八話「軍勢」


 元の服に着替えなおしたスーリヤは、塔が立ち並ぶ歌舞殿に一人で立っている。

 庭ほどの広さがある舞台の中央で、地平線の向こうからやってくる影を見据えている。

 安全な場所にいるよう言われたミコトは、アカシャの眼が安置された宝物殿の入り口付近から舞台を見下ろしていた。ここからなら舞台の様子も荒野の様子もよく見える。

「一体、何が始まるんでしょう……? ただ事ならぬ様子でしたが」

 ――さあね。ただ一つ言えるのは、ここが神話の世界だと忘れてはいけないって事ね。なんせ、世界を滅ぼすほどの獣が暴れ狂う世界なんだから、何が起きても不思議じゃないよ。

「怖がらせないでくださいよ……」

 地平線からやってきた影は、もはや肉眼で形を判別できるほどまで迫ってきていた。

 象や馬に引かせた戦車にまたがった、これは神々の軍勢なのだろうか。

 明らかに人間離れしたサイズの巨人や、人間とは思えない異様な形のシルエット。突き出した巨大な槍ぶすまが夕陽を反射してきらきらと輝く。

 遠くからでは比較対象が無くてわからなかったが、近づいてよくみると象や馬も普通のサイズよりも遥かに巨大なようだ。かなりの距離があったはずだが、土煙を巻き上げてもの凄い速度で一塊の黒いうねりとなって向かってくる。踏みしめる力強さに大地は鳴動し、士気を鼓舞するために張り上げる声は大気を震わすかのようだ。

 雪崩るように駆けてきた軍勢は、砦を見上げる位置まで来ると進行を止めた。

 色とりどりの甲冑と巨大な武器。腕が四本ある者や六本ある者。顔が左右に二つ並んでいる者や、髪が炎のように燃え上がっている者、体に紫電を纏わりつかせた者。

 武器の種類も様々で、巨大な刀や三又になった槍、象牙を削って尖らせたような物、弓や円盤等など。

 彼等が騎乗する象や馬も、赤青緑、金銀の糸で複雑な刺繍を施した前垂れを着け、象牙やたてがみにも飾り紐や布を巻いて派手に飾り立てている。頭部には人間のように兜を着けられていたが、こちらも原色のド派手なものだった。額や頭の両脇に角を持った馬や、ありえないほど巨大な牙を持った象。そして彼等が牽く戦車も、祭りの山車の如く飾り立てられている。

 ――こりゃ、穏やかじゃないわね。まるで戦争じゃない。

 彼等は荒野の真ん中に陣取ると、篝火をそこかしこに立てて煌々と燃やし始めた。

 楽隊のような一団が進み出て、音楽を奏で歌い踊り始めた。楽器の音と囃し立てる大声が時々風に乗って聞こえてくる。

 赤く染まった空がにわかに掻き曇り、巨大な一塊の暗雲がもの凄い速さで流れてきた。

 砦を見下ろす位置で止まると、青白い雷光が轟音と供に荒野を照らす。

「スーリヤ! 来たぞ!」

 雷鳴と紛うほどの大音声が大気を割って耳をつんざく。雲が割れ、中から巨大なシルエットが姿を現した。

 翼と四本の牙を持った巨大な白象だ。翼をはためかせ、優雅に滑空する。周囲には明滅する雷雲をまとわりつかせ、背には黄金の甲冑を纏った大男を乗せている。

 逆巻く黄金の髪に強い髭。褐色の眉間には深い亀裂が走り、口元には豪快な笑み。

 大男はスーリヤを見下ろして吼えた。

「スーリヤよ、お前はすでに役目を終えたのだ。だが抵抗する自由を与えよう。せいぜい激しく宴を盛り上げるがいい!」

 大音声だけで大地をびりびりと揺るがすかのようだ。

 対するスーリヤは、男を見上げて無表情で佇んでいる。特に気負った様子も感じられず、普段どおりだった。

 ――空を飛ぶ象に乗って雷を支配する神というと……インドラ神かな。こりゃずいぶん大物が出てきたわね。スーリヤちゃんと敵対してる雰囲気だけど、何事?

