第14話 649740分の1の必然
※ ※ ※
匡と榎本は、まだテラスに居た。
おもむろに。
榎本がシガレットケースを取り出すと、一本を口にくわえた。
「なんだよ、いつの間に喫煙に目覚めたんだ」
匡の知る限り、榎本が喫煙をしているところを見たことはない。
少し意外に思っての言葉だったのだが、それに対して彼女はケースを見せながら言った。
「ハーブシガレット。と言っても、火をつけないで、香りを楽しむような、ばったもんや」
「……なんの意味があるんだ、それ」
「気分、っちゅーたらそう言うしかあらへんな。まあ、これはこれでいいもんやで? 煙でぇへんから、迷惑にもならんし」
すぅ、といっぱいに吸い込んで、はぁと息を吐く。
なんとも、子供のごっこ遊びのようにしか見えない仕草だった。
「中毒性とかないのか? 合法ハーブってやつだろ」
「あー、火を付けたらやっぱりその辺やばいんやけど、うちはそこまでせえへんからな。こうやって純粋に香りを味わうだけやったら、ちょっと酔う感じになるくらいや」
「なんでまた、そんなもん使うようになったんだよ」
「ちょっと、いろいろあって――ダメやな。あんはん相手にごまかしても仕方あらへん」
榎本は頭をかいて諦めたような顔をする。
「真面目な話、厄払いなんよ。昔、友人が同じことしとって、その真似や」
遠くを見るような目をしながら、榎本は言う。
「今、関わっとる案件が面倒でな。あんはんはあんまりそういうの気にせぇへんからええけど、うちなんかは、モロに影響受けるからな」
占い師という職業上、彼女はそういったオカルトの方面に足を突っ込まざるを得ない。
オカルト――だなんていうと、どうしても変な目で見られがちだが、原理を突き詰めていけば必ず起こるべくして起こる原因がある。思い込み、暗示などというものは、人が自然と生きる過程で常に影響し合っているものだ。
要するに、超能力と同じだ。
原理はあるが、それが理解できないだけ。
匡もそこには理解を示している。超常現象はあるし、理解できないものは存在する。ただそれは、現状で理解できないだけでしかないということを、しっかりと把握している。
そして――理解できないものを無理に理解しようとすると、必ずそちらの法則に影響され、自身の感性が歪んでいく。
おかしな話ではない。人は経験を積み、新しいことを学ぶたびに、古い自分から変わっていくのだ。変わらない人間などいない。だからこそ、変わる努力以上に、変わらない努力というものは、思いのほか難しいのだ。
「うちは自分の仕事のために、どうしても中立でなきゃあらへんからな。だからこれはちょっとした儀式みたいなもんなんや。まったく、昔はこんなもんいらんかったんになぁ」
そういうところも、変わってしまったところなのだろう。
何とも言えない様子で黙っている匡に、榎本は視線を戻す。
「さっきは、中途半端になってもうたしな。ここなら、邪魔も入らへん。うちがちょっとオカルト寄りになってしまったんには、龍光寺比澄の問題が、からんどる」
「……話しても、大丈夫なのか?」
聞きたいことではあった。あんな風に意味ありげに言われて、気にならないわけがない。
しかし、それはトップシークレットであるがゆえに、軽々に明かしていい内容なのか。
「お前に迷惑がかかるんなら、そこまでしなくてもいいんだぞ。おれの方は趣味みたいなもんだし、それに、やるんなら自分で調べても」
「あー。そういうこっちゃないんや」
遠慮する匡に対して、大げさに手を振りながら否定する。
「確かに秘密が漏洩しすぎると困るんやけど、匡君みたいな人間が知っても、そう問題やない。それに――むしろ、匡君が知ってくれて、そして、龍光寺比澄と対決してくれるんやったら、それが一番いいんやって、うちは思う」
「……は? ちょっと待て。どうやっておれが、そいつと対決するんだよ。だって、龍光寺比澄はもう死んでるんだろ?」
