第16話

 グルグルグルグル。ひたすら続く螺旋階段を上り続ける。一段一段が低いのと、幅が狭いので余計に足が疲れてしまう。


「ロキ様、まだですか?」

「もうちょっと。セルリアは体力ないなぁ」

「塔の上に行くなら、そこに転移してくだされば良かったじゃないですか!」

「運動しないと体が横に広がっちゃうよ」


 あははと笑って先を進むロキはとても軽やかに段を上っている。それもこれも彼が足に履いている靴のおかげだ。

 羽のついた靴。海も空もこれさえ履いていれば歩けるアイテムだ。無論、歩行時の足も軽い。


(ずるい……)


 そう思うけれど、ロキが言ったことも一理ある。死んでから体育の授業などはない。ちょっとした護身術などは受けたが、以前より体力は落ちている。

 セルリアは重くなった足に鞭打って、見え始めた出口をひたすら目指した。


「はい、到着~。お疲れ様でした」

「細くなるより、筋肉がつきそうです……」


 膝に手をついて息を整える。少し汗もかいたから、冷たい風が気持ち良かった。


「セルリア、見てごらん」


 言われて、セルリアは身を起こした。その目に飛び込んでくるのは、陽光と青空に包まれたアースガルドの姿。


「う……わぁ」


 塔の端に駆け寄って乗り出す。この塔自体が高い場所に立っているのか、そこからの眺めは素晴らしいものだった。

 青々と広がる広大な草原。遠くに見える山脈と光を反射する泉。その流れで大地を潤す幾本の川。小山の上で一際存在を主張する銀のヴァラスキャルヴ。

 初めて来た日の夜の美しさにも感動したが、日によって顕わになったこの世界は、まるで御伽話の中に迷い込んだようにも思える。


(実際、前は御伽話だと思っていた世界だし)


 そう考えて、苦笑が浮かんだ。


「どうやら、落ち着いたみたいだね」

「え?」


 同じく風を受けていたロキが、微笑を浮かべながら肩をすくめた。


「あそこにいると、気を張ったままでしょ」


 神は珍しいものが来るとすぐ寄ってくるしね。と頭の後ろで腕を組みながらロキは塔の端に座った。押したら落ちてしまうような所なのだが、彼は非常に安定している。


「気を使わせてしまったんですね……すみませんでした」

「また。言葉が違うんじゃない?」


 情けないな、と沈めば、この主は笑ってそう言う。変に慰めてもらうより、こういった言葉の方が安心できる。

 浮上した気持ちと一緒に、セルリアは笑った。


「はい、ありがとうございます。ロキ様」

「よろしい。ほら、あそこがヒミンビョルグだよ。ヘイムダルと、君の妹が住んでいる家さ」


 後ろを指されて振り向けば、この塔よりも高い場所に巨大な砦が見える。堅牢強固という言葉がふさわしい、いかにもな造り建物。

 セロシアが今暮らしている場所だ。


「すごい」

「ヘイムダルがいつも、あの近くの門でビフレストを見張っている。だから巨人は攻めて来れない」

「巨人?」

「僕の出身種族さ」

「え? ロキ様は神族じゃあ……」

「ん? セルリアはどこまで僕のことを知ってるんだい?」


 巨人には見えない彼の言葉に驚く。同じように驚いた彼に問われて、セルリアはロキに関しての知識を掘り返してみた。


「えっと……」


 考えてみて、自分はロキのことを何も知らないということに気づいた。どういった生まれなのか、家族はどこにいるのか、基本的なことすら何も知らないのだ。

 セルリアが困った顔をしたからか、ロキはピッと指を立てて歌うように話し始めた。


「僕は純粋な神族じゃなくて、元は巨人族。北欧神の天敵の生まれなんだよ。知らなかったんだね」

「は、い……あの、巨人には、見えませんけど……」


 確かに、ロキの身長は高いと思う。日本人女性としては標準身長のセルリアが、ロキと並ぶ時はかなり見上げなくてはならないのだから。

 しかし、彼よりもヘイムダルやトールの方が遥かに大きかった。『巨人』というイメージに合わない。


「そ、僕は巨人族じゃ異端でね。巨人族のくせにちっさいし、顔もこの通り超美形」

「自分で言いますか?」

「僕は謙遜しないタイプだから」


 ニッコリ微笑む顔は、確かにセルリアも綺麗だと思う。人間の世界ではきっとお目にかかれない、絵に描いたような美形だ。


「まあ、そんなわけで巨人族から弾かれてたんだよね。僕としては、『馬鹿じゃない』ぐらいにしか思ってなかったんだけど。そんな時、たまたまヨトゥンヘイムに来ていたオーディンに会ったんだ」


