第5話 虐待

 あれは確か、小学二年生ぐらいの事だった。

 千冬はベッドの中で、昔の事を思い出していた。

 彼女は、この前の自殺騒ぎを起こしてからずっと、良く眠れない毎日が続いていた。不眠の原因は自分でも良く分かっていた。そして、当然のことながら、どうして自分が再び自殺に追い込まれていったのかということも。

 理由は、はっきりしていた。

 自殺しようとした事に対しては、周りの人間に、特に、共に生きていこうと誓い合った夜月には、とても悪いと思っていた。しかし今は、彼女は自分の心の中を上手く整理することが出来なかった。

 何層にも重なり合った思考の膜は、剥がしても剥がしても際限が無く、まるで延々と玉葱の皮を剥き続けてでもいるかのよう。剥いても剥いても、玉葱はそれを上回る勢いで成長し続け、下からは後から後から暗い闇が湧き出てくる。

 夜月が自分のことを愛してくれているのは分かる。心から心配してくれていることも。

 しかし、本当のところを言うと、千冬は、夜月の愛情の本質については、まだあまり信じ切ることが出来ずにいた。ただしそれは、夜月の愛し方のせいではなく、彼女がひどく病んでしまっていたからだった。

 もしも、夜月の自分への愛情が、彼の自己満足的なものなのだとしたら……?

 そう思うと、千冬は夜月に限らず、誰かの愛情というものが全く信じられなくなるのだった。

 それはつまり、こういうことになる。夜月は、彼女のことを純粋に愛してくれているのではなく、彼が彼女の事を思いやることで、彼自身の献身的な欲求が満たされることによって、夜月が、彼女のことを愛しているのだと勘違いをしているのではないのだろうかと。

 もっと簡単に言えば、夜月は彼女の事が好きなのではなく、彼女を気遣うことで自己満足を得、それを愛情にすり替えているのではないだろうかと。それは一般には、愛情ではなく、情と呼ばれているものに分類される。

 千冬が、何故そんな歪んだ見方をしてしまうのか。それは、至って簡単な事だった。

 彼女が、自分の事を全然好きではなかったからだ。

 あたしは、自分の事が大嫌いだ。自分にはいい所なんて一つも無い。あたしは全く駄目な人間だ。人間の屑だ。生きている資格も無い。だから、夜月みたいないい人が、あたしなんかを好きになる筈がない。だとすると、夜月があたしの事を好きな訳がない。

 つまり、辿り着く結論としては、夜月があたしを好きだと言ってくれているのは、ただの情に過ぎない。畢竟、夜月はあたしの事など全然好きではない。

 そういった考えは、夜月に失礼な考え方だとも言えたが、大体が、自分が誰かに愛してもらえるなどということ自体、千冬にとっては有り得ないことなのだった。

 病んでしまった人間は、誰かの愛情を信じる気持ちを何処かに無くしてきてしまう。自分で自分の事が大嫌いだから、他人も自分の事が嫌いだろうと思い込んで、誰かが自分の事を想ってくれるという可能性を信じられなくなる。

 自分は、誰からも愛されることはない。

 ――愛してなどはもらえない。

 ここ数年間での、夜月との心の触れ合いによって、千冬のそういった考え方は、徐々に無くなりつつあって、思考の風向きは良い方向に向かっていたのだが、しかしそれでも、依然としてそうした自己否定的な感情が心の中に根強く残っていたのもまた確かだった。

 夜月が一緒に居てくれれば、これから先、頑張って生きていけるような気がしていた。

 でも……あたしは明らかに夜月のお荷物になっている。夜月には迷惑を掛けっぱなしだし、時々、夜月があたしの事で疲れを感じているのが分かってしまう時もある。それに、夜月に大きな迷惑が掛かってしまうというのは、それは、いずれはもっと具体的な形をとって、近い内に現実のものとなってしまうことだろう。夜月にとっては、自分なんかいない方がいい。自分がいない方が、夜月はずっと幸せになれる。

 そう思うと、千冬は夜月が一緒に居てくれるのが嬉しい反面、却って心苦しくなってしまうことがあった。

 夜月と共に心理学を学び、自己の病みを抱えた精神構造は良く理解してきたつもりだった。けれども千冬は、ひと度闇が胸の中に流れ込んできてしまうと、心の制御は自分ではもうどうしようもなく、堕ちるところまで堕ちていって、それが極限にまで達すると、果ては自殺せずにはいられなくなった。

 自殺があまり褒められたものではないというのは、自分でも良く分かっている。自分がそうすることで、夜月が悲しむということも理解しているつもりだ。でも、自分が死ねば、夜月は今みたいに苦しまずに済むし、もっと幸せになれる筈だ。

 自分がこの期に及んでのこのこと生き残っているのと、さっさと自殺してしまうのと、どちらが正しいのか千冬にはまだ判断が付かなかった。夜月と一緒に暮らして――もしもそんな事が可能だとして――彼と幸せな家庭を築くか? 死んで、夜月を自分から解放するか? 

