―― 十二月七日 ――

 座りこんだ床から壁を見あげると、最新型のパワードウェーダーが架刑されたように両手を広げ、壁に吊るされている。通常と同じ胴長靴部に加えて、手先までと頭部を密閉する上半身部もあり、いわばツーピース構造になっている。これに後から外骨格をとりつけるのだろう。

「そうして金田さんは助けられた、と」

 平井は無人探査機を各部品ごとに分解しながら、俺の思い出語りにあいづちをうった。

 ジョン=フランクリン号に乗り込み、白鯨の遭遇記録を文章化した後の俺は、平井の手伝いで機材の整備ばかりしている。わたされた調査計画書には目を通し終えていないし、事務作業や会議をしているらしいメルヴィルとは顔もあわせていない。

「助けられた気分ではなかったよ。それは今でもかわらない」

 俺は平井から受け取った部品を布でふいて、ブルーシートへならべていく。ほとんどは黒く劣化した油に細かな塵がこびりついているだけだが、きちんと掃除をしなければ動作に問題が生じる。エンジン部分に負担がかかれば、部品の甚大な劣化や、回復不能な故障をまねく恐れすらある。工場を出たばかりの新品にする気持ちで、部品をひとつひとつ磨いていき、ひどく劣化したものは交換する。

「白鯨に助けられたと思わなければいい。神様にでも感謝すればいいさ。無心論者の日本人もおいのりくらいはするのだろう」

「いや、日本人は無心論者ではないよ。たぶん宗教との距離感が他の国と違うだけさ」

 ここは本来、漁獲した水産物を入れておく巨大水槽だ。しかしジョン=フランクリン号では無人探査機を中心とした海洋調査機器を収納する船倉へ改造されている。後甲板のハッチが天井にあたる。ハッチを空ければ後甲板のクレーンで無人探査機を吊るして、海面へ移動させることができる。隣にある機関室と整備道具を共有できることも便利だ。

「いうとおり、たしかに海で生活する者はたいてい信心深い。科学調査や軍事で用いる船にも基本的に神棚が置いてある……」

 どうしても運まかせな面がある漁船は、特にその傾向が強い。

「……だが、俺が助けられた気分ではないというのは、そういう次元のことではないよ」

 しばらくクジラは海面を泳いでいたが、波が穏やかな海域で漁船団に出会ったとたん、海中へ消えていった。一人海面に取り残された俺は、背嚢に残っていたサバイバルキットの発炎筒をたいて、かろうじて漁船に気づいてもらえた。

 すぐに漁船団の医療設備で背中の傷と凍傷寸前の左足を治療してもらい、後遺症は残らなかった。漁網がからみついた足首の傷も今ではすっかり消えている。今、背中に感じるのは、傷の痛みではなく助けられたことに当惑する痛みだ。

 生き残ったのは俺一人。他は全て嵐の海へ消えていった。もし助けられたというなら、なぜ俺だけだったのだろうか。そんな価値が俺にあるのだろうか。だからといって自分を責めて死にたいわけでもない。

「それは、たぶんわかるよ。だからこそ金田さんは苦しむ必要はないんだ」

 わかってもらいたい気持ちはないが、そういう反応は子供っぽいので口に出さなかった。

 俺は、違和感と疑問符で感情が綱引きされたまま、半年も宙吊りの状態で何もしないまますごしてしまった。父親から新しい仕事を紹介されても、理性ではありがたいと思うべきとは考えつつ、余計なお世話という感情しか持てなかった。だからこそ口に出せない気持ちとして、ふたたび無理やりにでも俺を海へつれてきたこの者達に対し、少しばかり感謝したい気分がないではない。

 平井は無人探査機の船外カメラから、爆弾処理をしているかのようにコードを一本ずつ抜いていく。

 食堂でシチューを食べながら平井と話をした時、海が好きだから給料も支給される海軍学校に入ったこと、しかし軍隊は嫌いだからとアクシュネットに入ったことを教えてもらった。しかしなぜ軍隊が嫌いかまでははっきりと聞き出せなかった。何か特別な記憶があるのではないかと思って水を向けたが、特に規律や戦争が嫌いというわけではないらしい。ただ、家族と何かあったらしいと感じたので、それ以上の追及はやめておいた。

「いずれにしても金田さんの体験は、必ずしも白鯨が人類に敵意を持ってはいないという証拠、という主張と一部で結びつけられているわけだな。だからマリアも金田さんに興味を持った。俺が反対するのもおして、一人で会いにいった」

 メルヴィルとの会話を中断した時、アパートの窓からゴムボートを見下ろしたことを思い出す。平井の姿が見えなかったが、ひょっとして一階で待たずに四階まで上がって、俺たちの様子を監視していたのかもしれない。

 俺は平井の主張を半分だけ肯定した。

「もちろん白鯨は敵意など持っていないだろう」

 野生動物が敵意などという人間的な感情を持っているとは思えない。動物はただ、食糧をえるための邪魔であれば排除し、縄張りに侵入した競合相手と思えば攻撃し、自分や仲間を襲ってくる相手には自衛のため威嚇する、ただそれだけのことだ。人食い鮫として恐れられるホオジロザメにしても、たまに食糧の一種類として人間も食べることがあるだけで、特別に人間を選んで攻撃するわけではない。

「イルカが溺れた人を助けるという伝説が昔からあるとは知っている。だが一方で、善意をもって助けたという考えも納得できない」

 何より、助けようという意図があったなら、俺一人が生き残るということはなかったはずだ。

 俺の反論に、平井も素直にうなずく。

「そうだろうな。イルカが溺れた人を助けなかった場合も無数にあるだろうが、それはニュースにならないまま忘れさられていっているのだろう」

「それに俺の場合は、体が網にからまっていた。その姿が白鯨には苦しんでいる仲間のように見えたのかもしれない」

 一説としては考えられる、と平井は同意した。 

「ただし、金田さん。白鯨の場合は、高い知性という伝説が逆の意味も持っている。彼らは高い知性を持って人間を攻撃しようとしている、そんな妄想がまかりとおっている。まともな学者は相手にしていないが、一部のメディアや、過激な言動で耳目をひきつけたい政治家も、何人かは同調している。実際に漁業への悪影響をもたらしているとされる白鯨には、敵視される材料がすでにあったからだろう。その反動で、白鯨を憎みたくない人々から金田さんの体験は好ましい証拠として受け入れられた……」

 そうして俺の意図を離れて俺の立場は利用されている。アクシュネットだってそうだ。

 続いて平井の始めた話は初耳だった。

「ただし個人的に、もともと漁業への悪影響については怪しく思っている。学者や研究者の間でも論争が続いていて、白鯨と呼ばれる群れの確認から九年以上もたつのに、まだ答えははっきりしていない。全く食害を起こしていないということもないだろうが、人類が食べる量に比べて極めて少ないという説も根強い」

「そうかな。素人や報道機関だけでなく、きちんと水産専門の学者も主張しているのを見たおぼえがあるが」

「昔から漁業関係者は立場上、人類ではなくクジラが魚の数を減らしているという説に魅力を感じるものだからね。たとえ話をしようか。金田さんは、大人のゾウが一日に食べる量を知っているかな」

「それは……いや、アフリカゾウについてもアジアゾウについても正確には知らない。草食動物だから、かなりの量を食べるだろうとは思うが」

 たいてい肉食動物に比べて草食動物の餌は多い。動物を形成する栄養そのものである肉と違い、植物は重量比で見ると動物に不要な栄養素も多く、無駄が多い。食物繊維を消化するために、何度も反芻はんすうしなければならず、時間もかかるはずだ。