「ああ。だからその辺を、今から話そう、と……」
そこまで言ったところで、榎本は目を丸くした。
彼女の瞳は大きく見開かれて、匡の背後を見ている。
またそぞろ、匡の人間関係でも探ろうとしているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
彼女は本当に匡の背後を見ていて、そしてそこに、一人の人影を発見していた。
つられて匡も振り返り、ようやくその人物を視認した。
線の細い少女だった。
歳は中学生くらいだろうか。肩くらいまでの長さの髪の毛は、つい先ほどまで結ばれていたのか、少しふわついている。服装は、簡素なワンピースで、下着の上から着ただけと言う印象だ。
ゆっくりと歩いてくる彼女に、榎本が言う。
「サーヤちゃん。何をしとんの、そこで」
聞いたことがない名だ、と匡は一瞬思考放棄しかけるが、
「この子が、『龍光寺紗彩』や」
耳打ちされたその名前で、一瞬ですべてを理解する。
龍光寺晴孝の子供のうち、長男は、養子である比澄。
そして、それから後に、ようやく生まれたのが、長女で、その名が紗彩。
龍光寺紗彩は、ゆっくりと、まるで音を立てずに歩いてきて、二人の前で立ち止まる。藍色のワンピースのみというその姿は、清楚と言うよりもどこか質素に感じ、日本を代表する一大グループの令嬢と言うには、貧相な印象を抱いてしまう。まるで、着るのが簡単だからという理由で、それを着ているような印象だった。
そんな彼女は、急に顔をあげて、真正面から匡を見つめる。
「――――」
目が合う。
端正な顔立ちをした少女だ。まだ幼さの残る容姿は、中性的な整い方をしている。真正面から見据えるその眼は、物怖じした様子もなく、堂々としていた。
珍しく気圧されている匡を気にせず、紗彩は値踏みするように彼を視る。その不躾な態度に、さすがの榎本ですらあっけにとられて何もできない。
その瞳が、揺れる。
瞬間、彼女は息を呑むような様子を見せた。
「――ぁ、ああ」
匡を見た彼女は、感嘆の息を漏らして、そっと目を伏せる。
それは、何かを噛みしめるような、切なげなしぐさだった。
やがて、彼女は顔を上げ、能面のような表情で言葉を発した。
「あなたが、近江匡」
「そうだけど、なんでおれの名前」
自己紹介もまだなのに、彼女はどうやら、匡のことを知っているようだった。
龍光寺紗彩に関する情報は、表に出ているものは本当に少ない。ある種、龍光寺グループのトップシークレットと言ってもよかった。
子宝に恵まれないことで有名だった龍光寺晴孝が、ようやく授かった実子というだけで、何もかもが謎なのだから、妙な噂が立つのも仕方がなかった。――重病を患っている、実は拾った孤児だ、知能に障害を持っている、等々。
そんな相手が目の前にいる。
こうやって直接対峙してみると、確かに不思議な雰囲気を持つ少女だった。浮世離れしている、というよりは、完全に別世界の人間の様な印象に、つかみどころのないものを感じる。
いや――どちらかと言えば、敢えて何も掴ませないようにしているような、一歩引いたような態度が、感じられた。
やがて。
一通り見て満足した彼女は、そっけなく言った。
「目的は果たせるだろうか? どちらにしても、近江匡は、試す必要がある」
「サーヤちゃん、まさか、あんはん」
「あなたは黙ってください。占い師さん」
ぴしゃりと言ってのけた紗彩は、怖いもの知らずだった。あの榎本友乃恵を黙らせたという一点において、匡は驚く。
それにも構わず、彼女はつまらなそうに目を伏せると、ぼやくように言った。
「勝負は――今は時間がない。こればかりは、仕方がない。――近江さん。あなたに、伝えなければいけないことがあります」