「なぜこんな事に? 僕は一体どうしたら……」

 ――あんたに出来る事なんてないわね。言われた通り、安全な所でおとなしくしてなさい。

 インドラの口上に合わせるように、居並んだ軍勢から鬨の声が上がった。

 各々が口々に叫びながら、弓を持つ者は矢をつがえ、投石器を持つ者は石を構える。色とりどりの統一性のない甲冑が篝火を受けて禍々しく煌めく。

 一方、スーリヤは舞台の上で風に髪をはためかせながら黙って立っていたが、やがて天を仰ぐと、両手をすっと空へ差し出した。

 二本の煙が絡み合ってたゆたうように、両手がゆらゆらともつれ合い、解け、指先が空気をかきまぜるように揺らめく。両足を交差させ、緩やかにステップを踏む。細く引き締まった腰がうねり、水に墨汁が染みるようにゆっくりと、かつ力強く体全体を使ってリズムを刻む。

 これは、舞……だろうか。

 異様な光景だった。

 風に乗って、楽隊が激しく太鼓を打ち鳴らす音、高らかに響く笛の音、そして戦士達の上げる咆哮が聞こえてくる。

 それらに合わせるようにして、スーリヤは一人で舞うのだ。

 異様で、おどろおどろしくも、妙に心躍る光景だった。複数の腕や顔を持ち、炎や雷光を纏った武器を携え、極彩色に飾り立てた異形の甲冑を身につけ、巨大な翼や牙を持った幻獣に跨った戦士達が、たった一人の少女と戦争を始めようというのか。

 インドラの乗った白象が高らかに一声鳴いた。

 それを合図に、戦士達は騎乗した獣を駆り土煙を上げながら前進。ある者は刺青の入った逞しい腕を振りかざし砦に向けて槍を投擲し、またある者は土埃に煙る視界に目をすがめつつ弓をひきしぼって矢を放ち、またある者は上半身を反らして反動をつけ円状の刃を飛ばした。

 それらはかなりの距離をものともせず、雨あられのように空を埋め尽くして砦へと殺到する。

 スーリヤの舞が激しさを増した。膝を上げ、伸ばした両腕を優雅にしならせてくるんと一回転。体の動きについていくように腰布がひらりと翻る。

 舞が巻き起こした小さな風が見る間に突風となり、嵐となり、竜巻となって、飛来する武器の群れを包みこんだと思うやいなや、それらの全ては見えない炎の壁に突き立ったかの如く燃え上がり、弾かれ軌道を逸らして散っていった。

 戦士達からどよめきが起こった。触れる物を全て炎上させる竜巻は、瓦礫や粉塵など全てを巻き込み勢力を拡大して戦士達へと迫っていく。荒野の土を巻き上げ大地と空を結ぶ巨大な柱となった竜巻の内部では炎が燃え上がり、赤く明滅している。

 遠くから見ているミコトの所にまで竜巻が巻き上げる風が及び、目を開けているだけでも精一杯だった。建物の柱を掴み、目を守るようにして腕を上げる。庭の潅木が風に煽られて大きく傾ぎ、巻き起こった砂埃で視界は黄色く濁る。小石がぴしぴしと建物を叩く音が聞こえた。

 竜巻は、叫びわめきながら逃げ惑う戦士達を巻き込み、荒野を縦断していく。近寄るだけで巨人の体が浮き、一瞬で上空に巻き上げられる。吹き飛ばされた象が戦士達の上に落下し阿鼻叫喚の大騒ぎだ。巻き上げられた戦車が高速で吐き出され、凄まじい勢いで地面に激突し飛散する。

