―― 十二月十四日 ――

 俺はウェーダーの上からワタツミズの外骨格を着こんだ。

 外骨格後背の補助アームを下方へ動かし、その機械の腕でブリッジするようにして立ち上がる。歩いてみるが、違和感はない。少しふわふわ浮かぶような感覚だが、問題なく歩くことができた。航行中ずっと練習したかいがあった。

「用意ができましたね」

 船倉にメルヴィルが入ってきた。開けた天井から吹きこんでくる強い風に髪を押さえる。

 体を濡らすことが前提のウェットスーツではなく、厚めで内部に水を入れないドライスーツを着こんでいる。ウェットスーツにも体温を一定に保つ機能はあるが、さすがに南極で使用すれば凍死してしまう。

 さらにメルヴィルはポンチョに似た菱形のライフジャケットを頭からかぶり、脇を紐止めした。黄色っぽい表面に、蓄光塗料のラインが引かれている。

「このライフジャケットは、極地用の耐寒耐雪機能を持っていますから」

 足もとはドライスーツの上から、スパイク付きの防寒靴を履いている。何だろう、昔どこかで見た絵本に出てきた妖怪……そう、ゆきんこの姿にそっくりだ。

「……また、かわいい格好だと思ったのでしょうか?」

 メルヴィルが微笑む。無意識に頭から爪先までながめまわしていたらしい。

「まあ、そんなところだ」

 ……ゆきんこは妖怪というより、妖精と呼ぶべき存在だったかな。

 俺はヘルメットのバイザーマスクをおろす。

「ひとつ気になっていることがある。別れ際の、ロゴス博士の言葉だ」

 通信機越しにメルヴィルへいった。

「クジラではなく悪魔だ、という意味がわかるか」

「たしか小説の中で白鯨が悪魔と位置づけられている場面はあります。でも、そのことだとすれば、クジラは悪魔だといったいいまわしになるでしょうね」

 言葉を厳密にあつかっていそうな博士のことだから、きっとメルヴィルの指摘するとおりだろう。

 俺はひとつの思いつきを話すことにした。

「小説の白鯨は、魚なんだ」

 俺が読んだ本の巻末に、くわしい解説がされていた。

 クジラの定義について魚の一種であるかのように描写する意図については、諸説があってわからないらしい。当時すでにクジラが哺乳類であったことは周知されていたし、白鯨の別場面にもその知識が引用されている。

 有力な説として、聖書の描写にしたがったものと考えられるそうだ。聖書でもクジラとしか思えない動物を魚と記述しているという。だが、そのような説とは別個に、俺はひとつの思いつきにいたった。

「イルカとサメの外見や習性が似ているように、同じ環境で育った生物が似ていくことは、自然で珍しくないはずだ」

「収斂進化ですね。進化を、代替わりするごとに居住する環境へ最適化する指向性ととらえるなら、異なる生物が同じ環境で似ていくことに不思議はありません」

「白鯨にしても、クジラとは全く別の生物という可能性はある。そう暗示しようとしていたのかもしれない。ロゴス博士がいっていたのは、そういうことではないのか」

「たとえば、こういうことですか。知能を持つ人類の祖先が、途中で枝分かれして海中での生活を選び、やがてクジラそっくりに南氷洋で進化していった。それが大氷嘯による生息域の崩壊や気候の変動で、世界中の海へ勢力を拡大していった……でも、人類の祖先が誕生したのは早くても一千万年前です。しかし三千万年前には、すでに南極大陸は移動して氷に閉ざされていました。」

「いや、人類と関係があるといいたいわけじゃない。クジラと同じ種類とは限らないといいたいんだ」

 不思議な体表の輝きも、ただ夜光虫がくっついていたのではなく、別種の生物と考えれば納得できる。

 しかしメルヴィルは首を横にふった。

「いい考えだとは思います。進化するために十年という時間は短すぎますから。ごく少数の、未発見の生物種が南極にいて、環境の変化によって爆発的に繁殖できた、という仮説はもっともです。しかし、クジラと関係ないとの説はいただけません。すでに白鯨の肉片は、調査船によって少数ながら入手されています。まだ全ての遺伝情報を確認できてはいませんし、発光のしくみどころか器官も発見できていませんが、少なくとも私たちが知っているクジラ類に属する哺乳類であることは確実です」