「そう、ゾウは野生で一日につき三百キログラムくらいの食糧を必要とする。しかし六千キログラム以上の体重に比べると、草食動物としては多い量ではない」

「よくそれほど細かく記憶しているな……」

 あきれ半分の感想だが、もちろん賞賛の意図もある。よく考えれば自然調査団体に所属しているくらいだから、生物の豆知識にくわしくても奇妙ではない。

「たとえば体重が百グラム以下のネズミは、二十五グラムくらいの餌を一日で食べる。同じ体重に直すと、ゾウは五グラムくらいしか食べていない。動物は巨体になるほど餌を食べる量が体重比で見て減っていく。体表面が少ない分だけ外気にふれなくてすみ、体温を維持しやすいからだ」

 体積が八倍になる場合、体表は四倍。二十七倍の体積なら体表は九倍。暗算してみると理解できた。

「体積が増えるということは、動物同士が身を寄せあって、ふれあった皮膚が融合するようなものだ。それはクジラも変わらない」

 たがいに整備の手を止めずに会話を続ける。今の整備は決められた手順にしたがって、ひとつひとつの部品を手入れしているだけだから、雑談しながらでも問題なく続けられる。ひまつぶしのようなものだ。

「だからクジラの一般的な食害論というものは、もともと有力な学説ではなかった。そもそも人間の食糧と同じ水産物を食べるクジラはそう多くない」

「たしかにヒゲクジラの多くはプランクトンを食べ、マッコウクジラは主に深々度のイカを食べるものだが……」

 シロナガスクジラなどに代表されるヒゲクジラは、ただようプランクトン群を海水ごと大きな口に入れる。海水はヒゲの隙間から吐き出し、残ったプランクトンだけを食べる。プランクトンのような極めて小さな生物だけを食べるので、人間が飲み込まれても吐き出してもらえる。

 一方でマッコウクジラが食べるような深海に生息しているイカは、アンモニアを多くふくみ、味も悪ければ体にも悪い。調理の手段は皆無でないものの、大氷嘯後の食糧不足に苦しむ国家において、加工品にされることがまれにある程度だ。

「しかしそれならば、なぜ今は白鯨の食害論が有名なんだ?」

「あくまで想像だが、敵がほしいのだろう。この社会が息苦しくて、しかし政府に要求しても聞きいれてもらえるとは限らない。だから大氷嘯後の食糧不足の原因を、大氷嘯後に目立っている白鯨にあると思いたがるのさ。エイハブにとっての先住民族や移民と全く同じように。仕事がないならそう社会へはっきりいえばいい、苦しいなら叫べばいいのに」

「それは正論だよ。正しいが、聞き入れられるとは限らない。それに誰にだって苦しさを隠したい自尊心がある。……もちろん本当に自尊心があれば他人を、それも社会において立場が弱い者を攻撃したりはしないだろうが」

「うらみつらみ憎しみに下手な理屈をつけるから、論理と倫理がねじまがる。言葉にならない感情は、言葉にするべきではないんだよ」

「私怨で戦うことは悪くない、そういいたいわけか」

 物語のエイハブ船長が白鯨を追った真の動機は、いったい何だったのだろうか。大自然の征服、傷つけられた野生への復讐、それとも神からの試練。

「そのとおりだ。マリアが白鯨を追っている理由にしても、究極的には個人的な動機なのだからな。金田さんも契約の日に聞いただろう」

「ああ。いや、正確には白鯨に対してではなく、ブルーに対する私怨だと思うが……」

 こちらに部品を渡しかけた平井の手が止まった。

「……何だと。マリアがそう説明したのか?」

「胸の傷を見せられた。意図的にではないにしてもブルーの攻撃でつけられたのだと」

 部品を渡した後、平井が手を止めてしばし考えこんだ。しばらくして顔をあげ、ふたたび無人探査機の分解をはじめる。

 平井は黙って作業を続け、一方の俺も相手が話し出すのを待つべきか、そもそも聞いて良いことなのかわからず、手を止めることができない。船倉は金属をこすり磨く音だけが鳴っている。隣の機関室からエンジン音が重たく響き、それが静けさを増幅しているように感じられた。


 すでにほとんど部品を取り外せていたこともあり、黙々とした解体作業は早々に終わった。

「マリアがブルーの活動で傷ついたのは偶然ではない」

 内部がむき出しになった無人探査機を前に、平井がぽつりぽつりと口を開いた。

「調査捕鯨に同行したことも、ブルーの妨害活動中に甲板に立ちつづけたことも、先に白鯨の正体を知りたいという強い願いと信念があったからだ。たしかゴムボートの上で……白鯨の知能が高いというマリアの考えについて議論したな」

 俺はうなずく。あくまで未確認潜水物体の正体について議論する時、根拠となる可能性として語られた。そういえば、まだ答えを聞いていない話題も残っていたが……

「マリアは七年前、夏のオーストラリア沖で、白鯨の正体をさぐるアクシュネットの第一次計画に参加していた……正確にいうと、アクシュネットを代表する海洋学者だった父親につきそって、深海探査艇の母船に同乗していた」

「そのころから娘も研究者だった……わけではないな。彼女は十二歳くらいから実地の研究に協力するような、そういう天才タイプには見えない」

 どちらかというと、努力でおぎなう性格に感じた。

「ああ、その時のメルヴィル家は父と娘の二人しか残っていなかった。妻や数少ない親戚は、全て大氷嘯で亡くしていたという。それ以来、父親はマリアを大切に育てていたらしい」

「溺愛していたのか。それで調査に連れてきた」

「いや、父親は仕事に私情を持ちこむ人ではなかったらしい。ただその日は特別だったんだ。その特別な日を娘と二人だけですごすことを選ばずに、父親は責任者として調査に向かうことを選びつつ、娘も連れていった。そこで事故が起き、有人探査艇を操縦していた父親をマリアは永遠に失った」

「その日に娘と二人きりですごしていれば、父親は死ななかったというわけか。……よほど特別な日だったのだな」

「ああ、マリアの誕生日だよ。たしか……そう、だいたい一週間後だ」

 そういうことなのだろうと、話の途中でだいたい予想はついていた。家族にとって特別な日はいくつもない。母がいない家族で祝える日となると、さらに少ないだろう。

「はっきり死にゆく姿が見えながら、遠い深海にいるのでマリアは手をふれることもできなかった。博士が乗っていた探査艇を引き揚げて、死体をとむらうことができたのは、溺死してから一週間後のことだった。そんな因縁があるんだよ。しかも父親が最後に文章で問いかけた言葉から、マリアは白鯨が何か高度な知能を持つ生物だと思いこんでしまったらしい」

 平井は長いため息をついた。

「文章の内容はわかっているのか?」

「わたしはここにいます。あなたはだれですか?……という定型文だったそうだ。あなたという単語が白鯨を指している、という話になっている」

 わたしはここにいます……

「事故の原因は?」

「不明のままだ。事故の直後に白鯨の姿がカメラに映り、しかもその船外カメラを搭載した無人探査機を白鯨が食いちぎって去っていったため、おそらく好奇心おうせいな白鯨と深海探査艇が海中で衝突したのだろうということになっている」

「父を殺された復讐心か……」

 それを正直にいうことが、ブルーに攻撃された体を見せるより、ずっと恥ずかしいのだろうか。

「いいや、俺はそれは正確には違うと思っている。私怨だが、その怨みは白鯨へ直接的に向かっている感じではない……どちらかといえば、答えの出るはずがない疑問を前にして、とまどいながら、それでも必死に答えを求めているような、そんな感じを受ける」

