第12話 身の程知らずのローハンド
※ ※ ※
サングローリー号五階。通称・ファイブグローリー。
その高レートカジノに、牧野真樹は遠山ヒズミとともに入った。
中に入った瞬間、その空気の違いに圧倒される。
はっきりと言って、『場違い』なのだ。
匡が正装をしていったのを見ていたので、真樹も出来る限りインフォーマルな恰好を心がけ、藍色のブラウスに黒のカーディガンを羽織るといった感じにしたのだが――会場にいる女性陣はほとんどがフォーマルウェアやセミフォーマル。ひらひらのドレスや肩口の露出した派手なものが多く、完全に真樹の姿は浮いていた。
所詮は服装だけだろうと高をくくっていたら、皆様方、気品に満ち溢れているのだ。身元を隠すためであろう仮面がさらにその気品を高めている。
優雅で高貴な空気が満ちた空間において、対する真樹と言えば、身だしなみとしての化粧はしても、自分を魅せるための化粧はしたことがないような女である。もう自信喪失するのも仕方がなかった。
「女子力って、普段気にしないところで着実に差が出てるもんだね」
「なあに言ってんだよ姉ちゃん。すっぴんでそんだけきれいなら十分だっつーの」
ヒズミの見当違いな励ましに、「そうじゃないの」と返しながら、この船から帰ったら、本格的におしゃれの勉強をしようと思う真樹だった。
「さて、と。それより、あの『お兄ちゃん』はどっこっかな~」
スキップでもしそうなヒズミは、気負った風もなくカジノルームを歩いていく。ちなみに彼の格好は出会った時のままだ。
唯一、身元を隠すための仮面をつけているのだが、それが役に立っているようには思えない。この無邪気さも、子供だから許されるものだろう。
五階はほとんどのフロアがカジノになっており、全部を回るだけでも時間がかかりそうだった。その上、個室まで用意されているのだから、簡単に匡を探せるとは思えない。
と、あてもなくうろうろとフロアを回っていた時だった。
ちょっとした騒ぎに遭遇した。
「た、助けてくれ、助けてくれぇ!」
必死な悲鳴が聞こえ、何事かと、真樹はぎょっとして視線を声の方にやる。
その男を見た瞬間、真樹は思わず凍り付いてしまった。
助けを求めていた男は、ルーレット台のすぐそばにいた。
彼はまるで、一夜にして老け込んだかのようにげっそりと頬がこけていた。
仮面をつけていないので、有名人ではないのだろう。目はぎょろりと鋭く、隈がくっきりとついている。振り乱した髪の毛はぼさぼさで、せっかくの上等な正装が台無しであった。
彼は、両脇から屈強な男に羽交い絞めにされていた。
じたばたと抵抗しながら、すがるような目を周囲に向け、そして未練がましい目をルーレット台に向けている。
「つ、次だ! 次こそ勝てるんだ! だから誰か、金を貸せ! 俺に賭けろ! 倍に、いや三倍にして返す! だから、だから!」
「ふざけるな! 散々借りておいて、これ以上すらせてたまるか!」
男に対して、怒鳴りつけるスーツの男がいた。
その男の指示によって、賭けに負けた男はカジノルームを強制退去されていく。去り際、男はありったけの罵詈雑言を残していった。人は、これほどまでに呪いの言葉を吐くことができるのかと、感心するほどだった。
男が退場するまで、真樹は動けなかった。
背筋を冷たいものが走り、そのまま身がすくんでしまった。華やかな中の残酷な現実を突き付けられ、ショックから抜け出せない。
何よりも恐ろしいのは、騒ぎの間、周囲はまったく動じていなかったということだ。
まるで日常茶飯事のことだとでもいうように、誰もが自分のことに集中していた。男の叫びになど見向きもしない。人ひとりが決定的に終わろうとしている瞬間を、まるで当たり前のように流すことのできる精神性に、真樹は脅威を覚えるのだった。
「はっ、はっ、はっ、はっ――」
呼吸が短く切れる。動悸が激しく、頭がくらくらする。
脳裏にフラッシュバックするのは、幼いころの記憶。父の記憶ではない。それとは別の、まるで物のように扱われ、ぼろぼろになるまで暴力を振るわれていた見知らぬ男の姿。あのときの、暴力をふるっていた方の瞳が、まるで闇夜に光る獣の瞳のように、ギラギラと輝いて、脳裏から離れない。
「はっ、はっ、はっ、はっ――」
呼吸が浅くなる。足元が揺らぐ。極度の緊張に、何もかもが怖くなる。怖くて怖くて、だから足がすくんで、力が入らなくて、そのまま倒れそうで。
