緑青日嗣は猛毒である 其ノ肆


 起きてからの記憶は、ひどく曖昧あいまいなものだった。ただ言えるとすれば、起きてからの出来事は今まで見たどんな悪夢よりも悪魔的な内容だったことは確かだ。


 まず、頭に直接叩きつけられるような怒号どごうによってわたしは目覚めた。階下から響いて来るその声は父のものだった。わたしの名前を叫んでいる。


 恐る恐る部屋から出て階段のふちから身を出してみると、階下には父がいた。常々つねづね血色が良すぎると思っているその赤ら顔に目を向けると、父の焦点の合ってない瞳に吸い寄せられるようにして目が会ってしまう。


 ただひたすらに、父の知らない場所へ逃げたいと思った。だが唯一の逃げ道は他ならぬ父によって塞がれている。

そんな事を考えているわたしに向かって父は、先程とは打って変わって静かな、だけど罪人にはめられる手枷てかせのように絶対的な拘束力をはらんだ声で一言、降りてこいと言った。


 したがっては駄目だ。そう理性が告げる。階段を挟んだこの距離でも、今の父の吐き出す息がどれ程酒臭いものなのかは、容易に想像できた。そこからみちびき出される結果は、わたしがこれまで幾度いくどとなく体験してきたことを、また味合わなければならないということ。


 そんな考えとは裏腹に、怯えたわたしの本能は、父の言葉に従ってしまう。階段を一段一段下りるたびに、わたしは今から起こる不条理ふじょうりを受け入れるべく心の準備をする。理由わけの分からない怒りや嫌悪を受け止めていく。そして最後の一段を下りるとき、あきらめを受け入れる。


 バチンという音と共に左頬ひだりほほに熱が走る。


 ほらやっぱりこうなった。言わんこっちゃない。頭の中でそんな声がした。


 そしてまた、怒鳴られる。いつもと何ら変わらない。


 怒鳴っている内容も、怒鳴られている理由も全く分からなかった。父は延々えんえんと、お前がだらしないからだとか、お前の返事が遅いからだとか言って自分の正しさを証明することに必死になっている。父はいつもそうだ。どうにかこうにか色々こじつけてはいるが、本当はわたしを怒鳴って殴ってさ晴らししたいだけ。何にも出来ない自分をわたしを殴ることで少しでも優良な存在だと思いこみたいだけ。


 そんな様子をわたしが無言で見つめていると一旦証明を止めて、そして今度は反対側の頬をさっきよりも強い力でぱたいてまた怒鳴る。今度の理由はわたしにも何となく分かった。大方おおかた、わたしの目が気に入らなかったんだろう。


 わたしを二度叩いて、鬱憤うっぷんを晴らすこどが出来た父は、お前が悪いんだと小さな声でつぶやくと、リビングへと戻っていった。リビングの扉が乱暴に閉じられるまでわたしは絶対に無表情を崩さなかった。


 そしてわたしは家を出た。


  気がつくと金色こんじきに光る満月の下、街灯の光をたよりに夜道を歩いていた。服装はもちろん黒いセーラー服のままだ。素足のままローファーを履いているので、一歩進むごとに足の甲が擦れて痛んだ。


 父は初めて会った当時からわたしのことを嫌っていた。ただ単純にソリが合わなかったんだろう。だがそれでも父を愛した母はわたしのことなどお構い無しに父と再婚した。それはわたしの本当の父さんが亡くなってからわずか二年後のこと。


 きっと母は寂しかったのだろう。父さんという後ろ盾の無いことが不安で耐えられなかったのだろう。


 結婚当初、父はまだわたしに暴力を振るうような人ではなかった。どちらかというと、今ほど酒も飲まず、大人としてのモラルは持っている人だった。だから結婚生活は周囲の家庭とさして変わらないものだった。


 しかしそれは当時父が、勤めていたコンピューター系の会社をリストラされたことによって崩れた。


 そう、わたしも緑青日嗣の噂と一緒だ。リストラや社会経済、そんなものの余波で人生を狂わされた。


 涙なんて出てこない。そんな段階たんかいは数年前に通り過ぎた。今はもう、この生活に対して何も感じない。


 これは悪夢なんだ。ふとした居眠りの合間に見た悪夢が今もなお続いているに過ぎない。どんな悪夢も、目が覚めてしまえばほとんど覚えてないものだ。だからわたしは諦めを受け入れる。明日、学校へ行ってしまえば家族のいざこざはただの夢として忘れられる。


