第22話 赤い鞄の中身

 夜月は、寺の駐車場に車を停めると、近くの生活用品店で買ってきた品々を持って、またあの山奥の広場に向かった。

 背負ったリュックの中には、縄梯子と登山用の丈夫なロープ、ナイフ、軍手、強力な手持ち用の懐中電灯が二つに、もしもの時の為に土を掘れるように小型の鍬、あとは、腰と頭にベルトで装着できるライトがそれぞれ一つずつ入っていた。

 この時、夜月は、父親と千冬が彼を追って来ているのを知らなかった。

 息せき切って階段を駆け上がり、境内を通って獣道を抜け、再びさっきの草の生い繁った広場に戻った。

 そこにぽっかりと開いた穴をもう一度覗き込み、彼は覚悟を決めた。迷っていても仕方がない。もう時間はあまり残されていない。

 夜月はまず、ロープの一端をすぐ側にあった木の根元にしっかりと括り付けて、もう一方を縄梯子に結んだ。縄梯子を引っ張って、それがきちんと木に固定されていることを確認してから、それを穴の中に垂らした。頭と腰に電灯を装着し、ロープの余りを使って、残りの物をリュックサックごと穴の底に降ろした。

 いよいよ穴の中に降りるという段になって、夜月は自分がその穴の中へ入って行く事にひどく怯えていることに気が付いた。もしかしたら、降りたすぐそこに赤い鞄が置いてあるかもしれないが、しかし、その可能性は極めて少ないように思えた。人類の秘薬が、そんなにも簡単に手に入るとは思えなかった。

 夜月は思い切って、縄梯子をゆっくりと降り始めた。

 穴の底に着き、頭上の空を見上げた。穴の中から丸く覗く空はまるで、暗黒の空に真っ青な月が浮かんでいるように見えた。

 上から見た通り、側面には横穴が通っていて、それはずっと奥まで伸びていた。夜月は頭の電灯を点けて、奥の方を照らしてみた。穴はかなり深い所まで続いていて、さらには、具合の悪いことに、その先で折れ曲がっているようだった。今からこの穴を這いずって進んで行かなくてはならないのかと思うとうんざりした。穴が狭いため、リュックを背負っていく事は出来ない。

 軍手をはめて、手持ちの懐中電灯の一つと小型の鍬を両手に持ち、もう一度穴の奥を覗き見た。

 ごくりと唾を呑み込む。恐怖の為か、足ががくがくと震えている。呼吸も少しばかり荒い。

 夜月は勇気を振り絞って、地面に身体を伏せ、その穴を前進し始めた。空が見えなくなるのが寂しかった。

 穴をいくらか進むと、外の光りは完全に途絶えて、明かりは持ってきた三つのライトだけになった。ライトは光りの筋の先は良く照らしてくれるのだが、夜月が進めば進んだ分だけ、その後ろは直ちに暗くなっていく。夜月は、自分の腰から下が真っ暗になってゆくことに不安を覚えた。

 穴は、人一人がやっと這って進んで行ける程度。予想していた以上に狭い。

 その圧迫感には強烈なものがあった。進もうが進むまいが、その狭い真っ暗な穴の中にいると思うだけで、背筋が薄ら寒くなって、ともすれば、身体が全く動かなくなる。全身が前に進むのを嫌がっている。

 穴の奥からは、寒々しい空気が流れ出してきていて、それはまるで、死者を誘う死神の吐息のよう。

 ライトの先に不気味な虫や小動物が一瞬でも映し出されると、その度に彼らは光りから飛び退いて、また暗がりに姿を隠してしまう。夜月は、自分が気味の悪い虫や小動物の住処に迷い込んで、彼らに全身を取り囲まれているというような錯覚に陥った。光りの当たっていない空間の全てが、虫や醜悪な生き物で埋められていると想像するのは、あまりにおぞまし過ぎた。

 這いずりながら穴を進み、先程入口でカーブを確認した地点に突き当たった。そこで夜月は、今更ながら思った。進んで来たはいいが、この後どうやって戻るのだろうか? 穴がこのまま終点まで狭いままで、身体の向きを入れ替えるスペースが無いとしたら、今の体勢のままで戻らなければならないことになる。足の方から逆に戻っていけるかどうか、夜月には正直言って自信が持てなかった。それにまた、進む先を確認できない足の方からバックするのは、感覚的にも嫌なものがあった。

 彼は、左側に続いている穴をライトで照らした。その穴の先は、また右に曲がっており、開けた場所に出る様子はない。それにまた、身体を入れ替えられるようなスペースも見当たらなかった。

 身体をくの字に曲げて、夜月はその角を曲がった。

 中は凍えるほど寒いにも拘わらず、額からは汗水が滴り落ちた。

 次の角を曲がり切った時点で、夜月の恐怖は最高潮に達した。

 叫び出したくなるほどの恐ろしさに、全身がガタガタと震える。映画の恐怖シーンを見て、身体が竦み上がる瞬間が、ずっと間断無く続いているような最悪の感じ。さらに、ここでは、背筋に走るその悪寒を落ち着かせようと、背中を壁にぴったりと引っ付けても、何の安心感の足しにもならない。その背中の壁にだって、どんな気味の悪い生物が潜んでいるか知れたものではないからだ。

 恐怖に歯ががちがちと鳴り、少しばかり涙も出てきた。

 その場で立往生したまま、夜月は、すこぶる引き返したくなった。

 しかし、この状況ではすでに、満足に引き返すこともままならなかった。夜月は、自分がまんまとはめられてしまったような気分になってきた。

 本当に、この先に赤い鞄なんてあるのか?

 あいつらは俺に嘘を吐いているんじゃないのか?

 夜月は、ここは自分が一杯食わされたものとして、それを、穴を引き返す理由にしてしまいたかった。しかしながら、今更後戻りしたいとも、また思えなかった。

 勇気を絞り出すのに苦労した。どうしても身体が動いてくれない。

 ふと、夜月の脳裏には、千冬の顔が浮かんだ。

 今頃、彼女は病院のベッドに寝て、自分の帰りを待ってくれている。自分が赤い鞄を持って帰らなければ、千冬はこんな所よりも、もっと暗い場所に行ってしまう。

 千冬を思うことで、彼は少しだけ勇気を取り戻し、お腹の下に力を込めて、怯える身体を無理矢理押さえ込みながら、また先を目指し始めた。

 両腕を必死に動かして、ほふく前進の要領でずるずると身体を引きずって進む。身体を左右に振って進む自分の様を思って、夜月はまるで、自分が蛇にでもなって、ここの怪しげな住人達の仲間入りをしているかのような気分になった。

 今、地震でも起こって土砂崩れが起きれば、それで夜月は一巻の終わり。直接自分に土や岩が降ってこなくとも、入口がほんの少し埋まるだけでいい。それだけで、夜月の命は穴に生き埋めにされたまま、呆気なく終わってしまう。

 不老不死の薬を取りに行く為に、命を賭けているという事が、彼にはなんとなく滑稽に思えた。死ななくなる為の薬を手に入れる為に、ややもすれば、彼は死に向かっているのだ。

 それにしても、光りが全く無いというのは、こんなにも暗いものなのかと思う。ここに比べれば、夜の闇など全然たいしたものではない。夜には、月を太陽だと思ってもいいぐらいの充分な明るさがある。ここは真っ暗だ。頭と腰と右手のライトを消せば、全く何も見えなくなってしまう。完璧な闇というものが、実際、ここまで恐ろしく迫ってくるものだとは思いもよらなかった。

 ――千冬の心の暗闇も、これと同じぐらい暗いのかも知れない。

 夜月はそう思って、哀切極まりない気持ちになった。

 更に、彼は進む。

 また角を曲がって、もう一つ先の角を曲がった所で、その先を見て彼は絶句した。

 下ってる……!