「おい、おいったら。『お姉ちゃん』!」
強く背中を叩かれたことで、ようやく真樹は我に返ることができた。
視界が急に広くなった気がした。
さっきまで窮屈な空間に閉じ込められていたかのような錯覚を覚えていたが、そんなことはなく、今は広いカジノルームの一角にいる。
「まったく。あんなんでショック受けてんじゃねェよ、『お姉ちゃん』」
「ご、ごめん。でも……」
「あんなもん不思議じゃねェだろ。賭けに負けたら、全部失う。そんなのは当たり前だ」
つまらなそうに、ヒズミは言う。
「一度行くと決めたら
ヒズミは帽子を目深にかぶり、ポケットに両手を突っ込んで歩く。表情は見えないが、帽子の下には苛立ちが浮かんでいるであろうことが分かった。
その頑なな様子は、どこか切羽詰まっているようでもあって、気になった。
「……ねえヒズミ。君はどうして、そんなにギリギリのギャンブルをしようとするの?」
その真樹のズレた問いに、間髪入れずにヒズミは答える。
「ギリギリじゃねェギャンブルなんて存在しねェよ」
そのぶっきらぼうな言葉で、ようやく真樹は悟った。
自分とヒズミでは、ギャンブルに対するスタンスがまったく違うのだ。
真樹は、結局のところギャンブルと言うのは娯楽であり、それで身を滅ぼすのは自己管理が行き届いていない証拠だと思っている。
それに対して、ヒズミにとってのギャンブルとは生きる手段なのだ。手段として、ギャンブルを選んでいる。
わかりやすいゲームの形でなくてもよい。
ヒズミに言わせるならば、人生そのものが、ひとつのギャンブルなのだ。
一つの選択、ひとつの答え。そうしたすべてが、賭けであり、それに負けたら死んで当たり前。生きるためには、勝つしかない。
そんな――身を切り、刻み、擦り切れさせるような生き方。
どうして彼は、そこまでして、自分を追い詰めているのだろう。
今のヒズミの様子からは、自分を無理に追い詰めているような節があるのだ。
それは、ルーレット台で出会った時の圧倒的な存在感とは違う、憑りつかれた様な妄執を感じる。あのまったくぶれない強い意志が、揺らいでいるように見える。
まるで、かくあるべきと自己を戒めているような。
「ねえヒズミ」
「なんだよ、『お姉ちゃん』」
「近江さんを見つけたら、やっぱり勝負するの?」
それが目的だと言われてはいるが、はたしてどんな勝負をするつもりなのか。
そこまで考えての質問だったが、以外にもヒズミは言いよどんだ。
「……わっかんねェ」
答えは予想外なものだった。
「前情報だけなら、いろんなもんかなぐり捨ててでも勝負するべきだって思うんだけどよォ。どうも、『違う』気もすんだよな。オレが勝負するにふさわしいって思うだけの条件はそろってんのに、直感の部分で、それは間違いだって言っている節もある」
そう語るヒズミの瞳は、つまらなそうに細められていた。
その心中に渦巻くものをくみ取るには、真樹とヒズミの関係は、あまりにも浅すぎた。
それでも、ヒズミは手前勝手に語り続ける。
「人生はギャンブルだ。どんな選択にも、賭けるべき要素がある。けど……あの野郎は、全てを見定めている節がある。それが気にくわねェ。だから確かめてやんのさ。本当にあいつは、『生きて』いるのか。それとも、ただ漫然と『対応』しているだけなのか」
ヒズミの言うことは抽象的過ぎて、その本心がどんなものかを見定めることはできない。けれど、彼の意見に、真樹は納得してしまうところがあるのだった。
近江匡は、すべてを見透かし、見定めている。
彼にはあらかじめ、結果を得るために何をすべきか分かっているようなところがある。もちろん、目的を達成するために道筋を定めることは、誰もがやることだが――その中でも、匡には『答え』が見えているように思うのだ。
最短にして最適な答え。
無論、匡だって失敗はするし、予想外の事態を避けることはできない。
しかし、あくまで彼個人の行動に限れば、不用意な間違いを犯すことはほとんどないように思う。
――昨夜、彼はこういった。
カードの並びは変えられないが、カードの並びを作るのは人間だ、と。
昨夜のブラックジャックの結果は、変えられないカードの並びの中で、自分一人で最も良い結果を得るための行動を取った、その成果ではないだろうか。
そこまで考えて、ふとよぎった。
もしかして彼は、間違えないのではなく、間違えられないのではないか?
