第7話 衝撃と栄光と別離 ①

 スノードロップは、別名「春を告げる花」とも言われている。イギリスではまだ肌寒い雪解けの二月の初めから咲き始める。

 花びらはその名の通り白い雪の滴のように可憐に俯く姿だが、その小さな花は寒さに負けずに力強く咲こうとする。

 花言葉は「希望」。

 ロンドンの中心部でウェストミンスター地区からケンジントン地区にまたがる王立公園、ハイド・パークでも、その広大な敷地のあちこちでスノードロップが、まだ冷たい風に花びらをそよがせている。

 彼女たちは水仙に似た気品ある香りを風に乗せ、人々に春が近づいていることを優しく告げていた。

 だが、この日イギリス国内の各地からここへ集まってきた少女達はひどく緊張していて、春を告げる芳香へ心を向ける余裕などなかった。

 ただ、誰もがそうだった訳ではない。

 俯いて地面を見ることの多かった人々は、ささやかな春の息吹にいち早く気づく。

 イギリスの二月は、辛い冬の日々を耐えてきた人々にこそ、季節が巡る喜びを誰よりも早く与えてくれるのだ。


「わたし、この花、好きなんだ」

「へぇ、かわいい花だな」

「うん。小さくて優しい香りがして、お母さんも好きだったの」

「そうか」


 しゃがんで花びらに鼻をつけた小柄な黒髪の少女は、「いい匂い。ほら、嗅いでみて」と、傍に立っていた巨漢を招き寄せた。


「うん、いい匂いだ。オレ様も好きだな」


 そのゴツい顔に可憐な花はちっとも似合わなかったが、男が顔をほころばせると少女ははにかんだ顔に嬉しそうな表情を浮かべてうなずいた。

 二人の傍らを硬い表情の少女たちが通り過ぎてゆく。彼女たちの傍にはマネージャーらしい男性や母親らしい女性などが付き添っていたが彼等も緊張した面持ちをしていた。

 これからイギリスで最も権威あるオーディションへ挑もうとしているのだ。無理もなかった。

 彼等は、呑気そうに道端で花を楽しむ二人を参加者ではなく観客か公園を散策しているカップルぐらいにしか思っていなかった。

 だが、その二人の胸元には紛れもなく「ブリティッシュ・アルティメット・オーディション」の参加資格を証明する小さなプレートが、首から架けられている。


『オーディション出場登録番号D-一〇三四 エメル・カバシ』


 プレートをそっとつまんで掲げると、エメルは恥ずかしそうに笑った。


「私、出られるんだね。それだけでも何だか夢みたい」

「おう、夢だ夢だ。夢だと思っとけ。そうすりゃ緊張せずに歌えるだろ」


 ドラ声で言うとデブオタはガハハハハ、と豪快に笑ってエメルの背中をどやしつけた。

 だが、豪胆な彼でさえ今日ばかりはさすがに緊張の色が隠せなかった。


「まだ混んでるみたいだけど時間じゃない? そろそろ行きましょう」

「お、おう」


 だが、受付のゲートの前は出場者でまだごった返している。手続きが終わっても会場の中に入るのを躊躇って付近をうろついている者も多く、混雑に輪をかけているようだ。

 遠くからそれを見て「空くまでもうちょっと待つか」と、尻込みしたデブオタの手をエメルは引っ張った。


「ダメよ。あんまりグズグズしてると受付時間をオーバーして失格になっちゃうかも知れないわ」

「そ、そうか」

「ほらほらっ」


 ためらうデブオタの手を引っ張ってエメルは受付へ歩き出した。デブオタは苦笑して、されるがまま連れてゆかれる。

 彼はふと感慨深い顔で、自分の手を引く目の前の牽引車を見やった。


(エメル。お前さ、歌手になれよ)

(そ、そんな……とても無理です)