 そこから先は、下り坂になっていた。坂の勾配はそれほど急ではないが、それでも、恐らく後ろ向きに戻ることはほとんど無理だと言ってもいい程度には傾斜が付いている。下りた先に開けた場所が無く、下で身体を入れ替えることが出来なければ、ほぼ間違いなく自分は死ぬだろう。ライトで照らしてみても、その先もまた平坦な穴しか見えず、下ったその先には、本当に死が待っているかもしれなかった。今まで出会ってきた彼らの言うことを頭から信じて、赤い鞄などという迷信じみたものを探してこの穴を下りて行ってしまってもいいものだろうか。そう思った。

 自分がこんなにも寂しくて暗い穴の中で、人知れず死んでしまったなら、千冬は、いつまでも帰ってこない自分の事をどう思うだろうか。捨てられたのだとか、そんな風に思ったりはしないだろうか。

 夜月はあまりの恐怖に、ついに泣き出してしまった。

 それでも、彼は前に進むしかなかった。

 病院で待ってくれている千冬の為に。愛する千冬の為に。

 泣きながら、夜月はその坂を下りる。 

 夜月の頭の中には、今までに彼が知り得た、数知れない千冬の辛い思い出がフラッシュバックしてきて、いつしか彼は、穴を進むごとに、まるで千冬の心の闇の中に下りて行っているような気持ちになっていた。

 暗闇を進んだその先には、さらに暗い闇が待っている――。

 夜月は、千冬の抱えていた本当の心の暗闇を、ほんの少しだけ実感として分かり得たような気がした。

 ――ちゆ、お前はこんなにも暗い闇を抱え込んでいたのか?

 俺は、お前のことを充分に分かってやっていたつもりだった。でも、もしも自分がこんなにも強烈な暗闇を心の中に持っていたなら、俺だって生きていたくないと思ったかもしれない。切実に死を願ったかもしれない。こんな恐怖には、とてもではないが耐えられない。何度も死を覚悟してきたお前の気持ちが、手首を切る直前のお前の心の震えが、今やっと俺にも解る。よくもこんな辛い思いに耐えていたな、ちゆ。よく今まで生きてこられたな。苦しかったな、頑張ったな、ちゆ……。 

 ちゆ!

 彼の涙は、やがて千冬を想う熱い涙に変わった。

 ちゆ、今すぐお前の元に帰りたい。お前に会いたい。お前の事を強く抱きしめてやりたい。

 彼は必死で這い進んだ。もはや、恐怖は去っていた。今、夜月は千冬のことしか考えられなかった。彼女の為に、赤い鞄を手に入れて帰ることしか考えていなかった。

 坂を下り切ると、その先にはさらに穴が続いていたが、光りのすぐ先には、待望の広い空間らしきものが見えた。

 やった。広い場所へ出た。

 夜月は急いでその先へ進み、とうとう開けた場所にたどり着いた。

 彼はようやくそこで、穴に入ってから初めて立ち上がることが出来た。

 鍾乳洞の様相を呈したその場所は、天井からつらら状の隆起が幾つも垂れ下がっており、懐中電灯の光りで照らすと、それらはきらきらと輝きを反射して美しかった。幻想的なその空間に、彼は一瞬だけ安堵の息を吐いた。

 ライトで照らして、辺りの様子を窺う。

 光りが右奥の少し窪んだ辺りを照らした時、それは見つかった。

 ――赤い鞄!

 それは、まさしく『赤い鞄』だった。

 その赤い鞄を、恐る恐る手に取ってみる。ライトで照らしながら、間近でそれを良く見てみた。 

 もう少し古びれたものかと想像していたのだが、表面はつるつると光沢があり、どこか真新しい感じがした。鍵などは一切付いておらず、上部に付いていた止め金を外すと、ぱちんと小気味よい音を立てて鞄は開いた。

 中には、桐かなにかで作られていると思われる上等そうな木箱が入っていた。それを取り出して、蓋を開けてみると、中には沢山の緑色の丸薬が入っていた。

 これが……。

 不老不死の人間が現実に存在しているのはこの目で確かめたのだから、これがおそらく不老不死の薬なのであろうことは間違いのないところではあったが、夜月には、自分が今、そんな途轍もないものを手にしているということが信じられない気がした。

 彼は、木箱を再び赤い鞄の中に大事にしまい、それを持って、急いで元来たルートを戻り始めた。

 帰りは、比較的楽だった。赤い鞄を手に入れたという昂揚感と、すでに勝手の知れた道が、彼を恐怖から遠ざけてくれた。

 やっとのことで、赤い鞄を手に入れることが出来た。これで、千冬も助かるかもしれない。やれるだけのことはやった。けれど、この後にまだ、もう一仕事残っている。あとは、それを上手くやり遂げられるかどうかだ。

 来た時の倍程のスピードで穴を戻って、ようやく視界の先に外の光りが見えてきた時には、さすがにほっとするものがあった。

 夜月は遂に、赤い鞄を手にして、元の場所に戻ってきた。頭上には、つい先程と同じように、真っ青な空の月が見える。

 喜び勇んで縄梯子にしがみつき、夢中になってそれを登った。穴から首を外に出して、爽やかな風が頬に触れた時、夜月は心の底から本当に安心することが出来た。

 穴の縁に腕をかけ、上半身を持ち上げようとした丁度その時、彼の背後から、拍手の音が聞こえてきた。

 夜月は、びくっと身体を震わせて、その体勢のまま、ゆっくりと後ろを振り返った。

 そこには……千冬と、恐らく彼女の父親であろう男の姿があった。

 夜月には一瞬、何がどうなっているのか判らなかった。

 何故、あの男がここに居るんだ?

 しかも、ちゆを連れて!

 その、しつこく鳴り止まない嫌味な拍手の音を聞きながら、夜月は急いで穴の外へ這い出した。

「いやあ、お見事お見事。君が今右手に持っているのは、あの噂の赤い鞄だよねえ、井本夜月君? 私の為に、ここまでそれを運んできてくれて、どうもありがとう。君は本当に、実に素晴らしい青年だね。上にはちょっぴり、愚かなって言葉が付くかもしれないけどね。初めまして、私が千冬の父親です。この馬鹿娘の父親です。どうしたんだい、井本君? そんなに驚いた顔をして。はははっ……。そりゃあそうか、突然そんなことを言われても、君だって困るよね。でもね、愛する売女の父親に会ったんだから、君も挨拶ぐらいはしたらどうなんだい? それが礼儀ってもんだろ? それとも、君は子供過ぎて、そんな礼儀も知らないのかな? はははっ」

 酒か煙草で喉をやられているのだろうか、そのぎすぎすした耳障りな父親の笑い声が、辺りの木々にこだまする。掠れて軋んだ彼の声は、その嫌味な程のわざとらしい丁重なしゃべり方と相まって、聞いているだけでも不快感でいっぱいになり、夜月の背筋には虫酸が走った。

 突然の事態に、夜月は言葉を上手く見付けることが出来なかった。その間に、父親の方は勝ち誇ったように饒舌にしゃべり続けた。

「井本君、幸せとは一体何なんだい? 私に教えてくれよ。この馬鹿娘と君が夫婦になるのだとしたら、君にとっても父親になる筈のこの私にね。まあ、この屑は、もうじき自分で死んでしまうだろうから、それは叶わなぬ夢ってことになるんだろうけど。ははははっ……。君は、見つけたんだろう? その、幸せってやつを。赤い鞄の中に入っている幸せとは、一体何なんだい? 君は知っているのかな? 赤い鞄の中には、何か幸せになれるものが入っているんだ。あっ、もちろんこの言い伝えは知ってるよね。だって、君はこの町の人間なんだから。私はね、この町の人間じゃないけど、でも、その中に何が入っているのか知っているよ」

 夜月は驚愕の目で相手を見た。

 知ってる? この赤い鞄の中身を!

「ははははっ。驚いたかい? お父さんは何でも知ってるんだよ。愛する我が子のことなら何だってね。当然だろ? そんなことはね」

 夜月は、気色ばんで父親に向かって言った。

「なら、中に入ってるものが何なのか言ってみろよ!」

 自分でも、声が上擦っているのが分かった。

「おやおや、声が震えているじゃないか。可哀想に。私のことが怖いのかい? そんなことはないよね。自分のお父さんなんだから。まあ、君の挨拶無しの無礼は許すとして、その質問に答えてあげよう」

「何が入ってるっていうんだ!」

 焦りが声に出る。

「あーあ。そんな口の聞き方でいいのかなあ? でもまあ、教えてあげるよ」

 父親は、余裕たっぷりといった表情で、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら、もったいぶるようにして夜月に言った。

「その鞄の中には、不老不死の薬が入っている。そうだろ? お父さん、正解しちゃっただろう?」

 何故、知ってるんだ……?

