第32話 王手飛車取り攻めの奇手
※ ※ ※
ギャンブルをしましょう。
ルールは簡単です。
種目は将棋による、持ち時間五時間の対局。
ただし、場所は今ここで。暖房が利いた密室の中で、途中休憩なしのサドンデス勝負です。
いくら冬とはいえ、これだけ暖房をきかせて、さらには密閉されて空気の循環がない場所では、ほどなくして脱水症状で倒れるでしょうね。そうでなくても、酸欠で倒れるんじゃないでしょうか。
言っておきますが、扉を開けて出ようと思っても無駄です。生半可なことでは開かないようにしてくれって、榎本さんに頼みましたから。
それと、携帯での救助要請は無駄ですよ。外部との連絡も取れないように、細工しました。どうやって細工したかって? 近江さんや安曇さんほどじゃないですけれど、私にもコネはあるんですよ。簡単に言えば、電波妨害です。これでこの印刷室は、陸の孤島となりました。
この状況で、私と対局してもらいます。
勝った方は、負けた方に一つだけ言うことをきかせられます。
その代り、私が勝った場合は、別のお願いを聞いてもらいます。
近江さんが勝った場合のお願いは一つに決まっていますよね? ここから出せ。ええ、ちゃんと私が負けたら、そのお願い聞いてあげます。その方法? 今教えるわけがないじゃないですか。
ねえ、近江さん。
私が、伊達や酔狂で、こんな勝負を仕掛けたと思いますか?
近江さんと違って、私は別に、命を賭けた勝負をして喜ぶような性格はしていません。逆に言えば、それを証拠に、この勝負での覚悟を証明したいと思います。私は、本気です。本気で死んでもいいと思って、この勝負を提案しています。
なぜって?
さあ。そんなこと、敵に教えることはできないですね。
知りたかったら、助かってから聞いてください。あんまり時間が経てば、助かるものも助からなくなりますよ。この勝負、途中で体力が尽きて打てなくなる可能性の方が高いですしね。
……どうせ、あなたのことですから、私を助けようなんて思っているんでしょうね。
勝負そのものよりも、どうやって私を説得しようかって考えている。
わかっていますよ。そんなこと。
でも、近江さんだってわかっているんじゃないですか? 本当に命を賭けた人間が、説得に応じるわけがないって。
覚悟を決めた人間の恐ろしさを、誰よりも知っているのはあなたのはずです。
だから、早く勝負しましょう。
私とあなたの、勝負をしましょう。
近江さんが勝ったら、ここから出してあげます。あなたも助かりますし、私も助かります。私を助けたかったら、頑張って勝ってください。
その代わり、私が勝ったら――
――私と一緒に、死んでください。
※ ※ ※
将棋。
二人で行う盤上遊戯の一つで、チェスなどとともに世界中で愛されるゲームである。
チェスやほかの類似ゲームとの違いとして、持ち駒というルールがあり、それが戦略性に幅を広げ、差別化が図られている。
縦横九マスの盤上に、八種類合計二十枚の駒を利用して、敵陣の王を討ち取るのが目的である。
このゲームは、運の要素はなく、純粋な実力の勝負となる。
かろうじて運要素があるとすれば、それは対局者の体調くらいであり、それも影響が出るのは同等以上の実力者同士のぶつかり合いに限る。
ギャンブルとしての将棋は、真剣と呼ばれ、対局に勝つことで賞金を得る真剣師も少なからず存在するという。
近江匡と牧野真樹の対局は、静かな始まりを迎えた。
室内の熱気は、もはや耐えられるレベルを超えていた。
上着を脱いだというのに、皮膚の内側が熱を持っているような熱気である。この異常な設定を考えると、どうやらエアコンそのものにも多少の細工がされているらしい。
酸素は薄く、自然と呼吸が浅く感じてしまう。脱水症状の前に酸欠を心配しなければいけないような環境である。
匡ですらそうなのだ。
女性である真樹が大丈夫なわけがない。
案の定、勝負が始まって三十分ほどで、真樹の指の動きは怪しくなってきた。
それでも、彼女の瞳は意志の強さを失っていなかった。むしろ、一打ごとに鋭く、強固になっていくように感じる。
「きつそうだね。真樹ちゃん」
駒を動かして、対局時計のボタンを押す。
「今なら冗談で済むから、あんまりきついなら、早くギブアップしたらどう?」
匡としてはそれを望んでいるのだが、真樹は頑なである。