 一年前、自分には何の可能性もないと諦めきっていた少女。いじめられてもただ泣いてばかりいたあのエメルが、何という変わりようだろう。

 あの頃、脅したりすかしたりして励ました自分が今では逆に引っ張られている。


「強くなりやがって……」


 思わず眼を細めたデブオタだったが、「デイブ、あれ何かしら?」エメルが向こうを指さしたので、彼は「ああん?」と顔を向けた。

 ごった返す人々の中で何やら受付のスタッフへヒステリックに叫んでいる少女がいる。

 周囲の人々は彼女の剣幕に押されるように遠巻きに輪を作っていて、その輪の端に二人も加わった。


「何でよ。何で私が入れないのよ!」


 地団駄を踏む彼女は、なだめようとする受付スタッフに対して自分がオーディションの事前審査に不合格だったのは何かの間違いだ、出場させろと喚きたてていた。


「間違いではありません。先ほど確認を取りました」

「それが間違ってるの! さっきから言ってるでしょうが!」

「いいえ。照会したところ、ローザリーデ・レイノックスへの審査は適正に行われ、出場は認められなかったと審査委員会から回答がありました」

「嘘よ! 私が不合格だなんて絶対にあり得ない! 出場を認めなさい!」


 冷徹な返答が返れば返るほど、彼女は意地を張って激昂した。口惜しさの余り、門前払いされたことをどうしても認められないのだ。


「何よ! どうせここの出場者は業界の関係者とかコネで認められた人たちばっかりなんでしょ? だから私みたいな何のコネもない奴はハネられるのよ! そうでなきゃおかしいわ!」


 プライドなどとうに捨てているのだろう。捨て鉢になった少女は、遠巻きに見ている出場者達一人ひとり指差し「幾ら金を積んだのさ!」「どこのプロダクションの口利きで受かったのよ!」と、罵り始めた。


 手が付けられないと言った顔でスタッフが向こう側に合図する。ゲートの前で厳めしい顔をして立っていた二人の警備員が近づいて来た。


「図星で後ろめたいから私をここから追い出すのね。そうなんでしょ!」

「それはおかしいわ」


 それは皮肉な口調ではなく、心底不思議そうな声色だった。

 ハッとして振り向くと、輝くような美しい金髪をした少女が首を傾げている。


「何がおかしいって言うのよ!」

「だって、私は去年の一二月に所属していたプロダクションをクビになったのよ」

「え?」

「あなたの言うことがもし本当なら、クビにした私の出場なんて認めるはずないもの。でも……」


 少女は細い首に掛けたプレートを掲げて見せた。


『オーディション出場登録番号B-〇二五三 リアンゼル・コールフィールド』


「それは……」


 思わず口籠もった少女へ向かってリアンゼルは静かに言った。


「私は無所属なの。あなたと一緒の立場だったのよ。じゃあ何故、私は合格したのかしら」


 言い返すことが出来ず、唇を震わせて俯いた少女にリアンゼルは諭すように語りかけた。


「あなたと私の立場に差はなかったはずよ。だから歌に差がついたとしか思えない。私、あなたに負けない自信ならあるわ。誰よりも練習した、努力したって、それだけは胸を張って言えるもの。あなたはどうなの?」

「……」

「でもあなたの気持ちはすごくわかる。だって……」

「何よ、自分は合格したからっていい気になって!」


 少女はいきなりリアンゼルの言葉を遮ると、涙目で睨み付けた。


「待って! あなたをバカにするつもりなんてこれっぽっちもないの! だってあなたは私に似……」

「うるさい! 黙れ、黙れええええ!」


 金切声にも似た絶叫をあげた少女の目から涙が溢れた。


「リアンゼルって言ったわね。私にそうやって上から目線で恥をかかせて……覚えてらっしゃい! 今に、今にあなたなんか……」


 今にどうしようというのか。

 涙声で捨て台詞を吐くと、少女はわっと泣き出してその場から逃げだした。

 その背中に向けてリアンゼルは懸命に呼びかけた。


「あなたは私よ! 私も去年そうだったのよ! 悔しくて泣いたの、逃げたの! そんな私が今年は出場出来たのよ。だから……頑張って! いっぱい練習して! 来年はきっと出場でき……」