 夜月は顔をしかめた。

「はははっ。いい表情をするね、君は。さてと、これから楽しいショーの始まりだ。君も一緒に楽しもうじゃないか。ところで、君はもうその薬を飲んだのかな?」

「……まだだが、それがどうした」

「そうかそうか。ますます君はいい子だね。さあ、狂宴の始まりだ。これから君に、この馬鹿娘の自殺ショーを見せてあげよう」

 夜月は眉を顰めた。

 何だって……?

「こんなにも出来の悪い娘を育ててしまったことを、私はとても後悔しているんだよ。君はね、君の愛する者がこれから目の前で、しかも自分から死んでいくのを、そこでゆっくりと見ているといい」

 夜月は一歩足を前に踏み出した。

「おっと、そこでストップだ!」

 父親は態度を急変させて、さっきから手に持っていた飛び出しナイフの刃を出し、それを素早い動作で千冬の首に押し当てた。その拍子に、千冬の首の皮膚が少しだけ切れて、そこからじわりと血が滲んだ。

 それを見て、父親が言う。

「あーあ、君が変な動きをするから、この子の首が切れちゃったじゃないか。しょうがないなあ。君はそこから一歩も動いてはいけない。これはルールだ。ルールは守らなければならない。さてと、この下らないショーを見る前に、その赤い鞄をこっちへ投げてもらおうか。君が中のものを今すぐに飲んでしまえば、すぐにこいつをこの場で殺すし、別の他の変な動きをしても、やっぱりこいつを殺すからな。まあ、どっちにしたってこいつは結局死んでしまうんだがな。自分で死ぬか、俺に殺されるかだけの違いだ。死ぬことには全く変わりはない。ほらっ、早く投げろ!」

 絶望的な状況だった。

 今、父親の方に向かって走り出せば、父親は彼の言葉通り、すぐさま千冬を殺すだろう。彼は千冬のことを虫けらぐらいにしか思っていない。以前から彼女にそう聞かされてはいたが、まさかこれ程とは。自分の娘の命さえもどうなってもいいなんて、こいつは、本当に狂ってる。

 夜月には全く打つ手が無かった。どうしたものか悩みあぐねながら、しばらく身動きが取れなかった。

 そこへ、父親が本性を露にして、夜月に怒鳴りかかった。

「何やってるんだ! 早く投げろ! こいつを殺されたいのか!」

 夜月は仕方なく、赤い鞄を父親の方に向かって放り投げた。

 そうするより他になかった。

「おい、千冬。それを拾って中を開けろ」

 父親は千冬の背中にナイフを押し当てたまま、彼女に赤い鞄を拾わせた。千冬が、一瞬悲しそうな顔をして夜月の顔を見てから、赤い鞄を拾った。緩慢な動作で鞄を開けて、中に入っていた木箱を父親に渡した。父親はその箱の蓋を開け、中の緑色の丸薬を確認した。

「これが、不老不死の薬か!」

 父親は再び千冬の首にナイフをあてがって、その丸薬をしげしげと眺めた。

「そうかそうか……」

 父親は、満足げに夜月の顔を見た。

「こいつを飲んで、永遠の力を手に入れながら、俺とお前で一緒にこの淫売女の自殺ショーを楽しもうじゃないか。こいつが死ぬところを見ながら、俺は、こいつとは逆に永遠の命を手に入れてやる。素晴らしい。素晴らし過ぎる……」

 父親はそう言ってから、丸薬を一粒手に取って、ぱくりと口の中に放り込んだ。

「……ん? 何も起こらないじゃないか。……そうか、効いてくるまでには少し時間が掛かるんだろうな。それも当然だな。それじゃあ、少し早いが、その間にこいつのショーを始めるとしようか」

 薬が細胞を変化させて、人体にその作用を及ぼすまでには、確かに少し時間が掛かる。夜月は誠一にそれを聞いて知っていた。しかし、だとしても、後どのくらいで薬は効き始めるのだろうか?

 父親は薬を飲んで満足したのか、それまでの紳士ぶった演技を完全に止め、荒々しく千冬の背中を押して、彼女を地面に突き倒した。そして、千冬の手首に巻かれていた包帯を思い切り引っ張ってはぎ取った。

 父親は、夜月の顔を見てにやりと笑った。

「断っておくが、お前はそこで見ているしかない! お前が変な動きをしたら、すぐに俺がこの手でこいつを殺してやるからな! いいな!」

 彼はそう夜月に念押しした。

 それから父親は、持っていた飛び出しナイフを、しゃがみ込んだ千冬の右手に握らせて、そして、千冬の耳元でこう囁いた。

「早く死ね!」

 すぐに父親は後ろに下がり、抵抗されて刺し返されないだけの距離を取った。彼はあとは、千冬が自殺するのを見ながら、そのまま薬が効いてくるのを待っていれば良かった。

 一方、夜月は動けなかった。夜月と父親とでは、父親の方が圧倒的に千冬に近かった。夜月が先に走り出したとしても、簡単に父親に先を越されて、千冬は無惨にも殺されてしまうだろう。

 夜月の最後の望み――。

 それは、千冬の魂。

 夜月との絆。彼を信じる心。

 夜月は後は、千冬自身の生きる力に賭けるしかなかった。千冬がナイフを持ってこちらに走り出せば、父親の不老不死を止めるには間に合わないかもしれないが、少なくとも彼女は助かる。

 しかし、夜月のそんな気持ちとは裏腹に、千冬にはもう、夜月が彼女に望んでいる、その、生きる気力を失ってしまっていた。彼女の頭には、もはや死ぬことしかなかった。早くこの世から自分という存在を消し去ってしまいたいという願望しか持ちえていなかった。目の前に夜月がいる事は充分に分かっていたが、もう彼に助けて欲しいなどとは思わなかった。

 父親の絶望的な言葉の数々によって、彼女の心は隅々までぼろぼろにされ、完全に破壊し尽くされてしまっていた。彼女は、もはや夜月に救いを求めることをやめ、生きる事を放棄してしまっていた。

 父親に手渡されたナイフが、彼女には浄化の道具に映る。

 父親に言われた通り、千冬はナイフを手首に持っていく。

 夜月は、その場を動けない。

 父親は、千冬の後ろで不快な笑みを浮かべている。

 夜月はもう、千冬に向かって叫ぶしかなかった。彼女が死んでしまわないように、彼女が遠くへ行ってしまわないように、彼女の心に向かって叫び掛けるしかなかった。

 事態は逼迫していて、夜月の心臓は異常なぐらいに早鐘を打っていた。

 頼む、ちゆ!

 死なないでくれ――!

 夜月は、千冬に向かって心の限り叫んだ。

「死ぬな、ちゆ! こっちへ戻ってこい! ナイフを放せ! 死んじゃ駄目だ! 俺の元へ帰ってこい! ちゆ、帰ってこい!」

 千冬は震える手で、ナイフを白く細いその左手首に当てた。

 夜月が叫んでいる声が聞こえた。

 彼女は顔を上げて、夜月の顔を見た。彼は顔を真っ赤にして、必死に自分に向かって何かを呼び掛けていた。

 ……夜月、もうあたしなんかの為に、そんなに必死な顔をしなくてもいいんだよ。もういいの、夜月。今まであたしの為に沢山のことをしてくれて本当にありがとう。

 夜月、ありがと……。

 夜月の言葉は虚しく空を切り、千冬の心には届かない。

「はははっ、わははははっ」 

 父親が二人のその様子を、心底おかしそうに笑っている。

 夜月は、更に大声で叫ぶ。

「ちゆ、止めろ! 止めてくれ! 俺と一緒に生きてくれ! 死ぬな! 死なないでくれ、ちゆ! 俺から離れていかないでくれ! 死んじゃ駄目だ! 死ぬな、ちゆ!」

 聞こえない。

 彼女には届かない。

 千冬は、ナイフを手にしたまま夜月に笑いかける……。

 ――!