「…………ッ」
ぞくりと、背筋が凍るような思いだった。
思い当たる節があり過ぎる。
これまで五年間の付き合いで、近江匡と過ごしてきて、彼のいろんな面を見てきた。けれど、その裏にある感情を、自分はほとんど見ることができていないと自覚している。それが悔しくて拗ねたこともあった。その一端のようなものに、今自分は触れようとしている。
気分が悪かった。
逃げるように、真樹は周囲を見渡す。
ギャンブル、ギャンブル、ギャンブル。賭け事に熱狂する周りを見渡し、その狂気に近い淀んだ空気で、喘ぎ歩き――
そして。
見てしまった。
「ん? おい『お姉ちゃん』。どうしたんだ」
「……なに。あれ」
真樹の口からこぼれた声は、かすれていながらもあまりにも冷たく、その冷ややかさに自分で驚いてしまった。
胃の内容物がぐるぐると暴れまわっているような感覚が襲う。
酸っぱいものがせり上げてくるのを必死で飲み下し、体から湧いてくる熱を抑えようと必死になる。
そんな内面と相反するように、真樹の表情からは血の気が引き青白く染まった。
広いカジノルームの一角、ポーカー台だった。
問題のポーカー台は、個別卓のようだった。この五階では、胴元側と客の勝負以外にも、客同士の勝負用に、個別卓が用意されている。そこで、勝負が行われているようだった。
多数の人間が集まっている。
服装は、紳士淑女と呼ぶにふさわしい上等なもの。その華やかなオーラは見ているだけで劣等感を覚えるくらいだ。
そんな彼らが、ひとつの勝負をかこっていた。熱狂と言うには少し静かだ。しかし、ギャラリーの目は、すべからく下卑た感情を浮かべている。薄笑いはあざけ笑うもので、好色よりも卑しい愉悦の色が強い。
厭らしい、身の毛もよだつような負の感情。
真樹は見てしまった。
多数のギャラリーに囲まれたポーカー台。その片方には、おろしたての白いスーツを着た派手な男が座っている。彼の前にはチップが積み重なり、一目見て、優勢なのがわかる。
対する、負けている方。
一目見て、その落差に力関係が分かってしまうような男だった。ぎょろりと血走った目、ゆがめすぎて戻らなくなった表情。同じようなスーツであっても、もはや力のないよれよれとした印象を抱いてしまう。
そんな負けている男の隣に、女性が一人。
彼女は、この絢爛な場において、あまりにも異質な存在だった。あまりにもミスマッチなその姿は、むしろシュールで際立っており、唯一色彩をかく、異物だった。
その女性を見た瞬間、真樹の中のあらゆる感情が凍りつき、続けて紅蓮の炎がすべてを焼き尽くした。
「……ふざけるな」
「? 大丈夫か、『お姉ちゃん』」
ヒズミの気遣いの言葉も耳に入らず、よろよろと、怒りを抑えきれないおぼつかない足取りで、真樹はポーカー台に近付く。
高鳴る鼓動が火を噴くかと思った。荒れる呼吸が耳朶を叩きうるさかった。
ふざけるな。
その怒りは、すべての理不尽に向けられていた。このギャンブルクルーズの中で、理解はしていても、実際に見ることはなかった、現実。
人間が商品になるという現実。
そう。真樹は見てしまったのだ。
下着姿となって、恥辱に顔を伏せる女性の姿を。
そして真樹は触れることになる。
人間の昏く深い、奈落の底の冷たい空気を。
※ ※ ※
「ほなら、匡君は後輩の子がこさえた借金の大元を探す、っちゅーのが大本の目的なんやな」
「ああ。ついでに二件の失踪事件も調べるつもりではいたが、こっちは本当についでだな」