いきなり丁寧語を使い始めて、余計にペースを乱される。しかしそれに構うことなく、紗彩は言いたいことだけを吐き出す。
「五階カジノ。ファイブグローリーのポーカーエリア第六テーブル。そこに急いだ方がいいと思います。あなたが行かないと」
匡を見据えながら、龍光寺紗彩は、言った。
「――たぶん間違いなく、彼女は負ける」
能面の少女の言葉は、不吉な予言として響いた。
※ ※ ※
ルシフルと名乗る男とのポーカー勝負。
十五戦目に至った現在、真樹は疲労感を隠せずに居た。
ここまでで、曲がりなりにもうまく立ち回れていたのは、ひとえに勝負がハンドの強さではなく、ブラフの掛け合いに終始していたからである。
相手のハンドを推理し、自身のハンドを推測させない。そんな駆け引きこそがポーカーというゲームの真理でもある。
自身の手が弱いのならば強く見せて相手を降ろし、逆に強いのならば、弱く見せて相手を自分の土俵に上げさせる。
ポーカーは言葉を用いない会話だと表現されることがある。それほどに、ギャンブルにおける駆け引きと言うのは、相手を理解するために精神を使うのだ。
ましてや、大金がかかった勝負である。
十五戦目の時点で、真樹の疲労はピークに達していた。
そもそも、資金力に差があり過ぎるのだ。それゆえに、ここまでギリギリの戦いを強いられてきた。ほんのちょっとでも気を抜けば、張りつめた糸は切れてしまっただろう。
その最後の緊張を保てた理由は、ひとえに昨日のスロットの大負けの経験が生きていたからだった。
あの悔しくて思い出したくもない負けを経験していたからこそ、熱くならずに、思考停止に陥らずに、考えて考えて、冷静に勝負を運ぶことができたのだ。
しかし――その緊張の糸は、十四戦目の大物手で、少し緩んでしまった。
出過ぎた期待と、そして勝てると思った勝負の敗北。それは、気にしないと思っていても、無意識のうちに瑕として残ってしまう。
そんな精神的なショックと、そして疲労から来る思考の緩み。
そんな時に、十五戦目のカードは配られた。
♠A、♡A、♡Q、♢8、♣A
今度こそ、心臓が止まると思った。
あり得ない。何もしない一巡目でこんな手が来るなんて本当にあり得ない。
しかし、何度見てもカードの絵柄は変わらなかった。
Aのトリップス。
そんなものは、テキサスホールデムでもめったにない手である。ましてやドロウポーカーでなんて、見たことがない。
心臓が高鳴る。
頭の中が真っ白になる。
精神的に疲弊しきった中で、こんな夢のようなハンドを手に入れたのだ。もはや駆け引きなどどうでもいい。この手で負けるなんてことはそうそうない。ストレート? フラッシュ? そんなハンドがこの十四戦の間に何度出た? この十五戦に限って相手がトリップス以上の手を持っているなんてことがあり得るわけがない。
自身の手があり得ないハンドであることを棚投げて、真樹はそんなことを思ってしまう。
「ベット、四十万」
ルシフルがオープニングベットをする。その金額が四十万と言ういきなり大きなものであることも、真樹の頭には入ってこない。アンティの五十万を超えないというところが、ギリギリのラインで真樹の心の隙をついていた。
上ずった声で、真樹はそのベットに答える。
「コール」
――おかしいと思うべきだった。
しかし、疑問を覚えるには、状況は熱くなりすぎていた。
先ほどのストレートフラッシュもどきに比べたら、トリップスという役は出来やすいというのも理由の一つだった。二度も立て続けに役ができるなんておかしい、と思うよりも、二度も続けてチャンスが到来した、と言うのが、疲れた心には心地よく染み渡るのだ。
チェンジタイム。
ルシフルが一枚だけチェンジする。
それを見て、真樹も一枚、♢8をチェンジに出す。
ここで一枚だけチェンジに出したのは、セオリーに従ったまでだ。二枚出すとトリップスであることが疑われてしまうので、あえて一枚。こうすることで、自分の手役が大きいことを暗に示せるので、相手がもし自分より高いハンドだった場合、牽制になる。