 少女は人ごみの中に紛れて見えなくなった。リアンゼルは暫くの間ぼう然となったが、肩を落として下を向いた。


「リアン、あなた……あなた……」

「悪いことしちゃった」


 驚愕した表情を向けている傍らのマネージャーに気が付くと、リアンゼルは寂しそうに笑った。


「あの娘、去年の私だったの。自信だけで努力なんか全然足りなくて。でも希望だけで胸がいっぱいだったあの頃の私だったの。黙っていられなかった。でも……」


 目元を袖で拭ったリアンゼルを慰めるように風がそよぎ、金色の髪を優しく揺らす。

 リアンゼルの肩をそっと抱いたヴィヴィアンはこの時、彼女を栄光の座に就かせることが出来るのなら自分の生命を差し出してもいいとさえ思った。


「いいのよ。今は惨めで悔しくて何も見えていないだけなのよ。あの娘はきっと分かってくれるわ」

「……そうだといいな」


 ヴィヴィアンはため息をついた。周囲に人がいなかったら思い切り抱き寄せて頬ずりしたかも知れない。

 だが、彼女はそんな気持ちを抑えると、そっと肩を押した。


「さあ。行きましょう、リアン」


 頷いて歩き出そうとしたリアンゼルはふと、視線を感じて立ち止まった。


「えっ?」


 逃げ去っていった少女を注視していたと思っていた周囲の人々はみんな自分を見ていたのだ。それも、誰もが好意と共感の温かな眼差しを向けている。

 困惑して周囲を見回したリアンゼルは、気まり悪そうな笑顔を浮かべたが、その視線のずっと向こう側に自分の見知った顔を見つけた。


「……」


 エメルは、かつてのいじめっ子の振る舞いを、驚きの目で見つめている。

 リアンゼルは、エメルに気付くと以前と同じような憎しみに歪んだ顔を向けようとした。

 だが、弱々しく睨み付けることしか出来なかった。

 そして、エメルの横にいるデブオタに気が付くと彼女はまるで怯えたように顔を逸らしてしまった。


「?」


 自分以上に憎んでいるはずのデブオタに何故怯えるのだろう、とエメルは訝しげに振り向いたが、当のデブオタは真剣な眼差しを彼女へ向けていた。


「デイブ……」

「エメル、アイツに油断するな」


 厳しく引き締まった顔で彼はささやく。


「野郎、中の人が入れ替わったな」

「中の人?」

「別人になりやがった。人を踏みつけて見下すかつてのクズなら楽勝だったんだがな。アイツ、手強いぞ」


 デブオタは肩をすくめた。

 だが、「そうか……だからここに来れたんだな」と言ったその顔は、どこか清々しかった。まるで好敵手として彼女をついに認めた、とでも言うように。

 見上げるエメルの胸にむらむらとリアンゼルへの敵意が沸き起こった。彼にそんな顔をさせたことが妬ましかったのだ。

 嫉妬の入り混じった闘志で、彼女はかつてのいじめっ子を睨みつけた。


「……負けないわよ。今までさんざん私を虐めて、デイブをバカにしておいて、何が“頑張って”よ。負けるもんですか」

「おお、負けないが二回もきたな! 一年前のお返しだ、泣きべそかくくらいコテンパンにしてやれ」


 毒気を抜かれたエメルが思わず吹き出すとデブオタは例によってガーハハハ! と豪快に笑った。

 そんな二人に気づいたヴィヴィアンがリアンゼルの傍を離れ、近づいて来た。丁重な物腰で会釈し、にこやかに話しかける。


「こんにちは、ミス・エメルのプロデューサー」

「あ、ど、どうも。あれ? アンタ……」


 彼は、その時になって彼女が自分にこのオーディションの応募用紙を渡した女性であることに気が付いたようだった。


「やっぱり出場出来たんですね、おめでとうございます。当然そうなると思ってましたが」

「アンタ、もしかして……」

「はい、お察しの通りですわ。申し遅れましたね。私、リアンゼル・コールフィールドのマネージャーでヴィヴィアン・ラーズリーと申します」

「……」


 あっけに取られたデブオタはヴィヴィアンからの飛び切りの微笑みに、今度はドギマギする羽目になった。


「立派な歌姫を育てられて……貴方には色々と学ばせていただきました。リアンもそうだったら……」


 その顔に暗い影が一瞬落ちたが、ヴィヴィアンは打ち消すように笑った。


「今日はお互い頑張りましょうね。負けませんわよ」

「え……あ……」


 何と答えて良いのか分からず口籠もったままモジモジしているデブオタの手を強引に取って、ヴィヴィアンは握手した。


「よ、よろしく……」


 デブオタはかろうじて答えた。その隣からエメルが、デブオタに気安く触るなと言わんばかりの顔でヴィヴィアンを睨み付けている。

 颯爽と戻ってきたヴィヴィアンに、リアンゼルが不思議そうな顔を向けた。


「ヴィヴィ、あの二人と面識あったの?」

「当然じゃない。あなたの倒すべき敵なんでしょう?」

「え、ええ……それでその、何を話してきたの?」


 唇に指を当てたヴィヴィアンは「宣戦布告よ」と笑顔でウィンクしたが、一転、厳しいマネージャーの顔でリアンゼルに告げた。


「頑張りましょうね。あの娘は間違いなく勝ち上がってくるわ。雷鳴のメイナードもピクシー・スコットも認めたあの男が手塩にかけた歌姫ですもの……強敵よ」



**  **  **  **  **  **



 その日、ロンドンの空は薄雲が少しばかりかかっている程度だった。イギリスではまずまずの上天気である。

 そんな空の下で歌姫達の小さな幕間劇があった頃、その通用ゲートから会場をぐるりと回った反対側、正面ゲートからは観客達が続々と入場してきた。

 家族連れ、若いカップル、歌手と同じ世代の少女達、スカウトマンらしいスーツの男性、老齢の夫婦、休暇中の軍人から付き添いに車椅子を押させた患者まで老若男女、様々な人がいる。オーディションの開始時間が近づくにつれ、人数はますます膨れ上がっていった。

