシャボン好きじゃろ?」

 今まで話してきた勝井の突然の豹変に、さすがの正一も多少困惑してしまっていた。何が何だか理解もおっつかないらしい。だが、勝井は御構い無しである。

「それとこれは話が別だぁ!」

 勝井は雄叫びを挙げながら刺突を繰り出す。

 狭い路地では、刀を振り回すより突いていった方が効率がいい。しかも繰り出される刺突は随分と鍛え上げたのだろう、一刺突一刺突がどれも鋭く正一の体を狙い澄ます。だが、正一はものともせず躱す。捌く。退ける。

 しかして、その調子も長くは続かない。酒を飲んでいたせいか、突然に足がぐらりと沈む。

 勝井はその隙を見逃したりは、しない。

「仇ぃ!」

 鋭い気合いとともに発せられた刺突を、正一は捌き切ることができない。辛うじて十手で捉えることはできたものの、勝井が刀を振り上げたがために弾き飛ばされてしまった。後に残るのは、腰に下げた刀のみである。

 だがら勝井は正一に止めを刺そうとはせず、

「さぁ刀を抜け!」

と又しても要求する。

 彼は、確かに闇討ちを行なった。正一の弱点をこの一ヶ月、彼と交流することで調べ、そして確実に殺す策略を練った。

 だが、闇討ちが失敗したその時は、戦いの中で殺したかったのである。そもそも、闇討ちなど失敗してほしくもあった。正々堂々と、この手で打ちのめしたい、そういう思いもあったのは確かだ。そうでなければ、弟の無念も、自分の執念も晴れない。そんな気がしてならなかった。

 しかして正一は、まだ刀を抜きやしない。刀を抜かない相手を戦いの果てに斬っても意味がない。刀を抜きあってこそ、この勝負は勝負たりえる。

 だから彼は要求する。刀を抜けと。

はじめは闇討ちを狙ったことを考えると、中々に矛盾してるように見える。酒が苦手であると知り、その酒を随分と飲ませている。だが、もはやそこまで考えつかないほどに、彼は執念にかられているのだろう。

 さて、対する正一である。この土壇場になってもなお、かの男はシャボン玉を吹かすのみ。刀には、手すらかけようとはしない。

「まだシャボンを吹き続けるか……。もしかしてあの時のように、そのまま寝るのではあるまいな」

「あの時、とな……?」

「そうだ……。先の戦、シャボンを吹きながら戦っていたろう。貴様が覚えてなくとも拙者は覚えているぞっ!」

「はぁ?」

 御坂はいまいちピンとこなかった。が、目の前にいる者が、先の戦の敵だということで、適当に結論づけた。

「なーほう。おんしゃ長州かその他の尊攘志士か……」

「そうだが……、違う」

「んが?」

 正一は首をひねる。

 それを見た勝井はやはりなと、ため息を漏らさずにはいられなかった。

「斬った奴一人一人を覚えているわけないよな」

 勝井は刀を振り上げ、そして正一の耳を掠めるように刺突を繰り出す。それでもなお正一は平然と構えている。

「そうじゃけえな」

 淡々とした物言いだった。故に、もはやかの男は我慢のがの字もきかなったのだろう。

「先ほども言ったが、拙者はよく覚えているぞ! あの日の弟を、あの日の貴様を!」

そんな正一に勝井はまたも激昂で返す。それはどこか、悲痛な叫びに似ていた。その叫びが、正一に届いているかは、いざ知らず。だが、それでも彼は、叫ばずにはいられない。自らの思いを、執念を。



 彼の脳裏にはあの日の煙たさが浮かんでいた。

 あの煙たさの中、彼の弟は死んだ。長い間、共に過ごした唯一無二の弟をあっけなく殺されたのだ、シャボン玉を吹く武士に。

 奴はあろうことか弟を斬った後、欠伸をした挙句その場でごろりと寝てしまった。こんな奴に斬られた弟が不憫でならなかった。怒りのあまりその場で斬り捨てようとしたが、そのときは奴の部下により阻まれてしまった。そしてとうとう、戦場で奴を目にすることはなく、彼が加わった長州軍は敗北した。

 数週間後、廃人同然になっていた彼は、子供たちからシャボン玉を吹く武士の話を聞いた。奴に違いない、そう思った。そしてつけていった先で奴、御坂正一を見つけたのだ。彼は恨みを抑えて接し、友としてふるまい、そして今。



「貴様が憎い、憎いのだ! この場で貴様を五体バラしてもいい! だがそれは拙者の誇りが許せん! 許せんのだ! 刀を抜かぬ者を斬るのは己がゆるせんのだ! だからこそ、刀を抜けっ! 御坂正一っ!」

