十五話「太陽神」


 居住区へと駆け出すスーリヤを見届けたシヴァが誰にとも無く呟く。

「おや、あれは確か、ミコトとかいう若者ではないか。人間の身で我々より早くこちらに到着しているとは、不思議な少年だな」

「シヴァよ! なぜ邪魔をする? 此度の仕儀はお互いに承知済みのはずではないか!」

「事情が変ったのだ。スーリヤの力を目覚めさせる事が出来るやもしれぬ。それが可能なら何も問題は無いではないか」

「今更何を……それができぬから長きに渡って放置しておいたのであろうが。何もせず日和見してきた貴様などに邪魔だてさせぬ!」

「ならば力づくで押し通すまでよ」

 シヴァがにやりと笑うと、焼け焦げた両腕が消し炭のように崩れ落ち、根元から新しい腕が生えてきた。新しい腕の調子を見るかのように、肩をぐるぐると回す。

「相手にとって不足は無いわ! 貴様が相手なら手加減の必要も無さそうだな!」

 インドラが一声吠えるなり、アイラーヴァタはムチを入れられた馬のように高く嘶き、みちがえるほどに俊敏な動作で空高く舞い上がった。纏わりつく暗雲から、間断なく稲妻が迸る。

 雨あられと降り注ぐ稲妻をシヴァは素手で打ち払いながらインドラを追って上昇。稲妻の勢いはさらに増し、二本の腕では追いつかないと見るや、肩の辺りからさらに二本の腕が生え、合計四本の腕で連続して拳を繰り出し雷撃を打ち払っていく。

 その様子を見下ろすインドラが撃ち出す稲妻を増やすと、シヴァは脇腹辺りからさらに二本の腕を生やし、合計六本になった腕でなぎ払う。稲妻の直撃を受けた腕は焼け焦げるが、すぐに再生して逞しい姿を取り戻す。

 一撃で大木を焼き払う威力を持った稲妻を力任せにかきわけてアイラーヴァタに追いついたシヴァは、拳を握り締めて、驚愕するインドラの顔面へと叩き付けた。

 撃ち出された弾丸のように一直線の軌跡を描いてインドラの体が大地に叩きつけられ、粉塵を巻き上げて荒野に大きな亀裂が走った。

 先日、スーリヤが作りだした亀裂と交差するように出来た新しい亀裂を見下ろし、シヴァは拳から滴る血を振り払った。

「ふむ、この程度で死ぬ事はあるまいが、すぐに出てこないように時間稼ぎをしておくか」

 シヴァの第三の目が光るやいなや、二つの亀裂が地響きを上げて閉じていく。さらに、荒野がメキメキと隆起し、ちょうど聖地を覆い隠すほどに盛り上がった。背後を切り立った岩山に支えられた聖地が、前面も同じような岩山に囲まれた形になった。

「よし、これならしばらくは出てこれまい」



 一方、ミコトはインドラの放った雷の光と音の余波を受けて、意識がもうろうとしたまま壁に手をついてへたりこんでいた。咄嗟に目と耳をかばったものの、聖地全体を揺るがすような凄まじい威力の余波はミコトを打ちのめした。

――危なかったわね。放電の一本でもまともにくらっていれば死んでたかも。

「怖い事言わないで下さいよ……」

――それにしても、地形が変っちゃったわね。荒野の遺跡をイメージしてたけど、岩山に囲まれた遺跡を探す必要がありそうね……

 ミコトはぐらぐらする頭を押さえた。まだ耳鳴りがしたが、意識ははっきりしてきた。片膝と左手を石床につき、右手で頭を押さえた状態のまま意識の回復に努める。

 足音が聞こえた気がした。かすむ視界に、ほっそりした小麦色の足が映っている。

 顔を上げた。

 心配そうに覗き込むスーリヤの顔が目の前にあった。あどけない顔にかかる白金の柔らかそうな髪。露出した健康そうな地肌。ミコトは慌てて立ち上がった。

「ス、スーリヤ……」

「ミコト……だいじょうぶ?」

 見る角度によって青にも紫にも見える不思議な虹彩の瞳がまっすぐ見上げてくる。ミコトは顔が紅潮してしまうのが自分でもわかった。

「ああ、うん」

 何か言わなければと思うほど、言葉が詰まって出てこない。スーリヤの顔をまともに見れずに目をそらす。何度も思い描いたスーリヤの顔だが、恋愛補正がかかって今までの何倍も可愛く見えるから困る。