 そんなことを考えていると不意に、ある物に目がまった。それは新築住宅の前に立てられている入居者募集中という内容の看板だった。それには仲睦なかむつまじい様子の家族写真が貼られている。長女役であろう笑顔の綺麗な女優と、長男役の活発そうな子役が手を繋いでいる後ろでは、よくテレビで見かける中年の有名俳優と、アラサー女子を代表する女優が両親役として並んでいる。


 家を出たときからずっと握りしめていた拳にさらに力が加わった気がした。


 これが普通なんだろうな。ふと、そう思ってしまう。これがいけなかった。


 その幸せは、わたしにとっての当たり前ではない。一旦そう考えてしまうと、わたし自身をおさえつけていた鎖が少しずつゆるんで行くのを感じた。


 すると唐突とうとつに、あの看板を思いっきり地面に叩きつけてやりたくなった。だが、そんな考えは直ぐに理性的な観点から頓挫とんざする。


 我ながら、らしくない暴力的な考えだったと思う。これも父の影響だろうか。これじゃあいけないとわたしは、これ以上何も見ず、何にも影響されないように下を向いて歩く事にした。規則的に続く街頭の灯りと、どこまでも続く真っ黒なコンクリートが再びわたしの精神に静けさを取り戻すまで。


 いつの間にか、わたしの足は自然といつもの避難場所へ到着していた。


 そこは近所にある公園だ。わたしは家に居られなくなるとここへ逃げ込む。ここは母が仕事から帰って来る際には必ず通らなければならない道だ。だからわたしは、わざと道路から見えやすい場所に立つ。そして、母がわたしを見つけるまでを、何とも言えない複雑な心境で待つ。しかしながら、母の仕事が終わる時間まで食料も無しに待つとなると、せめて財布でも持って来れば良かったとくやまれた。


 お腹空いたなあと思いながら、わたしはいつものように公園に足を踏み入れる。

 

 すると、そこに彼女はいた。


 事故防止のため、市によってほとんどの遊具が撤廃され、寂寞せきばくとした公園の真ん中あたり、土色をした岩石がドーム状に積まれたような遊具の上、遠くから獲物を探す猟犬のように緑青日嗣ろくしょうひつぎは遥か彼方かなたを見つめて鎮座ちんざしていた。すぐ隣にある街灯が彼女の整った横顔を照らしつけている。反対側の地面には彼女の影が大きく映し出される。


 夜風に吹かれた彼女のしなやかなロングヘアが、影の中でセーラー服やスカートのらめきと絡み合って、動物のたてがみたいに脈打っている。その姿はさながら得体えたいの知れない高貴な獣のように思えた。


 その蠱惑的こわくてきな美しさは正に人間離れしたものだった。


 わたしがどうするべきか迷っていると、緑青日嗣がいきなりわたしの気配を察知したかのようにこちらを向く。


 目が合う。父のときとはまた違った緊張感がわたしを包み込む。


 だが、緑青日嗣は直ぐに目をらしてしまう。それはわたしの存在に興味を失ったというよりはむしろ、わたしの存在を受け入れ、手招きしているように思えた。


 どうしようもなくわたしはその誘いにのる。獣の巣に立ち入る慎重さでもって、緑青日嗣の影に足を踏み入れた。


「月を意味するルナの語源であるラテン語のルナシィは狂気を意味するそうよ。昔、外国では月が発する霊気あてられると気が狂うって信じられていたの。全くもって莫迦ばからしいと思わない」


 緑青日嗣はまるで長い間連れってきた友人に、ふと語りかけるような口調でそう言った。


 わたしはというと、疲れと緊張で、すかっかり混乱してしまっていて返す言葉に困る。だが、そんなわたしを尻目に彼女は話を続ける。


「だけどね、人間、用心に越したことはないものよ。それに最近通り魔も出るらしいし。夜道の独り歩きは避けるべきじゃない。特に貴女あなたみたいな女子高生って人種はね」


 そう言うと彼女はくすくすと笑った。


「あなたもわたしと同じ女子高生じゃない」


 さっきまでずっと苛立いらだっていたせいか、語気を強めて言ってしまった。あしをとるようで子供っぽかったかなと口に出してしまってから思う。


 そんなわたしの言い草に対して彼女はわたしの目を見つめて、はぐらかすように小首をかたげるだけだった。その仕草は不思議とミステリアスな彼女に馴染なじんで見えて苛立ちはもう感じなかった。