 嵐のような激昂が夜空に響き渡る。正直耳にこたえると御坂は思った。

 けれど、勝井の意志の固さは十分理解した。そして彼は己の前に立ち塞がる者と確信づけた。

 正一はゆらりと立ち上がる。そして、ようやく彼は見せる、その白刃を。

だが、構えようとしない。まるで自然体である。だが、それがどこか正一らしい。

 勝井は刀は上段の構えをとる。やや前傾。後ろには引き下がらない、ただ斬るのみという意志の表れだった。

「そんな構えで戦うつもりか?」

「戦うんじゃなかと」

「何?」

 御坂は一呼吸おいてから、静かに呟いた。


「立ち塞がるんなら、斬る。それだけじゃ」


「そうかっ!」

 勝井は一気に間合いを詰めて斬りかかる。

それを正一は難なく刀で刃を受け止めた。ギリギリと鍔迫り合いを演じる。

 互角かに思われたが、勝井の方が力が強いようで次第に正一は押されるようになっていく。

 じりじり、じりじりと後退していく。鍔迫り合いは勝井有利に進んでいた。

「おっ」

 とうとう正一は壁際に追い詰められてしまった。勝井は見計らったように、膝を正一の腹にかます。これには流石に体も揺らぐ。

 が、ここで勝井にも隙が生まれた。体の揺らぎに耐え正一は何とか押し返して脱出に成功したものの、直前の膝をくらったために、体勢をうまく立て直せない。

 勝井は逃がさぬまいと、刺突を連続で繰り出す。御坂は、地面を転がり刺突をよけるのが精一杯のようだった。ようやく立ち上がるも、勝井の容赦ない連撃に防戦一方だった。

 しかし、戦況は変わらずとも、状況が刻々と変わりつつあった。

 それというのも、勝井は中々攻めきれないことにあった。いくら攻め立てても、正一の隙が見えないのである。

 彼の実力は、禁門の変で間近に体感はしていた。そして、奴の実力を超えるだけの鍛錬も己に課した。故に現状は優勢であると自覚はしている。

 だが、ここまで攻めているにもかかわらず、のらりくらりと受け続けられるのは流石に予想外であったのだ。

 このまま攻めていても無駄だ、そう悟った勝井は一旦間合いを取るために素早く後退し、一足一刀の間合いを取りつつ、上段に構える。

難を遁れた正一は、相変わらず自然体だ。刀を片手に、勝井の出方を伺っている。

 双方睨み合ったまま、じっと動かない。動いたら斬られる、そんな緊張感が場を支配していたからだ。

 いつの間にか止んでいた風も、今になってまた吹き始めた。冷たい秋風が二人を刺すように吹き荒れる。

 勝井の額から、汗が滴り落ちる。

 わからない、攻め入る時がわからない。

 焦燥が彼を渦巻く。緊張状態が長く続いているのだ、精神に疲労が見えてもおかしくはない。

 対する正一はどうだ。先ほどと変わらず、自然な顔つきである。それが余計に勝井を焦らしている。そういえば、勝井の連撃に対しても、彼には焦りや恐怖の顔つきは見えなかった。どれだけの危機に陥っても、彼はのらりくらりと捌き続けた。

 これでは、いけない。

 勝井は目を閉じて、ふうーっと息を吐いた。彼なりの集中法である。彼は一世一代の場ではいつもこれをしてきた。

 信ずるのは己の力のみ、いざ真剣に。

 勝井は目を見開くと狙いを定め、そして刃を正一に飛ばす。同時に、正一も動く。この一合に全てを決着せんがため。


 二対の白刃が、闇夜に煌めく。


 その戦いに幕を引いたのは、鮮血の雨。

 膝をついたのは、勝井だ。額からおびただしい血が流れている。もはや、まともに目の前すら見えていないだろう。

 それでも刀を突き立て、立ち上がろうとする。仇を討つために、彼が愛した弟の仇を討つために。その執念が、未だ彼を駆り立てるが、しかし無情かな、彼は為すすべもなく倒れ伏した。

 彼を斃した技、それは俗にいう受け流しだった。刀の腹で受け止め、そして外に流しつつ斬っていく返し技。正一はそれを用いて、勝井の額を割った。勝井の一撃は凄まじかった分、単調でもあった。そこを御坂は突いたのだ。

 勝井はもはや、虫の息である。額を柘榴の如く割られたのだ、無理もない。

 だが、血を流しながらも、死に近づきながらも、勝井はそれに抗うかの様に、手に掴んだ刀を使って、立ち上がろうとした。まだ奴を斬っていないという執念がそうさせているのかもしれなかった。

 正一は骸になりつつある勝井へ近寄った。彼は勝井をじっと見ている。怒っているのか、悲しんでいるのか、それは誰にもわからない。

ただ、おもむろにその刀を振り上げると、勝井の首にとどめを刺した。勝井は、呻き声の一つもあげぬままに、絶命した。

だが、男は死してなお、その刀を握りしめている。正一への執念は、骸になろうとも収おさまりきらぬ、とでも言わんばかりに。


 正一の安否を心配し、捜索していた坂口がこの場を発見したのは、骸の血がほぼほぼ乾ききった頃であった。彼はその場を見ただけで、何が起こったのかを察した。そして、その場の処理を、手慣れたように行なった。

 当の正一は、ただ骸をじっと見ている。なんの感情もない目だった。その姿が異様な恐怖を帯びている。

 坂口は、どうにも声がかけずらく、仕方なく正一を放っておくことにした。触らぬ神に祟りなしということだ。

 後処理が終わって、誰もいなくなった戦場跡。いや、戦場跡と言ってもいいのかと思うほどに、そこはただの裏路地でしかなかった。最早、そこであったことを知る由は一片たりともなかった。

そんな裏路地に、正一は最後に一つ、手を合わせていた。


 勝井を斬った翌日、正一は宿を引き払った。まるで用はなくなったと言わんばかりに。

 宿を出る直前、正一は少しだけ坂口の部屋を覗き見た。しかし、そこには何一つ残されてはいなかった。御坂を殺すために泊まっていた部屋に、残すものなどなかったのだろう。そんな部屋を正一は、なんとも言えないような、寂しい影を宿した様子で眺めていた。

 シャボン玉を語り合って、酒を酌み交わし、共に笑いあった友はもういない。そもそも友と呼ぶべき存在でもないのかもしれない。それでも正一にとっては、勝井が一時の友であったのには変わりはない。虚像でも変わりはないのだ。

だが、そんな友でも正一はは斬る。

また明日も生きる為に、シャボン玉を吹かす為に。


「……終わりじゃの」


 窓を開けて、一つ大きなシャボン玉を吹きあげた。綺麗で儚い、一夜の夢みたいなシャボン玉を。

                         

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