 ……ああ、そうか。

 メルヴィルが無言で俺の背中にふれてきたことを思い出す。あの時にふれたのは俺の傷であると同時に、彼女の傷でもあったのだ。

 なぜ死なせたかという怒りに満ちた問いではない。あなたは誰なのかという問いの答えを、二人ともが別々の意味で、同じように求めている。


 プラグやコードの劣化したものは新品に交換し、分解と逆の手順で無人探査機を組み立てなおしていく。

「金田さん、そこの長いコードは、隣の黒いケーブルカバーに一回巻いてからモーターへ取りつけたらいい」

 平井の注意に俺は首をかしげた。

「さっき分解した時は巻いてなかったが……最初が間違っていたのか?」

「工場から出荷する時や、安い値段で整備した時は、こういう手間を惜しまれてしまうものなんだよ。規格のコードだと長くて少し遊びが出るせいで、巻いておかないとモーターの振動で暴れてしまう」

「わかった」

 この無人探査機にはマニピュレーターやケーブルがない。長さ三メートル少しの細長い形状で、機体の大半はバッテリーと機関部になっている。前方に斜め下へ向けたカメラとソナーがあり、深深度で遠隔操作する調査よりも、自律した長時間長距離の浅深度調査に向いている機種だ。

 カバーの上部に、この船倉から吊り上げるためらしい複数のフックが後付けされている。そのことから潜水より海上航行を優先していると見当がつく。大きなフックは水流を乱し、潜行時の邪魔になりやすい。

 半分ほど作業が進んだあたりで、部品を手渡しながら平井にたずねた。

「そういえば、あの時に聞き逃したことがある」

 ソナーに映った高速の影とは別に、俺自身が目撃した白い航跡だ。

「ああ、そちらのことなら正体はわかっている」

 平井はこともなげに応じた。

「すでに白鯨の研究結果として複数の報告がされている事例と全く同じだ。特定の研究者だけでなく、第三者的な学者の追試研究でも確認されている」

 二百ノットを超える魚雷の話を聞いたことがあるかな、と平井が質問してきた。もちろん知っている、百八十ノットの魚群という情報を聞いた当時に思い出した知識のひとつだ。

「その魚雷が、スーパーキャビテーションというしくみを利用していることは聞いたことがあるかな」

「……たしかキャビテーションという言葉だけなら聞いたことはあるが」

 水流を受けた物体の表面に細かな泡が発生する現象のことだ。水中の抵抗を増大させ、気泡の破裂で物体を劣化させもする、と水産高校の授業で教えられた記憶がある。

「スーパーキャビテーションは意図的に泡を発生させて制御し、逆に水の抵抗を少なくする技術だ。金田さんも知っている魚雷は、ガス噴射で推進する。そのガスの一部を前方からも噴出することで全体を気泡で包み、高速で移動できる。白鯨は同じように体を気泡でつつみ、水の抵抗を減らしていると考えられる。さすがに呼気だけで全てをおおうことはできないので、せいぜい前半身までだが」

 半身だけをおおったクジラか……

「俺が見た白鯨は、後半身だけが悪夢のように輝いていた。何か関連性があるのだろうか」

 たとえば、気泡でつつまれた前半身には、特殊な夜光虫が付着できないとか。夜光虫にしては、まぶしすぎたが。

「……それは何ともいえないな。聞いたことがないし、研究者ではない身としては、ありえるかどうかの推測すら口にできないな。金田さんの証言にもとづいた調査はこれから始めるところだから、いずれ答えは出ると思うが」

「それでは、体をつつむガスも呼気を口から吹いているわけか?」

「肺呼吸をするクジラならではの進化だな。いや……正確には学習か」

「学習だとしても早すぎないか。複数の報告があるというなら、かなり広まっているわけだろう。俺が知る以前から確認されているなら、一頭や二頭の特異例ではあるまいし。何か前兆はなかったのか」

「クジラ類には、このスーパーキャビテーションの前段階と思われる習性が、いくつか過去から確認されている。たとえばイルカの一種には頭頂部の呼吸孔から空気を出し、それを口にふくんでから輪状の息を発する、バブルリングという行動が観察されることがある」

 その説明で、水族館へ行った記憶がおぼろげに思い出された。水槽がよく見えるよう高く抱いてくれた大きな人は、父であったか母であったか。もちろん大氷嘯の前だったと思う。だがあるいは、どこかで見た記録映像が記憶に混じっているだけなのかもしれない。

「それならば俺も実際に見た記憶もある。だが同時に、ただの遊びにすぎないという説明を聞いた記憶もある」

「そうさ、遊びだ。意味のない遊びをする余裕があればこそ、動物は新たな方法論にたどりつく余地がある。普通の生物の進化と全く同じだよ。たとえば、キリンが首を長く進化できたのも、祖先の首が短かった時点でワンダーネットという器官をそなえていたからだ。高い首の先まで血液をめぐらせるには高血圧でなければならないが、それで首を下げると血圧が高くなりすぎて脳出血してしまう。それを頭部にあるワンダーネットが調整する」

 平井によると、かつては、あたかも神様が用意していたかのようにワンダーネットが存在するという論理で、進化論を否定する意見もあったという。だが本当の順序は逆で、ワンダーネットという器官が発生した種類ゆえに、キリンは首が長く進化することが可能だったというわけだ。

「逆に、魚類から進化した生物の目、つまり爬虫類や我々のような哺乳類には、光を感じる網膜を視神経がさえぎっている場所がある。別のルートで目が進化した昆虫や頭足類にはない、盲点という欠陥さ。生物は偶然の進化で発展したため、多くの無駄をかかえている」

 生物種は世代をへるごとに様々な変化をしていく。そして環境に適応できている変化だけが、淘汰されて生き残る。環境に合わない変化は消えて目につかないため、あたかも目的をもって生物が変化しているかのように見える。それが進化だ。

 しかし、もともと変化は偶然の産物にすぎないから、生き残れる程度の無駄や欠陥も受けつがれていく……

「たしかクジラの体内にある後ろ足もそうだな」

 クジラはかつて陸上を歩き回る獣だったため、退化した後ろ足の骨格が体内に存在する。

「そう、それは無駄だが、逆に新たな進化が行える下準備ともなりうる。この考えだけで進化の全てがわりきれるというわけではないが、今のところ生物の進化を説明するために神様の存在は必要ないのさ」

「そのスーパーキャビテーションで白い航跡が生まれるという話はわかった。ならば最後の、爆発に見えたものは何だったのだろう」

「バブルネットといって、ザトウクジラも泡を意識的に吐き出すことがある。それも群れで漁を行う時に。バブルリングと違って、はっきりと利益をえるための習性だ」

 平井は説明しながらネジをひとつひとつドライバーの手作業で止めていく。モーターでネジ止めする器具は太くて、奥の部品まで届かない。しかし手作業では力を入れすぎてしまい、ネジに余計な負担がかかって破砕しやすくなる危険性もある。意外と繊細な力加減が必要だ。

「ザトウクジラは餌となる魚群を周回し、下方から大量の泡を放出する。それがバブルリングだ。すると泡の壁にはばまれて、小魚は外へ逃げられなくなる……」

 同種の考えを見たことがある。それは逆に白鯨を人間の活動圏外へ排斥するため、海中に泡の壁を作るというアイデアだった。そういえばメルヴィルと白鯨について会話した時にも連想して思い出した。

