第26話

「あ……さ?」


 目を開けた時、セルリアは一瞬ここがどこだか分からなかった。

 ぼうっとする意識の中、何度も瞬きを繰り返しながら身を起こす。いつものようにスッキリと目覚めない。夢を見た気がするから、眠りが浅かったのだろう。


「あれ? 何で……」


 頬が濡れていた。何だか瞼も重い気がする。

 なぜ自分が泣いていたのか分からない。夢は悲しかったような気もするし、苦しかったようにも、気持ち悪かったようにも思う。


 たった一つ分かるのは、夢の終わりにとても温かくて、なつかしいあの青を見たような気がする。

 濡れた頬を拭い、擦ってしっかりしてきた目で、セルリアは枕元の時計を掴んだ。


 こんな朝でも自分には仕事がある。ロキの従者であることを忘れてはいけない。

 セルリアは朝食を作らなければ、と針の刺す数字を見た。




   ※ ※ ※ ※ ※




「きゃあぁぁ、嘘ぉ!」


 上階から聞こえた叫び声に、リビングでくつろいでいたロキはクッと笑った。


「おい。すげぇ焦ってるぞ」

「だろうね。セルリアは真面目だから」


 優雅に足を組むロキの向かい側で、こちらも我が物顔でソファに身を沈めるトールがいた。二人の前には昼間だというのに麦酒が置いてある。そう、昼なのだ。今は。

 叫び声が聞こえた三分後。階段を転がるようにセルリアが下りてきた。


「す、すみませんロキ様!」

「おそよう、セルリア。寝癖すごいよ」

「あわわ、直んない。って、トール様! ようこそ、じゃなくておはようございます。ち、ちが、おそようございます? あ、あれ?」

「お、おう。てか、落ち着け」


 自分でも何をやっているのか分かっていない彼女に、ロキは必死に笑いを耐えてソファに身を折った。トールもいつになく唖然として見上げている。


「セルリア。とりあえず昼食にしよう。これ、トールからの見舞いの品で猪の肉だって。で、嫌だけどそっちの薔薇がバルドルから。いらないなら燃やすけど?」

「い、いえ! ちゃんと飾らせていただきます。昼食はこのお肉で作りますね。ああ、トール様も食べて行ってくださいね。お騒がせいたしましたです!」


 きっとまだ、自分が何を言っているのか分かっていないだろう。羞恥に真っ赤になった顔を下げて、セルリアはバルドルから貰った薔薇の花束と肉を持って台所へ駆けていった。


「あそこまで謝らんでも。まだ体調も本調子じゃないんだろう?」


 トールが言っているのは、この間ミッドガルドで倒れたことだ。

 ロキ達の応急処置で命に別状はないが、あの時は医療の女神エイルが双子を見て慌てたほどで、数日、目も覚めなかった。


「だから余計にだよ。倒れて迷惑かけて仕事がとどこうって。挽回しようと思ってた時に寝坊なんてしたから、あそこまで慌ててるのさ。しかも寝起きをお客さんに見られたしね」

「はは、そりゃあ悪いことしたな。しっかし、いい子だよなぁ、セルリア」

「そのいい子を迎えに行く時、二時間も待たせる原因を作った奴が何を言うんだい?」

「忘れろ。お前の頭がもたなくなるぞ。てかあれはお前が俺をからかったのが……」

「忘れろ。でないとお前の……」


 パチンと指を鳴らしてロキは火を灯した。そしてにっこり綺麗な笑顔をトールに向けて。


「使ってない脳味噌が火を噴くぞ」

「……悪かったな。使ってないんじゃなくて、使い勝手が悪いんだよ」

「使い手が悪い、の間違いだろう?」


 一見刺々しい言葉のやり取りだが、互いに敵意を出しているわけではない。これがロキとトールの普段の会話だ。 ずっと、気も遠くなるほど遥か昔から。

 長いつき合いだからこそ、どれが冗談でどれが本気かぐらいすぐに分かる。

 その証拠に、ロキはもう炎を消して笑っているし、トールは憮然としているというよりも、どこか楽しそうな雰囲気だった。


「いや、でもホントにいい子だぞ。素直だし料理も美味いし、仕事もしっかりするし、何よりロキに仕えて笑っていられるなんて」

「コラ」

「しかもだ、女癖の悪いお前が、セルリアが来てから朝帰りしてないってのがビックリ」

「彼女に言ったら罰ゲームね。何度も焼かれるのとじわじわ焼かれるの、どっちがいい?」

「どっちも嫌だっつうの。言わねぇよ! 誓う、マジ誓うから!」


 ロキの煌びやかな笑顔と背後のオーラにはギャップがある。トールは慌てて首を振った。


「しかし、君がそこまで馬鹿褒めするのも久々だね。明日はラグナロクかな?」


 元来トールは単純で、すごいと思ったことは素直にそう言う。しかし、ここまでおもむろに褒めるのは本当に久しぶりだ。

 呆れたように手に頬を乗せて彼を見ると、トールはいつもより目や口を真ん丸く開いて固まっていた。


「何? 馬鹿っぽそうな顔がさらに馬鹿になってるよ」

「あ、ああいや。だって、お前が『それ』を洒落にすっとは思わなくてよ……」

「はぁ?」

「いや、だから……あ~……『ラグナロク』だよ。お前、昔っからその話題は避けてたろ?」


 言われて、今度はロキの方が目と口を開いて固まった。


(僕、今……洒落になんて使った?)