「……言ったでしょう。近江さん」
駒を動かした後に、たたきつけるように対局時計のボタンを押した真樹は、汗まみれで上気した頬に、にへらっと薄ら笑いを浮かべた。
そうかと思うと、突然キレたように怒鳴る。
「伊達や酔狂でやってんじゃないんだ。説得しようなんて甘い考えは捨てて!」
食らいつかんばかりの瞳は、荒々しいながらも据わっていた。
「私は殺す気でやってるの! 甘いこと考えてたら、本当に殺しちゃうんだから!」
ぜぇ、ぜぇと。荒い呼吸を整えて。衰弱寸前の体をしっかりと支える。
真樹は本気だった。
それに対して、匡はまだ迷っていた。
一番の原因は、どうして真樹がこんなことをしているのかが、いまだに納得できないからだった。そんな予兆なんてなかったのに。そもそも、真樹の真意がつかめないことが、匡の中でしこりとなっていた。
しかし、ようは勝てばいいのだ。
勝ちさえすれば、真樹は死なないし自分も死なない。
むしろ、途中で真樹が倒れてしまって、脱出のための手段を聞けなくなることの方が怖かった。
気持ちを入れ替える。
そもそも、真樹は生半可な気持ちで相手にして勝てる相手ではない。彼女の棋力を、匡はちゃんと知っている。
読み勝て。
しっかりと考えろ。
思考がぼやけているのを必死でまとめる。熱気と酸欠で、匡の方も影響は大きかった。呼吸が浅いせいで目は霞み、頭痛がしてくる。昼食前だったのもあって、空腹も襲ってきている。何より、不意打ちだったためまともに水分補給ができていないのがつらい。気合いを入れないと、すぐにでも気を失いそうだった。
一時間が過ぎたあたりで、匡の中から迷いが消えた。
真樹の攻め手が激しすぎるのだ。
普段の真樹は、どちらかと言えば、からめ手を得意とする打ち手だった。それが、この勝負においては、ひたすら攻め手に転じている。かといってまったく防御をしていないかと言うとそうでもなく、穴熊に隠れこんだ玉を攻め落とすのは、生半可なことではなかった。
次第に、匡は必死になっていった。
まずい、と己の計算違いを詰った。
開幕で迷いを抱えていたのが決定的なミスだった。真樹が強いのは、何よりも中盤戦だ。その前段階である序盤を好き勝手にさせたことが、大きなミスだった。
対局時計のボタンを叩きつける。
真樹の方も、長考によって時間を無駄に使うつもりはないのか、最短の時間で、最良の一手を打ってくる。匡の読み手と違うことが二度もあり、そのたびに肝が冷える思いがした。
途中、真樹はポケットから飴玉を出して、口の中に含んだ。
「……せっけぇ。真樹ちゃん、容赦ないな」
「当たり前、です。近江さん相手に、手なんて抜けない」
全力で当たらなければ、絶対に勝てない。
匡も糖分が欲しかった。
極限状態でフル回転させている頭脳は、エネルギーを欲していた。しかし、今の真樹が、敵に施しをするような真似はするまい。
匡との差を埋めるために、真樹は出来うる限りのすべての手段を講じてきているのだ。
やばい、と思い始めたのは、二時間が経過したころだった。
競り負けている。
じりじりと、匡の戦線が下がってきているのだ。
盛り返すためには、どこかで無茶をしなければいけない。
頭が働かない。頭痛がひどい。めまいがする。吐き気もしてきた。水分が欲しかった。とめどなく流れ出る汗が恨めしかった。
真樹の方も、限界を前にしている。
一手を打つ以外は、ずっと顔を伏せて、息を落ち着けるのに務めている。たったの二時間でこのありさまだ。これは、対局時間をすべて消化するようなことになれば、確実に二人は衰弱する。
匡は長考した。
絶対に勝たなければならない。
ここでようやく、匡は『勝つ』ことを意識した。真樹を負かすためにはどうすればいいか。この勝負を決着づけないことには、彼女を死なせてしまう。
そんなのは、いけない。
自分なんかのために、彼女が死ぬのは見過ごせない。
だから考えろ。勝つ手段を。こんなピンチはこれまで何度もあった。そのたびに乗り越えてきた。場数の差は、明確な形で出る。
匡は一手を踏み出した。
それに、真樹が戸惑ったのが分かった。
この極限状態において、読みから大きく外れる行動をとられることは、多大なダメージとなるだろう。一から読みを組みなおさなければならない。
しかし、このギリギリの状態で、それができるか?