「ザトウクジラよりも巨体な白鯨は、より大量の泡を集中的に発し、それが海面に達した時に爆発的に盛り上がる。泡の壁でつつみこむというより、いわば泡の柱をつきあげて、人間の目をくらますわけさ」

「それも観察されているのか」

「ああ、バブルネットを使った捕食活動は大氷嘯前から有名で、観光資源にもなっていた。鯨の高い知能をあらわす証拠ともいわれている。むしろ金田さんが知らないことが不思議なくらいだ」

「ホエールウォッチングには興味がなかったんだよ」

 白鯨に出会ってからしばらくは報道合戦に追われ、きちんと腰をすえて調べるような余裕はなかった。住居を変えて逃げ隠れてからは、何もする気が起きなかった。インターネットすら数日おきに少しの時間を見るだけで、無為に時をすごしていた。

 アパートでしていたことといえば、一人の記者から贈られた白鯨の翻訳本に、気が向いた時だけ少しずつ目をとおしたくらい。それも内容は捕鯨と関係ないような豆知識の描写が多くて、断片的にしかおぼえていない。

 もしかしたら水産高校の授業で学んだかもしれないが、あまり俺は真面目な学生ではなかった。水産高校へ進学したのは大氷嘯後の就職に有利ということはもちろん、パワードウェーダーを動かしたり整備することへの子供っぽい憧れも大きかった。

「バブルボムと呼ばれる白鯨の習性も、かなり早期から発見されて、その小爆発は映像にも残されている。もともと人間のような外敵に対する撹乱であり、海面で効果をあげる習性だから、観察の機会はスーパーキャビテーションやバブルネットよりも多いくらいさ。今ではホエールウォッチングを楽しむ人もほとんどいないので、話題にはのぼらないがな」

 答えのひとつが、俺が目撃するずっと前から、周知の事実だったとは……

「もっとも、金田さんが知らなくてもしかたない。学者や専門家や趣味者の間では常識でも、一般人が知らなかったり、聞いても生活と無関係なため忘れていく知識でこの世はいっぱいさ」

 なぐさめとも皮肉ともつかないことを平井はいった。

「だが、俺は知りたかった。知りたかったよ」

 ずっと立ち止まっていた自分の時間が、ここで動き出していたことに気づいた。やはり俺は、ずっと答えを恐れながら、同時に知りたかったのだ。白鯨は何者であるか。

「だからこそ、今ここで教えてもらったことがありがたいというよ、俺は」

 平井はぼさぼさの頭をかいた。照れたのかもしれない。そして自分の手をじっと見て、苦笑いを浮かべた。

 腰に巻いていたタオルで指についた油汚れをふきとりながら平井がいう。

「ここの仕事も終わったし、風呂にでも行くか?」

 海水をくみあげ、機関室の廃熱で温めた塩水風呂がある。あまり広い浴室ではないが、だからこそ冷えることはない。じっくりつかれば体が芯から温まり、最後に少しの真水で塩分を洗い流すと肌がさっぱりする。トロール船で力仕事を終えた時は、大きな楽しみだった。

「ありがたいが、先に入っておいてくれ。そちらのほうが油まみれだろう」

「ならば遠慮なく先に入らせてもらう。三十分くらいたったら来てくれ」

 立ち上がって腰をのばす平井へ、最後の質問をした。

「父親がアクシュネットを代表するような存在だった。それはつまり今の彼女もアクシュネットにとって重要な存在ということだろうか」

 むろん研究団体で安易な世襲をするとは考えたくない。相応の能力をそなえていれば話は別だが。

 平井が語ったとおりの経験をメルヴィルがしていたなら、生半可な気持ちや並大抵の努力でここにいるわけではないだろう。まだ調査が始まってもいないのに仕事を続けている様子から、この計画以外でも熱心に働いていると見当がつく。

「今回の計画を立案したのがマリアだよ。たぶん契約書類には名前が載っていなかっただろうが、実質的な最高責任者だ」

 平井はこともなげに答えた。

「……まったく詐欺のようなものだな。ひどい女だ」

「マリアは未成年だし、組織内で責任をとれる立場でもない。名前が書類に載らないのはしかたないさ」

 しかし、詐欺と軽口をたたいたものの、ひどく騙されたという気分ではなかった。ひどい女だという感想は変わらないが、その中身は初めて会った時から少しばかり変化している。

「今回の計画は、悲運の死をとげた代表の遺志を、娘が七年かけて再開させ、引きついだようなものだからな。個人的な感想としては、その経緯を組織や計画の広報に使わない上の連中は、ある意味で立派だと思うよ」

「本当は不器用といいたいのじゃないか?」

 その問いに平井は答えず、笑って話を続けた。

「ちなみに、マリアの父親の名前はアブラハムという。海洋研究による博士号も持っていた。博士はマリアをサラという愛称で呼んでいたらしい」

 どこかで聞いたことのある愛称だ。

「サラは聖書に登場する、マリア達の従者から引いたと聞いたことがある。エジプト出身だからな」

「エジプト?」

 出航してから初めて聞く話ばかりだ。

 実際のところ、これだけ長くアクシュネットの人間と雑談したこと自体が初めてだ。ずっとメルヴィルはいそがしげに事務仕事を行っており、船の作業を手伝っている俺とは生活時間すら合わない。食堂でも娯楽室でも見かけなかった。

「サラ=カリという名前で、カーリー神と関係があるらしい。黒いマリアともいわれている」

「カーリーなら聞いたことがある。たしかインド神話の恐ろしい女神だったな」

「だからサラ=カリもインドもしくはエジプトの出身といわれている。博士もマリアもエジプト出身で、アクシュネットのシンボルもエジプト神話をあしらっている」

 身分証に記された、国連のシンボルの横にあったシンボルを思い出す。この船の壁面にも描かれている。

「あの人面鳥のことか。ならば、あれはセイレーンではなかったのか……」

「ああ、バーだ」

 平井が手をふりながら去っていく。

 バー。エジプト人の思い浮かべた魂の形。死せば人の体から離れるが、いずれ戻ってくる人面の鳥。死んだ中浜が、そういうことを口にしていたと思い出す。

「不死の神話か」

 死体を乾燥させて保存しておけば、いつかは復活の時が来ると信じていた古代文明。その死体はいつしかミイラと呼ばれて薬として珍重され、遠い異国で金持ちの胃袋におさまり、消化されて生命とふたたび一体化した。そして今では国を富ます観光資源になっている。その意味では確かにミイラは生き続けているのかもしれない。そう中浜が笑っていた姿を、ふいに思い出した。

 壁を見上げると、吊るされたパワードウェーダーが中身がないため平面状になり、くたりとうつむいた頭部のシールドが虚ろな口のようだ。あたかも、ミイラが磔にされているかのようにも見えた。

 生きているのか?