 まったく気に留めていなかったので、反応することさえ忘れてしまった。そんなロキを見て、ニィッとトールが笑う。


「やっぱ、セルリアはいい子だなぁ」


 嬉しそうにふんぞり返る彼に、ロキは決まり悪げに口元を押さえた。

 確かに昔、彼女と一緒にいた数時間は心が温かかったと思う。そう、ロキは昔、セルリアに会っているのだ。

 ロキにとってはまだ最近、十年ほど前のことだ。


 どうってことのない、たくさん怪我をした、ただの人間の少女。海を見る目がとても幸せそうで、けれど、その奥に漂う、ロキが抱えるものに似た雰囲気に誘われて声をかけた。

 気まぐれと暇つぶし。そんな意味で隣に座った。

 子供のくだらない話でも聞かされるかと思いきや、いきなり『泣きそうだよ』と頭をなでられてしまった。遥か年下の少女にだ。


 隠していたものを見透かされ、けれど心地良かった彼女との時間。

 結局ロキは夕暮れまでつき合った。慌てて立ち去ってしまった少女には名前も聞き忘れ、そのあとミッドガルドにもあまり降りなかったので、いつの間にか忘れていた。

 ただ、あの優しい空気をどこかで求めてはいたのだけれど。


(で、これまた暇つぶしで養成学校に行って、見つけっちゃったんだよね)


 早すぎる死を迎えていた彼女。またもや気まぐれだったのと、彼女がどういう成長をしているのか見たくなった。

 幸せとはいえない人生を送り、殺されたセルリア。しかし、まだあの優しさと温もりが彼女にはあった。

 それを見て、試したくなったのだ。


 彼女は人間。己は神。一度目の出会いは偶然で、二度目はないと思っていた。だというのに再び出会った自分達。偶然と呼ぶにはできすぎていて、運命と呼ぶには笑える再会。

 それでも出会ったのだ。ならば、彼女と自分の間には何かあるのかもしれない。何か、ロキの闇を軽くする術をセルリアは持っているのかもしれない。そう思った。


 だから従者にした。もしかしたらという思いはあった。それに試す間はきっと退屈しないから。

 最初は期待していたわけではない。人間は短い時間でうつろう者。彼女も昔とは違う。少し弄れば他の者達と同じですぐ離れて行くだろう、と諦めも持っていた。でも――


「予想以上の影響力ってやつ、かな……」

「いいじゃねぇの。お前、予想外な出来事も好きだろ?」


 ガッハッハ、と笑う親友に珍しく言い返せない。口を開けば言い訳めいたものが出てきそうで、それも釈然としないから、ロキは憮然としたまま台所を見ていた。


「でもなぁ。何か噂だが、あの双子ちょっと大変なんだろう?」

「ああ……まあね」


 倒れたことはすぐアースガルドにも広まった。女神方に可愛がられている二人でもあるから、意識が戻る間も見舞いや訪問は絶えなくてロキがキレたほどである。

 双子が抱えているのはおそらく『過去』と『殺されたこと』だろう。セロシアは特にそれが顕著だ。自分を殺した者達に仕返しすることで、何かを保とうとしている。


 セルリアは逆だ。思いを押さえ込むことによって忘れようとしている。過去も、殺されたということも。

 果たしてこのまま放っておくのがいいのか。それとも助けてやるべきなのか。

 セロシアの方はヘイムダルが何とかするだろうが、セルリアはハデスのことも含め、巻き込んだという負い目もある。


「まあ、その、何だな」


 思考の海に沈んでいくロキに気づき、トールは決まり悪そうに頭を掻いて口を開いた。


「結局、最後は自分で何とかするしかねぇんだろうけどよ。お前なら、アドバイスぐらいしてやれんじゃねぇの? それこそ悪知恵はたんまり持ってんだし」

「ちょっと、それどういう意味さ」

「悪い意味じゃねぇ。少なくともセルリアより長く生きてんだし、言えることあんだろ?」

「それは君にだって当てはまるじゃないか」

「馬鹿言え。俺にアドバイスなんて高尚な真似できるかよ!」

「…………ぶっ、あははは! 君、本当に馬鹿だ!」

「なっ、分かってるっつの! だからアドバイスなんてできねぇんだよ! 自覚してるんだから笑うんじゃねぇ!」


 怒鳴りながら否定するトールに、ロキは笑いの涙が止まらない。

 彼は全く気づいていない。今自分がロキにしていることが、アドバイス以外の何者でもないということに。


「ははっ、ごめんごめん。でも、アドバイスか。そうだね……やっぱ与えてもらうだけはダメだよね」

「何だって?」

「こっちの話。ほら、そろそろ食堂に行こう」


 そう言えば、トールは瞳を輝かせて立ち上がる。彼は何より食べて飲むことが好きだ。


 彼の後姿を見ながら、ロキは口に出さないものの少し感謝する。

 ロキ達は神だ。人間だった彼女より長い時を生きているし、多くの経験もしている。正解ではないがいくつか道を示すことはできる。

 そしてセルリアは馬鹿ではない。自分で選び、決めることができるはずだ。きっかけを与えてやればいい。


(それに、自分のことが片付かないと、こっちまで気を回してもらえそうにないしね)


 ロキは、自分で言うのもなんだが、たぶんセルリアを気に入っている。与えるだけでも与えられるだけでもない。こちらの気まぐれに付き合ってもらいながら、それでも楽しんで欲しい、と思うぐらいに。

 けれど、今のように余裕のないセルリアにそれは無理だろうから。


「僕って本当に傲慢だよね」


 トールに聞こえないほどの小さな声で言って苦笑する。

 結局は自分のためなのだ。だがそれが結果的に彼女のためにもなるなら、グダグダ考えずに動こうと思う。

 単細胞雷神が考えた方法に内緒の敬意を表しつつ、ロキはトールの背を叩いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る