 夜月はその笑顔を見て、生まれて初めて心の底から絶望した。

 千冬の笑顔は、死に逝く者がその直前に見せる、あの安らかな微笑みと同じだった。

 夜月は、千冬が今から本気で死ぬつもりでいるのを悟った。

 父親は、それを見てげらげらと笑い続けている。

 千冬は、ふっと弛緩した表情になった。

 視線が手元を追う。

 そして、彼女は口元で小さく呟いた。

「さよなら、夜月……」

 夜月は、千冬の唇が動いたのを見て、今彼女が自分に最期の別れを告げたのを知った。

 千冬が、息を少し吸い込んで、今まさに力を込めてナイフを引こうとしたその瞬間、夜月が叫んだ。

「ちゆ、嫌だ――!」

 千冬はそれを聞き取って、一旦力を込めかけた右手を、ぴくりと震わせて止めた。

 ……?

 突如、夜月の今の言葉が千冬の頭の中で彷徨う。

 ……。

 ……『嫌』?

 嫌だ?

 嫌って、何? 嫌ってどういうこと? あたしがこうすることが嫌なの? 夜月……嫌なの? あたしが死ぬことが嫌なの? 夜月は、あたしが死んで嬉しくないの? 嫌なの?

 千冬は手首から目を離した。そして、ゆっくりと夜月の方を見た。

 彼は涙で顔をぐしょぐしょにして、子供のように泣き叫んでいた。それは、千冬が初めて見る夜月だった。いつも優しくて、自分の事を大きく包み込んでくれていた理性的な夜月ではなかった。彼は、まるで子供がだだをこねるようにして、取り乱して泣き叫んでいた。

「ちゆ、嫌だ! 嫌だ、嫌だ、嫌だ――! ちゆが死んだら嫌だ!ちゆが居なくなったら、俺も居なくなる! ちゆがこの世から消えてしまうなら、俺も一緒に死ぬ! 俺はちゆが居ないと駄目だ! ちゆが居ないこの世に意味なんて無い! ちゆが死んだら嫌だ! 駄目だ! 嫌なんだ! 駄目だ、嫌だ、嫌だ! 駄目だ、嫌だ! 嫌だ――! わああああっ! ちゆ、ちゆ、ちゆ、ちゆ……!」

 それはもう、滅茶苦茶だった。夜月は、恥も外聞もなく、ただただ泣き喚いていた。あの、いつも自分の事を優しく支え、しっかりと受けとめてくれていた理知的な彼だとはとても思えないような夜月がそこにはいた。

 嫌だ……?

 『駄目だ』じゃなくって、『嫌だ』……?

 どの人もみんな、あたしにはいつもこう言った。

 意味も理由も無いのに、あたしが苦しいって言ってるのに、ただ「生きていろ」と。あたしにそんなことを言う、その人自身は、別にあたしの事を助けてくれる訳でも何でもないのに。何の責任も持たずに、無意味にただ生きていろと言った。死んでは『駄目』なのだと、みんなあたしにそう命じた。

 でも、夜月……『嫌だ』って? 嫌って何? どういう意味? あたしが死んだら嫌なの? 夜月が嫌なの? 死ぬことが駄目なんじゃなくて、夜月自身が悲しいから嫌なの? そんなに取り乱して、子供みたいに喚き立てるぐらいに、あたしが死ぬのが嫌なの? 夜月はあたしに生きていて欲しいの? あたしを必要としてくれるの? 心から必要としてくれるの?

 こんなあたしなんかのことを、本当に心の底から……。

 千冬の目に涙が溢れた。

 それは、千冬が生まれて初めて流すような、柔らかで温かい涙だった。

 夜月の叫びは、今やっと千冬の心に届いた。

 彼のその悲痛な叫び声は、今もまだずっと続いていた。千冬は、夜月のそんな姿をとても恰好悪いと思ったが、けれど、その叫び声をずっと聞いていたいような気がした。自分がこの世に何を欲しがっていたのか、今ようやく理解した。

 夜月が、彼女の欲しいものをくれた。

 夜月の泣き喚くその様子はみっともないものだったが、それでも、千冬にとっては、それがひどく胸に心地良かった。

幼い頃からずっと掛かっていた濃い靄が、千冬の心の暗闇が、今やっと晴れる……。

 千冬は視線を落として、自分の両手を見た。左手首には、今までに自分で付けてきた沢山の傷跡があって、その中には一際目立って、縫合したばっかりの生々しい大きな傷もあり、右手には、誰のだか分からない飛び出しナイフが握られていた。

 あれ? あたし……こんな所で、何やってるんだろ? あれ? あんな所に夜月が居る。夜月、泣いてるの? そういえば、夜月ってば、さっきから泣いてなかったっけ? あんな夜月、変なの。ふふっ、子供みたい。変な夜月……。何? 寒い。身体中が寒い。何、この恰好!? あたし、どうしてこんなに寒い恰好してるの? なんだか頭もくらくらしてる。寒い。全身に寒気がする。あたし……あたしは、生きてる。あたしは生きている! 

 生きたい! 夜月と一緒に生きたい! もっともっと夜月と一緒に生きていたい!

 美味しいものが食べたい。

 綺麗なものが見たい。

 面白い本を読みたい。

 いい映画を見たい。

 料理を作りたい。

 運動したい。

 多くの人と出会いたい。

 みんなと楽しく過ごしたい。

 遊園地に行きたい。

 いろんな所に旅行に行きたい。

 行きたい。

 もっと生きたい。

 もっともっと生きていたい。

 そして……夜月といっぱい愛し合いたい!

 夜月――。

 千冬はナイフを手から落とした。

 それを見て、夜月は驚いて泣くのをやめた。

 千冬は、夜月が泣き止むのを見て、それをほんの少しだけ残念に思った。もうちょっとだけ、夜月の泣き喚く姿を見ていたいような気がした。

 夜月は、自分の叫び声が千冬に届くとは思わなかった。千冬があのまま自殺してしまうのだと思った。彼は絶望に打ちひしがれていた。千冬は自分を置いて、どこか遠くへ行ってしまうのだと思っていた。

 だが、彼の叫び声は千冬の胸に届いた。

 父親は笑うのを止め、愕然として目を見開いた。

 今まで一度だって、千冬が自分の言いなりにならなかったことなどなかった。それに、彼女の心は彼の言葉によって、もはやずたずたに切り裂かれていた筈だった。千冬が死ぬのを止めて、生きる希望を持つことなどということは、もう有り得ないことだった。彼には、千冬が自殺をやめたことが信じられなかった。

 夜月は、千冬がナイフを落としたのを見て、瞬間的に彼女に向かって駆け出していた。

 あの父親よりも先にナイフを拾えば、今なら千冬は完全に助かる。

「ちゆ!」

 夜月は叫んだ。千冬の後ろからは、父親が迫っていた。

 彼は赤い顔をして、自分の思い通りにならなかった事に対して、猛烈に怒り狂っていた。

 この、馬鹿娘が! 殺してやる! お前を殺してやる!

 最後の最後まで俺を苛々させやがって!

 一瞬にして、三人の距離が詰まる。

 夜月が走る。

 父親が千冬に襲いかかる。

 千冬はその緊迫した状況に身体が竦んでしまって、ナイフを拾えばいいのだという夜月の叫び声の意味が良く分からない。

 スタート地点は圧倒的に夜月の方が不利だったのだが、彼が素早く走り出したのと、その他にもう一つ、千冬の身体が邪魔をしてナイフが拾い難かったという点が、父親に不利に働いた。

「どけ!」

 父親が千冬の首根っこを乱暴に掴み、千冬を横になぎ倒した。

 千冬が倒れて、父親の目にはナイフが飛び込んできた。彼は飛び掛かるようにして、必死にそのナイフに手を伸ばした。そのまま、その手にナイフを拾い上げることが出来る筈だった。

 しかし、視界には突然夜月の手が飛び込んできて、その手が、彼の手の下に潜り込んできた。

 全ては、タイミングだった。

 ナイフを拾ったのは、幸いにして、先にスタートを切った夜月が一瞬早かった。

 夜月と父親は、ナイフに飛び付いた時の体勢を立て直す為に、互いに急いで立ち上がった。

 薬の効き目には、時間差がある。

 すぐさま、夜月はナイフを両手に持って、素早い動きで父親の胸に突進した。

 ――どすん!