 そんな問いが脳裏をかすめる。その問いの意味は、その対象は、思い浮かべた俺自身もよくわからない。なぜか無意識に浮かんだ言葉だ。

 ふと背後に気配を感じた。

「そう、私たちの組織は精神の不滅を信じています」

 少女の声へふりかえると、船室に向かう扉が隙間を開けたままになっていた。メルヴィルが小さな頭をのぞかせている。


 堅いトーストの上に乗せられたウナギをほおばる。何度もオイスターソースを塗りながら焼いた見た目は、まるで日本の蒲焼そっくりだ。

 香ばしいトーストとの相性も良い。サンドイッチ、オイスターソース、ウナギ料理、どれもイギリスと深いかかわりを持つが、この味は世界最悪と呼ばれるイギリス料理への偏見が改まる。

「美味しいですか?」

 ウナギサンドを持ってきたメルヴィルがほほえむ。ずっと仕事をしているからと、調理場から持って来てくれたのだ。

「ああ、ウナギもめったに食べられないしな」

「まだまだ高級魚ですものね」

 メルヴィルもウナギサンドの包み紙を破り、食べ始めた。

 かつてウナギは生態もはっきりしないまま乱獲され、絶滅の危機にひんした。養殖もしていたが卵から育て上げる技術は存在せず、むしろ稚魚段階からの乱獲に繋がるありさまだった。国際的に規制しようとも、最も消費していた日本が難色を示して、あまり効果がなかったという。

 しかし大氷嘯によって世界的に海洋資源が増大したこと、それと並行して日本におけるウナギの消費量が抑えられたこと、大氷嘯による地形変化で新たな産卵場所ができたことといった複合的な要因で、再びウナギは庶民でも食べられるようになった。

 俺はサンドイッチの包み紙を折りたたみ、メルヴィルに返しながらいった。

「ありがとう、美味かったよ」

 むしろ口に入れる前は、もっとジャンクフードな味かと予想していた。意外と薄味で、俺には少し高級すぎたかもしれない。タイ風だかベトナム風だかのインスタントラーメンが懐かしく感じられた。

「今さらですが、急ぎの仕事だったもので、きちんとした説明がなされていないままでした。もうしわけありませんでした」

 メルヴィルが頭をさげる。だが、さほど目の前の少女を責める気にはなれない。知らない情報を平井との雑談で教えられて驚いたりもしたが、あまり細かく聞く気にならなかった俺にも責任がある。

「しかし、出航してから丸一日は会っていなかったな。もう仕事はいいのか?」

「だいたいの問題はかたづけました。今日は少し休みます」

 伸びをしながらメルヴィルが立ち上がる。書類作業しかしていないためか、初めて会った日のような制服風の作業着ではない。帽子はかぶらず、船の騒音を防ぐためらしい黒い耳あて。黒い長袖のタートルネックに、赤茶色の半ズボン、黒いタイツに黄ばんだスニーカー。スニーカーはくたびれつつも、きちんと手入れがされている。

 やはり起伏の少ない体型だが、丸みをおびた体の線が出ているので、なるほど女性なのだと納得した。

「しかし、どこから見ても……」

 美しいとかかわいいといった感情は持たず、ぼんやりと爪先から頭まで見上げる。

「……なんでしょうか、キイチロウさん」

「じろじろ見て悪い。ただ、かわいい格好だなと思ったんだ」

「それは……本当でしょうか」

 こちらの心の奥まで見すかそうとするかのようにメルヴィルが見つめてくる。

 危なかった。もし半ズボンが真っ赤で、かつスニーカーが原色の黄色であれば、有名なネズミのキャラクターそっくりだと正直に答えてしまったかもしれない。

「そんなことより、さっきの話だ」

「不死の話ですか? もちろん不老不死を信じているわけではありません。船に乗って海に沈んでは復活をくりかえす太陽神ラーのように、いつしか帰り来る人の魂バーのように。どれだけの苦難があろうと組織も人類も滅びない、その意思の表明です」

「なるほどな」

 俺もオイスターソースで汚れた指を部品磨きの布でぬぐいながら立ち上がった。メルヴィルを少し見下ろす状態になる。メルヴィルは俺を見上げるような姿勢で話を続けた。

「私の父は、最後にマイクを通して語りかけてくれました。父の存在が滅びることはないのだと。ですから私も父の意思をついで、白鯨の研究を続けます」

「立派だな」

「私の考えは、いけないことでしょうか?」

「立派だよ。混じり気のない、今ここで思ったとおりのことを口にしただけだ」

 それ以上の言葉は月並みな感想になりそうで、何もいえない。

「そういえば、父親がアブラハムで、君はサラというんだってな」

 メルヴィルが頭を上げ、小さくうなずく。

「ええ、私の愛称です。今は使う人もあまりいませんけど。キイチロウさんがいっていたように、白鯨づくしなんですよ」

 いつ、何の話だ。俺は何かをいったのか。

「初めて会った日にいったでしょう。アクシュネット、メルヴィル、マリア、エイハブ……どれも白鯨に出てくる名前だと。サラも同じです。白鯨の語り手であるイシュマイル、そのもととなった人物が聖書にいます。聖書のイシュマイルには、奴隷のハガルという実母がいました。ハガルの雇い主で、後にイシュマイルの義母となった者の名前がサラなのです」

 偶然ですけれど、と笑った。


 船倉の隅にある海水の蛇口をひねって桶に水をはり、手と顔を洗う。

 油とホコリが混じった黒い粘液を爪の間からかきだしながら、メルヴィルにたずねた。

「そろそろ、白鯨が知能を持っているかもしれないという明確な根拠について、話してくれてもいいんじゃないか?」

「そうですね。またいそがしくなると説明する時間がとれないので、ここで簡単に説明をさせてもらいます」

 うなずいたメルヴィルは、七年前の調査についての話を始めた。ほとんどの要点は平井からすでに聞いていたとおりの内容だったが、初耳なこともあった。

「父と出会った白鯨は、調査で用いていた無人探査機を口にくわえて、強引に持ち去っていきました。深海探査艇にマニピュレーターでしっかり固定されていたものを、引きちぎってまで。なぜだと思いますか?」

「獲物と思ったか。いいや、それならば口にしてすぐ食べられないとわかるだろうな。深海探査艇にケーブル繋がっていたのであれば、そもそも獲物に見えるかどうか。白鯨の気持ちなどわからない、というのが正直な俺の感想だ」

「そうですね。私たちにも最初は理解できませんでした。いえ、今だって理解しているとはいえません。しかし、無人探査機だけでなく、深海探査艇の内部にあった機器が持ち去られたことが原因としか思えない出来事が、私が怪我をする二ヶ月前に起きたのです。つまり今から三ヶ月前ですね」

「いくつか聞きたいことはあるが。とりあえず、出来事の中身を具体的に教えてくれ」

「はい、父の定型文で南極から通信がありました」

 メルヴィルが真面目くさった顔でいう。

「……すまないが、もう少しわかりやすく、かみ砕いて説明してくれないか」

「父は調査にさいして、地上との連絡をわかりやすく迅速に、かつ確実に行えるよう、あらかじめ定型文を決めていました。海洋調査だけで必要な文章は、さほど多くの種類があるわけではありませんから。その定型文のコードを組み合わせた電波通信が、南極大陸の特定地域から発せられたのです。コードを組み合わせて完成する、長い文章がみっつ。解読できた内容は、白鯨と人類の友好を求めるものと、知性ある存在として人類との接触を求めているかのように読める内容でした」

 エンジンが順調に動いていることを示す重低音が、船室にまで響いてくる。

 冗談かと思い、メルヴィルの顔を見つめる。本当に真面目くさった顔をしている。もしかして、メルヴィルという少女は嘘をつく時ほど表情が真面目に見えるのかもしれない、と思ってしまうほどだった。

「かのように……あいまいだな」

 うまく思考が回らず、それだけしか応答できなかった。

「定型文は調査に用いるテンプレートを並べているだけで、きちんとした文章を作ることには向いていませんから。いくつか余ったコードに、父が遊びでふりわけていた文章を組み合わせることができる程度です。そのため南極大陸からの通信は、かなり直接的かつ単純ないいまわしでした」