「そうだったか」

 あっさり否定されたが、自分でも確信はしていなかったので気落ちすることはなかった。もともと小説から思いついたことにすぎない。間近で見て、ふれた記憶でも、白鯨がクジラの一種であることを疑う要素は全くない。

「でも、私も似たようなことを考えていました。もしロゴス博士の考えが私の思うとおりで、しかも真実をいいあてているとしたら……」

 いいながらメルヴィルは目を伏せ、首を横に振った。

「……人々が新たな知性を受け入れることは、はるかに困難かもしれません」

 その言葉の意味を問う前に、頭上のハッチが開いて、クレーンのフックがおりてきた。


 先に探査機が船倉からクレーンで引きあげられ、海面におろされていった。すでに夜も深まっている時刻だが、白夜の空は明るい。

 続いて俺もワタツミズごとクレーンで吊りあげてもらう。外骨格後背のアームを上部へ動かすと、クレーンで吊るためのフックとなる。ワタツミズはパワードウェーダーとしては巨大すぎ、上部ハッチから吊らないと出入りできない。

 クレーンに吊られて後甲板より高く上がると、そのまま世界が回転。船倉で見あげるメルヴィルから、白波が立つ海面へと、見下ろす光景が変化する。空に浮かんでいるような気持ちだ。

 のばした足のずっと下で、網目模様のように波打つ海面がゆれる。これから南半球は夏に入るが、南氷洋が冷たいことにかわりはない。鈍色の空。吹きつける風。クレーンで吊られた体が振り子のようにゆれる。

 ゆっくりと世界が回転を始めた。足をふって回転を止めようとするが、空気をかくだけで何の効果もない。クレーンと体をつなぐケーブルがよじれていく。

「いったん下ろすのを止めてくれ!」

 口もとにある通信機をとおして聞こえているはずだが、ケーブルがのびる速度に変化はない。徐々に振り幅も大きくなっていく。

 ふいにフランクリンという名前が視界いっぱいに広がった。俺は太ももをあげ、外骨格内の足首と足指を曲げる。ジョン=フランクリン号の船名が書かれた場所へ激突する瞬間、膝を曲げて衝撃吸収を助ける。膨張させておいた足裏の吸着装置もクッションの役目をはたす。

 重い金属音が鳴ったが、内部への衝撃はほとんどなかった。船体側にも損傷は見当たらない。ワタツミズは舷側にはりついたまま。ほとんど平らに見える船体にも、足裏の吸着装置はしっかりくいこむことができていた。

 ひと呼吸遅れてクレーンが止まる。

 通信機越しに案じるメルヴィルの声を聞き、俺は船上に向かって機械の手をふった。船倉にいたメルヴィルは、すでに甲板まで駆け上がっていた。

 吸着を解除し、反動で船体から離れた俺は、波間で上下している探査機へつながるケーブルをつかみとる。木から木へ移動する巨猿のような姿だ。ケーブルをガイドにして探査機へ滑るように下り、うつぶせになって探査機へしがみついた。

 背後のアームを動かし、クレーンのフックを外していると、梯子をつたってメルヴィルも下りてきた。俺は外骨格の腕をのばし、メルヴィルにつかまらせる。小さな体は軽く、パワーアシストのおかげもあって、難なく探査機に乗せることができた。

 ワタツミズと探査機の隙間に、メルヴィルがもぐりこむ。親亀と小亀の間に孫亀がはさまっているような格好だ。目の前にフードに包まれた小さな頭がある。

 探査機の外装にとりつけたバックミラーを見ると、甲板で平井が帽子をふっている。

「幸運を!」

 腕の中でメルヴィルがふりかえり、面舵いっぱいで動き出したジョン=フランクリン号へ手をふる。機械に体を包まれている俺はふりかえらず、ただ右手をつきあげた。

 ジョン=フランクリン号のエンジンがうなりをあげ、ゆっくり取り舵で向きを変えていく。調査隊の第一陣に俺たちの存在を気づかせないため、囮の役目を担当するのだ。

 ややあって、ジョン=フランクリン号は水平線の下へ沈んでいった。


 機械の指が探査機のフックを握っていることを確かめ、外骨格をロックした。ワタツミズの外骨格から生身の腕を抜きとる。その腕を外装からつきでるレバーを握り、徐々にスロットルを上げる。