 見たところ、すでに二万や三万を優に越えそうなほどの人々がひしめいている。

 それでも後から後から、観客はハイド・パークの広大な敷地すら埋め尽くしそうな勢いで更に増えていった。

 高さ二メートルほどのステージの上からその様子を眺めていたデブオタは、我知らず膝が震えだすのを抑えられなかった。

 目を逸らすように横を見れば、鉄骨のフレームで組み上げられた巨大な櫓が聳え立っていた。櫓の中段くらいの高さに巨大なスピーカーが置かれている。

 同じ櫓は反対側にもあり、互いの頂上から陽光を遙かに上回る強烈な照明をステージの上で交差させていた。

 観客席の最前列には大小のテレビカメラがずらりと並んでいる。中継するテレビ局は、ひとつやふたつではないのだ。スタジオ用のカメラが大砲の砲列よろしくこちらを向いていた。


「ご来場のお客様にご案内申し上げます。まもなく第四八回ブリティッシュ・アルティメット・オーディションを開始いたします……」


 巨大なスピーカーはステージ脇の他にも、会場のあちこちに設置されている。そこからアナウンスの声が流れると、人々の喧噪の声は一層高まった。

 たじろぐように後ずさったデブオタが踵を返すと、ステージから距離を取った審査員席にスーツを着た男性や品のあるドレスを纏った女性が着席する様子が視界に飛び込んできた。

 誰がどんな人かデブオタには皆目わからなかったが、全員が著名な歌手や音楽業界の重鎮らしかった。スタッフがお茶を配り、関係者らがひとりひとりに丁重に挨拶している。


「おい。これってひょっとして、とてつもない大イベントなのか……」


 つぶやいた自分の独り言が震えていることにデブオタは気がついた。

「ブリティッシュ・アルティメットシンガー・オーディション」を動画で見ただけとはいえ、デブオタは、今日が厳しい審査の戦いになるとそれなりに覚悟はしていたのである。

 だがオーディションのスケールそのものは、今まで受けてきたオーディションがせいぜい二、三倍くらいになった規模で、テレビカメラ一台で中継する程度だろうと、タカを括っていた。

 だが、目に入ってくるものは、今まで受けてきたオーディションとは明らかに格式もスケールも桁違いだった。

 日本で声優やアイドル歌手のステージに親しんでいたデブオタは、世界的ミュージシャンのライブステージと見まごう豪華な設備や膨大な観客数を目の当たりにして、ただただ圧倒されるばかり。


『イギリスでは「ブリテッシュ・アルティメットシンガー」は特別です。アルティメットって名前がつくくらい凄く権威のあるオーディションなんです』


 奇しくもちょうど一年前エメルが語った言葉の意味が、今頃になってようやくデブオタには実感出来たのだった。

 顔色を失ってゆくデブオタへ追い打ちをかけるように、彼の頭上で大音量のアナウンスが流れる。


「間もなく開始時間となります。ご静粛に願います。どうか、ご静粛に願います……」


 野外ステージにあるはずの解放感など微塵も感じられない。恐れをなしたデブオタは、思わずその場から逃げ出しそうになった。

 だが……


「デイブ」


 袖を引く声で、彼はようやく我に返った。

 エメルがステージ衣装に着替えて戻って来たのだ。デブオタはホッと息をついた。


「おお、着替えてきたか。オレ様の用意した衣装、どう……」


 振り向いた彼はそこで声を失った。


「デイブ、どうかな……」


 戦慄の次は、驚愕が彼を待っていた。

 オーディションの出場者には、特典として運営側が用意したメイクとスタイリストがついて出演前にコーディネートしてくれる。

 会場スタッフからそのことを聞いたデブオタは、巨大な包みをエメルに持たせて「行って来い!」と送り出していたのだった。

 泥棒が使うのと同じ怪しげな唐草模様の風呂敷には、彼が用意しておいた衣装とメイクキット一式が入っている。

 そしてその衣装を纏い、化粧を施されて彼の前に立っていたのは、


 ――今まで見たこともない、美しい歌姫だった。


 デブオタの喉元が思わずゴクリとなった。

 見慣れたターコイズグリーンの瞳と黒髪がなかったら、彼女がエメルだと気が付かなかったかも知れない。

 巧みなメイクによってハーフの顔立ちは可憐に引き立ち、黒髪も艶を見せて美しく梳かれている。三日月の形をした銀のアクセサリーがワンポイントになっていた。おそらくスタイリストはデブオタの用意した衣装を見て、彼の意図するイメージを汲み取ってコーディネートしたのだろう。