「白鯨がどうやって電子機器を組み立てて、コードを入力したというのだ?」

 鯨が両方の足鰭を使って一文字ずつキータッチしようとするが、関係ないキーを大量に押して、ついには壊してしまう。そんなバカバカしい光景が脳裏に思い浮かぶ。

「白鯨の全身像を確認した人はいません。かつてクジラは陸上で生活する哺乳類であり、退化した後ろ足の骨格も体内に存在しています。道具を使えるよう進化して、足鰭に再び指が生まれているかもしれません。あるいは舌やヒゲが変化して、道具をあつかえる腕に似た器官が生まれているかもしれません」

 正直にいえば、かなり苦しい説明に感じた。しかし確認できていない白鯨の姿にこだわっても話が進まないので、棚上げして別の質問に移った。

「深海探査艇内の機器を、本当に白鯨が持ち去ったのか?」

「後日の引き上げ調査でわかりました。電子機器を一括して制御するためのキーボードとコンピューター本体、調査内容を簡単に記したファイルが失われていました。前者はコードがちぎれないようていねいに抜いていたかのようで、後者は壁へ吊るしていた紐が強引に切断されていました。こちらは白鯨が持ち去る様子をカメラに映したわけではありませんが、深度から考えて人間のダイバーが秘密裏に持ち去ったとは考えにくいです」

「大きさの問題で、とうてい操縦席に入ることができるとは思えないが。たとえ鰭を手のように使ったとしても」

「探査艇の耐圧殻は沈没時に破損し、着底した時には本体との間で大きな亀裂が発生していました。その隙間に体を入れることが、全く不可能だとは思えません。また、事故当時に目撃された白鯨こそ巨大でしたが、それから一週間の間に操縦席へ侵入したのは、ずっと小さい種類だったという可能性もあります」

「コンピューターの大きさはどれくらいだ。その隙間をとおれるくらいなのか」

「携帯パソコンを流用したものでしたから、キーボードと一体の薄いものです。キイチロウさんが使っているパソコンの上位機種です。当時は最新型でした」

 それで俺の携帯パソコンに興味を持っていたのか。

「通信が発せられたのは、今では上陸どころか近づくことすら難しい、南極大陸タルシシュ半島の海岸線です。タルシシュ半島周辺は、知られている限りで最も白鯨が多く群れている海域で、無数の氷山が流れ、しかも海図に存在しない暗礁もあると予想されています。砕氷船であっても近づくことは不可能でしょう。激しい気流と濃霧のため、飛行機で上空から近づくことも難しい。自動的に通信文を発する機器を空中投下してもうまくいくとは限りません。投下するとしても、起伏の多い海岸線よりも広い平野を選ぶでしょう。何より、そこまでの努力と費用をかける意味が考えられません」

「それでも、白鯨を助けたいと思っている思想の狂信者がいて、捏造したという可能性は考えるべきだろう」

 口にしながら、すぐ説得力がないことに気づいた。

「……いや、その可能性はほとんどないか。あまりにも偽装工作の対象が小規模すぎるし、地味すぎる。不審な電波の発信に気づく者は少なくなくても、アクシュネットが七年も前に使っていたコードと気づいてもらわなければどうしようもない」

「いえ、キイチロウさんの疑問と留保は、どちらももっともだと思います。もちろんアクシュネットを騙すにしても、もっと効果の期待できる方法が無数にあるでしょう。同時に、私たちのように小規模かつ無名なのに、国連と関係を持つような組織であれば、数人の上層部を騙せば、費用対効果は大きい」

「自分で小規模というのか」

「事実ですから。実際にアクシュネット内部でも、捏造の可能性を危惧する声が少なくありませんでした。たとえ悪意ある存在の捏造ではなくても、組織として動くには根拠があいまいすぎると」

 そういえば平井も、白鯨の知性を信じていないといっていた。

「ですが、アクシュネットが七年前に使っていた通信手段を用いている何か、それも白鯨が密集している海域を抜け、タルシシュ半島まで接近できる能力を持つ存在が、南極にいることだけは確実です。重大な情報漏洩問題なのかもしれないという意見で反対派を説得し、いずれ調査をしなければならないということで方向性をかためました。そして私は一ヶ月前に調査捕鯨船へ同乗させてもらったのです。南極大陸に接近して作業する船の協力で、できるだけ問題の場所へ近づける海路についての情報を集めることが目的でした」

 そこでブルーの攻撃を受けたわけか。

「仮に偽装工作であっても、その偽装を行った者を探すことには意味がある、ということか」

 アクシュネットという団体としての行動としては納得できる。

 だが、俺がアクシュネットと契約したのは白鯨を追う力としてだ。謎の通信電波というだけでは興味もわかない。実際に調査して通信電波の正体が割れても、たとえばエイハブの偽装工作などであれば落胆しただろう。

 偽装工作なら、危険な調査を行わなくても、怪しい個人や団体をからめ手で調べるべきだ。ずっと安全で安価で、かけた手間に見あわないこともない。

 つまり、やはりメルヴィルは白鯨が通信電波を発したと信じているのだ。

「何にしても、その通信が白鯨から送られてきたという証拠が、せめて傍証がなければ話が続けられないな。アクシュネットしか使っていない定型文だとしても、それはつまりアブラハム博士しか使えないわけではないということだろう。組織というものは人が出入りするものだし、悪いが非政府組織の管理力が高いとは思えない。定型文を使った通信くらい、他にできる人は少なくないのではないのか」

「父は定型文のコードを言語学者の友人に協力してもらいながら、何度も改良していました。その学者はロゴス博士という通称で呼ばれ、父の死後もアクシュネットにたびたび協力し、支援活動を行ってくれていました。国連との関係もとりもってくれていたくらいです。もちろんロゴス博士は定型文の内容やプログラムも何度となく変更しています。七年前のコードを使える人はきわめて限られているのです」

「傍証となるのはわかったが、皆無ではない。それこそ可能性だけで比べるなら、白鯨が携帯パソコンを組み合わせて通信してきたというより、誰か人間が偽装したと考えるべきだろう」

「いいえ、きちんと説明していませんでしたが、第一次調査では白鯨を追うために特別な定型文が必要で、コードをいくつか組みなおしていたそうです。その後の調査でまた定型文を組みなおしていったので、その時にしか使われていないコードがあるようなのです」

「そういえば、たしか南極から送られた通信文はみっつあるといっていたな。まだ、ふたつまでしか内容を聞いていない。それなのか」

「はい、残りのひとつがその一度だけ使用されたコードのひとつです。意味する定型文が何かは、亡くなった父しか知らず、今となってはわかりません。それが逆に、今回の通信が当時に白鯨が奪った機材によるものでしかありえないと、高い確率で証明したわけです」

「そこまで証拠がそろっているなら、誰が通信を送ってきたのか不明でも、こだわる理由は納得できる。だが、たったみっつしかない文章で、ひとつが解読できないという状況は情報の欠落が大きすぎないか」

「そうですね。きちんと解読できていたなら、この航海も別の形になっていたと思います」

「そこで少しひっかかったのだが、君の父親以外にも、もう一人解読できそうな人がいるだろう。コード作成に協力していたという言語学者なら、意味する定型文についても知っていると思うのだが。念のために聞くが、そのロゴス博士には聞いてみたのか」