 竜巻は縦横無尽に暴れ狂い、荒野を蹂躙し尽し、やがて遥か地平線の彼方へと消えていった。

 風が穏やかになり、ミコトが荒野を見渡した時には、最初にいた戦士達の約半数がいなくなっていた。それでも半分残ったのはたいしたものだ。

 舞い続けるスーリヤの頭上から、雷鳴のようなインドラの声が降ってきた。

「さすがだな、太陽の娘よ。だが先代スーリヤの力はまだまだこんなものではなかったぞ。さて、宴は始まったばかりだ。次の余興を持て!」

 呼びかけに応じて、雲の中から白い雲の塊が三つ、滑空して降りてきた。

 それぞれに青い体と顔をした若者が乗っている。髪も鮮やかな青で、全身が氷の彫刻で出来ているかのようだ。見につけているものは腰布だけ。ひきしまって均整の取れた細身の肉体を惜しげもなく披露している。端整な顔には優雅な微笑。三人とも同じような顔だった。

「やあ、スーリヤ。今日で君とはお別れになるね。だけど寂しくはないよ、輪廻の先には無限の愛別離苦と怨憎会苦があるのだから……僕達、神族は果て無き円環に組み込まれ永遠を彷徨う孤高の漂流者……さすらい人。哀しいね……君のすてきな髪に触れる事もないままグッバイしなくちゃいけないなんて……」

 若者は三人同時に同じ言葉を発し、眉間に指を当ててやれやれという風に頭を振った。

「うるさいなぁ。帰れ」

 対するスーリヤの応えはそっけない。

「おやおや……我らが太陽の姫君はご機嫌ななめのようだ。なれば、我ら道化は早々に役目を果たして退散するとしますか……どうれ」

 若者の一人が大きく息を吐いた。もう一人がその息をこねて巨大な雲を作り、最後の一人が雲を踏みつける。

 真っ白な雲から、ぱらぱらと何かが降り注いだ。

 それは聖地の到る所に落下してくる。ミコトが立っている場所の近くにもそれは落ちてきた。良く見ると、氷の塊……雹だった。

 最初は小さい粒だった雹が、だんだん大きくなり、やがて拳ほどの大きさになった。石畳を割り、水路に飛沫を上げ、土壁を抉る。こんなものが頭に当たれば即死だ。ミコトは慌てて宝物殿の中に隠れた。

 雹は今なお大きさを増し、人間の頭ほどの氷がミコトの目の前で割れて飛び散った。恐る恐る窓から顔を出して見上げると、空一面が雹で覆われている。

「氷漬けになって美しく散りたまえ、さよならだ」

 灰色の空を頭上にしてもスーリヤの表情は変らない。

 軽やかに舞いながら、両手を頭上に掲げて空中で何かをこねるような仕草をした。

 スーリヤの直上に、小さい炎の塊が生まれる。それは渦を巻いて膨らみ、真円を描く小型の太陽となった。灼熱し色を変え炎を噴出す球体が眩く聖地を照らす。それはさながら沈みかけていた太陽が再び顔を持ち上げ、昼が戻ってきたような光景だった。

 右腕に左手を絡めたスーリヤが頭上を仰ぐと同時に、小型の太陽は上昇を始める。落下する雹の全てが一瞬で融解し、湯の雨となって聖地に降り注いだ。

 湯が衣服や髪を濡らしてもなおスーリヤの舞は激しさを増していく。素足が右に左に動くたびに腰布からちらちらと太ももが露出し、体を回転させるたびに尻尾のような腰巻が跳ねる。

 喉を逸らし髪を振り乱して舞う様は官能的ですらあった。表情は自信に満ち、口元には艶かしい微笑が浮かぶ。

 高速で上昇した小太陽は三人の若者をあっけなく飲み込み、空を覆っていた雲を全て散らし、まるで本物の太陽のように上空に留まった。生き残りの戦士達は呆然と中天に輝く小太陽を見上げる。

「なるほどなるほど、マルト神群ですら一撃で退けるか。この程度では余興にすらならんとみえる。ではこれならばどうだ?」

 インドラの豪快な笑い声が響くと、地平線近くの空に巨大なシルエットが現れた。何かを網のようなものに載せて飛んでくる。

 目をこらしてよく見ると、翼を生やした巨大な象が何十頭も集まり、さらに巨大な黄金の蛇を網に乗せて運んでいるようだった。しかもただの蛇ではなく、頭の部分が何十匹、いや、何百匹もに枝分かれしているようだ。