そして、もしチェンジで手に入れたカードがQならば、フルハウスができる可能性もあるので、できるだけ強いカードを手に残しておく。
そんなセオリーに従った結果、またしても真樹の手元に、出来過ぎた幸運が訪れる。
チェンジで手元に来たのは、♠Q
A三枚とQ二枚でフルハウスの完成である。
(う、そ――)
思わず、心中で呟いてしまうほどに、それはありえないカードだった。
このハンドに勝てる役はそうそうない。トリップスだけならストレートやフラッシュに負ける可能性があったが、フルハウスまでなると、もう上の役は、実現自体が難しい手役ばかりである。
ドロウポーカーにおいて、できる可能性のあるハンドとしては最高の手だ。
そんな風に真樹は浮かれてしまった。
疲れ切って、大負けをした後に転がり込んでた幸運に、疑問も抱かずに喜んでしまったのだ。
そして、ベットインターバル。
なんとしても勝たなければいけない。こんな素晴らしいハンドを持っていて、相手がそこそこの金額でフォルドしてしまってはもったいない。出来る限り金額を吊り上げて、その上で勝たなければいけない。
現在の真樹のチップは三百二十万。
うち、五十万はアンティで支払い済み。
先ほどの一回目のベットインターバルで四十万の勝負に出ているので、あと賭けることのできる金額は、二百三十万である。
出来るならば、ギリギリまでレイズして、その上で勝負したい。
フルハウスが負けるわけがない。何せAとQのフルハウスだ。この手が負けるわけがない。だから、勝負させろ。勝負、勝負、勝負、勝負――
「レイズ。二十万」
ルシフルがレイズする。しかし、足りない。そんな少額では勝負なんてできない。ちまちました賭け合いが、この時ばかりはもどかしかった。
「レイズ。五十万」
思い切って、真樹は金額を一気に吊り上げた。
ギャラリーからどよめきが聞こえる。これまで、真樹は慎重にことを図ってきたので、自分から三十万以上のレイズをすることはなかった。それが、いきなり五十万である。
「随分自信がありそうだね」
まるでこちらの手を見透かしたかのように、ルシフルが言った。
「ふむ、面白い。やはりポーカーはこうでなくちゃいけない。相手の腹を探り、自信があるときには、相手を踏みつぶす勢いでチップを重ねなければ。いわば武力の見せあいだ。相手を圧倒させればさせるほど、ポーカーは面白くなる」
「……受けるんですか。受けないんですか。どっちですか」
無駄口を叩くルシフルに、真樹は剣呑な口調で問いかける。
本音を言えば、まだ受けて欲しくなかった。
出来るならあと百万までは積みたい。そうでなければ、さっきの負け分を取り返したうえで、逆転なんてできないのだ。
熱くなっているということを自覚することすらできなかった。真樹はただ、勝負を急いでいた。まるで早くしないと、この手の中にあるフルハウスという手が溶けてなくなってしまうようかのような焦燥に駆られていた。それくらいの絶対の自信と、そして同時に陽炎の様な希薄さを、自身のハンドから感じていたのだ。
そんな真樹の焦りも気にせずに、ルシフルはわざともったいぶったように長考する。イライラしてしまえば負けだとわかっているのに、まんまと彼の策略にはまってしまう。もはや余裕などかけらもなくなっていた。
次の一言は、そんな熱した窯のように燃えていた真樹の頭に、冷や水をかぶせた。
「レイズ――」
彼の手がテーブルに置かれているチップに伸びる。色とりどりのチップの一角をつかみ、そのまま前に出しながら、金額を言う。
「その上に、三百万」
「――なッ、ん」
熱くなっていた真樹は一気に顔面を蒼白にした。
ギャラリー全員がどよめく。先ほどの真樹の五十万レイズなど比ではない騒ぎが起きた。