 メルヴィルは首を横にふった。

「聞いていないのか。いや、まさか思いつかなかったということはないだろうし、つまり……」

 話の行く末のまずさを途中で気づいて、俺は口をつぐんだ。

 七年もたてば、様々なことがらが変わる。いくつかの可能性を思い浮かべたが、どれも悲観的な内容にしかならなかった。

 しかしメルヴィルは苦笑する。

「いえ、だからこそ今ここで私たちは今回の計画で、ブルーとの接触をこころみているのですよ」

「……どういう意味だ」

「現在、ロゴス博士はブルーに参加しているのです」

 ……理解できない。どこがどうなればそういう状況になるのだ。

「ロゴス博士は一年ほど前、インド亜大陸の少数言語の調査中に失踪し、連絡がとれなくなりました。つとめていた大学には、その少し前に休職届けを出していたそうです。アクシュネットはもちろん、大学の同僚にも理由の見当がつきませんでした。失踪して一ヵ月後に、無事であること、失踪が自分の意思であることや、必ず帰ってくわしい説明をすることが手紙でとどいただけでした」

「ちょっと待ってくれ。君の父親と友人というだけでなく、ずっとアクシュネットに協力しているような人物なのだろう。そして仮にも君たちは真面目な海洋研究団体なのだろう。そのような人物が、正体もわからない、カルト宗教のような組織に、なぜ今さら所属するのだ?」

「答えにくい質問ですね」

「高名な学者でも失踪したり、偽の超能力を信じたり、神がかりになったりすることはあるだろう。しかし今ここで聞いた限りでは、それでも急すぎるというか……」

「いえ、先ほど説明したように、手紙には必ず帰るという文章がありました」

「それはそれで、わざわざ奇妙な団体に入る必要がわからないが」

「失踪した時にブルーへ入ったと知っていれば、私も同じ疑問を持っていたでしょう。ですが行方がわかったのは、一ヶ月前にブルーからの手紙が船に投げこまれた時です。そこにはロゴス博士本人の署名と、ブルーへ入った理由もしっかり書かれていました。行方と動機は同時に明らかになったのです」

「……なぜそういう大事な情報を先に説明しない」

 うまく聞けない俺自身も悪いにしても、いつも話の順序が滅茶苦茶だ。

「ロゴス博士がブルーへ入った動機そのものは、今回の計画に関係ありませんでしたから……ともかく、ブルーが投げ入れた手紙には、本文とは別に、ロゴス博士がブルーに入った理由、および今ごろになって伝える理由を大学の同僚へ伝える手紙も入っていました」

 メルヴィルに、強引に話を戻された。初めて会った時から感じているが、この少女には自分の思いだけでつっぱしるようなところがある。

「ロゴス博士の署名があればブルーの主張を少しでも聞いてもらえるという理由で、協力したそうです。この場合、なぜ自分がブルーにいるのかということを説明しないと拉致や脅迫で書かされたと疑われかねないので、きちんとした説明もつけておく、とも。その説明によると、海上での居場所を特定されやすくなるような連絡はさけたかったことと、そもそもブルーは通信手段をほとんど持っていないので、その時まで連絡しなかったということでした」

「手紙に署名をするということは、要するにブルーにいるという宣言だから、行方を隠す意味は根本からなくなるしな。それで結局、ブルーに入った理由は何だったのだ」

「以前にも説明したように、ブルーという組織は海上に本拠地を持っており、その正体が判然としておりません。生活実態は陸上にあるか、もしくは陸上から支援を受けているか。もし、そのどちらでもなく、本当に海上だけで活動しているならば、いわば新しい共同体というわけです。ブルーはどのような言語を使って組織を維持しているのか、どのような生活を営んでいるのか、そもそも組織が形成された歴史はどのような経緯なのか、そうしたことを内側に入りこんでまでロゴス博士は教えてもらおうとした、そういう説明が手紙に書かれていました」

「説明を聞いていると、うまくいえないが、言語学というのとは少し違うような気がする」

「ええ、どちらかといえば文化人類学的な興味でブルーに入ったそうです」

「しかしブルーはそれで受け入れたのか。秘密主義の団体ではなかったのか」

「どのように入ったのかまでは詳細な説明がなかったそうです。ともかく、ブルーの手紙には連絡方法についても書かれていました。ある時に特定の場所に行けば、ブルーの持つ小さな船が来て、文書を受け渡しするのだと。すでに一度目の接触は終わり、今回は二度目」

「そうか、それで。衝突して君が傷つけられた時が一度目か」

 口にしてからしまったと思ったが、メルヴィルは表情をくもらせることなく答えた。

「いいえ、衝突事故が起きた時は、指定された接触予定日ではありませんでした。全くの偶然と思います。一度目の接触を担当したのは別の船であり、アクシュネットは同乗していませんでした。今は一度目に教えられた連絡場所に向かっています」

 相手から指定されるままにふりまわされるメルヴィルの姿を思い浮かべた。

「まるで身代金誘拐犯の連絡手段だな。自分達の身を守りながら、情報を小出しにして利益をかすめとろうという連中が、よく使う手段だ」

「でも、誘拐という可能性は低いと思います。一度目の接触で文書を受けわたしに来たブルーの一員には、ロゴス博士もいたのです。しかも接触した艦船へ単身で乗りこんで来ました」

「……その時、君たちは南極からの通信について質問しなかったのか」

「接触したのは私たちではなく、ロゴス博士がつとめていた大学の学術研究船でしたから。南極からコードが送られたという情報を持つ者は乗っていなかったはずです」

 メルヴィルの説明によると、その学術研究船は、様々な海域に広がる微生物を採取したり、有毒な可能性がある物質の濃度を計測したり、大学の広報用にクリオネや熱帯魚を捕まえたり、解剖用の大きな神経節を取るためイカを捕獲したり、食用の可能性を研究するため深海魚を調理したりと、さまざまな学部で共同研究をおこなっている大型船らしい。

「手紙の文面ではロゴス博士が受けわたしに来る可能性がうかがえなかったため、準備してなかった研究船側はどう対処するべきか判断できず、ロゴス博士が求めるままに帰らせてしまったそうです。しかし少なくとも、誘拐だったのであれば、博士は保護を要求したでしょう」

「俺が今ここでいってもしかたがないが、来るかもしれないと予測はしておくべきだったな」

「はい、残念でした。ともかく、その一度目の接触でブルーへわたした文章には、ロゴス博士にあてて、南極大陸から来た通信についての情報と、その通信にあった解読不明コードの意味についての質問も入れさせてもらいました。今回の接触で会えないにしても、ロゴス博士からの返信はあるでしょう」

「しかし、何もせず返信を待つような余裕はない、と」

「そのとおりです。エイハブの動きは素早く、私たちには止める手段もありません。それだけ時間がせまっていながら、南氷洋の調査が成功する可能性は高くない。たったひとつの文章でも、会えば確実な解読が期待できるなら、試してみるべきでしょう」

「そこまではわかった。しかしロゴス博士に会った後、南極大陸から通信を送ってきたところに行くとして、どのような手段を考えているんだ」

 ジョン=フランクリン号のような中古トロール船では、どれだけ改造をほどこしたとしても南極大陸までたどりつくことは不可能だ。

「もちろん、目的地まで接近した後は、別の航行手段を用います」

 メルヴィルが無人探査機を回りこむように歩いていく。

「この無人探査機は自律型ですが、ケーブルや超音波を利用して操作することもできます。小型ですから暗礁の多い浅い海でも、細い海峡でも進めます。潜水することで氷山の下をくぐりぬけることも可能です」