 蛇は運ばれながら激しく暴れまわり、ついには網が耐え切れずに破れ、落下してしまった。

 地面に墜落した巨大蛇は痛みからか激しくのた打ち回る。その衝撃で地面が揺れ、振動は聖地までも伝わってきた。足元をすくわれて転びそうになったミコトは柱にしがみつく。

 振動に耐えつつ顔を上げてさらに驚愕。

 地平線の向こう側から、巨大な蛇の群が押し寄せてきていた。

 黄金の蛇に呼び寄せられてここまで来たのだろうか。

 山々を飲み込むほどの勢いで見る見るうちに大きくなる蛇の群は、大きくそそりたつ壁のように圧迫感を持って迫ってくる。

 荒野に取り残された戦士達は一目散に近くの山へと避難しているが、はたして間に合うのか。

 地平線に沈みかけていた太陽は大群に隠されてついに見えなくなり、全てを呑みこむ集団の先頭から踊り出す蛇のシルエットが黒く跳ねる。

 ――地平線から半分くらいの距離まで一分とかかってないから……こりゃ、やばいんじゃないの……

「どっどっどうするんですか!」

 焦るミコトと対照的に、スーリヤは涼しげな顔で舞い続けている。両手を上げてタンッと跳ねながら一回転。同時に、頭上で輝く小太陽が落下を始めた。

 彗星の如く尾を引いて落下する小太陽は、一直線に荒野の真ん中を貫いた。

 飛沫のように土や岩が宙高く跳ね上がる。

 衝撃の余波が荒野をなぎ払い、逃げ遅れていた戦士達を根こそぎ吹っ飛ばした。凄まじい振動が聖地を揺らす。ミコトの体は柱にしがみついたまま大きく跳ね、立っていられずにへたりこむ。腹の底に響く爆音がつきぬけ、舞い上がった土埃が荒野の様子を覆い隠す。

 轟音の余韻が山々の間を木霊してゆき、振動がおさまってくるとミコトは恐る恐る目を開けた。

 やがて薄らいだ埃の向こうに透かし見えたのは、荒野を横に分断する大きな亀裂だった。

 勢いを増して迫る蛇の群れは、断崖絶壁と化した亀裂に吸い込まれ、瀑布となって落ちていく。荒野を覆いつくすばかりの大群も亀裂を超える事はできなかったのだ。

 岩山に挟まれた荒野はもうもうと舞う土煙に覆われ、落日を黄金色に透かし、大スペクタクルの余韻を厳かに演出している。蛇は誘われるかのように悉く亀裂に飛び込んでいく。

「ふむ、見事也。観客も残り少なくなってしまったな。そろそろ、この私自らが舞台に上がるとしようか!」

 空飛ぶ象の上で高みの見物と洒落込んでいたインドラが、いよいよ武器を構えてスーリヤを見下ろす。スーリヤは舞い踊りながら、ちらりと見上げた。

「なに、お前に恨みがあるわけではないのだ。悪く思うな、これも因果というものだ。甘んじて受けよ!」

「声でかい」

 巨大な象に跨り下界を睥睨するインドラの姿には圧倒的な威圧感がある。ミコトは舞い続ける小柄な少女と心配そうに見比べるが、スーリヤの表情は平然としたものだった。

 夕陽を透かして輝く髪が跳ね、濡れた衣服が細い体にまとわりついている。躍動感の溢れる手足の動きは激しさを増し、最高潮を迎えようとしていた。

 武器を構える大男と舞い続ける少女の間で緊張感が高まっていく。

 インドラが右手を掲げると散っていた黒雲が集まってきた。時々雷鳴が不気味に轟き、雲間が青白く輝く。

 一際眩い閃光が視界を白く染めたかと思うと、青白い雷光が天をまっぷたつに裂き、インドラの右手に集まった。それは禍々しく輝く雷の槍となり、空中に放電を迸らせ、インドラの褐色の肌を青白く照らす。