 周りの人間はそんなあたしを見て、「頑張って生きろ」と言う。

 生きていれば、いつか必ずいい事が訪れるのだと。

 でも、本当だろうか?

 生きていても苦しいだけだ。

「負けるな」

「頑張れ」

 ただそれだけ……。

 ――頑張るのは疲れる。

 夜月が側に居てくれるのはいい。だが、そうすることであたしは却って夜月の事を不幸にしている。夜月に迷惑を掛けてまで、あたしは生き延びたいとは思わない。でも、あたしが死ぬことで、夜月を悲しませるのも嫌だ。死を選ぶことで、あたしの弱い魂を夜月に失望されるのも嫌だ。

 この前の自殺騒ぎで、夜月はまた一段とあたしの事が嫌いになったかもしれない。あれ以来、夜月が精神的に疲れ切っているのがはっきりと分かる。あたしの前で虚勢を張って、明るく振る舞ってくれているのだということも。

 夜月が献身的に接してくれているのが、彼女には良く見えるだけに、千冬にはそれが余計に重くのしかかっていた。

 隣では、その夜月がぐっすりと眠っている。

 疲れているのだろう。身動き一つせずに、こんこんと眠り続けている。彼女は夜月の頬に軽く触れてみた。

 彼が側にいてくれれば、とても安心することが出来る。

 でも……。

 眠れない夜を過ごしていた千冬は、その横でぱっちりと目を開け、窓の外を見つめて、そうしてまた過去の嫌な記憶を回想していた。

 昔の事など思い出したくもなかったし、近頃はようやくそれらの出来事を忘れることが出来るようになっていたのだが、彼女の思考は再び悪い方向へと流れ始めていた。今までずっと考えずに済んでいたことを、また何度も反芻しては、底の無い暗闇へとずるずると引きずり込まれていく。

 彼女は幼い頃からずっと、父親と母親の両方から虐待を受けていた。

 それは、長年かかって、千冬の精神と肉体をぼろぼろにした。

 千冬は夜月の寝息を聞きながら、今夜は、小学校二年生頃の事を思い出していた。


 昔から、家に帰るのが恐かった。

 怖ろしくて堪らなかった。

 しかし、幼い千冬にはそこしか帰る場所が無かった。遠くへ逃げ出すとか、他者へ助けを求めるなどといったような、自分を救済する手段はとても思い付くことが出来なかった。そんなことは考えてみもしなかった。

 父親はごく普通のサラリーマンで、母親は近所の定食屋に勤めていた。二人は近所では、とても感じの良い夫婦で通っており、周囲の人達には、彼らは善良で一般的な人間に映っていたようだった。

 しかし、家の中では、彼らの人間性は善良どころのものではなく、教育と称された彼らのストレス解消の方法は、それは酷いものだった。千冬は彼らの愛娘などではなく、ただの生きたおもちゃに過ぎなかった。

 父親は家ではいつも、新しい虐待の方法を考えており、何か良くない事を思い付いては、それを千冬で試して喜んでいた。母親も似た様なもので、父親と一緒になって千冬をいたぶり、痛めつけて楽しんでいた。

 千冬にしてみれば、彼らは親なんかではなかった。二人とも、気の狂った化物にしか見えなかった。彼らが人間であるという認識すらなかった。彼らはこの世に放たれた悪魔で、自分が悪いことをしたから、自分の所へこんなにも酷い仕打ちをしに来ているのだと、ずっとそう思っていた。千冬は時々、自分の本当の両親はどこにいるのだろうか? と真剣に考えたりすることさえあった。

 小二の時、テレビでボクシングの番組を見ていた父親が、また新しい方法を思い付いて、千冬を呼び付けた。

「おい、千冬、ここに寝ろ!」

 父親の命令が飛ぶ。

 父親の命令は絶対。逆らうことは出来ない。

 子供部屋に居た千冬は、父親が隣室から自分を呼ぶ声を耳にして、びくりと身体を震わせた。

 途端に、全身には悪寒が走り、歯ががちがちと鳴り出し始める。うなじの辺りにぞわぞわと嫌な感じが襲う。これから始まる両親との狂宴に、吐き気が込み上げてくる。

 嫌ダ……。

 アソコニハ、行キタクナイ。

 ココカラ、出タクナイ。

 恐イ、嫌ダ。

 痛イノハ、嫌ダ。

 絶望のどん底へ叩き落とされて、千冬はしばらく動けずにいる。

 父親のその声が聞こえなかった事にしたくて、じっと息を押し殺し、向こうの部屋の様子を窺う。もしかして、さっきのは幻聴が聞こえただけなのかもしれない。そう思い込もうと努力している。