そんな風に言う匡に、「そりゃ薄情なことやね」とからかうように榎本は笑った。
あの後。
龍光寺比澄の死亡を聞いた匡は、目を丸くして言葉を失ったのだが、そのあとすぐに気を取り直し、この船に乗った表向きの理由について話したのだった。
榎本友乃恵が何かしら隠していることはわかったが、それを切り崩すには、今の匡には情報が少なすぎた。
そもそも、龍光寺比澄が死亡したなんていうニュースが本当ならば、もっと騒ぎになっているはずだ。
それがないとすれば、意図的に隠されている可能性がある。ならば、こんなパブリックスペースで話すような内容ではないのだろう。
だからこそ、その場はいったん保留にして、もう一つの目的の方を片づけることにしたのだ。
「個人的な目的は別として、とりあえず表向きは借金取り消しが目的だからな。だから、おれとしてはこの船に乗船している闇金業者を片っ端から当たっていくつもりだった。まあ大体の目安はあるからな。地道にいくつもりだよ」
「はあん、ま、あんはんのことやから、荒事になってもどうとでもなるやろし。むしろ、わざと事を面倒にしようとしているんやないか?」
「なんでそう思うんだよ」
「なんでも何も、その方が『面白い』んやろ?」
お前の考えることなんてお見通しだ、とでも言いたげな榎本の言葉に、肩をすくめて聞かなかったふりをする匡だった。
しかし――と、榎本は感慨深げにしきりにうなずく。
「この船が奴隷船の真似事みたいなことしとんのは知っとるけど、随分有名人まで堕ちてくるもんやなぁ。淡島きららか。変態プレイのあとでもええ笑顔で笑うええ子やったんになぁ。いつのまにか消えたと思おとったけど、まさかこないなところに来とったとはなぁ」
「やっぱりお前は当然のように知ってんだな」
マニア向けAV女優であっても、この女ならば知っていて不思議ではないというのが、今更ながら不気味である。
期待の方向性は変わったが、この船における榎本への期待を一つぶつけてみる。
「なあ、榎本。ホストからの直々の招待なら、ある程度船の中のこと知ってるんじゃないか? ついでだし、もし知っていることがあったら教えてくれないか」
「知っていること、ねぇ。それやったら、この船に風俗部屋みたいなのは設けられとるで。六階の方なんやけどな。あと、類似施設が一つ。ちょっと空気があんまり好ましくなかったから、うちはあんまり近寄らんかったけど」
「お前が言うのならよっぽどだろうな。……どうせだ。そっちに案内してくれないか」
百聞は一見にしかずという話だ。
そんなわけで、二人は一度カジノを離れ、六階へと向かった。
六階に行く途中に、榎本が「仮面、つけとき」と言ったので、忠告に従う。
六階は基本的に、有名人やVIP客が泊まるような階層で、スイートルームがまとめて設置されている。
通路一つとっても一階とは比にならない豪華さで、敷き詰められた絨毯は衝撃を吸収して柔らかく、空調は静かで心地いい。海の上に浮かんでいるのが感じられないほどに過ごしやすい空間である。
最初に案内されたのは、遊戯室を改装した広い部屋だった。
そこはフロントのようで、従業員が数人待機しており、電話対応やスケジュール管理などを行っていた。
その奥に別室への扉があり、そこがどうやら、控室のようだった。
「ここは一応、扱いとしては出張ヘルスとおんなじや。依頼を受けて、各部屋に出張するっちゅー感じで。どや? あんはんも男やし、興味あるやろ。一回やってみいひん?」