狭くなっていた視界に、真っ白な塗料がぬたくりつけられた。あまりのことに気が遠くなる。ただでさえ希薄だった現実感が、自分の腕の中から離れていくような気がした。
三百万。
これまでの積立額と合わせると、この勝負は、四百六十万の勝負となる。
そして――それは、真樹の所持金を百万以上超える勝負だった。
「さて」
衝撃を受けて絶句している真樹に対し、ルシフルのやけに丁寧な言葉を浴びせる。
「チップの総数が私のレイズ額に届かない君が、ここでとる選択は二つだ。金額が足りないからフォルドするか。それか、テーブル上のチップ全てを賭ける、オールインをするか」
オールインとは、自分の全てのチップを賭けることを意味する。
これをした場合、たとえレイズ額が足りなくても、勝負に参加することができる。ただし、その場合で勝っても、自身が賭けた金額以上を得ることはできず、差額は相手に返還される。
状況としては、オールイン以外の手はないだろう。真樹のハンドであるフルハウスならば、ほとんどの勝負を征すことができる。おそらくは、それを見越して、真樹を
しかし、チップの全てを失うというのはリスクが高かった。
いや、そもそもこの勝負を降りてしまえば、この勝負で賭けた百六十万もなくなってしまうのだが、わずかでも残ればましだと思ってしまうのが人の心だ。しかし――フルハウスなのだ。めったに出るわけのないハンド。このハンドでフォールドするなんて、そんなことは絶対に許されない――
「だが、三つ目の選択肢を、ここに提案したい」
思い悩む真樹に、ルシフルが悪魔の誘惑を提示した。
怪訝に顔をあげる真樹に、彼はゆっくりと、警戒させないようにその提案をする。
「君の所持金と、賭け金の差額は百四十万。ならば、差分に別の物を賭けてしまえばいい」
「……ッ」
カッと頭が熱くなる。
これが、前の勝負における、ショーまがいのストリップの理由か。
疲労と勝負の熱で忘れていた怒りが再燃し、真樹は食い殺さんばかりの睨みをルシフルに向けた。
そんな視線もどこ吹く風で、彼はぬけぬけと言葉を続ける。
「もっとも、本来のルールではテーブルに用意したチップ以上をゲーム中に追加するのはルール違反だ。ただ、ゲーム開始時にテーブルに用意しているもの。つまり、プレイヤー自身もまた、用意されたチップだと考えれば、許容できると思うのだけれど。どうかい?」
それはグレーゾーンであり公に認められているわけではないが、プレイヤー同士で即物的な賭け――たとえば、時計だとか、車のキーだとかを賭けることはままあることだ。
その勝負が絶対に負けられない、もしくは負けないものだと確信があるのならば、そういった賭け方をするのも、ひとつの面白みと言えよう。
「……つまり、あなたはこう言いたいんですか」
怒りに身を震わせながら、必死に自制心を保とうと意識して、真樹は尋ねた。
「私に、服を賭けろと。もし負けたら、身ぐるみ剥がれて見世物になれと」
「さあ。そうは言っていないよ。ただ、賭けたいのならば賭けてもいいよと言っただけだ」
「あなたはゲームのはじめに言いました。もし私が、資金以上を負けるようならば、言うことを一つ聞かせると。つまり、そういうことでしょう」
資金以上を負ける。
つまり、負債を抱えてでもギャンブルを続けるのなら、ということだ。
彼は真樹を辱めたいのだ。生意気にも勝負に茶々を入れ、その上で少ない所持金で自分と勝負しようだなんて身の程知らずの小娘を、弄んで慰みものにしようといているのだ。
それは真樹の一番許せないものだった。
正当な手順があるのならばいい。双方了解済みであり、その関係を認めているのならば構わない。
けれど――一方が自身のわがままで他者を蹂躙するというのが、途方もなく許せない。
そんなことをして許されると思っている人間が、許せない!