 ナイフを握った夜月の両の拳が、父親の胸にぶつかって、肉感的な音をさせたのと、薬が父親に作用して、全身の細胞の組成を変容させ、彼を不老不死の身体に仕立て上げて、その証として父親の身体が一瞬青白く光ったのとが、ほぼ同時だった。

 夜月と父親は中腰の姿勢のまま、顔と顔を突き合わす形となって、一瞬静止した。夜月の手は、父親の胸のちょうど心臓の位置にあり、夜月が間に合っていれば、そこで父親の息の根を止められている筈だった。

 しかし……。

 二人は、倒れていた千冬のちょうど真上辺りで対峙していた。

 そして、千冬の位置からは、二人のその状況を下方から良く見ることが出来た。

 千冬はそれを見て、思わず息を呑み、両手で口を押さえた。

 なんてこと!

 ナイフを両手で握った夜月の手首の辺りから、飛び出しナイフの刃先が見えていた。

 つまりは、夜月はナイフを逆手に持ってしまっていた。

 夜月は、父親を刺すのに失敗したのだった。 

 父親はすぐに、実は自分の胸にはナイフが突き立てられていないことを知り、眼前にあった夜月の顔に向かってニヤリと笑いかけた。

「ふふふっ……。ふはっ、ふはははっ……」

 夜月は慌てて、そのまま腕を使って父親を押し倒し、すぐに千冬を抱き起こして後方へ引きずって行き、父親と距離を取らせた。そうして、夜月は千冬の前で、彼女を守るようにしてナイフを構え、鋭い視線で相手を睨み据えた。

 父親は、ゆっくりと起き上がり、両腕を広げて左右の手を見比べるようにしながら言った。

「全身に力がみなぎっているぞ! 薬が効いたのが、今完全に分かる! 俺が不老不死の身体を手に入れたのだということが、感覚的にはっきりと分かるぞ!」

 そう言いながら、父親は自分の身体が本当に不老不死になったのかどうか試すために、地面から先の尖った石を拾って、それで自分の手の甲を切りつけた。

 シュッ……。

 すぱっと切れた父親の手の甲の傷口は、夜月が誠一に見せてもらったのと同じ様に、みるみる内に治っていった。

「ふふっ、ふはは……ふははははっ。俺は不死身だ! 俺は神の力を手に入れたんだ! 俺は神になったんだ! この力で世界中を支配してやるぞ! 下等な人間共を支配してやる! わはは、わははははっ……」

 それを見て、夜月は手に持っていた飛び出しナイフの刃をパチンと仕舞った。

「くくくっ……」

 夜月の口からは、小さな笑い声が漏れ出る。

 夜月は、少し俯いて僅かに肩を揺らしながら笑っていた。

 勝利を確信した父親は、余裕たっぷりに夜月に向かって言った。

「どうした? 自分の馬鹿さ加減に呆れ返ったか? それとも、あまりの大失態をやらかして、頭がおかしくなったか?」

 夜月のその笑い声はどんどんと大きくなってきて、とうとう彼はお腹を抱えて笑い出した。

「くくくっ……。ははっ……はははっ。あははははっ……」

 千冬は、この最悪の状況で、夜月が馬鹿みたいに笑い出したのを見て、真っ青な顔をして身体を硬直させた。

「こいつ……気が触れやがった。千冬、こいつはもう駄目だ。俺に全てを横取りされて、頭がおかしくなりやがった。それよりも、いま俺の身体が青白く光ったのを見たか? 俺はとうとう不老不死の身体を手に入れたんだ。不死身になったんだぞ。やはり俺は凄い。何の苦労もせずに、簡単に神の力を手に入れてしまったんだからな。この俺の賢い頭脳の勝利だ。俺は、全ての人間どもを遥かに凌駕したんだ! 俺は不老不死なんだ!」

 笑い疲れたのか、夜月の笑い声は段々と治まってきた。それでもまだ笑い続けながら、夜月は手に持っていた飛び出しナイフをズボンのポケットにしまった。

 やがて、夜月は完全に落ち着いて、最後にもう一度だけ、満足げに長く息を吐き出した。

 それから、父親の顔を見て不敵な笑みを浮かべた。

「くくくっ……満足か? あんたはそれで満足したか?」

「何だ、お前は? 何を言ってるんだ? 満足に決まってるだろう」

「そうかな……? 本当にそうなのかな?」

 夜月の様子が少しおかしいので、父親の顔からは笑みが消えた。

「何だ? お前は何が言いたいんだ?」

「ん……?」

 夜月は、笑みを崩さない。

「俺がまだ不老不死じゃないとでも言うのか? それとも、この薬には他にまだ何か、俺の知らない秘密でもあるのか?」

「いや……あんたのお陰で、その薬が本物であることが良く分かったよ。いや、本当にあんたのお陰でな。そうだよ。あんたの言う通りだ。あんたはもう不老不死だよ。もう、死ななくなったんだ」

「なら、何だ? 他に何が言いたいんだ? お前はさっきから一体何を笑ってるんだ?」

「おかしいからだよ。決まってるだろ? あんたが愚か過ぎるから笑ってるんだよ」

「たった今、神の力を手に入れた俺の、一体どこが愚かなんだ。馬鹿はお前だ! へまやって、俺を不老不死にしてしまったんだからな。俺を神にしたのはお前だ。愚かなのはお前の方だ!」

 夜月の顔が不敵に歪む。

「くくくっ……。いくら俺が、二十四歳の若僧だからって、いくらあの時、俺が焦ってたからって、間違ってナイフを逆さに持ったりすると思うか?」

 夜月のその言葉を聞いて、父親は眉を顰めた。

「まったく、上手くいったよ。思ってたよりもずっとな。あんたはもう死なないんだ」

「そうだ。だから何なんだ? 俺は不死身になったんだ」

「あんたはもう、死ねないんだよ……」

「だから、お前はさっきから何を言ってるんだ? 俺に何が言いたい!」

「まだ分からないのか? あんたはもう死ねないんだよ。何をやってもね。これから先、ずーっと生きていかなくてはならないんだ。たとえどんなことがあってもな。それが一体、どういうことを意味しているのか、あんたにはまだ分からないのか? 不老不死の身体になった今でも……。でも、そうかもしれないな。あんたみたいに強欲でどうしようもない人間には、分かるはずもないか。千冬を痛めつけて、彼女の心に闇を植え付け、それで、今まで幸せに生きる事の意味なんて全く考えてこなかっただろうあんたなんかにはな」

「何? どういう意味だ?」

「――『死というものが内包している逆説』、それにあんたは気付かなかったのか?」

 夜月は、後ろに居た千冬の側に付き従うようにしゃがみ込み、優しく彼女の背中を撫でた。そして、ゆっくりと話し始めた。 

「不老不死は、確かに人類の夢だった。過去の歴史上の偉大なる人物の、誰もが欲しがったと言われている不老不死の薬。いつの時代でも、いくつもの童話やおとぎ話の題材にされ続けてきた不老不死の薬。それは、人類の求め続けてきた奇跡の薬だ。世界各国の幾多の国王、皇帝、王侯貴族達のみんながこぞって、死ぬまでそれを探し求め続けて、そして願い叶わずに死んでいった。そんな大それた薬を、あんたは何の考えもなしに簡単に手に入れてしまったんだ」

「そうだ。馬鹿なお前のお陰でな」

「あんたは、今それを飲んで、不老不死の身体を手に入れた。だが、それでこの後、あんたは一体何をどうするんだ? 死なない身体になって、あんたはこれから何がしたいんだ?」