「太陽の娘よ! 我が雷霆らいていの槍は太陽すら割ると知れ!」

 爆ぜるように放電を散らす槍を構え、大きくのけぞった。

 山に避難していた楽隊がどろどろと太鼓を打ち鳴らし、生き残った戦士達が拳をつきあげてあらんかぎりの声でインドラに声援を送る。

 スーリヤは構わずに一人舞う。軽やかに片膝を上げて跳ね、両手を交差させて揺らめかせ、リズミカルに回転し、動きに合わせて長く伸びた影が複雑に躍る。

 力強い舞に呼応するかのように、周囲の空気が一つ所に集まり、圧縮されて光り輝く球体が発生した。さきほど大地を割った小太陽よりも小型だが、その白い光はより強く周囲を照らす。

 舞台と空、二つの光源がせめぎ合い、空気は緊張感に震えるようだ。

 槍を構えたインドラの上腕二頭筋が盛り上がり、太い血管が浮かぶ。体を大きく捻ってエネルギーを蓄え、触れると爆発しそうな危うい緊張感を湛えた静止。歯を食いしばり、こめかみに青筋を浮かべ、そして――

 溜めに溜めた力を爆発させるかのように一息に解き放ち全力を乗せて槍を投擲。

 槍は光の直線を描き黄昏の空を一本に裂きスーリヤを撃ち貫くかと思われた――

 が、途中で軌道をわずかに変え、空中に静止した白球へと吸い込まれた。

 紫電が四方に散り木々を焼き切り石塔を焦がす。他を圧する雷鳴が空気の壁となって大地を叩き建物を震わせた。

 ミコトはきつく目をつぶり耳をふさいでいたが、ふさいでいてさえ鼓膜を突き破りかねない轟音だ。光と音の衝撃に意識が遠のきかける。

 歯を食いしばり、衝撃が過ぎ去るまで耐える。

 光の奔流が収まり目を開けると、放電がちりちりと空中を走る中、スーリヤは変わらぬ調子で舞い続けていた。怪我をした様子もない。

 スーリヤが一際大きく跳ね、体を仰け反らせると同時に、空中に静止していた球が弾かれたように撃ち出された。返礼とばかりに、今度は下から上へと光の線が描かれる番だ。

 雷雲を瞬時に散らして迫り来る球体をインドラは両手を突き出して受け止めようとするが、灼熱の白球は手甲ごと打ち砕いて黄金の胸当てを粉砕しその巨体を跳ね上げた。

「ぐぬああああぁぁぁぁァァッ!」

 吹っ飛ばされたインドラは雲をつきぬけ見えなくなるほどまで打ち上げられたが、かろうじて身をよじり、球の威力から脱出した。白球は太陽が天に還るかのようにそのまま大空へと吸い込まれていった。

 空中で静止したインドラが手の甲で口から溢れた血をぬぐう。

 スーリヤを見下ろす目にはまだ戦意が残っているが、先ほどの一撃で既に満身創痍なのは明らかだ。汗の浮かぶ逞しい肉体からは血が滴り、焼け焦げて煙が立ち昇っている。

 焦げ跡の残る眉がぴくぴくとひきつる。

 ヨロヨロと降りてきて白象にまたがったインドラは、かなり消耗しているようだったがそれでも豪胆な笑みを浮かべて見せた。

「フ……フフハハハ。それでこそ太陽神というものよ。今日はただの様子見ゆえ、痛み分けに終わったが、その力衰えた時が貴様の最期ぞ!」

 痛み分けというよりは一方的にやられたように見えるが、言った者勝ちという事だろうか。

 弱りながらも声にはまだ力がある。雷帝の矜持か、大音声で口上を述べる姿は威風堂々としたものだ。

「またいずれ見えようぞ。なかなか悪くない宴であった!」

 豪快に笑いながら、雲に包まれてふらふらと去っていく。大将が帰っていくのを見て、生き残った戦士達がぞろぞろと撤退を始めた。やってきた時の威容は見る影もなく、数も残り少なくなっていた。