 外から見れば、大きな水上バイクに人型機械がしがみつき、その人型機械の脇にある穴からスーツに包まれた腕がのび、操縦桿を握っているような姿だ。見た目は四本腕の大男といったところだろう。

 激しい振動とともに、探査機が二十ノット超の速度で海面を切り裂いていく。後背に白い水飛沫が高々とあがる。

「上下動が……激しすぎます」

 腕の中でメルヴィルがうなり、俺は姿勢を変えて重心を動かす。

 ワタツミズの重量は全体で五十キログラムあり、俺自身の体重とあわせれば百キログラムをゆうに超す。探査機の重量は二トンを超えるが、わずかな重心の狂いで挙動が変化する。どうしても調整には時間がかかる。

 振動がおさまったあたりで、俺はワタツミズの腰部から下半身にかけてをロックした。これで俺はかなり楽になる。

「つらくないか?」

 通信機を通してたずねる。ドライスーツとライフジャケットを着ているだけのメルヴィルは、生身の体で姿勢を維持しなければならない。ベルトで固定されているため落ちることはないが、筋肉への負担は相当なものだろう。

「大丈夫……ですよ。それより……キイチロウさんは前を見て……ずっと大変です……」

 声はとぎれとぎれだったが、疲労や船酔いという様子はない。

「しっかりしがみついていろ」

 俺はレバーを引いて、針路をわずかに右方へ変えた。前方に小さな氷山が頭を出していた。氷山は海上に見える大きさの数倍もの体積を海中に隠している。視覚情報だけにたよっては見えない氷に衝突しかねない。

 俺はソナーモニターに目をやった。

「クジラ? いや、魚群……どちらでもない!」

 メルヴィルが前を見すえたまま通信機ごしに質問してきた。

「何か海中にいるのですか?」

「海中じゃない、海上に大きな、速い……少なくとも白鯨でもない、これは……監視船だ」

 通信機ごしに息をのむメルヴィルの音が聞こえた。

「なぜ、今こんなタイミングで、ここに……そうか、エイハブが手を回したのか?」

 俺はレバーを大きく引いて進路をさらに変えた。

「少し遠回りになるが、避けていこう。エイハブがらみでなくても、見つかったら面倒だ」

 俺は違法操業で捕まったことこそないが、海上で監視船に見つかって抜き打ち査察された経験は何度かある。きちんとした許可証や操業記録をそろえていても、解放されるまで半日はかかった。今このような格好でうまく切り抜けられる自信はない。

メルヴィルが上半身を曲げるようにふりかえり、首を横にふった。

「いえ、このまままっすぐ行ってください」

 意思の強い瞳が俺を見上げた。

「いや駄目だ。アクシュネットの名前が監視船に通用するとしても、ならば俺たちがここにいることがエイハブまで伝わってしまうかもしれないだろう。……日本の古い教訓に、急がば回れという言葉がある。多少は時間がかかるようでも遠回りすることが賢明だ」

 メルヴィルは目をふせて首をふった。

「タルシシュ半島へ通じる航路は他にありません。この探査艇には、まっすぐ進んでも、監視船に気づかれない……いえ、たとえ気づかれても追いかけることが不可能な機能が備わっています」

 メルヴィルがふたたび瞳を俺に向け、視線で射抜いた。

「……まさか」

「潜行してください」

 すでにメルヴィルは腹をくくっている。

「……頭を下げろ」

 俺は進路を監視船に向けて戻した。いったん外骨格へ腕を入れなおし、探査艇をつかんでいたワタツミズの左腕を機体から離し、メルヴィルの頭をかばうように曲げる。

 そしてワタツミズの脇腹から補助の呼吸用チューブ、いわゆるオクトパスをのばして、メルヴィルの口へくわえさせた。これで潜水時の酸素を確保する。短時間なら二人でわけあえるだけの酸素は充分にあった。

 スロットルを上げ、探査艇が速度を増す。白い水飛沫が高々とあがって視界を覆い隠し、俺はソナー情報をたよりに監視船へ向かった。

「早く、潜行を」

 オクトパスをくわえたメルヴィルの苦しげな声が、通信機ごしに耳元でささやかれた。だからこそ、監視船に気づかれる限界まで潜行する気はない。ただでさえ肉体への負担が強いのに、潜行時の衝撃が危険でないはずがない。