「近江、さん」
かすれ声で、真樹はたどたどしく言った。
「どうして……私がこんな勝負、持ちかけたか。わかって、ないんですね」
その言葉は、どこか悲しそうで、辛くて仕方がないとでもいう様子だ。
そして、次の一手で、匡は鳥肌が立った。
「そういう舐めた態度が、ムカつくんですよ。せんぱい!」
パチン、と。
将棋盤に強く駒がたたきつけられる。
突然現れた銀将。
それは完全な見落としだった。
おそらく万全の状態の匡なら、ちゃんと警戒していたであろう一手。そうでなくても、敵の持ち駒を見落とすなど、下の下もいいところである。匡が余計なことをしている間に、真樹は一歩先んじてしまった。
どうしようもないミスだ。これは、取り戻せない。
「は、あはは。どうしたんですか? 近江さん」
薄ら笑いを浮かべた真樹は、自分も限界だろうに、挑発するように言う。
「このままじゃ、私、死んじゃいますよ。ほんとに、死にますよ? ほら、助けてくださいよ。ねえ」
あはははは。
気でもふれたように笑う真樹を前に、匡はようやく、必死になった。
そこからはひたすら、現状を修復する作業だった。
しかし、それを真樹が許すはずがない。ある程度肉薄した棋力は、たった一つのミスで、大きく戦況を変える。
気持ちを入れ替えるのが、遅かったのだ。
はっきりと、遅すぎたと察する。
一手ごとに、骨身が削られる思いがする。
いつの間にか暑さなど感じなくなって、ぼやけた思考が自然と体を動かしていた。限界を超えた頭脳は、ただ反射的に盤上を見て、それに従って動く。
真樹もまた、必死の形相でそれに対応していた。
汗まみれで、呼吸も落ち着かず、限界もいいところだ。未だに体が動いているのは、ひとえに抱えた覚悟がものを言っているのだろう。
そこからは、ただの殴り合いだった。
熱気に満ちた室内で、二人は極限状態の中、ひたすら戦い合った。今にも息がきれそうなのを必死でこらえ、食らいつき、勝負にしがみついた。
駒が将棋盤を叩く音がこだまする。汗が散る。気力がはじける。
守る匡に対して、攻める真樹。
覚悟の差は歴然だ。
真樹は最初から命を張っている。
それに対して、匡は真樹を侮っていた。
その結果は、明確に盤上に現れる。
三時間が、見えたころだった。
「は、ぁ。はぁ。はぁ、はぁ」
えずくような呼吸を必死で整えながら、彼女はたどたどしく言う。
「きゅう、て、詰め」
真樹の手番で、彼女は、うわごとのように、言った。
「先手・2二龍。後手・同玉。先手・1三角。後手・同香。先手・2三銀。後手・3一玉。先手・4三桂不成。後手・同金。先手・3二金。――詰みです」
「……ま」
「別順でも……王を、逃がしても、次は六手詰め。そっちの方が、簡単、です」
決着はついた。
匡は負けてしまった。
信じられない、と彼は呆然と盤上を見つめている。
頭がうまく働かない。いったい何が敗因なのかもわからないくらいに、思考がぼやけてしまっている。
ただ目の前には、残酷なまでの結果が横たわっており、匡をせせら笑っていた。
「そう、いえば」
そんな匡に、真樹の言葉がかぶせられる。
「近江さんは、一度負けた相手には、二度と負けない、んですって、ね」
己の身体を支えるのもつらいのか、真樹はそばの印刷機に体を預けながら、懸命に顔をあげて匡に語りかける。
「そして、一度勝ったら、ずっと勝ち続ける。敗北がない、って。え、榎本さんに、聞きましたよ。あは。あはは。あははははッ。すごい。やっぱり近江さんってすごい。私が尊敬している近江さんは、それくらいじゃなきゃ、ダメです。負けることが、できない苦しみ。うふふ。それって、すごく、天才っぽい」
でもね、と。
真樹は、声の調子を変えて、宣言するように言った。
「あなたはもう私には勝てない! だって、もう死ぬんだもん。私たち、これから死ぬんだから。だから、二度目なんてない。この勝負がすべて。わ、私の、私の勝ち。近江さんの負け。それが全部。あはは! よかったですね、近江さん。やっと。やっと負けられましたよ!」
狂気じみた真樹の言葉を、匡は無防備に受ける。
負けた。
心のどこかでそれを求めていた。
今がその時だと、少しも思わなかっただろうか?