「悪くない誘いだが、あいにく真樹ちゃんとの相部屋なんでね。遠慮しとくよ」
そう軽口を返しながら、フロントの様子をじっと観察する。
数人の客と、それに説明をする従業員の姿。
見たところ、悪い印象はない。女性を奴隷として扱うような空気の悪さはなく、あくまで仕事として営業をしているという規律立った雰囲気がある。
榎本の方に視線を向けないままに、匡は尋ねる。
「それで、お前の言う好ましくない所は、どこだ?」
「こっちや」
目立たないように匡を促し、榎本は移動を始める。
フロントの奥に大きな扉があり、そこからさらに廊下に出てしばらく歩いた。
珍しいことに、榎本の顔から笑みが消え、口数も減った。黙ったまま連れだって、二人は進む。
二つほど部屋を横切り進んだ先に、その広間はあった。
そこは、大きな液晶画面のある広いフロアだった。
映画などで、秘密組織が何かを監視するときに使用するような、部屋いっぱいに広がるような液晶画面。
百近くに区切られているその画面群の中に映されているものが問題だった。
別室の様子なのだろう。
その光景を一言でいうならば、ペットショップである。檻の様なショーウインドウが並べられ、それを客は広間から商品として鑑賞することができる。それぞれのウインドウの中は一畳半ほどの広さで、画面の前には商品となるものの簡単なプロフィールが書かれている。
ペットショップとの違いは、商品が動物か、人間かの違いだ。
「おいおい、こりゃあガチじゃねぇか」
その部屋を覗いた瞬間、思わずそう漏らしてしまった。
檻の数は、百くらいで、今はその四割ほどしか埋まっていない。
否、四割も埋まっているというべきだろうか。
中に入れられているのは年齢も性別もばらばらで、歳をとった男性から、年若い女性まで幅広い。
「あんま長居しとったら注目される。一度出るで」
耳打ちして、さっさと榎本はその場を離れる。それに従い、すぐに彼女の後を追った。
奴隷船、と榎本は称していた。
それは大げさでも何でも無く、純然たる事実だったらしい。
※ ※ ※
許せなかった。
それはあってはいけないことだった。
牧野真樹は、別にフェミニストではない。
性差について差別意識を覚えることはないし、男と女はそれぞれ違っていて当たり前だと思う。男性の性欲についても、想像上ではあるがある程度理解しているつもりだ。男性特有の不躾な視線にも、不敬さは感じても侮蔑までは覚えない。だから、たとえばコンビニでアダルト雑誌を見たからと言って、嫌悪感をむき出しにするような女ではない。
そんな問題ではないのだ。
ポーカー台のところでは、女性が下着だけになって立たされていた。その下着も、すでに上はなくなっていて、胸元を両腕で必死に隠している。表情は羞恥と屈辱に染まっていて、懸命に耐えるように顔を伏せている。そばにあるテーブルの上に、衣服がまとめて置かれていて、これまで長い時間そうさせられていたのが一目でわかる。
女性を性の対象として見ること。そのことに対して怒りはない。居心地の悪さはあっても、それは否定しても仕方がない一面だと思うから。
だけれど、今この時に限っては違う。
今この女性は、性の対象などではない。下等な奴隷として扱われていた。
嘲笑されるためだけに服を脱ぎ、肌をさらしていた。
許せない。
そんな理不尽。そんな悪趣味。
人を虐げて、あざ笑うために見世物にするなんて――そんな不敬を。許してたまるものか!