 ……だが限界はすぐに来る。ソナーのモニターに映る陰は監視船以外の何物でもなく、残念ながらゴーストの類いや白鯨などではなかった。

 俺は通信機の向こうに聞こえないよう舌打ちし、速度を落としつつ探査艇の頭を海中につっこませた。大きな水飛沫があがり、一瞬だけ全身が水圧で襲われる感覚をおぼえたが、すぐにワタツミズがセンサー情報から自動的に判断して水の抵抗へ対処してくれる。急に関節が曲げられて脱臼したりする心配はない。

 俺はワタツミズの右腕も離し、メルヴィルの頭部を機械の両腕で覆った。足底の吸着装置を作動させて探査艇に強くはりつかせるが、今にも剥がれそうな振動が足先に感じられる。

「……もってくれ」

 そう俺は祈った。神の存在など信じてはいないが、それでも祈った。

 いったん沈めば海中は静かで、嘘のように穏やかだった。なめらかな流線型をしたワタツミズが完全にメルヴィルへかぶさったことで、操縦を難しくする乱流も発生しない。頭上を監視船の黒い影が通りすぎる。その白い航跡はまっすぐで、俺たちに気づいていないようだ。

 ふたたび監視船の探索範囲外に出た俺は、探査艇の速度を落としてゆっくりと海面の上へ顔を出した。

「……意外と、大丈夫だったな」

 通信機ごしに俺はメルヴィルへ笑いかけた。その小さな頭をかばっていたワタツミズの両腕は、ふたたび探査艇へつかまらせる。

 おそらく監視船のソナーにはつかまっただろうが、追ってきている様子はない。水棲哺乳類の類と思われたか、漁船ではないからと見逃されたか……

「……それとも、USOと勘違いされたかな?」

 しかしメルヴィルはふりかえらず、一言も発しなかった。

「おい……おい!」

 がくんとメルヴィルの上半身が崩れるように折れ、腰のベルトだけで探査艇に引っかかっている状態になった。横顔が見え、その小さな口でくわえていたオクトパスがずるりと抜ける。その唇は、こちらの心まで凍りつきそうなほど真っ青な色をしていた。

「メルヴィル!」

 ワタツミズから抜いた生身の左腕で、メルヴィルの頬を叩く。ぴくりとも反応しなかった。

 俺は探査艇を止め、残った腕もワタツミズから抜いて、メルヴィルを固定しているベルトを外そうとした。ワタツミズの外骨格が邪魔をし、指先も上手く動いてくれない。

「マリア=メルヴィル! 起きろ!」

 ヘルメットを外した俺は、叫びながらメルヴィルの体を転がすようにひっくり返した。ライフジャケットをめくりあげ、ドライスーツの首もとからチャックを開ける。

 薄いインナースーツに包まれた平べったい胸があらわれた。初めて会った日に見せられた傷跡が、喉もとからインナーの中へと続いている。その薄い胸に掌を押しあてる。まるで蝋人形のように、命の鼓動が感じられなかった。

「起きろ、メルヴィル! マリア=メルヴィル!」

 掌を交差させ、心臓のあたりに当てて、くりかえし押し込む。そして鼓動を確かめる。それを何度もくりかえす。力強く。迷ってはならない。

「マリア!」

 呼びかけながら回復作業を続けると、ふいにマリアの体がびくんと痙攣した。

「……動いた」

 弱々しいが、たしかに心臓の鼓動が感じられた。ドライスーツのチャックを閉じ、今度はメルヴィルの顎をあげる。気道が確保され、呼吸しやすくなるはずだが……

 青ざめた唇から海水が数滴、ブッと噴きだした。あわてて顎を上げさせたまま顔を横に向けさせる。吐き出した水をふたたび飲んで窒息しては意味がない。

 横にそむけさせた口から黄色い胃液混じりの海水が流れ出て、何度かむせたかと思うと、ゆっくりメルヴィルは目を開けた。その焦点が合ってない瞳がゆれ動き、やがて俺をとらえた。