この瞬間、オールインに対する忌避感は失われた。
「……三百」
「うん?」
「上着、スカート、下着の上下合わせてひとつ。一枚ずつ百万。一枚アンティ額の倍じゃないと認めない」
カーディガンは今半裸になっている女性に貸してしまっているので、今真樹が身に着けているのはこれが限界だった。軽装にもほどがある、と自分で自分をしかりつけたい気分だった。こんなことなら、スーツくらい着てくればよかった。
一枚の金額を自分の方から提示するのが、せめてもの抵抗だった。先ほどの女性が服を脱ぐ際の金額がこれだったので、そのまま提示したのだが――高いのか低いのか、もはや感覚がマヒしている所為で判断がつかない。
もっとも、本来なら三百万積まれても、裸になんてなりたくないが。
「はは。こりゃたまげた。本当に大胆なお嬢さんだ。自分から金額を指定してくるなんて」
おかしそうに笑った彼は、周囲に見せつけるように、そばに寄り添っている女性にキスをした。
そして、極悪な笑みをたたえて、真樹に言う。
「いいだろう、そのレイズ三百万、受けてやる。コールだ」
ルシフルは足りない分の百六十万を追加して、コールした。
――これで、この勝負は六百二十万と言う大勝負になった。
もはや負けた時のことなど考えたくもない。しかし、負けるわけがないのだ。最後に真樹の背中を押したのは、自身のハンドの強さだった。自身の兵力がブラフなどではない、本物の火力を持つのだということを、突き付けてやりたかった。
この勘違いした男に、制裁を――
「では、双方コールしましたので、これよりショーダウンに移ります」
ディーラーの言葉に従い、オープンタイムに移る。
勝てる。勝つんだ。そうしてこの男の余裕の表情に驚愕を浮かべさせろ。見下した態度を落とし込め。今の自分にはその力がある。ショーダウンになれば、ハンドの強さがすべてだ。それまでの駆け引きの勝負は無に帰し、すべては単純な殴り合いに落ち着く。強い方が勝ち、弱い方が負ける。強い者はすべてを手に入れ、弱い者はすべてを失う。今現在、真樹は強い。このハンドは強い。だから攻めろ。攻め立てて、図に乗った相手の鼻っ柱を殴りつけ、地面にたたきつけろ。
公開された真樹のカードは、変わらず♠A、♡A、♣A、♠Q、♡Q。
AとQのフルハウス。
対する、敵のハンドは――
「エクセレント。いい勝負だった、ミス牧野」
気取った英語でルシフルが言う。
おそらく、真樹の二十四年の人生において、これほどに生きた心地がしなかった瞬間はなかっただろう。
これまで、近江匡と関わった中で、親友に裏切られたり、人の死を見たり、やくざに追い掛け回されたり、オカルト現象に遭遇したり、いろいろな経験をしてきたが――そのどれよりも、今この時が、一番絶望に近かった。
これ以上ないというほどに血の気が引き、呼吸は忘れ目を見開く。
怒りに震えていた身体は、いつの間にか寒気にがたがたと震えていた。
あり得ないことがあり得るのは、自分だけではない。
ルシフルの手が公開される
♢10、♢J、♢Q、♢K、♢A
「う、嘘だ」
そうつぶやいてしまったのも無理からぬことだ。
なにせそれは、649740分の1という、およそ奇跡としか言えない確率を経て得られる、ポーカーにおいて最高にして最上の役なのだから。
ロイヤルストレートフラッシュ
もはや奇跡と呼ぶに等しい手役がそこにそろっていた。
「さて」
呆然自失としている真樹に、厭らしさを伴った無情な言葉がかけられる。
「約束は約束だ。ミス牧野」
あまりの出来事に、睨み返すだけの気概は残っていなかった。
真樹は恐る恐る顔をあげ、にやついているルシフルの口元を、おびえ交じりの瞳で見た。
視線を感じる。
視界の外から、自分を見つめる、目、目、目、目――台を囲むギャラリー全員が、真樹のことを見ている。まだ肌をさらしているわけでもないのに、彼らの視線によって、裸に剥かれていくような恥辱を覚えた。