「おい『お姉ちゃん』、一体どうするつもりだよ、おい」
ヒズミの静止の言葉が聞こえるが、頭に血の登った真樹には遠い声だった。
ギャラリーをかき分けてポーカー台に歩み寄った彼女は、女性にためらいもなく自分の上着を着せた。
この時点で、注目度は最高値に達している。しかし、頭に血が上った状態の真樹には、そんな周りのことなんてまったく意識に入っていない。
狭まった視野は、ただ一点、ポーカー台へと向けられる。
「どいて」
その言葉が誰に向けられたものなのか、真樹以外の誰も最初は分からなかった。
やがて、怒気に満ちた真樹の視線が、よれたスーツの、負けていた方の男に向けられたことで、当人が「え?」と疑問を発しながら彼女を見返す。
「どいてって言ったの」
必要最小限の言葉だけを発するといった様子で、真樹は言った。
それでも、とっさのことに反応できない負け男だった。無理もない。周囲の誰も彼もが、同じようにこの場に突如として表れた闖入者に、どう反応していいか分かっていない。
しかし、真樹にとっては関係ない。
次に彼女がとった行動は、普段の牧野真樹を知っている人間からすれば、驚愕に値するものだった。
彼女は、負け男が座っている椅子を、乱暴に蹴り飛ばしたのだ。
もちろん、華奢な女性の蹴りだから、そんなに威力があるわけではない。けれど、憤怒に満ちたその行動は、物理的な影響以上の効果を現した。
悲鳴をあげながら、負け男が椅子から転げ落ちて床を這いずる。それをごみ虫を見るような目で見た真樹は、すぐに視線を換えて、今度は対面に座っている男に向けた。
「あらら。随分とお転婆なお嬢さんが現れた」
相手。
ギャンブルに勝っていた方の男は、こんな理解不能な状況にもかかわらず、余裕を持った笑みで真樹の視線を受け止めた。
真っ白なスーツに身を固めた男だった。目元を隠す仮面をつけているということは、身分を隠すくらいの立場の人間なのだろう。髪の毛をヘアジェルで固めてオールバックにしていることが、特徴と言えば特徴だった。頬を緩める笑みは自然で、しかし仮面越しにもわかるくらいに、眼は厭らしい。
彼の両隣には、ドレスを着た美しい女性が寄り添っている。見るからに金持ちで、見るからに嫌な人間で、見るからに勝ち組だった。
能面のような表情の真樹に、白スーツの男は堂々とした様子で尋ねる。
「君は誰だい? あいにく私は、君の様な可愛らしい女の子は知らないのだけれど」
「……人に名前を聞くんなら、自分から名乗るのが礼儀ではないですか?」
「ははっ。それを言うなら、先に乱入してきたのは君の方だよ? どちらが無礼かと言えば、答えは満場一致だと思うけれどね」
のらりくらりと敵意を受け流す男に対して、まるで抜身の刃物のように剣呑とした真樹。
しかし、このままではらちが明かないと思った真樹は、少しだけ肩の力を抜き、しかし目つきだけは鋭く保ったままで口を開く。
「名前は牧野。私はこの人たちとは関係ない。けど、我慢ならなかったから止めに入った」
「我慢ならなかった、か。ふぅん。何が?」
最後に挑発するような物言いをした男に、真樹は怒鳴りつけたくなるのを必死で抑え込む。しかし、今は何を言っても怒声にしかならないと思い、結果的に黙り込んでしまった。
そんな真樹の感情を前面に押し出した態度に、小ばかにするように笑った後、男は態度を崩さないままに名乗った。
「申し遅れた。ここではルシフルと名乗っている。もちろん本名ではないけれどね。さて、名乗ったところで、ひとつ釈明させてもらうけど、彼らとは公正な勝負をしていたつもりだよ。君に止められるようなことは、例えば、イカサマとかはなかったはずだけれど?」
「…………ふ、ざ」
怒鳴り散らしたい。
いや、出来ることならば、すべてぶち壊したい。