「キイチロウさん……」

「……あんまり心配をかけさせるな」

 俺は笑った。うまく笑えていたか自信はなかったが、とりあえずメルヴィルの様子に安心できた。

 しかし俺の気持ちを知ってか知らずか、メルヴィルは不思議そうに問いかけた。

「私のこと、名前で呼びませんでしたか?」

「……あ?」

 メルヴィルが微笑を浮かべ、胃液で汚れた唇をぬぐいながら、言葉をついだ。

「さっき、私のことをマリアと呼んだでしょう?」

 おぼえているわけがない。

「今それは気にするべきことなのか?」

 俺の問いにメルヴィルは苦笑して、何もいわなかった。

 どうやら今のメルヴィルは頭がうまくはたらいていないらしい。俺はそう思うことにした。


 その後は、二度と監視船と出会うことはなかった。

 しばらく順調な航海が続いて、簡単な食事を取りつつ、止まることなく進んでいく。

 海の色が深い青に変わったあたりで、てのひらに収まるくらいの小型望遠鏡でメルヴィルが周囲を見まわす。接眼レンズへ目をあてたまま、低い声でつぶやいた。

「今度は、本物です」

 右前方に群れがあった。

「白鯨か……」

 一頭が勢いをつけて半身を宙に飛び出させたかと思うと、海面に巨体を叩きつける。続いて何頭もの白鯨が同じように海面を叩く。その音と波が重なりあい、まるで海全体がひとつの軟体生物であるかのようにうごめいている。

 俺はスロットルをしぼって転舵しようとする。目的地から針路がずれてしまうが、今度こそ遠回りしていくしかない。

 真正面の海面が盛り上がり、一頭の白鯨が姿を現した。

「キイチロウさん、このまままっすぐいってください!」

 探査機にとりつけたモニターと白鯨を交互に指さしながら、メルヴィルが叫ぶ。

「弱い電波でコードがとどきました。水先案内をつとめると、タルシシュ半島の方角から。あの白鯨は出迎えです!」

 その言葉を聞いた俺は左へ針路を戻す。メルヴィルの言葉を信じた。

 前方の白鯨はたくみに小さな流氷をよけていき、たしかに俺たちを安全な海路へ先導しているように見えた。思えば無人機よりもずっと速いはずのクジラに追いつけているということは、わざと俺たちを追わせているということだ。

 群れをなしていた他の白鯨は左右に別れ、探査機が進める領域を確保する。俺たちは白鯨と暗礁が生み出した細く曲がりくねった回廊を突き進む。

 右前方でイルカが飛び上がった。遠目で細部は確認できないが、その輪郭は角を持つクジラ類のイッカクだ。本来なら北極圏にしかいない。

「この先がタルシシュ半島です」

 モニターを見つめるメルヴィルの言葉を聞き、前方の白鯨を追って、そそり立つ濃霧の壁へ飛びこむ。

 視界の全てが濃密な霧でおおわれても、迷うことはなかった。前方の白鯨が体表面で緑と青の光点を輝かせていて、姿を見失うことはなかった。

 氷山にぶつかった風がうなりをあげ、高々と上がった水飛沫を巻きこむ。その粒子が、濃霧の隙間からさしこんだ光を受けて、虹色の蛍が視界を踊りくるう。

 まれに海面をただよう氷の欠片が飛び散り、弾丸のようにパワードウェーダーの柔らかな表皮を切り裂く。合成樹脂がぱっくり割れ、下の重層構造が断層のように縞模様をのぞかせる。

 それでも俺はメルヴィルを守り、傷つけはしなかった。パワードウェーダーも表皮が削られるだけで、充分に耐えてくれた。関節部分に異常は感知されず、少なくとも骨格までは問題が起きていない。

 探査艇のモーターや計器は悲鳴をあげているが、もともと薄い氷なら割り進められるよう設計されている。白鯨が安全な航路を示してくれているおかげだろう、重大な損傷は発生しなかった。


 ふいに風がおさまり、探査艇の上下動が穏やかになる。体の下のメルヴィルも無事だ。

 ようやく周囲を見渡す余裕ができた。いつのまにか氷の巨大な割れ目を直進している。見あげると、まだ上は荒れているようだが、海面まで風はとどいてこない。

 切りたった氷壁が左右を流れていく。

 まるでビルの谷間を進んでいくかのような光景だ。

 ふと、はじめてメルヴィルと出会った日のことを思い出した。

 数時間かけて探査艇を進めていくと、濃霧の先から巨大な黒い塊が現れた。頂点から白い蒸気を噴き出していて、あたかも巨大な鯨のようにも見えた。

 重しになっていた氷床が消え去ることで隆起した、南極大陸の岩盤。そうしてできた海岸が波に洗われている。


 俺たちは白鯨に導かれ、ついに霧にとざされたタルシシュ半島へたどりついたのだ。

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