第11話 次の次のメモ

 パン職人と会ってきてから、二日が経ち、夜月はずっと赤い鞄のことが気になっていたのだが、勤務表を見た限りでは、この間のように千冬がパートで自分が休みというような上手いタイミングが無かった。

 千冬の様子にはあれ以来、目立った変化はなかった。

 今現在、彼女が周囲に明るく振る舞う事が出来ているのは、昔よりも自分の外殻を上手に覆う技術を身に付けているからだ。しかし、ただそれだけのこと。状態が良いとはとても言えなかった。

 夜月は、赤い鞄について、少なくともそれが本当に在るのかどうかだけでも知りたいと思っていた。無いと分かれば、そんな無意味なものに時間を掛けていることほど馬鹿らしいことはない。千冬を救う為の、もっと他の手段を講じることに時間を使うべきだ。

 でも、他の手段って一体何だ?

 夜月は昨日、板倉桃香にちょっと無理を言って、今日のシフトを代わってもらい、多少強引に、赤い鞄を探しに行く為の時間を作っていた。桃香には口裏を合わせてもらって、彼女の方から代わって欲しいと申し出たのだということにしておいてもらった。

 身支度を調えて、夜月は千冬を伴って家を出た。

「じゃあ、夜また迎えに来るからな」

 千冬には、今日は、少し遠くに住んでいる友人と久し振りに会うと伝えてある。

「うん。待ってるね」

 手を振って、彼女はパートに向かって行った。

 夜月は、千冬を見送った後、新しいメモにあったフランス料理店まで車を走らせた。

 ちょうど半時間後、繁華街の一画にあるそのフランス料理店に到着した。建物はレンガ作りの可愛らしい外観で、店内からは、パンや料理の食欲を誘ういい匂いがしている。

 夜月は店の中に入り、バイトの女の子に頼んで、メモの人物を呼んでもらった。

 奥の厨房から堅物そうなコックが出てきて、何の用だと言わんばかりの目つきで夜月の顔を見た。

「あの、赤い鞄の事で……」

 この最初の一言で、そのコックはたちまち相好を崩し、夜月は近くの喫茶店まで連れて行かれた。

 それからは、今までとお決まりのパターン。事情説明に続いて、次なる人物の名前と住所を書いたメモを貰う。

「そのお相手の方と幸せになれるといいですね!」

 夜月はコックに見送られて、その場を後にした。

 メモを手にして車へ向かいながら、夜月は思った。

 もういい加減、そろそろこんな事にも飽きてきた。いつまでこんな事を続けなければならないのか。同じ事の繰り返しばかりで、ちっとも核心に触れることが出来ない。これだけ何カ所も回って、何人もの人間に会ってきたのに、未だに赤い鞄の事については何一つ情報を得られていない。自分のやっていることに虚しささえ覚える。千冬を救う為の貴重な時間を浪費してしまっているようで、少しばかり恐ろしくもなってくる。一体いつまで、自分はこんな事をやらされるのだろうか?

 メモの人物に会いに行く度に、今度こそは赤い鞄の事について何か分かるんじゃないか、この人こそ赤い鞄の秘密を知る者なのではないか、そう期待して行くのだが、決まって失望感を味あわされて帰ってきていた。

 自分は本当に、下らない馬鹿げた悪戯に付き合っているだけなのかもしれない。夜月には、どことなくそんな気もしてきていた。

 あと信じられるのは、これまでに出会ってきた人物達に唯一共通した、彼らの真摯な態度だけだった。夜月はそれだけを信じて、このまま突き進むしかなかった。いずれにしろ、選択の余地は無い。千冬を助けることの出来る他の決定的な手段を、何も思い付かないのだから。

 けれども、こんな事があともう何回か続けば、やる気も挫けてしまいそうだ。いつになったら、赤い鞄の事を教えてもらえるのだろうか。自分はまだ、その存在についての確証さえ得られていない。少なくとも、実在しているのかどうかだけでもはっきりとした証拠を掴みたい。

 もどかしい思いを抱えたまま、夜月はアクセルを踏み込み、次のメモの場所に急いだ。

 次の人物は、公立高校に通う普通の女子高生だった。偏差値にしても凡百なレベルで、これといって何か特徴がある訳でもないごく普通の女の子。

 予想通りといおうか、その女子高生との面会も、今までの人物達と何も変わらなかった。しかし、自分よりもずっと年下の、しかも女の子に対して、自分の過去や現状について赤裸々に告白するのは、今回ばかりは少し抵抗があった。だが、彼女にしてもその真率な態度には、以前の人間達と共通のものがあり、対応も決して不愉快なものではなく、彼女もまた心底同情してくれて、夜月に次のメモをくれた。

 その後も夜月は、メモの住所を訪ねて行っては、またメモを貰うといった行動を繰り返し、その日の五人目まできて、千冬の所へ戻る時間を迎えてしまった。続きはまた今度。

 帰りの車の中で、それまで出会ってきた者達が、背後であざ笑っているような気がした。夜月は虚しい気持ちで、疲れた身体を引きずってスーパーに戻った。

「お待たせ、夜月」

 パートの仕事を終えた千冬が、元気良く事務所に入ってきた。

 千冬は最近、本当に元気そうに見える。そう振る舞っているだけなのか、それとも本当に元気になったのか、最近の夜月には良く分からなくなってきていた。

 彼女は奥の更衣スペースに入ってカーテンを閉め、中で着替えを済ませて出てきた。

「ねえ、今日の夜は海鮮丼にするね。美味しそうなお刺身のパックが半額になってたから。ほら、見て。これで四百八十円なんだよ。安いでしょ? 美味しい海鮮丼作るからね。あたし、すっごくお腹空いたんだ。夜月はどう? お腹空いてる?」

「ああ、俺もぺこぺこだよ」

「ほんと? 早く帰ろ。あたし、我慢できないくらいにお腹空いてるの」

 千冬のお腹が空いているのはとてもいい事だ。死のうと思っている人間は、お腹いっぱい食べようだなんて気にはならない。

 彼女にこのまま元気になって欲しい。このままずっと、自分と一緒に居て欲しい。

 しかし、夜月はこの時、依然として彼女の自殺に至った原因を聞き出していなかった。もうそろそろ彼女にそれを訊いてもいいような気もしていたのだが、けれども、千冬にそれを訊いてしまうと、何かが終わってしまいそうな気がして恐かった。訊くことで、千冬が遠くへ行ってしまうのではないかと。それは、夜月が、千冬の脆く崩れ去ろうとしている弱り切った心を、無意識のうちに感じ取っていたからなのかもしれない。

 取りあえず夜月は、現状を維持する方向を選んで、解決を先延ばしにしていた。千冬に原因を訊いて、それを自分が解決してやれなかった場合、それは、自分が千冬のことを救えないのだということを意味していた。

 夜月は、そんな結論は知ってしまいたくなかった。

 どうしても千冬を救いたい。その為になら、悪魔に魂を売ってもいい。赤い鞄の中に悪魔が入っていて、自分の魂と交換で千冬が助かるというのなら、その時は何の躊躇いもなく悪魔との取り引きに応じるだろう。

 千冬を救う為だったら……。

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