それをするだけの手段があれば、まず間違いなく実行したことだろう。しかし悲しいかな、華奢な女性の身である彼女には、暴れてもまともな被害を生むだけの力がない。そして、たとえ怒鳴り散らしたとしても、ただのヒステリーで終わってしまう。
ヒステリーであることは間違いなかったが、茹るように沸騰した頭の中で、どこか冷静な自分がいて、『そんなことで済ませてはいけない』と思っているのだ。
そこには、半裸にされた女性への気遣いよりも、自分自身の中にある信念を刺激されたが故の怒りがある。
しかし、それをうまく形にできず、とりあえずわだかまったものの発散だけでもすべく口を開きかけたところで――袖口を引かれた。
「まったくよォ。そんなんじゃダメだろ、『お姉ちゃん』」
自分よりも頭一つ分小さいところから、生意気な声が響く。
「あー。ルシフルさんだっけ? どう見てもあんた日本人だけどよ。ま、この階層じゃ気にするだけ馬鹿だよな。はは、誰も彼も自分を偽って楽しむ場所だからな、ここは。かくいうオレもそうだけどさ。素顔晒すのなんて、背中狙われる恐れのない奴だけだっつーの」
いきなり語り出した彼は、手を腰に当てながら、真樹の前に出るようにする。
先ほどまで真樹を止めようとしていたはずなのに、彼は今、積極的に場に入り込もうとしていた。
「まあなんだ。この姉ちゃんが言いたいことを、オレなりに解釈して聞くんだけどよォ」
仮面をつけた小さな少年は、少年にしては甲高い声で乱暴な言葉を重ねる。目の前の、何歳も年上の大人の男相手に、まったくひるんだ様子もない。
ただひとつ。はっきりと尋ねた。
「そこの服脱がされてる姉ちゃん、いくらなんだ?」
「ヒズミ!」
感情の振れ幅が大きくなっている真樹は、ヒズミの無遠慮な言葉にすら激昂してしまう。
「興奮すんなよ。結局言いてぇことはそういうこったろ? 『お姉ちゃん』」
しかし、そんな情緒不安定な真樹には構わず、ヒズミは飄々とした様子で言う。
「どんな建前を言ったって、現実としてあることは覆らねェ。事実はちゃんと見据えておかないと、しっかり喧嘩もできねェぜ」
「…………」
「――ま、なんにしても、いい趣味じゃねェよなァ。こんだけいい大人が、それもそれなりの身分の人間がたくさん集まっておいて、たかだか一般人の女のストリップショー見て興奮するなんてよォ」
この場において、ルシフルを除いて唯一平静を保っているヒズミは、あくまで自由気ままと言った調子だ。
彼は女性に近づくと、ためつすがめつ眺め始める。
気まずそうに、女性は、羽織った上着を握りしめる。そんな彼女を見ながら、ヒズミは気の抜けた声を上げる。
「あー。まあ確かに、こんだけいい体つきしてたら、そりゃあ見てて楽しいかもなァ。おい見ろよ『お姉ちゃん』。バストじゃ完全に負けたな! まあ安心しろよ、腰つきはアンタの方が色っぽいからさ!」
あまりにも自由過ぎるヒズミの行動に、あっけにとられる。
そんな彼の姿を見ていると、怒りに我を忘れている自分が馬鹿らしくなってきた。少しだけ、落ち着く余裕が生まれた。
ふぅ、と目立たないように一つ息を吐いて、頭を冷やす。
まだ興奮は冷めないものの、ある程度落ち着いた真樹は、さっと眼前のルシフルを直視する。
「今の勝負は、いくらの勝負だったんですか?」
「はぁ。そんな敵意丸出しで来られると、まるでこちらが悪者みたいじゃないか」
大仰にため息をついたあと、まるで気にしていない風にルシフルは答える。
「このゲームのアンティは五十万、ミニマムは十万だよ。ただ、それだと盛り上がらないし、そこの彼の負債も大きかったから、特別に『彼女』の服を一枚百万として扱うことになったんだ。もちろん、彼も彼女も了承済みだよ。ねえ?」
まだ床にへたり込んだままだった負け男は、話を振られて、言葉にもならない言葉で、「あ、う」と呻いている。そして服を脱がされていた女性は、ずっと顔をうつむかせたまま一言も声を漏らそうとしない。
その様子に、ルシフルは肩をすくめた。