「帰ってきたの?」

 対して、スーリヤはまっすぐミコトを見上げたまま単刀直入に訊いた。

「うん……」

「よかった! ミコト、帰ってきた!」

 がばっとミコトに飛びついたスーリヤが、首の後ろに手を回して力いっぱい抱きつく。突然の事に驚いたミコトは情けなくもよろけた。

 思わず帰ってきたと答えてしまった。またすぐにいなくなる事を伝えておかねば、と思ったものの、スーリヤの喜びようを見ていると言い出しにくい。何より、今はこのまま、スーリヤの体温を感じていたかった。

 いなくなる事を今言うべきか逡巡するミコトの頭上から、張りのあるバリトンの声が降り注いだ。シヴァだ。

「さて、スーリヤ。再会を喜んでいるところを申し訳ないが、君にはやってもらわねばならない事がある」

 ミコトにぴったりくっついたまま、スーリヤがシヴァを見上げる。シヴァは空中から二人の目の前へと降り立った。

「確かこの聖地にはアカシャの眼と呼ばれる宝石があったはずだな。あれを使わせてもらおう。ついて来るのだ」

 二人をうながし、先に立って宝物殿へと歩いていく。

「言っておきたい事があるけど……今は後だ。ついていこう」

「うん」

 厳かな静寂に包まれた宝物殿の中に三人の足音が反響する。シヴァは安置されていたアカシャの眼を取り上げると、スーリヤに向き直った。

「スーリヤ。よく聞くのだ。今から、お前は太陽神としてのすべての力を受け継がねばならない。この宝石は今はたいした力もないが、これから私が千年修行して溜めた力を注ぎこむ。この石が元々持っている、万物の記録アカシックレコードを読み取る能力を増幅させるのだ」

 ミコトは声を潜めてリンカに話しかけた。

「今はたいした力もない宝石らしいですよ……リンカさん、あの石からすごい力を感じるとか言ってませんでしたっけ?」

――……言ったっけ? そんな事より、ちゃんと説明を聞いてなさいよ!

 シヴァに意識を戻す。スーリヤはいつもと変わらない表情で話を聞いている。

「いいか、この石を通じてお前は万物の記録にアクセスし、先代スーリヤの思念と語らうのだ。そして、太陽神としての力の使い方を教わって来るのだ。それが成功しなければ、お前には死んで生まれ変わってもらわねばならん。生きていたければ、必ず成功させるのだ」

 シヴァの声は厳しく堅い。対してスーリヤは緊張感の無い面持ちでこくんと頷いた。

 シヴァの手の中で、アカシャの眼が鈍く輝き始める。中心から白い光が広がり、赤い石が太陽のようにゆらめきながら宝物殿を照らす。

 石がそっとスーリヤに手渡された。両手で受け取ったスーリヤの指の間から、橙色の暖かい光が溢れた。胸元に抱き寄せ、目を閉じた。祈るように。



 黄昏に染まる聖地の上空から、背中に小屋を乗せた巨象が何頭か、翼をはためかせて舞い降りてきた。

 音も無く石畳の上に着地すると、梯子が下ろされ、小屋からぞろぞろと人が降りてきた。その先頭にはガネーシャの姿もある。アムシュマットプラスタから、スーリヤの援軍にかけつけた人達だった。

 彼等は聖地に降り立つなり、宝物殿から漏れる光に目を留めた。崇高で、包容力があり、癒される――太陽のような光。

 彼等が到着するとほぼ同時に、聖地の前面にそそり立った岩山に亀裂が入り、岩盤をぶち抜いて黄金の腕輪をはめた腕が現れた。やがて岩をかきわけるようにしてインドラがその姿を現す。