「世界を支配しれくれる!」

「はははっ。あんたにそんな力は無い。不死身になったからって、世界を思い通りに出来る訳じゃない。あんたはただ、死ななくなったってだけだ。スーパーマンのような超人的な力を手に入れた訳でもなく、ましてや、神になった訳でもない。あたかも神になったかのような気分が、あんたにそんな気を起こさせるのかもしれないが、それならあんた、具体的にはどうやって世界を支配していくんだ?今のあんたにそんな力があると思うのか? 何かいい方法を思い付くのか? ……すぐには思い付かないだろ? いや、その前に、良く考えてみれば分かることなんだが、不死身になったからって、世界を支配したり、または、人々を畏怖させたりするような力が備わる訳じゃないんだよ。あんたが不老不死だからって、誰もあんたの足元にかしづいたりはしないし、それ所か、誰かを脅すことすらも出来ないんだ。大統領でも脅して、それで国家を支配していくといったような絵空事を思い描いていたのかもしれないが、大統領一人脅したぐらいで、国家の支配なんか成立しない。なんとなれば国家は、大統領一人ぐらいが犠牲になっても全然困らないし、いざ本当にそんな状況になったら、みんなは実際に、大統領を見捨てて、簡単に事を終わらせるだろう。お前は、大統領一人を殺して、刑務所に収監され、それで終わりだ。空を飛んだり、脅威的な怪力を持っていたりといったような超人的な力でもなければ、いずれ、国家の脅威になることなんて叶わないんだよ。死ななくなっただけで、何でも思い通りに出来るだなんて、あんたはとんだお笑い草だ」

「ぐっ……」

「ピストルで撃たれれば、痛いし血も出る。腕を切り落とされたりした場合は、話しによるとすぐに引っ付くか、もしくはそのまま放っておけば、すぐにまた生え伸びてくるらしいが、それでもその時は、普通の人間と同じように痛みがある。頭を殴られれば気を失うし、夜になれば眠くもなる。回復力が異常に早いってだけで、あとは普通の人と何も変わらない。さすがに、風邪なんかは抗体とかの関係で全く引かないらしいがな。でも、所詮はそんな程度だ。あんたは別に進化した訳でも、人間の頂点に立った訳でも何でもなく、ましてや、世界を支配する力なんかも全く無い。まあ、なれるとしたらせいぜいが、有能な暗殺者ぐらいのものだ。不死身のあんたは、それこそ最高の殺戮マシーンになれるかもしれないな。でも、それも裏でこそこそやってたらって話しだ。あんたの存在が明るみに出た途端、あんたは世界中の人間から追われることになる。いくら不死身だからって、人類という大きな種に一斉に飛び掛かられたりしたら、ひとたまりもないだろう。あんたは世界を支配したり、いや、それどころか、不老不死になったことで、ほんの些細な何かを思い通りにさせたりすることすら出来ないんだ。だとしたら、あんたはこれから何をどうしていくんだ?」

 父親は、夜月の話しの内容に少しだけ怯む。

「んっ……。それでも、俺はお前達が見ることの出来ない、何百年もの先の未来を見ることが出来るぞ。それは、紛れもなく人類を遥かに超越した力だ。違うか?」

「それは確かにそうかもな。ずっと生き続けて、遥か遠い先の未来を見ることは出来るだろう。何百年も馬鹿みたいに生き続けた後でな。だがな、だからといって、あんたはこの先、それで満足に生きていられるのかな? ずっと遠くの未来を見てみたいという願望は、誰しもが持っているものだ。しかし、その未来を見て、あんたはそれで幸せになれるのかな? もっと具体的に言ってやろうか……。人類は、ここ数年で、驚くべき進歩を遂げてきた。あんたは、あんたが幼かった頃を原点として考えてみれば、今現在で、まあ、五十年後ぐらい先の未来は見ることが出来たことになる。でも、あんたは今のこの世界を見られたからって、たった今、充足した気持ちでいっぱいか? ああ、いま俺は満足だな、なんて思うことが出来るか? 何年も生きて、ずっと先の未来を見ることが出来たところで、実際の所は、今あんたが感じている程度のものなんだ。今この瞬間に、タイムマシンにでも乗って未来へ行くことが出来れば、その体験はあんたの知識欲を満たしてくれるだろうが、でも、それすらも、知ってしまえばそれまでのこと。未来の世界がどういうものだか見てみたいというのは、単なる知的欲求であって、幸せなんかとは何の結び付きもないんだよ。宇宙の果てが知りたいとか、謎の生物を見てみたいとか、そういったような事と同じようなものなんだ。知ったら知ったで、ああそうかと思うだけだ。生き続けて未来を見ることが出来たからって、人はそれほど満足する訳じゃないのさ。あんたにも分かるだろ?」

「それは……」

「まあ、今言ったような事でさえも、ほんとはどうでもいいことなんだ。そんなことなんかよりも、もっとさらに重要なことをあんたに聞こう……。あんたは今まで、幸せに生きてこられたか? 今まで生きてきて楽しかったか? どうだ……? これは推測だが、あんたは、不満だらけの毎日を送っていたんじゃないのか? だからこそ、千冬をいたぶって、千冬を不幸のどん底に陥れることで、自分の気持ちを紛らわせてきたんじゃないのか? もっとも、あんたに人の闇が見えるだなんてことはないだろうから、千冬を痛めつけてきたことに対して、罪の意識なんかは全く無いんだろうがな。あんたには、自分が何か大変な事をしてしまったのだというような感覚が無いのだろう。それに、本当に人の闇を見ることが出来る人間なんて、ほんの一部の人でしかないんだから、あんたなんかには到底理解の及ばない事さ……。俺は、あんたが今まで満足に生きてきていないことを知っている。千冬にあれだけひどい事をしてきたのが、その確かな証拠だ。あんたは今までずっと、不満を抱き続けながら過ごしてきた。そうやって苛々して生きるのは、あんたの性格でもあり、あんたの生き方なんだ。この先、長く生きられたからって、あんたが満足して暮らしていけるなんてことは恐らくまずないだろう。あんたもそう思わないか?」

「だが、俺は不死身の体を手に入れたんだ……」

 父親の声は、どんどんと弱々しくなってきていた。

「それで? だからどうだっていうんだ?」

「……」 

「あんたは不老不死になった。だからといって、あんたは今からすぐに、どこへ行って、何がしたい? 何をしていたらあんたは幸せなんだ? 仕事はしなくても良くなるかもな。食べなくても死なないんだからな。でもな、普通にお腹は空くぞ。あんたはその欲求を満たす為に、これからも食べていかなければならない。どこかで真っ当にお金を稼ぎ、この社会の枠組みの中で生きていかなくてはならない。……あと、不老不死は全然自慢にはならない。あんたが不老不死だからって、誰もあんたを拝め奉ったりしないぞ。あんたが不老不死だと知れたら、周りの人間からは気味悪がられて、果ては人体実験の材料にされるのがオチだ」

 夜月は淡々としゃべり続けた。千冬は、そんな夜月の横顔を見た。

 顔中泥まみれで、土と汗に汚れた夜月の顔は、この世に、事の真理を伝えにやって来た精悍な堕天使のように見えた。

「死が内包している逆説。死が持っている本当の意味。それは――『死が人を幸せにする』という事実なんだ」

 今や父親は、完全に押し黙ってしまっていた。

「その先に死があるからこそ、人はどうにか生きていけるんだ。人は死を恐れる。死を忌み嫌う。誰かが死ねば嘆き悲しむし、どうしてもっと生きていてくれないのか、どうして人は死んでしまうのかと呪う。人は何故、生まれ落ちたその瞬間から、必ず死神のお迎えがやってくるという宿命を背負わされているのかと。だがな……それでいいんだよ。人は死ななければならない。その先に、必ず終わりが待ってくれているからこそ、人は、生ある時を頑張って、命を燃やすことが出来るんだ。死という終わりに向かってひた走ることで、人の命は輝くんだよ……」