「ま、悪ふざけであったことは認めるけれど、個人卓なんだ。珍しい話ではないし、私たちだけ責められるのはお門違いだな」
「……いくら」
「うん?」
「今、この……こいつと、彼女の負け。いくら?」
真樹の問いに、ルシフルは気取った風にギャラリーを見て、そしてディーラーを見やる。
それまで影に徹して黙っていたディーラーは、ルシフルからの視線で察して、冷静な、第三者としての口調で告げた。
「臼井様は現在七百二十万の負債を抱えています。そして、負けが一千万を超えた場合、そこの女性が担保として、対戦相手に委譲される取決めです」
あまりの金額の大きさに、目まいを覚えることすらもできない。漠然としすぎていて、それがどれだけの大きさなのか判断しきれなかった。
しかし、今現在の真樹の所持金からすれば、到底届くことのできない金額だというのは分かる。少し前にヒズミのおかげでルーレットで大勝したといっても、合計で言えば七十万程度しか持っていないのだ。その十倍近い金額を前に、真樹はあまりにも無力だ。
結局、頭に血が上って乱入したはいいが、彼女は何もなすすべも持っていないのだ。どんなに義憤に駆られようと、どんなに矜持に従おうと、そこに力が伴わなければ、反抗することもできない。無力感を今更ながらに感じて、真樹はぐっと下唇を噛んだ。
そこで、またしてもヒズミが口を開いた。
「ほらよ、『お姉ちゃん』」
口だけではなく、彼は手までも動かした。
彼の差し出した指の間に挟まれているのは、この船のIDカードだった。
そんなものをあっさりと手渡しながら、彼はこれまたどうでもいいことのように言う。
「さっきの勝ちと合わせて、三百万ある。使いたかったら、使えよ」
「ちょっと、それ、どういう」
「引けねェんだろ」
仮面越しの瞳が、まるで真樹の心を射抜くようだった。
「アンタは選択しちまったんだ。一歩を踏み出しちまったんだ。――賭けちまったんだよ、すでに。だったら、あとは『
「……でも、そんな大金」
「はんッ。そんなもん、あぶく銭だっつーの。それに、このレートじゃあ、大した金額じゃあねェ」
あっさりと言い切ってしまう彼の精神に気圧される。
しかし、確かにここまで来たら引くに引けないのも確かだった。さすがに頭に上った血はほとんど下がってしまったが、周囲の目がすでにきつい。場を乱し、せっかくの『余興』を台無しにしたのだ。それもむべからぬことという感じか。
真樹は、素直にヒズミのカードを受け取った。
「……分かった。ありがとう」
「勝負すんならちゃんと殴りあっとかないと、後が怖いって。なあ? ルシフルさんよ」
すっかり場の支配者となってしまったヒズミは、挑発するようにルシフルに話を振る。
「そういうわけで、そこのなっさけねー男の代わりに、この姉ちゃんが相手するってことでいいよな。ま、あんたもここまで馬鹿にされたら、ただじゃひけねぇだろうしよ。どーせだ。勝ったらこの姉ちゃん裸にひん剥いて土下座でもさせりゃいいんじゃね?」
「ふむ。それは悪くない相談だな」
ヒズミの挑発的な口調も、ルシフルにはそれほど効果はないようだった。
その助言だけは聞き入れるつもりなのか、真樹を見ながら見下すような口調で言う。
「面白い。なら、君が今の彼らの負債額七百万分を私から勝てば、何事もなくこの賭場をしめよう。ただし、君が負けた時――資金以上の額を負けた時には、何か一つ、こちらから要望を聞いてもらおうかな?」
あんまりと言えばあんまりな要求。
しかし、娯楽をつぶされたギャラリーたちは、それくらいの要求でなければ、真樹のことを許さないだろう空気を放っている。
引くに引けない状況。
臆病風に一瞬吹かれながらも、真樹は己の中の勇気をありったけかき集めて、ルシフルを真正面から見つめ返して、うなずいた。
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