「そんなことより月下さん。確か月下であってたよね。それでどうしてこんな夜遅くにこんな場所にいるの。別に、わざわざ満月を鑑賞しに来たわけじゃないでしょう」


 どきりとした。心臓が高く跳ねる。やっぱりかれた。わたしの一番話したくないことを。わたしが一番他人ひとに話したくないことを。


「いや、あのう‥‥‥」


 思わず情けない声が出る。うまくはぐらかせる嘘を探すものの中々思いつかない。わたしはなすすべもなく神頼みでもするように、地平線と中天の中程に留まっている月をあおいだ。雲に遮ぎられること無く万遍まんべんに降り注ぐ月明かりがまぶしかった。


 すると緑青日嗣が月明かりに照らされたわたしの顔を、じいっと見つめていた。しまった、と思う。その目はわたしの左頬に向いていた。


「ああ、そうだね。訊ねた私が野暮やぼだったよ。ごめんね。もっとよく顔を見れたら良かったんだけどね。それで、お父さん、それともお母さんどっち。よければ答えてくれないかな」


 変に気遣った声で発せられたその台詞は、事情が全て分かったということを暗に示したものだった。

 わたしは肝を抜かれた。適当なことを言ってはぐらかす気力も削がれる程に。ただ、それでも否定の言葉を発そうと悪足掻わるあがきしてみたが、嘘を吐く隙を緑青日嗣は与えなかった。わたしが口を開いた刹那、獣の瞳がわたしを見つめていた。凄味すごみまとったその眼は無言のうちに語りかけてくる。曰く、嘘は吐くなと。


「別に怯える必要はないよ、月下秋乃。それに畏れる必要もね。だけど信頼はして欲しいな。だから貴女の好きなように答えていいよ。もちろん答えなくてもね。だけど嘘は駄目」


 彼女はそう言うと、その美しい口元に薄っすらと笑みを浮かべて口を閉じる。


 どうしよう。どうするべきなんだろう。これまででこんなシチュエーションは何度かあった。一番記憶に新しいのは中学生のときだ。クラス担任のお節介な年配の女教師に傷の事を深く問い詰められた事があった。そのときは確か腕の傷で、それは確かいつものように父がささいな事に腹を立てて壁に投げつけたビール瓶の破片が偶然わたしの腕を切り裂いて出来たものだった。


 その傷を見た担任は、他人事にもかかわらずひどく親身になって事情を聞いてきた。だがわたしはそれをわずらわしく思って嘘を吐いた。もう何と言ったかすら覚えていない程にいい加減な嘘を。


 もちろん父や、父の暴力を見て見ぬ振りをする母をかばいたかったわけじゃない。わたしが、わたし自身のみじめさを突きつけられるのに我慢ならなかったからだ。


 もし、父に暴力を振るわれていますとでも言ってしまえば途端わたしの印象は、一人の中学生から父に暴力を振るわれている可哀想な中学生へと変貌してしまう。自分でいくら気にしていないと言おうとも、周囲の目は憐れみを含んだものへと変わってしまう。そしてその目を通してわたしがわたしを見てしまったら最後、わたしは現実の中でもわたしでいられなくなる。


 あの目は、これまでの人生の中で何度も見てきた。そのほとんどは幸運なことに他人に向けられていたものだった。無論のこと、十年とその半分以上人生を生きてくればそういう場面に出くわしてしまうことは多々あるだろう。テレビのニュースしかり、学校然り、だ。


 そんなとき、あの目を見るたびに考えてしまう。あの目は動物を見る目だと。決して人を見ている目ではないと。

ペットショップでゲージの中で縮こまっている動物を見るとき、人は幾ら口々に可愛さを表す形容詞を並べようとも目だけは、にこやかな笑みの裏にいやしみに似た憐れみを抱いている。


 あんな目で見られるのはまっぴらだった。人としての尊厳すら失ってしまう。わたしはちっぽけなプライドでもってそう考える。


 ならば、目の前の彼女はどうだ。身の上話を打ち明けたとしたらわたしを何と見る。人か動物か。両親を殺されたかもしれない元不登校児の少女はわたしを憐れむだろうか。自然とそうはならないような気がした。


 そう思ったのは部長から聞いた噂話からでもなく、理由はどうあれ彼女がたった独りでこんな時間にこの公園にいたからでもなく、ましてや下らない同族意識からでもない。それは酷く単純なことで、わたしがこの時既すでに彼女のミステリアスな雰囲気に魅かれてしまっていたからだろう。

 だから語った。わたしの憐れな身の上話を。


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