 残った蛇を踏み散らかして駆け遠ざかっていく。色鮮やかな甲冑も泥や埃にまみれ、力強かった幻獣達の歩みもどことなくしょんぼりして見える。

 勇壮な神々の軍勢が、少女一人に撃退されて敗走しているのだ。

 夕日はほとんど平べったくなり、完全に沈み切るのは時間の問題だ。すでに空の反対側は群青色に染まり始めていた。

 振動や雹や落雷によって散らかった聖地の有様を眺めまわし、ミコトはあらためてここが神話の世界である事を実感していた。

 まるで映画のようなスペクタクルな光景が繰り広げられたわけだが、音の体感や振動、熱波や衝撃などの臨場感は当然、映画館で味わえるようなものではない。

 ――いやー、凄かったわねえ。それにしても、スーリヤちゃんは大丈夫?

 言われるまでもなく、ミコトは真っ先にスーリヤの安否を確認していた。

 スーリヤは既に舞を収め、瓦礫や葉っぱなどが散らかった舞台の上で一人で佇んでいる。その姿はひどく儚げで、あれだけの軍勢を追い返した強者にはとても見えなかった。

 白金の髪を夕日の残滓に透かし、沈みつつある太陽をじっと見つめている。

 ミコトは近寄って声をかけるべきかどうかためらった。

 が、少しよろめきながら柱を掴んで体を支え、階段を踏み出す。

「終わったの?」

 ミコトが声をかけると、スーリヤは振り向いた。表情は無い。だが真っ直ぐミコトを見つめる目に寂寥の色が滲んでいる気がした。

「終わった」

 小さな肩が荒い息に上下している。スーリヤは手の甲で額の汗をぬぐった。額や頬には汗に濡れた髪が張り付き、衣服も雨や汗に濡れて透けていた。

「あの、踊り……綺麗だったよ」

 本心だった。凄まじいスペクタクルに圧倒されてはいたが、その中にあっても、舞うスーリヤの姿は目に焼きついている。

「うん」

 弱々しい笑み。その表情には勝利の余韻は無く、ただ寂しそうな翳りがあった。置いていかれた子どものような。

 聞いてみたい事は色々あったが、今はやめておこうと思った。

「涼しくなってきたね。家の中入ろっか」

「うん」

 ミコトは自分からスーリヤの手を取った。

 小さい手がきゅっと握り返してきた。

 

 

 四角く切り抜かれた窓からは、満天の星空が見えた。非常に密度の濃い星空で、明るい星から小さい星までびっしりと詰まって瞬いている。空は真っ黒い部分から色の淡い部分、星雲やガス状の明るい帯のような部分など、バリエーション豊かに彩られている。

 部屋の中に明りがなくても、星が照らす光だけで十分に周囲を見渡せる。

 星の光が地球に届くまで何千年、何万年とかかるという。神話の時代に存在した星の光を、現代に眺めているのかもしれないんだなと、ふとそんな事を思った。光の速度でも数千年では天の川を渡る事もできやしないだろうけれど。

 スーリヤは窓縁に腰掛けて足を伸ばし、空を眺めていた。

 しばらく雑談をしてくつろいでいたのだが、会話も途切れ、ミコトは寝台に腰をかけて休んでいる。女の子と二人きりで夜を過ごすという昂ぶりも、あの激しい戦闘と寂しげなスーリヤの顔を見た後では形を潜め、ただ少しでも長く一緒にいたいという穏やかな気持ちに代わっていた。

 だが、ミコトは神話世界の住人ではないのだ。いつかは元の世界に戻らなければいけない。

 その後、スーリヤはどうするのだろう。

 ずっと一人で戦い続けるのだろうか……

 せめて、スーリヤが平穏に暮らせるように何かできる事はないだろうか。

 スーリヤも落ち着いている事だ。会話が途切れたこの機会に、ミコトは思い切って訊ねてみた。

「さっきの人達さ。何をしにここへ来ているの?」

 なんとなく、聞いてはいけない事のような気がしていた。明らかにスーリヤを殺しに来ているのだから。しかし、なぜそんな事をしなければいけないのか?