 夜月は、千冬の髪をそっと撫でた。

「永久に死ねないとして、その先に死が待っていないとしたら、人は、一体どうなってしまうんだろうな? それでやる気が出るだろうか? 生き続けようと思うだろうか? 何かを頑張って生きていこうと、果たして思えるのだろうか? 誰かに死が訪れる度に、誰もが、どうして人は死んでしまうんだろうと嘆息を漏らす。だが、そうやって、いずれは死んでしまうのだという終わりがあるからこそ、人は命を懸命に燃やすことが出来るんだよ。……当面、しばらくの間は、あんたは女を抱いて酒を飲んで、好き勝手に遊んで暮らせるかもしれないな。けれど、それにもいずれは飽きがくるだろう。人はな、実は、どこまでいっても満足しない生き物なんだ。……人の欲望には果てがない。あれとこれとが揃ったから、それで満足、そんな状態には永久にならない。結婚相手、金、家、地位、家族。そういったものをなんとなく手に入れて、大抵はそれなりの所で納得して、そうして、死期を向かえた時に、ある程度の満足感を持って死んでいくものなんだ。だが、だからこそ人は、咲いてはまたすぐに散ってしまう花の様に、明るく輝くことが出来るんだがな」

 辺りはしんと静まり返っていた。

 夜月は一息吐いて、視線を少し落とした。

「家を買った、一つあればもう一つ別荘なんかも欲しい。旅行へ行った、また別の所へ行きたい。何かを食べた、他の何かも食べたい。何かを知った、他の何かも知りたい……。人間の欲望には限りが無く、どこまでも際限無く求め続けるものなんだ。……例を挙げてみようか。ここに大好きなCDが一枚だけあったとして、あんたは一生その一枚のCDだけを聴き続けて、満足していられるかな。ひと月も経たない内に、すぐに飽きてしまうんじゃないのか。他の曲も聴いてみたいと思うんじゃないのか。他にも、例えばここに、すごく大好きな本が一冊だけあったとして、あんたはその一冊だけを一生何回も読み続けて、果たして満足していられるかな。いくら好きだからって、いくらそれが面白いからって、その本一冊だけではとてもじゃないが満足できないんじゃないのか。また別の本が読みたいと思う筈だ。そうだろ? これらの事は、その量を増やしてみても、また同様の事が言える。ここに百枚のCDがあった。ここに百冊の本があった。そう仮定してみても同じだ。いずれはそれらにも飽きがくる。何千枚あろうが、何万冊あろうが、どこまでいっても同じ事……。確かに、久し振りに聴いたり読んだりした時には、その懐かしさから、少しは同じものを楽しむことが出来るかもしれない。けれども、過去に一度体験してしまったという時点で既に、そのもの自体からは新鮮さは無くなってしまっているんだよ。また、同じものを何度でも楽しめるという場合もあるにはあるが、それらが既知であることには変わりがない。人は、ある物事を一度体験すると、それに対しては、実はすぐに飽きてしまっているんだ。……これから言えることはな、あんたはどこまでいっても永遠に満足出来ないという事実だ。生きている限り、永久に違うCDを聞きたいと思うだろうし、永久に違う本が読みたいと思うだろう。もっともっと、ずっともっと。その欲望には際限も果ても無い。それが、人間なんだよ。……しかし、だからこそ、欲望に限りが無いからこそ、どこかで踏ん切りってやつをつけなくてはならないんだ。ある程度の所で見切りを付けることで、死に際を向かえた時に、ああこれで満足だな、と思えるんだ。死が永遠に訪れなくて、ずっと永久に何でも見られるし、何でも知ることが出来るとなったら、逆に、大して何かを見たいとも知りたいとも思わなくなるだろう。死がお迎えにやってきてくれなければ、人はやる気が失せてしまうんだよ。命が燃えないんだ。それが、死が内包している逆説の意味なんだよ」

 父親は、徐々に夜月の話しを理解し始めてきた。段々と表情が険しくなる。

 夜月は、さらにしゃべり続ける。

「人が求める最高のものとは何か? 赤い鞄の中身として求めていたものとは? 人が求める幸せとは一体何なのか? それは、地位や名声なんかではなく、お金や、または、美味しい物を食べたり、綺麗なものを見たりすることなんかでもないんだ。人間の最高の幸せとは……恐らくは、『愛情』なんだよ。人は、『愛する者の気持ち』が欲しいんだ。それこそが、人が探し求めてやまないものなんだよ。今なら、俺にはそれが分かる。……千冬はな、本当は、お前の愛情が欲しかった。お前なんかの醜い人間の愛情がな。お前はどうしようもない人間なのに、千冬の親があんただったばっかりに、千冬はあんたに愛情を求めるしかなくなってしまったんだ。子供は親に愛情を求め、自分が親になるその時まで、いや、そうなってからでさえもずっと、それを追い求め続ける。千冬もまた、お前の愛情を求めた。だが、お前はそれを与えないどころか、逆に、千冬に虐待を繰り返し、身体は元より、心を深く傷付けた。人の心の暗闇が見えないお前なんかと一つ屋根の下で、千冬が一体どんな気持ちで過ごしていたのか、あんたなんかには永久に分かるまい。子供は親に愛されたい。愛してもらいたい。親に自分のことを必要としてもらいたい……。だが、千冬みたいに、不幸にもそれを貰うことの出来なかった子供は、心の中に深い暗闇を抱え込むことになる。やがて、成長してから、自分の中にある暗闇にはたと気が付いて、それを持て余し、どうすればいいのか分からずに、悩み苦しむ。何故、自分は愛してもらえなかったのだろうか。どうして自分は親に必要としてもらえなかったのだろうかと。一度その小さな胸に、大きな暗闇を抱え込んでしまえばそれで終わり。もはや、その子は一生その暗闇からは逃れられない。千冬がそうだったようにな。……そして、その暗闇は、その子から生きる気力を奪い去り、命の燃やし方を忘れさせる。その子は、なぜ自分は生きているのだろうか? なんてことをひどく考え込むようになり、大人になるにつれて、生きているという当たり前のことすら、重荷に感じるようになってしまうんだ……。もしも仮に、いつかどこかで、誰かがその子に愛情を与えようとしてくれたとしても、その子は既に、誰からの愛情も信じられなくなってしまっている。親に愛されず、深く病んでしまった人間は、たとえ誰からであろうとも、相手の愛情を信じられなくなってしまうんだよ。そうして、実際にはそんなことは決してありはしないのに、その子は、自分なんかは誰からも愛してはもらえない、自分なんかは誰からも必要としてもらえないと、無条件にそう思い込み、自分のことが堪らなく嫌いになる。『やあ、おめでとう。弱い魂の出来上がり』って訳だ。人は、闇を抱えてしまった時点で、闇に取り付かれてしまった時点で、一生その暗闇と付き合って生きていかなくてはならないんだ。そんな大きな暗闇を子供に背負わせることが、一体誰に許されているんだろうな?」

 千冬は、自分が泣いているのを知らなかった。

 夜月の言葉の一つ一つが、自分の心の襞に入ってくる。

 弱り切っていた魂が、夜月の言葉で癒えていくのが分かる……。

 自分を分かってくれる者。

 自分を護ってくれる者。

 ――自分を愛してくれる者。

「だからといって、赤い鞄の中に、絶対的な媚薬が入っていればいいってもんでもない。人が求めているのは、相手からの真実の愛情なんだ。薬なんかで操作された紛い物の心なんて、全然欲しくはないのさ。相手が、自らの自然な心で自分のことを望んでくれてこそ、初めて人は喜びを得られるんだからな。例えば、あんたにこの先、永久に続くような最高の恋愛なんかも有り得ない。あんたがそれだけの甲斐性があるいい男なのかどうかは別として、もし仮に、あんたにこれ以上無いというぐらいの生涯の伴侶が見つかったとしよう。けれども、その人と暮らせるのは、あんたにとってはほんの僅かな時間でしかない。相手はいずれは死んでしまうんだからな。……まあ、本当の愛を知っている人間同士が、二人揃って不老不死になれば、ずっと一緒に幸せに暮らす、なんてことも可能なのかもしれないが、それにしたって、永久に死ねないというのは、さっき言ったみたいな理由から、苦痛以外の何ものでもない。……この先、生き続けることで、あんたは何事にもすぐに飽きがくるのを知るだろう。果ての無い人間の欲望のせいでな。それに絡み取られた上に、死のお迎えにもきてもらえないあんたは、永久に満足感の無い時の連続を生きるんだよ」