目をかけていた後輩に負ける。それこそが自分の終着で、それが一番ふさわしい最後だと、思わなかっただろうか。
否定できない。
勝てたはずだった。この程度の修羅場で心が折れるほど、匡はぬるい経験をしていない。それでも負けたということは、甘さがあったということだ。
真樹を軽んじ、状況を軽んじ、そして、自分自身を軽んじた。
「ねえ。近江さん」
甘えるような声色で、真樹はうつろな声を出す。
「一緒に、死にましょう」
その言葉は恍惚に満ちていて、まるでこうなることが幸せとでもいう様子だった。
――なんで、そんな目をするんだ。
そんな真樹を見た瞬間、匡の中に、叫びだしたいような後悔が湧き上がってきた。
負けてはいけない勝負だった。
何が何でも、勝ちに行かなければいけない勝負だった。負けたら真樹は死を選ぶ。わかっていたじゃないか。けれどそれを、どこか遠くのように感じていた。
真樹は、幸せそうに匡を見ている。
その眼は言っている。
やっと、捕まえた、と。
――ふざけるな。
死を選んで、幸せだなんてふざけている。
そんなものは認めてはいけない。死は終わりなのだ。終わりまで行き着かなければ幸せになれない者は確かにいる。近江匡がそうだ。しかし、そいつらは死を選ぶしかなかった時点で不幸なのだ。死を美化してはいけない。
この将来有望な子を、こんなところで死なせていいわけがない。
負けては、いけなかったのだ。
なのに匡は負けてしまった。
一度しかないチャンスをふいにしてしまった。これまで勝ち続けて、負けたがっていた報いを、今受けたのだ。
「……真樹ちゃん。どうすれば、許してくれる?」
最終的に匡が選んだのは、懇願だった。
「おれのことはいい。だけど、真樹ちゃんが死ぬのは困る。やめてくれ。おれのために死ぬなんてやめてくれ。おれを理由に死ぬのなんて、やめてくれ」
自分が死ぬ理由に他人を使うなよ。
いつだったか、そんな風に真樹を責めたことがあった。
けれど今、真樹は自分の意志で死を選んでいる。
匡と心中することを、自分で選んでいるのだった。
だから匡にできることは、懇願することだけだった。かつてのように説教することはできない。
「なんでもする。だから、こんなことはやめてくれ。おれなんかのために、可能性を潰したりしないでくれ」
まだ若くて、将来有望で、これからが一番楽しいときなのに。
こんなところで死ぬよりも、もっと幸せがいっぱいあるのだ。それを感じる前に、納得したりなんてしないでくれ。
匡は必死に懇願した。
そんな匡に、真樹は切れ切れの言葉で、尋ねる。
「なんでも、するんですか?」
「ああ。おれにできることなら、なんだってする」
「私の望みも分からないくせに?」
「教えてくれ。真樹ちゃんは、どうしてほしい」
「私は、今のこの状況が、幸せですよ」
とろんとした瞳はまるで本懐を果たしたように惚けている。
「やっと、私は、近江さんを手に入れられたから」
ずっと望んでいたものを手に入れたような柔らかい笑みで、彼女はぼやく。
「知ってました? 私、近江さんのこと、好きだったんですよ。私自身も、気付かなかった。ずっと私は、あなたを尊敬していた。こんなに大好きで、こんなに愛しいのに、それから目を背けて、ずっと尊敬していたんです。馬鹿ですよね。大馬鹿ですよね。自分から遠い存在にして、手が届かないって、ぼやいていたんですよ」
だから、今は幸せなんです、と。
真樹はうわごとのように言う。