「スーリヤと戦いに来る」

「なぜ?」

「知らない」

「しょっちゅう来るの?」

「たまに来る。いっぱい人、死ぬ……でも、どうせ輪廻の輪からは抜けられないから」

「輪廻……そういえば、さっきの人もそんな事言ってたね」

「そう。死んでも役割を引き継いで生まれかわる。記憶も無いし、男か女、どちらになるかわからないけど、力と役割だけ受け継いで新しく生まれる。スーリヤの前にも、何人もスーリヤがいたみたい」

「前世のスーリヤが何かしたのかな?」

「知らない」

 神様同士の因縁が何かあるのだろうか。しかし、スーリヤは本当に何も知らない様子だった。

 だがそれなら尚の事不思議だ。何も知らない少女一人になぜ? スーリヤが一人でここに住んでいる事と何か関係があるのだろうか。

 ――聖地を狙っているとかかな。アカシャの眼を奪いに来ているとか。

 しばらく押し黙っていたリンカの声が久しぶりに聞こえた。

「ここ……聖地って言ってたね。この場所を狙っているのかな。だとしたら、引越したらどうだろう?」

「それは出来ない。スーリヤ、留守番を任された」

「誰に? 仲間の神様かな」

「そうだよ。昔はここにもいっぱい人いた。でもスーリヤに留守番を任せて皆どこか行った」

 留守番を任せた仲間達というのは、スーリヤが一人で戦っている事を知っているのだろうか。

「いつか……その人達は帰ってくるの?」

「……わからない。でも、いつか帰ってくるからそれまで留守番お願いって言われた」

 スーリヤはその言葉を信じてずっと一人で待ち続けているのだ。一体どれほどの時間を一人で過ごしたのだろうか……

 その横顔を黙って見つめる。

 無邪気そうな表情の奥に、孤独を押し隠してきたのだろうか。

 彼女と出会ってからの事を思い出す。

 そっけない態度からは推し量る事ができなかったが、今思えば、内心ではミコトが来てくれてうれしかったに違いない。不器用なりに精一杯ミコトをもてなそうとしていたのも、やはり一人でいるのが寂しかったからなのだろう。

 ミコトは、母親が再婚した後、一人暮らしをしてきた自分の境遇と照らし合わせていた。

 ミコトの場合はただのわがままだ。母親はミコトを再婚相手の家に連れて行きたがった。ミコトもその時は既に中学生だったし、新しい父親も悪い人じゃない。別に反対はしなかった。 

 娘がいた。妹ができるのはうれしかったけど、そこには新しい兄もいた。兄と妹。仲が良さそうな家族だった。ありていに言えば、ミコトはその中に入っていく自信が無かったのだ。

 一人っ子で、父親はずっと家を空け、母親も働いているような家庭で育ったのだ。友達がいたから寂しくはなかったけど、今更、幸せな家族なんかとどう接していいのかはわからない。

 母親は幸せになって欲しいと思っていたから、再婚には全く反対はしなかった。

 しかし、自分が新しい家族とうまく接する事ができずに空気を悪くしたら?

 それが怖くて、自ら距離を置いたのだった。

 友達もそこそこいたし、事情を聞いて中学生の頃のミコトをバイトに雇ってくれる親切な人にも恵まれ、寂しい思いをする暇もなかったから自分と比べるのはおかしいと思いつつも、それでも、スーリヤの境遇に強い共感と同情を覚えていた。自分の事のように、放っておけないと思った。

「その人達……帰ってくるといいね」

「うん」

「あの攻めてきた人達……また来るかな?」

「たぶん来る。日が沈みかけた頃に来る」

「どうして?」

「太陽が出てる間はスーリヤ強いから。日が沈みかけてると弱くなる」

 あれでも弱くなっていたのか……

「それなら、夜に来ればいいのでは?」

 ――騎士道精神のようなもんじゃないかな。相手だって神様だし、正々堂々とした勝負を望んでいるのよきっと。インドの大叙事詩マハーバーラタによると、昼間は戦闘しても夜は敵と会ったりもしていたみたいだから、夜は戦わないという紳士協定みたいなものがあるのかも。