「おのれシヴァ……! どこへ行きおった……?」

 インドラに気付いた者もいたが、ほとんどの者は宝物殿に注視していた。やがて、宝物殿を見上げていた人々がどよめく。

 入り口から現れたのは一人の少女――スーリヤだ。

 スーリヤは集まった人々をちらりと一瞥した。軽く微笑み、インドラに向き直ると、宝物殿の前にある石段をぽーんと飛び降りる。すたすたと歩き、歌舞殿の中央に立った。インドラを見上げる。

「スーリヤ、前のスーリヤと話した」

 事情を飲み込めていないインドラが怪訝そうな顔で眉をしかめた。

「何? それがどうした」

「力の使い方、教わったよ。もう戦う必要が無いって、シヴァが言ってた」

 インドラを見上げたまま、邪気の無い笑顔を見せる。だが、インドラは渋面を崩さない。

「なんと……シヴァの奴がそのような事を……? だが、それがどうしたと言うのだ。いや、むしろ好都合。ならばその力、我が前に示すがいい。全力を以って及ばねば、どのみち輪廻の果てへと跳ばすまでよ」

 インドラの元へと、アイラーヴァタが舞い降りた。その鞍にまたがり、暗雲をかき集める。

「さあ、我と立ち会え! もう手加減はせんぞ!」

「いいよ」

 スーリヤはインドラに向かって頷くと、背後を振り返った。そこには、宝物殿からシヴァと並んで出てきたミコトの姿があった。

 スーリヤの口元にうっすらと微笑が浮かんだ。

 両手が頭上に伸び、緩やかに、もつれあうようにゆらめく。軽やかにステップを刻む。

 駆けつけた人々が慌てて楽器の準備を始めた。動物の皮を張り合わせた太鼓が原始的なリズムを刻み、弦楽器が時に激しく、時に物悲しく旋律を紡ぐ。高らかな笛の音が岩山の間を木霊する。

 頭上で雷雲が青白い光を発した。楽団が奏でる音を圧するように雷鳴が不気味に轟く。

 今にも稲妻の雨が降りそうな空の下で、それでもスーリヤの表情は穏やかだ。音楽に身を委ね、こみあげる情熱に任せるかのように舞に没頭していく。

 健康的な小麦色の両足が複雑なステップを踏んで絡みあい、銀の腕輪をはめた細い両腕は二匹の生き物のように艶かしくもつれあう。くるりと回転するたびに腰布が舞い上がり、大胆に太ももが露になる。汗に濡れた肌は差し込む夕陽に照らされて輝き、舞に合わせて跳ね踊る白金の髪は燃え盛る太陽のようだ。

 活き活きした手足の動き、うっとりと誘うような表情、汗に濡れてなお軽やかになびく幻想的に輝く髪……

 それは、見る者の心を捉え、情熱をかきたてるかのような舞だった。

 足首につけた鈴が涼しげな音を奏で、楽団の音楽に溶け込んでいく。両手首にはめた数本の輪がしゃらしゃらと鳴る。

 ミコトも、人々も、インドラすら、その全身から感情が迸るかのような舞に惹き付けられていた。それは太陽を畏れ敬う気持ちと似ていたかもしれなかった。

「ぬう……! 見事な舞だ。それでこそスーリヤだ!」

 インドラが両腕を広げた。それに呼応するかのように雷雲の周りに張り詰めた空気が漂う。

 巨象にまたがり広大な雷雲を従える威容はまさに雷神の名に相応しい。

「スーリヤよ! 褒美を受け取れッ!」

 インドラが両腕を振りかざすと同時に一際眩い閃光が雲間を駆け抜け、幾百もの雷光が雨のように聖地へと降り注ぐ。

 スーリヤの指先がそよぐように空中を撫でた。飛沫のように小さな光球が弾け、ぱっと周囲に散った。聖地を串刺しにせんと降り注ぐ雷光の槍のことごとくがその軌道を曲げ、スーリヤを守るように宙を揺らめく光球へと吸い込まれていく。弾けた光が聖地を包む。