小刻みに震える身体は、目の前の危機を明確に感じ取っていた。悪意ある視線を前に、真樹は何を考えることもできなかった。
どうしてこんなことになったのか、何が原因でこんな勝負をしてしまったかのすらわからず、ただ搾取され辱められることにおびえていた。
誰も言葉を発さない。
しかし、この場にいるすべての人間の瞳が、無言のうちに告げている。
脱げ、と。
「く、う、うぅううううう」
見世物になっていることが耐えられなかった。非難がましい視線がまるで精神を削り取っていくようで、それならいっそ、迷わずに衣服を脱いでしまった方が楽になるのではないかと錯覚してしまう。もはや彼女の思考は、被搾取者のそれになっていた。ギャンブルの負けと同様、追い込まれれば追い込まれるほど、楽になりたいがためにさらにドツボにはまっていく。
はじめと同じように反論すればよかったのかもしれない。
強い意志と義憤で、最後まであがくことが、彼女には許されていた。
しかし、反発するのには強い意志が必要だ。ぽっきりと、自分のよりどころであったハンドの強さすらも上回れた相手に、それだけの気概を持ち続けるのは不可能だった。
「…………」
震えながら、真樹はゆっくりとブラウスに手を伸ばした。胸元にある二つのボタンを外すのに、手が震えてうまくいかない。ようやっと一つ外したところで、自分のみじめさを理解して涙がにじんだ。最後の矜持として涙をこぼさないようにしながら、もう一つのボタンを外す。
少しだけ、周りを確認するように顔をあげた。誰もが真樹を見ている。真樹が醜態をさらすのを今か今かと待っている。味方なんていない。同じ立場であった半裸の女性は、真樹のことを気の毒そうに見ている。あの負け男はいつの間にかいなくなっていた。ヒズミはどこかに行ったっきり帰ってこない。たった独りである真樹は、この場全ての劣情を、一身に受けなければならない。
呻きたいのを必死でこらえる。
少しでも声を出せば、それで涙はこぼれてしまいそうだった。そうでなくても、ちょっとした拍子で泣き出してしまいそうだった。
それだけは避けたい。こうなったのはすべて自分の所為だ。たとえ辱められるとしても、涙を理由に許しを請うのは、強制される以上に屈辱だった。
真樹はゆっくりと、自分の中の感情を刺激しないように緩慢に、手を裾に伸ばす。
異性になど一度も見せたことのない肌を、名前も知らない、顔すらも定かではないギャラリーにさらすことに、叫びたいほどの拒絶感を覚えながら、それを必死に押し殺して、そして裾をまくり、ブラウスを脱いだ。
上半身の肌がさらされる。胸部を下着で隠した以外はまったくの素肌を、周囲にさらす。感じたのは、羞恥心よりも恐怖心だ。自分が途方もないくらい遠くに来てしまったという恐怖。下卑た劣情を一身に受け、大切に閉じ込めていたものを失ってしまった喪失感が生まれた。体を覆うものがなくなっただけで、まるでよりどころをなくしてしまったかのような感覚に襲われ、真樹はとうとう、瞳に溜めていた涙をこぼしそうになって――
「そこまでだ」
ふわりと、肌寒かった肩が何かに包まれるのを感じた。
上半身に男物のジャケットがかぶせられていた。肌を守るものを与えられただけで、それまでに感じていた喪失感がなくなった。
真樹は、ジャケットをかぶせてくれた相手を見上げる。
「悪いけど、こいつおれの女なんだよね」
その人物は、テーブルに乱暴に手を叩きつけながら、挑発するような口調で周囲と、そしてルシフルに向けて言い放った。
「話は大体聞かせてもらった。まったくよぉ。人のもん、勝手に賭けの対象にしてもらっちゃあ、困るなぁ。ええ?」
そんな口上とともに。
近江匡は、ようやく勝負の舞台に上がったのだった。
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