 北欧神の暮らすここをアースガルドと呼ぶように、巨人族の国はヨトゥンヘイム、人間の暮らす場所はミッドガルドと北欧神界では言うらしい。


「オーディンは異端の僕に興味を持った。僕もオーディンに興味を持った。だから、血の契りを交わして、義兄弟としてここにやって来たんだ。もう気も遠くなるような昔の話さ」

「じゃあ、今ロキ様には、神の血も、巨人族の血も流れているってことですか?」

「そうなるね。神としては、一応炎を司ってる。あともう一つ……『終焉』もらしいけど」

「え……?」


 吹く風が、冷気を増したような気がした。


「運命の三女神によれば、僕は『終焉』を司っている。だから、いずれ僕は神々を滅ぼすのかもしれない」


 それは、エルシーナから聞いた神話の中の終焉劇と同じ。彼がこの世界を――


「その顔を見ると、ラグナロクのことは聞いているようだね」


 にぃっと笑った顔は、からかっているのでも、楽しんでいるのでもない。あの青い目がとても暗くて、歪められた口元は怜悧だ。


「ぁっ……」


 この時、セルリアは初めて純粋にロキを怖いと思った。喉の奥が乾いて引きつる感覚。意味もない音だけが漏れた。

 そんなセルリアを見て、ロキは一度瞳を閉じる。次に開いた時、そこにはいつもと同じ明るい光が宿っていた。


「あらら、そんなに怖がるほどの名演技だったかな?」


 役者でも目指してみようか、といつものようにおちゃらけて彼は言う。その笑顔からは先程の冷たさが一切感じられない。


(演技……? あれが……本当に?)


 あの怜悧さも、瞳の暗さも、決して何かを演じたものではない。あれが『ロキではない』と思えない。


「……ロキ様は知ってるんですね。自分が、何て言われているか」

「そりゃそうさ。僕はミッドガルドにも行くし、この神界でもそういう噂はある。なかなか面白いよね。僕が全てを壊す邪神、なんて主役級の役柄を与えられてる」


 景色を見ながら、彼は本当に芝居をしているかのような大げさな身振りをつける。その視線の先を追っていけば、一つの巨木に辿り着いた。

 ずいぶん遠くて霞んでいるけれど、肉眼でハッキリ見える大樹。


「ユグドラシル。アースガルド、北欧神界系列の世界。そして人間の住む現界の一部を支える樹」


 現界では見えないし触れない。それでもあれは一部を支えているのだという。

 この北欧神界の、シンボルともいえる樹だ。


「あれを壊せば、ここや北欧神界に通じる世界は崩れ去る。もちろんミッドガルドの一部も。僕は炎の魔法が得意だし。確かに燃やそうと思えば燃やせるのかもしれないね」

「でも、ロキ様はオーディン様の……」

「オーディンはいい奴だと思うし、面白いけど……でも、義兄弟だから彼のために何でも投げ出すか、って聞かれるとね~」


 カラカラ笑いながら言い切るロキは、どこか軽薄にも見える。

 こういったところも含めて、ロキがラグナロクを起こす者、と言われたのだろうか。

 主神たるオーディンのことを最上としない、神になりきれていないロキだから。


「ロキ様は、嫌じゃないですか? ここにずっと住んでて、他の神様とも仲良くて。なのに、それを破壊する者だなんて言われて……それを皆が知ってるなんて……」


 誰しも、隠しておきたいことや知られたくないことぐらいあるだろう。まして、それが疑われたり、邪険にされたりしてしまうような内容のものなら、なおさら辛いはずだ。


 ロキはこちらを向き、真っ直ぐにセルリアを見つめた。やはり彼の青い目は、あのなつかしい海の色に似ている。


「君は、醜いものが嫌いなのかな。憎しみ、怒り、妬み。そういったものが嫌いのなの?」

「え? あ、えっと……あの」

「それとも……」


 フッと微笑んだ彼は、とても優しい顔だった。けれどその奥に見えるのは、悲しみ? 哀れみ? 自責? その全てのような、違うような。歓迎会で見た、迷子の子供のような顔。


「それを自分が持っていると、知られるのが怖い?」

「っ!」


 セルリアは咄嗟に顔を背ける。言葉に反応したのか、ロキの顔をこれ以上見ていられなかったのか、自分でも分からなかった。

 ただ、胸が痛い。

 ほんの一瞬の沈黙が、酷く長かった。


「……風が冷たくなってきたね。帰ろうか。今日の夕食は和風パスタがいいな」

「は……はい……」


 どうしてだろう。階段を上っていた時以上に、足が重かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る