 人々は眩い光と圧力を伴った轟音から目を、耳を守り、駆け抜ける衝撃波に耐えた。

 スーリヤは降り注ぐ雷の中、無数の輝く球に守られて舞い続けていた。天と地を結ぶ稲妻の雨も、今はスーリヤの舞を演出する舞台装置に過ぎない。

 雷鳴が止み、青白く照らされていた歌舞殿がふたたび夕陽色に模様替えする。

 赤く染まった歌舞殿に目を戻し、人々は見た。

 歌舞殿に長く伸びた岩山の影が、じりじりと動いて縮んでいくのを。

 夕陽の赤色が徐々に薄れ、昼光色へと戻っていく。時計の針を戻すかのように。それに伴い温度も上昇。眩く照りつける陽光が影をくっきりと際立たせる。

 地平線に沈みかけていた太陽が再び上昇していた。

 今にも落ちてきそうな迫力でもって、インドラの頭上に燦然と輝いている。

 上空を見上げたインドラが低く唸った。

「太陽の運行すら思いのまま……太陽神としての力に完全に目覚めたか……」

 日光の下で、スーリヤは楽しげに踊り続けていた。

 足元で踊る影と競演するかのように複雑に足を組み替え、細い腰をくねらせて挑発するように胸を反らす。小さい肩ごしの視線には健康的なあどけなさと官能的な妖しい色が滲み、腰布を翻してくるくる回るたびに可愛らしいおへそが見え隠れする。

 スーリヤを守っていた光球が集まって円を描き、回転しながら上昇していく。上空で弾けるように飛び散ると、距離を置いて急速に膨らんでいく。その数八つ。

 炎を吹き上げ、黒点を揺らめかせるそれは、まさしく小さな太陽そのものだった。

 前回、インドラを吹き飛ばしたものとは規模が違う。

 中天に太陽を仰ぎ、太陽神としての力を十分に揮える今の小太陽は、前回の百倍は優にある大きさだった。本物と合わせて九つの太陽が聖地を炙る。温度は急上昇し大気はわななくように揺らめき目を開けていられないほどの光に包まれる。

 陽炎のように周囲の大気を歪ませて浮いていた小太陽が、光の軌跡を残して一箇所へと集まり始めた。空で輝く本物の太陽と合流しようとするかのように。

 小太陽の合流先にはインドラの姿があった。八つの太陽に囲まれ、焦熱の真っ只中にあっても不遜な態度を崩さない。

 巨象の周囲にまとわりついていた暗雲が一瞬で散る。

「ぐぬううう……ッ! だが退かぬ! スーリヤよ、お前にしてきた事を思えば今更退くわけにはいかんのだ。このインドラ、己の行動に迷いも後悔も無い! 甘んじて受けよう……!」