 ……しかし、そうはならない。

「おい、千冬、何やってるんだ! ぐずぐずしてるとぶち殺すぞ」

 この、小二の頃にはもう、千冬は涙が出なくなっていた。それは、泣くことで両親の機嫌が悪くなることを学んでいたからだった。

 彼女は、心を頭の隅のどこか安全な所にかくまって、精神のスイッチを切った。けれども、心が安心できる安全な場所など本当はある筈もなく、このすぐ後で、一旦かくまったその心は、父親によってまた無理矢理引きずり出されてしまうことになるに違いなかった。

「早く来い!」

 彼女が部屋を出ると、その声の怒り具合とは裏腹に、父親の顔は、自分の名案に狂喜して笑っている。千冬は俯いたまま、重たい足を引きずって父親の指差す床に向かった。

「ここに寝ろ!」

 これから、何をされるのか分からない恐怖。

 そしてその何かは、間違いなく千冬にとっては耐え難いほどの苦痛をもたらすものなのだ。千冬の全身の震えは、もはや最高潮に達し、膝ががくがくして、上手く前に進めない。身体が全身で父親の元へ向かうことを拒絶している。

 そんな千冬の様子に苛立って、父親は腕を引っ張って彼女を床に引きずり倒した。

「ほらっ。今日はな、お前に新しい教育方法を試してやる。これでお前の腐った性根も直るといいんだがなあ」

 そう言って、父親は仰向けに寝転がった千冬の腹部を、軽く握った拳でゆっくりと叩き始めた。

 力はそんなに強くなかった。気絶するほど強烈なものではない。

 これなら、我慢できるかな……? 

 そう思ったすぐ後で、千冬は自分が甘かったことを思い知らされた。一回一回のパンチは簡単に耐えられる。しかし、それを間断無く継続的にやられると、息を継ぐ暇もなく、緩慢なその痛みに、地獄のような苦しみを味あわなくてはならなかった。

「そらっ、どうだ。そらっ、千冬! これで、お前も、少しは、改心、するだろう。そらっ、そらっ、どうだ、千冬、どうだ!」

 回数を増すごとに、腹部は筋力を失って、彼女のまだ幼い身体に、父親の拳が容赦なくめり込む。

 数十回もやられると、やがてはその弱いパンチにすら耐えられなくなる。叩かれるごとに、そのあまりの激痛に身体が、びくん、びくんと痙攣する。まるで、神経そのものを殴打されているよう。全身には、首筋の血管が切れそうな程に力が入り、掌の皮が破れんばかりに拳が固く握り締められている。身体中が硬直しているにも拘わらず、腹筋は父親の拳を受けとめるにはあまりに非力で、拳が彼女の柔らかい腹部を無情にも突き刺してゆく。

 息が継げない。

 神経がおかしくなる。 

 頭の中は痛みでいっぱいになり、今にも気が狂いそうになる。

 止メテ、オ父サン、止メテ、モウ止メテ!

 痛イ、痛イ、痛イ、痛イ、痛イ、痛イィィィィッ……!

 嫌ダ、痛イ、痛イヨ! 止メテ! オ父サン、モウ止メテ!

 頭ガオカシクナル……!

 千冬は、父親の拳から逃れようと身を捩ったが、横でそれを見ていた母親にすぐに押さえ込まれ、身動きの取れない状態にされたまま、無力に父親の拳を受け入れるしかなくなった。

 ドスン、ドスン、ドスン……。

 はっ、はっ、はっ、はっ……。

 あまりの苦痛に涙がこぼれる。両腕は母親によって押さえつけられている。逃れられない。拳は抗いようもなくお腹に突き刺さってくる。

 止めて欲しい!

 何でこんなことをするの?

 理解出来ない。

 お父さんも、お母さんも、人間じゃない!