 夜月は少し息を吐いて、千冬の父親に、今自分が言った言葉の意味について考える時間を与えた。

 辺りには、束の間の沈黙が下りた。

 夜月は千冬の様子を気遣い、父親は夜月の言った言葉の意味をじっと考えていた。

 しばらく経ってから、夜月が顔を上げて、また父親に向かって言った。

「あんたに、さっき俺があんたに訊かれたのと同じ質問をしよう。幸せとは一体なんだ? 人生とは? 命とは? 魂とは――?」

 父親には、もはや答える術がなかった。

「赤い鞄とは、実は、それを手にした者に、幸せというものを見つめ直すように促してくれる為のものだったんだ。死を恐れずに、死を受け入れて、死に向かって命を燃やして生きること。それを知る事こそが、赤い鞄がもたらしてくれる幸せの意味だったんだ。中の薬は飲む為のものじゃない、知る為のものだった。幸せが何なのか? 命は何の為に一人一人に与えられているのか? 人生において、人が本当に探し求めているのは何なのか? それらを知る事。それこそが赤い鞄の存在していた意味だったんだよ。永遠の命だなんて、全然幸せじゃない。永久に死ねないだなんて、ただの禍々しい呪いに過ぎないのさ。俺は、赤い鞄を手に入れるまでに、何人もの不老不死の人達に会ってきた。おそらくは、それはたぶん彼らのメッセージだったのだけれども、出会ってきた彼らに共通した印象、それは……倦怠感だった。みんなが笑顔で俺を出迎えてくれたが、誰もが一様にどこかで寂しそうな顔をしていた。どこか気怠げな態度。疲れ切ったような諦観の表情。彼らのどこに違和感を感じるのか、初めは良く分からなかったが、みんな不老不死だったと聞いて、やっと納得がいった。死ねなくなってしまった瞬間から、彼らは命を燃やすことが出来なくなってしまったんだ。生きる事への意義を見失ってしまったんだよ。皮肉なことに、死ななくなってしまったが為に、彼らはそれ以上生きられなくなってしまったんだ」

 夜月は父親に向かって、再び不敵な笑みを浮かべた。

「分かったかい? あんたは幸せを手に入れたんじゃない。あんたは最悪の不幸を手に入れたんだよ。呪われた魂をな。あんたは永久に不幸だ。永遠に死ねないだなんて、そんなに不幸なことはないんだよ。……実を言うなら、その不老不死の薬が手に入ると知った俺は、あんたにどうやってそれを飲ませるのか思いあぐねていた。だが、あんたは愚かだったから、自分からそれを飲んでくれた。俺がナイフを慌てて拾いに行ったのは、あんたを殺したかったからじゃない。あんたから千冬を守りたかっただけだ。まあ、あんたが不老不死の薬を飲んだ時点で、俺の勝ちは決定していたんだがな。俺はあとは、あんたから千冬を守ることさえ出来ればそれで良かったんだ」

 今や父親は、夜月の言ったことを完全に理解していた。そうしてまた同時に、自分が夜月にしてやられたということも。

 夜月の口から事の真相を知って、父親は激しい怒りを覚えた。

「このっ……小僧! 殺してやる! お前を殺してやる!」 

 夜月は、呆れ返ったように言った。

「まだ分からないのか? 殺すことなんかよりも、永久に生かしておくことの方が、よっぽど復讐になるんだって。さっきから言ってるだろ」

 怒り狂った父親は、夜月に襲いかかって来た。

 夜月はそれを迎え討った。

 勝敗は、初めから見えていた。毎日の酒と不摂生で弱り切った五十過ぎの男を組み伏せるというのは、若くて体力もある夜月にとっては、それほど難しいことではなかった。更に、相手には全く手加減の必要が無かったので、懲らしめる意味もあって、夜月は相当酷く父親を殴りつけてから、弱ってきたところを手際良くロープで縛りあげた。

 手足を縛られた父親は、不老不死の力のおかげで、すぐに回復してまた元気になり、もがきながら夜月を汚い言葉で罵り始めた。

 夜月は、そんな父親を放っておいて、急いで千冬の元へ駆け寄った。

「大丈夫か、ちゆ?」

「うん……。大丈夫」

 夜月は、千冬の額に手を当てた。彼女の額は火傷しそうな程に熱くなっていて、体調に異常があるのはすぐに分かった。

「すごい熱があるじゃないか! 大丈夫じゃないだろ。寒気はするか? 眩暈とかもしてる筈だぞ」

 千冬は高熱のせいで顔を赤らめながらも、それでも力強く笑った。

「うん。身体がぞくぞくするし、頭もくらくらする。でもね、夜月……あたしは、生きてる。生きてるんだよ!」

「そうだ。ちゆは生きてるんだ。当たり前のこと言うなよ。もうちょっとここで待ってろよ。あいつを片付けたら、すぐに病院に連れて行ってやるからな。ちくしょう、ここから病院まで何分かかるんだ。ちゆ、息はちゃんと出来るか? しんどくないか? 肺炎でも起こしてたら厄介だからな」

 千冬は、夜月の肩に手を添えながら言った。

「大丈夫だよ。あたしはもう死なないよ。夜月のお陰。今は、多分ただの風邪だと思う。苦しいし、吐き気もするけど、でも、あたし嬉しいの。だってね、あたしは生きているんだもの」

 実際、彼女が言うように、千冬の容態はそれほど大したことはなかったのだが、夜月は千冬のその言葉にも全く安心出来なかった。

 慌てて彼は、自分の着ていた上の服を、汗でぐっしょりと濡れた一番下のシャツを残して、あとは全部千冬に着せた。

「ちょっと、夜月。そんなことしたら、夜月が風邪引いちゃうよ」

「俺はいいんだよ」

 夜月はそう言って、千冬に出来るだけの事をしてやってから、父親の後始末に取り掛かった。

 父親は、さっきから喚き続けていた。

「おい、小僧! お前をきっと殺してやる! 俺は神だ! 俺は不死身なんだ! 俺はお前なんかを遥かに超越した存在なんだ! 俺がお前ごとき小僧なんかに負ける筈がないんだ!」

「死ぬまで言ってろ……」

 夜月は父親を穴の所まで引きずって行って、その中に突き落とした。

 穴の底から、父親ががなり立てる。

「おい、俺をどうする気だ? 何をやっても俺はくたばらないぞ!一生お前達を追い掛けていって、永久にお前達二人を苦しめてやるからな!」

「いっそのこと、死にゃあ良かったんだ」

 夜月はそう言ってから、縄梯子を引き上げ、鉄板を元に戻して穴に蓋をした。それでようやく、父親の罵声は聞こえなくなった。

 慌てて千冬の元に走り寄る。

「もう少し頑張ってろよ、ちゆ。すぐに病院に連れて行ってやるからな」

「あたしは、ほんとに大丈夫だよ、夜月」

 夜月は、千冬の言葉には耳を貸さずに、彼女を背負って急いで山を下りた。山の冷気が夜月の裸の上半身を舐めていったが、車に着くまでの間、彼にはまったく気にならなかった。

 下山した夜月は、車を飛ばして、千冬を元の病院まで連れ帰った。

 病院に到着した頃には、案の定夜月も高熱を出しており、千冬だけでなく、夜月も揃って入院することになってしまった。

 しかしながら、千冬を何とか生かしたまま病院に連れて戻れたことに、夜月はこの上なく満足した。

 三、四日もすると夜月の風邪は治り、千冬の方もまた、回復に少し時間は掛かったものの、それでも十日もすれば退院出来るようになった。

 千冬が入院していた間に、夜月はもう一度あの広場に向かい、置き忘れてきていた赤い鞄を取りに行った。ついでに、穴の中の様子を覗き、父親が中でぐったりとしているのを見てから、再び鉄板で蓋をして、とりあえずはしばらくの間、そのまま放っておくことにした。

 千冬が晴れて退院して、二人にはまた元の生活が戻ってきた。

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