 両腕を顔の前で交差させ衝撃に備えるインドラの目の前に、本物と見まがうほど巨大になった小太陽が迫る。

 今まさにインドラを焼き尽くすかと思われた太陽が、直前でふっ、と掻き消えた。

「っ――…………?」

 何事も無かったかのように爽やかな青空が広がっている。大気を煮立てんばかりの熱も消えていた。インドラは腕の隙間から下界を見下ろした。

 すでに舞をおさめたスーリヤが見上げている。命がけで一戦交えた後とは思えない朗らかな笑顔で言った。

「スーリヤの勝ちだよ」

 その表情には清清しさが満ちていた。インドラが訪れた時に見せた憂いも精彩の無さもきれいさっぱり吹き飛んでいた。今の空と同じく、雲一つない快晴。

「なぜ止めを刺さぬ……? 我は何度もお前を殺そうとしたのだぞ」

「インドラが来なかったら、スーリヤほんとに一人ぼっちだった。構ってくれてありがとう。また来てもいいよ」

 スーリヤは本当に感謝を込めて、ぺこりとお辞儀をした。

 毒気を抜かれたインドラがふっと肩の力を抜いた。

 スーリヤを応援していた人々が歓声をあげ、勝利を称えるべく駆け寄る。

 その様子を見守りながら、インドラは眉間のシワを緩めた。

「やれやれ……今回だけは負けを認めてやろう。――特別にな」



 人々との再会を喜ぶスーリヤを、ミコトは宝物殿の前でシヴァと並んで見つめていた。

 複雑そうな表情で見守るミコトをシヴァが振り返る。

「どうした、この結果は君の望んだ事だろう? 君が決闘に勝利し、もたらした結果だ。もう少し嬉しそうにするかと思っていたが」

「そうですね……嬉しいです、それは本当に。でも、僕は長くここに留まれませんから……すぐに会えなくなると思うと寂しくて。あの、お願いがあります」

「なんだね?」

「僕がスーリヤのために決闘した事は内緒にしておいて欲しいんです。昔の仲間が、自主的に戻ってきたという事にしてもらえないでしょうか」

「なぜだ? 君がスーリヤのためにがんばった事を知ったら彼女も喜ぶだろうに」

「僕はすぐにいなくなる人間ですから……情が移ると辛いと思うんです。それに、仲間が今までスーリヤを見捨てていた事を知ると悲しむかもしれません。これからはずっと仲間と一緒にいられるんです。余計なしがらみは無いほうがいいと思います」

「そうか。君がそう言うなら内緒にしておこう。そんな事をスーリヤが気にするとも思えないが……まあいい。君の意見を尊重しよう」

「ありがとうございます」

 寂しげに歌舞殿を見下ろすミコトの背をシヴァが軽く叩いた。

「さ、では行ってあげるといい。おそらく君を待っているだろう」

 ミコトはシヴァを見上げ、深い感謝をこめて頷いた。歌舞殿に向き直ると、石段を一段飛ばしで駆け下りる。

 歌舞殿ではすでに宴会が始まっていた。

 どこからともなく酒の壺を運び込んですでに出来上がっている神々をかきわけるようにしてスーリヤに近づこうとするが、人垣が厚くて近寄れない。赤ら顔の大男に酒を勧められ困っていると、シヴァが石段を降りてきて酒の壺を受け取った。

「今日はめでたい日だ! 今日くらいは現世の雑事を忘れ、飲んで騒ごうではないか!」

 シヴァが自ら酒を煽ると、人々は歓声をあげ、酒壺を高く掲げて打ち合わせる。

 ガネーシャが心配そうにシヴァを見上げた。

「シヴァ神よ、修行はいいのですか? 禁酒中だったはずですが」

「堅い事を言うな。今日は特別な日だからいいのだ。修行は明日から再開する」

「明日から明日からって言っているとまたずるずると延びていきますよ。あと、酒を飲むのもいいですが、くれぐれも酔って暴れないで下さいよ。気軽に第三の目を光らせられると周りの者が迷惑するんですから」

 シヴァの第三の目が光ってガネーシャの頭が吹き飛び、またすぐに再生していくのを横目で見ながら、ミコトは人をかきわけて中心に向かって進んだ。

 いた。スーリヤだ。

 周りの神々と楽しそうに話している。神々は気軽にスーリヤの肩を叩き、太陽神の力に目覚めた事を祝い、再会を喜んでいるようだった。スーリヤも自然な笑顔で受け答えしている。その表情はミコトが知らないもので、少し寂しくもあったが、やはり嬉しかった。