「おおっ……久しぶりに泣いたな。これはさすがに、お前にも効果があったみたいだな。天才だな、俺は。これをメディスンと名付けて、これからもお前の教育に取り入れていってやるからな」

 何十回もお腹を叩かれ続けて、千冬はやがて、気が遠くなってきた。あまりの激痛に神経が耐え切れなくなって、自分の心が壊れてゆくのが幼い千冬にもはっきりと判る。

 最後に彼女は、「きゃあああああっ……!」と叫び声を上げて、がくりと力尽きて気を失った。

 それ以来、このメディスンは、千冬の最も嫌いな虐待方法の一つになった。お尻を思いっきりひっぱたかれたりしていた方がよっぽどましだった。一回の痛みで比べれば、思い切り殴られる方が断然痛いに決まっているのだが、弱い力で何度も継続して殴られると、やがては神経に障るような痛みがお腹の奥の方から這い上がってきて、その耐え難い苦痛に気が狂いそうになった。

 母親もすぐにこの方法を気に入ったようだった。女性の力でも、これは充分に効果が上がるからだ。だが、こればっかりは千冬が痛がってあまりにも暴れるので、母親は、自分一人の時でも出来るようにと、数日後に玩具の手錠を買ってきて、この後何度も千冬にこの虐待を繰りした。

 それが……彼女が小学二年生頃の事だった。


 今思っても、よくも自分がこんな歳まで生きて来られたものだと思う。どこかで気が狂って廃人のようになってしまっても全然おかしくはなかったし、心理学的な見地からすれば、分裂病や多重人格になる要素も充分にあった。自殺願望こそ、明らかに常軌を逸してはいるのものの、それでも他の部分はこうして人並みに正常に機能していることが、まさに驚くべきことだと言えた。

 自分が、もしも心理療法士かなんかだったとして、自分自身を客観的に一患者として見た場合、自分は相当珍しいクランケになるだろうと思われた。何故なら、あれだけの酷い虐待を受けて、時々襲ってくる極度の鬱状態や自殺衝動を除けば、とりあえずは真っ当な精神生活を営むことが出来ているのだから。

 その辺りの見解は、夜月とも一致している。よくも今まで正気を保っていられたものだと。

 千冬の唯一の心の救い――それは、読書にあった。

 千冬は小さい頃から、本が大好きだった。本の世界に、辛い現実からの逃避を求めた。本の世界の中を自由に泳ぎ回ることで、彼女はなんとか正常な神経を保つことが出来た。

 本を読むことで、優しい理想の兄や姉、守ってくれる正義の味方、頼もしい様々な友人達に出会うことが出来た。それに、本を読む限りでは、自分のような境遇の人達も沢山いた。

 千冬は特に、ホラー小説などを好んで読んだ。そこには、自分のように、散々な酷い目に遭っている人達が沢山いたからだ。自分よりも過酷な境遇にありながら、それでも必死に生き続けようとする勇敢な登場人物達に、彼女はいくら助けられたか知れない。また、本の中に優しい親を演じている主人公を見つけたりすると、その人が実の自分の親だったらいいのにと夢想したりして、その希望を糧にしながらなんとか懸命に生きた。

 だが今は、そうやって必死に生にしがみついてきた事に、一抹の疑問を感じるようになってきている。

 ――生きていて、一体何の喜びがあるのだろう?

 やはり、どこかの時点で死んでしまった方が良かったのではないだろうか? 生きていても何もいい事はない。夜月に出会えたのは嬉しいことだが、こちらが一方的に迷惑を掛け続けるだけの関係など、あたしは望まない。

 あたしは深く傷んでしまった。この闇は、あたしの中から一生消えることはないだろう。実感としてそれが分かる。それはたぶん、病んでしまった他の多くの人々にとっても同じ事だ。

 一度胸に刻み込まれてしまった心の暗闇は、二度と消えて無くなることなどない。その人は、永久にその暗闇を胸に抱えたまま生きていかなくてはならない。

 心の暗闇とは、一生逃れることの出来ない呪い……。

 それはまるで、質の悪い冗談に付き合っているようなものだ。その人が何をどうしようとも、もう一生救われないだなんて。

 あの自殺騒ぎを起こす前日までは、夜月だけでなく自分でも、もう大丈夫だろうと思っていた。これからの人生を安心して生きていけるように思えた。しかし、そんなことは有り得ないことだった。過去から逃れられるなどとは、自分の甘い幻想に過ぎなかった。自分は永久に幸せになどなれない。たとえ、夜月と一緒に居られたとしても。

 呪われてしまった人間は、小学二年のあの時、あたしが母親に両腕を押さえつけられて、無力にも父親の拳をその腹部に受け続けたが如く、架せられた呪詛には抗いようもなく、ただ無抵抗に病みを甘受するのみ。

 その事を、数日前のあの日、千冬は嫌というほど思い知らされた。

 ――あたしは永久に、心の暗闇からは逃れられない。

 千冬は今夜もまた、夜月の横で眠れない夜を過ごす。

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