「夜は皆、眠いから来ない」

 ――…………あら。

 眠いかららしい。

「あと、夜は晩ご飯食べる時間だから来ない。前に聞いたらインドラが言ってた」

 インドの神様、わりとアバウトなようだ。

 あの調子なら何度来ても撃退できそうな気がするが、とは言えスーリヤが一人ぼっちで戦い続けるのを放っておくのも可哀想だ。

 ミコトがいなくなった後、また一人になるスーリヤの胸中を考えるといたたまれなくなる。

 スーリヤはぴょんと窓枠から降りると、ミコトが腰掛けている寝台の近くに来て言った。

「ミコトは、ずっとここに居ていいよ」

 スーリヤはミコトが神話世界の住人ではない事を知らない。無邪気にミコトを信じ切っている目を直視できず、思わず目を逸らしてしまう。

 言い出しづらいが、今言わなければ後悔しそうで、ミコトは覚悟を決めた。

「……ごめん。僕は、帰らないといけないんだ」

 顔を上げる事が出来なかった。スーリヤがどんな表情をしているか見るのが怖かった。

「そっか」

 返事はあっさりしたものだったが、寂しさが滲んでいる気がするのは思いあがりだろうか。

 胸が苦しくなり、咄嗟にミコトは口走っていた。

「でも! そうだ、ここを出て行った人達を連れ戻してきてあげるよ。……皆に会いたいでしょ?」

 ミコトが顔を上げると、スーリヤはすっと目を逸らした。

「無理だよ」

「どうして? そんな事やってみないとわからないじゃないか。僕には心強い味方がいてね、その人の力を借りればもしかしたら――」

「無理だってば。皆は帰ってこない」

「どうして!」

「皆、スーリヤ留守番してたら帰ってくるって言った。でも帰ってこない。ずっと待ってるけど、帰ってこない……期待すると辛いから……約束なんて最初からしない方がいい」

 スーリヤは表情を押し殺しミコトに背を向けた。部屋の出口まで歩き、顔だけわずかに振り向く。

「おやすみ」

 それだけ言い残して姿を消した。

 一人、部屋に残されたミコトは寝台から腰を浮かせたまま、歩き去るスーリヤの後ろ姿を見つめていた。

 ――スーリヤちゃん……皆がもう帰ってこない事、薄々気付いてるんでしょうね。でもどうする事もできずに信じているふりをして、ただ待ち続けているのね。

「なぜ他の神様達はスーリヤを一人だけ置き去りにしていなくなったんでしょうか」

 ――そんな事、現時点では見当もつかないわよ……インド神話は数え切れないほどの派生話があるけど、こんな話、聞いた事もないし。もしかしたら非常に狭い地域でのみ信じられている神話があるのかもしれないけど。

「それを調べれば、仲間の神様がどこにいるかわかりますか?」

 ――たぶんね。で、ミコトはどうしたいの?

 リンカの言葉にはミコトの内心を見透かしたような響きがあった。

 ミコトは立ち上がると、迷いの無い声ではっきりと告げた。

「スーリヤの仲間の神様を探しに行きます。そして説得して戻ってきてもらいます」

 ――本来の目的は見失っていないでしょうね?

「わかってます……この場所がどこなのか。アカシャの眼を手に入れるためにここまで来た事もわかっています。でも、スーリヤは何も知らないみたいだ。情報を得るためにも、仲間の神様に会う必要があると思います」

 ――OK。説得は当然、あんたがやるのよ。危険もあるかもしれないけど、いいのね?

 朝起きて、ミコトが黙っていなくなっている事に気付いたらスーリヤはどう思うだろうか。

 裏切られたと思うだろうか。それとも、些細な事だと思うだろうか。

 ミコトを起こしに来て、誰もいない部屋でぽつんと佇むスーリヤの姿を想像すると胸が痛む。

 ぎゅっと拳を握り締め、言った。

「大丈夫です。僕がやります」

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