 もう心配はいらない。自分がいなくてもスーリヤには大勢の仲間がいる……

 声をかけようとしたが思いとどまった。このまま黙って消える方がいいかもしれないと、ふと思う。

 決心がつかないまま遠巻きに見守っているミコトに、スーリヤが気付いた。

 その顔に嬉しそうな笑みが広がる。人垣をかきわけて、ミコトに突進してきた。

「わわっ、スーリヤ……」

 ミコトの胸に顔をうずめるようにぎゅうっとしがみつくスーリヤに、周囲の人々から冷やかすようなけしかけるような声が飛んだ。

 そんな声には頓着せず、スーリヤは真っ赤になってうろたえるミコトの手をとってずんずんと人波をぬって進んでいく。

「ここ、うるさい。向こうで話そう」

「あ、うん……」

 人々の祝福の声を背後に聞きながら、ミコトはスーリヤの指の感触を意識していた。

 小さくて可愛い指だ。

 最初にここに来た時、地下通路で手を引いてくれた事を思い出した。ミコトはその手をそっと握り返した。感触を記憶に刻むように。

 着いたのは、歌舞殿から石垣を隔てて隣にある庭園だった。

 地下通路を通って聖地に来た時に最初に現れたエリアだ。

 縦横に走る水路をさらさらと清らかな水が流れ、色鮮やかな緑の木々や花が生い茂っている。

 歌舞殿の喧騒が遠くに聞こえる。

 スーリヤはミコトを見上げて言った。

「ふうっ。今日は色々あったからびっくりした」

「そうだね……これでまたこの聖地も賑やかになるんじゃないかな」

「うん。みんな帰ってきた! でも、どうして急に帰ってきたのかな」

「さあ……どうしてだろう。たぶん用事が終わったんだよ」

「そっか。ミコトも帰ってきた。急にいなくなるからびっくりしたよ」

 スーリヤは少し咎めるような口調になったが、すぐに機嫌を直した。

「でもすぐ戻ってきたからいいよ。今日はいい事ばかりだ」

 最初に会った頃より饒舌になったスーリヤをミコトは微笑ましく見守りながら、すぐに帰らなければならない事をいつ打ち明けようか迷った。これ以上話していると、情が移って泣いてしまいそうだった。

――ミコト、もうじき聖地らしき場所に着くよ……そうだ、ちょっと待ってね。ラジーブさん、車止めて。

 どうやら、現実世界ではアカシャの眼が眠る遺跡に近づいているようだった。

 まだ未練はあったが、いつまでも神話世界にいるわけにもいかない。

 でも――もっと話していたい。別れがたい気持ちは時が経つにつれて募る一方だった。

「スーリヤ。もう、皆がいるから寂しくないね」

 庭園をぶらぶら歩いていたスーリヤがミコトを振り向く。

「うん! 皆いる。ミコトもいる!」

 スーリヤが満面の笑顔で答えた。だが、その表情がすっと消えていく。おそらくミコトの表情を見て何かに気付いたようだった。

「ミコト――?」

「うん? どうした?」

「ミコト……なんだか今にも泣きそうだよ……」

 内心が表情に出てしまったかもしれない。慌てて笑顔をとりつくろう。

「まさか。いい年して泣いたりなんかしないよ」

 可能な限りここにいたい。いっそ、永住してもいいかもとさえ思う。

 でも。

「僕、そろそろ帰らないと」

「帰る? どこに……?」

「自分のいるべき所に……」

 お別れだ、スーリヤ。

 引き止められるかと思ったが、スーリヤの反応はあっさりしたものだった。

「そっか」

「うん」

――ミコト、これ……スーリヤちゃんにあげて。

 リンカの囁きとともに、小さい薄桃色の花で編んだ冠のようなものが目の前に現れた。そっと受け止める。

――ルクリアの花よ。ニオイザクラとも言ってね、いい匂いがするでしょ。

 ありがとうございます。ミコトは心の中で呟いた。

「スーリヤ、これ、あげる」

 ルクリアの花で編んだ冠を、そっとスーリヤの頭に乗せた。薄桃色の花が、スーリヤのプラチナブロンドの髪を飾る。

「んー」

 スーリヤはくすぐったそうな表情でされるがままにしていた。

「似合うよ」

 素直に言えた。今なら想いを打ち明けられそうだったが、やめておく事にした。

 忘れてもらってもかまわない。自分は短い間立ち寄っただけの、ただの漂流者だ。

 スーリヤはミコトを見上げた。微風にそよぐ白金の髪。柔らかそうな長い睫毛がまっすぐな視線を縁取る。曇りのない瞳で見つめられ、心が波打つ。

「ミコトは変なやつだ」

「そうかな」

「うん」

 二人して笑った。スーリヤの笑顔を脳裏に焼き付けておこうと思った。

 一生忘れないよ。

 スーリヤの唇が動き、何か言ったようだった。

 だが――その時ミコトの意識は暗転し、何を言ったかは聞き取れなかった。

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