「こうでもしないと、近江さんは私を見てくれなかった。こうでもしないと、近江さんは私のものにならなかった。だって、ほかでもない私が、近江さんを神様にしてたんだもん。だから、もういい。この勝負の勝ちが、たとえ近江さんにとって本当の負けじゃなくても、いいんです。私が勝ったって思えたから、それで――」
「やめてくれよ! 真樹ちゃん」
そんな自暴自棄になって、さも今が幸せのように語るのはやめてくれ。
「まだまだ真樹ちゃんは知らないことが多すぎる。だから、これでいいやって思ってるだけだ。おれなんかを、世界の全てみたいに思うんじゃない。これからなんだ。まだまだ経験不足で、これで全部だなんて思っているだろうけど、もっと幸せはいっぱいあるんだ」
普通に生きて、普通に成長して。
人と出会って、人と交わって、人と想いあって。
友人を作り、恋人を作り、伴侶を作り。
そんな、普通の幸せが、これからいっぱいあるんだ。
――その幸せを求められなかった人間が、何を言っているのか。
そう思いながらも、匡は必死で説得した。
自分ができなかったことを、真樹に背負わせるように。
ただただ必死に、説得を重ねた。
「そんなに、近江さんは、私に死んでほしくないんですか」
真樹の言葉は、もはや力がなく、囁くような声だった。
もう限界だ。いつ意識が途切れてもおかしくない。
そんな状況で、彼女は最後の力を振り絞るとでもいうように、匡に尋ねる。
「自分はどうなってもいいから? 何でもするから? だから私に生きてって、そんなことを、言うんですか」
「ああ。そうだ」
匡はもう、ぼろぼろだった。
ここまで人にお願いしたことなんて、彼の人生において一度もなかった。どうしてここまで必死になるのか、自分でもわからないくらいだった。
ただ、真樹を死なせてはいけない。
その一心が、匡を必死にさせた。
そんな匡を、うつろな目で見ながら。
「だったら――」
真樹はとうとう、決定的な一言を言った。
「――私を、好きになってください」
へ? と。
匡の口から、間の抜けた声が漏れた。
しかし、それに対応するだけの余裕は、もはや真樹には残されていなかった。
彼女は必死で口を動かして、言葉を紡いだ。
「わ、私を、好きになって。私を、離さないで。私を、抱きしめて。私を、愛して。私に、キスして。私に、恋させて。私に、幸せを教えて」
呼吸が浅い。
衰弱した身体は今にも崩れ落ちそうで、意識はいつ飛んでもおかしくない。
それでも彼女が意志をとどめているのは、この勝負において、今この時を待っていたから。
すべては、この一言のため。
死ぬのではない。
一歩を進むための敗北を、最愛の男に与えるため。
「ねえ、近江さん」
その笑みは、幸福を捨て、未来を求める笑みだった。
「私に、
それは、これ以上ないというくらいの奇手で、殺し文句だった。
牧野真樹のうつろな笑みはとても美しく、これまで触れてきたどの女性よりも官能的で、その可愛らしく健気な女の子に――近江匡は、ついに負けを認めた。
「ああ。おれの負けだよ。真樹ちゃん」
嘘偽りのない、その敗北宣言に。
真樹は満面の笑みを浮かべながら涙を流し、それから必死に身体を持ち上げ、ヨロヨロとふらつく身体を必死で壁に寄せながら、崩れ落ちるようにして、壁にその腕を叩きつけて。
ブザーが鳴る。
ポスターによって隠されていた火災警報器の音が鳴り響くのを遠くに聞きながら。
二人は、意識を失った。
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