「なるほど、無人探査機なら誰の命も危険にさらさないな。だが、ケーブルや超音波が届く距離には限度があるだろう。完全に自律行動ができるような、障害物のない大洋ではない。海上でなら遠くまで電波で操縦することもできるが」

 そのために海上航行に適した機体へ改造したのかもしれないと思い当たった。しかし、すぐに思い直す。

「だが、嵐や雷雲の多い今の南極大陸近くでは、海面へ浮上させて電波で操作することも困難だと思うが。流氷や暗礁だけでなく、電波障害もひどすぎる」

「白鯨からの通信が一度しか受信できていない原因でしょうね」

「少なくとも遠隔操作する母船は相当に接近しないといけない」

「今回この無人探査機は、有人で操作します。簡単にいえば機体へつかまりながら操縦し、暗礁や白鯨を避けて調査を行ってもらいます」

 フックは移動のためでなく人間がしがみつくためだというのか。

「……無茶すぎるな」

「もちろん何の装備もなしに行かせるつもりはありません」

 無人探査機を回りこんだメルヴィルは、ミイラが磔になっている壁を見上げた。

「この最新式のパワードウェーダーを着こんで南極大陸へ行ってもらいます。無人探査機は中古ですが、こちらのパワードウェーダーを入手するのには苦労しました」

 甲板での重労働を基本とするパワードウェーダーがここある意味を、俺はようやく知った。俺もメルヴィルの隣に歩みより、壁を見あげる。

「最新型か。頭部全体をおおうヘルメットと、目を保護する耐圧シールド。口もとの形状を見ると、空気を送りこむレギュレーターも内蔵しているか。ということは、短時間の潜水も可能ということだな。それに……指先までのびるライフジャケットのアタッチメント位置から考えて、上半身も外骨格でアシストする機能を持っているわけか」

「それだけではありません。外骨格を見てください」

 メルヴィルが指さした先に、それらしい機械は見当たらない。下半身と肋骨と脊椎だけを合わせた、パワードウェーダーの一般的な外骨格は別の壁に固定されている。全身をおおう最新型なので上半身の骨格と一体化しているのかとも思って目をこらしたが、人型をした外骨格も見当たらない。

「他の機種のように、人間の内部骨格だけがむきだしになっている姿ではありません。昆虫や蟹のように、体を防護するカバーと一体化しています。耐圧性や断熱性は比べものになりませんよ」

 その言葉を聞いて、ようやく格納室の片隅に、様々な荷物の陰に隠れて、それがあることに気づいた。

 ひざをかかえた巨人、その体表は目がさめるような青一色。

 なめらかなパーツが、パワードウェーダーの骨格でつながれて、なんとなく人らしい姿を形作っている。

「……二メートル以上はあるんじゃないか」

 床に座った状態なので正確な大きさはわからないが、明らかに俺の足には長さが合わない。多少の調節はできるだろうが、この船に乗っている者から選ぶなら平井が着るしかないだろう。

「キイチロウさんの足首が入るのはスネの途中までです。足首から先は、地形に合わせて機械的に靴底の形を変える機能がありますからね。何より歩行による人体への負担も減らさなければなりませんし」

「……俺が入るのか?」

 アシスト機能が上半身にまでついているからこそ、全身を動かせるようになるには時間がかかるだろうことは見当がつく。スキューバダイビングも資格こそ持っているが、水中経験時間が短いため、見たこともない器具に対応できるかはわからない。

 ……だが、操作の難しい機械こそ自分のものにできた時の喜びがある。無人潜航艇を平井とともにいじり続けて、俺はこういう機械が好きだという気持ちを思い出していた。

「計画書に記載しておいたはずですが……」

「悪い、まだ全て目を通していないんだ」

 俺の返事にメルヴィルはひとつため息をつき、苦笑しながら説明を始めた。

「キイチロウさんを呼んだのは、パワードウェーダーを着こんだまま漂流し、生還してみせた経験を買ってのことでもあるのです。嵐の上で浮かんでいられたことも奇跡ですし、途中で白鯨につかまったということでも、上半身の力だけでなく、下半身がしっかり作られていることを示しています」

「こんなものを着る仕事が、まさか俺に用意されているとは……」

 これまでのメルヴィルを思い返すと、俺が好きな作業形態を知りつつ準備をしたのかもしれないと思えてくる。その準備をしているならば、同時にメルヴィル自身の強引さで微妙に台無しにしていることになるが。

 しかし今となっては、仮に餌だとしても食いつく気になっている。

「南極大陸の、問題の通信が送られてきた場所まで、これを着用しての調査を願います。契約書で依頼した作業に、パワードウェーダーを着用しなければ行えない作業および調査を、きちんと書いておいたとおりです」

 俺はうなずいた。多少の危険は覚悟していた。だが、続けてメルヴィルがいったことはいささか予想外だった。

「もちろん、一人では行かせません。私もともに南極へ行きます」

「……見たところ、パワードウェーダーは一着しかないようだが」

「私は潜水服を着て、無人探査機にしがみつかせてもらいます」

「……それは無茶じゃない。無理だ」

 パワーアシストなしに振動に耐えられるのか。耐えられるとしても、潜水服の耐寒性能で南極行は可能なのか。機械に守られる俺とは危険度が比べものにならない。

「キイチロウさん一人を危険な目にあわせるつもりはありません。南極で何が起きているのか、この目で確かめるつもりです」

「一人で行くのももちろん危険だが、もう一人の命を背負いながら行くのはもっと危ない。俺にとってもだ」

「危険な旅になることは覚悟しています。ですからキイチロウさんは私を助けてください。この旅で、私は白鯨の正体を知らなければなりません。いえ、知ってみせます」

「アブラハム博士が遺した言葉の真意を知るためにか?」

 メルヴィルの瞳が、はっきりゆらいだ。そして口もとを閉じる。

「はい」

 問いかけを認める返事は短く、力強かった。

 この時に初めて、俺はメルヴィルを最後まで信じてもいいと思った。

「キイチロウさんには、ブルーと接触する日までに、パワードウェーダーを着た作業を慣熟してもらいます。時間はありませんが、やりとげてくれると信じています」

「……ああ、やるよ。やらせてもらう」

 少女の気持ちや、謎めいた通信についての話を聞かされ、ためらいや恐れる気持ちは消えうせていた。たどりつける場所がどこかはわからないが、ひさしぶりに動いてみたくなった。奇妙な電波とやらの正体を知りたくなった。

 メルヴィルの動機が個人的な感情であることは、契約した時の話と変わりない。しかし、傷つけられことへの憎悪ではなく、父を奪われたことへの悔恨でもなく、残された謎に決着をつけたいのであれば、俺と一致する。

「……あいつは、こういう話が本当に好きだったな」

 もし電波の正体を解き明かすことができたなら、日本へ帰ってから中浜の墓前に報告してやろう。あいつの実家に聞いた話だと、すでに死亡が認定されているはずだ。……そんなことを今から思う。

「そういえば、このパワードウェーダーの名前は何という。あるだろう、機種の名前とか愛称とか」

 以前に俺の使っていたパワードウェーダーは、クエビルコというブランド名だった。

「名前ですか。特別な名前はつけていませんが、開発した日本企業が考えた商品名なら聞いています。キイチロウさんの国の古い言葉で、海の水という意味だそうです」

「海の水……」

 なるほど青い。

「それを発音すると、ワタツミズ」

 ワタツミズ。

 口の中で転がすように発音し、かみしめる。

 わたつみという言葉は、海の神という意味があったはずだ。

 白鯨を追うにふさわしい、いい響きだと思った。

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