 青みがかった銀ラメを縫い込んだ黒のドレスを身にまとったエメルは、まるで月の光から生まれた精霊のようで、息を呑むほど美しかった。

 彼女はそんなことに気がつきもせず、衣装が似合っているだろうかと心配気な上目遣いで、おずおずとデブオタの顔色を窺っている。

 凍り付いたように見惚れていた数秒間が、彼には何分……いや、永遠のようにも長く感じられた。


「お、おお、綺麗になったな。似合ってるぞ……」


 普段なら「これで優勝はいただきだぜ、ヒャッハー!」とおどけただろうが、ぼう然となったデブオタは、かすれた声でそう褒めるのがやっとだった。


(オレ様はエメルをこんな綺麗な歌姫に育てたのか……)

(オレ様はこんな凄いオーディションにエメルを連れて来たのか……)


 エメルは嬉しそうに頬を染め、俯いている。自分のドレスアップした姿は、誰よりデブオタにこそ美しく見えて欲しかったのだ。

 思わず目を逸らしたデブオタだったが、逸らした視線の先の大観衆を見て、我に返った。見惚れてばかりいられないのだ。


「エメル、ここに来て見てみろよ、すげえ人数だぜ」

「そんなにいっぱいいるの?」


 傍に立ったエメルからは、フレグランスらしいスズランの香りがしてデブオタをうろたえさせたが、そのエメルはステージ端の袖幕の影から観客席を見るや、彼とは別の意味で息を呑んだ。怯えたような声で「ほ、本当だ。凄い数……」と、つぶやく。

 それを聞いたとき、デブオタはようやく本来の自分に立ち戻った。


(そうだ、この大人数を前に歌うのはオレ様じゃねえ、彼女じゃないか)

(怯えたりボケたりなんざ、してる場合じゃねえ。エメルを支えてやらないと)


 顔面蒼白になっていたエメルは、肩に置かれたデブオタの巨大な手が急にガタガタ震え出したので驚いた。


「デイブ、どうしたの」

「すすすす凄え人数だな。イッイイイギリス人みんなここに集まってるんじゃねえのか」

「落ち着いてよデイブ。大勢だけど、さすがにイギリスの全国民ってことはないでしょ。大袈裟よ」


 だが、デブオタは「いや、エメル。お前が落ち着け」と、あべこべなことを言い出して「イスは……イスはどこだ」と急にウロウロ始めた。

 舞台裏には、オーディションの出番を待つ少女たちが付き添いと共に集まり始め、不安と緊張をない交ぜにした顔でオープニングセレモニーのスタッフ達が準備する様を眺めていた。

 不安を紛らわせる為に発声練習をしたり、十字を切って祈りの言葉を唱えている者もいる。

 だが、そんな中でデブオタの奇行は際立っていた。


「いいかエメル。落ち着け、落ち着くんだ」


 どこからか小さな折りたたみイスを見つけてきたデブオタは、無理やりエメルを座らせると「まずは深呼吸だ、深呼吸」と自分のうろたえっぷりを棚に上げて世話を焼き始めた。


「ひ、冷えたお茶を飲むんだ。体温が下がれば頭も冷えて落ち着くんだぜ」

「デイブも飲んで。そのお茶は私が淹れたのよ。ミントティーだからスーッとするわ。デイブの方こそまずは落ち着こうよ」

「おお。あ、手袋してなかったな。ほら手を出すんだ。オレ様が付けてやるから……」

「デイブ」

「少し汗かいてるな。ほら、拭いてやる」


 小さなイスに座ったエメルを相手にあれこれする様は、まるで試合を前にボクシング選手の世話を焼くセコンドだった。


「おっおお落ち着くんだぞエメル、リラックスだリラックス」


 言っている本人が一番落ち着いていない。もはやコントである。

 大観衆を見て緊張していたエメルだったが、デブオタのうろたえっぷりにとうとう吹き出してしまった。

 それがまさか、エメル以上にうろたえることで落ち着かせようとしているデブオタの演技だとは、エメルには気が付くはずもなかった。


「落ち着いてデイブ、歌うのは私なんだからデイブが慌てても仕方ないでしょ?」

「お、おお。そうだな、そうだった、その通りだ。落ち着けオレ様」


 こちらは演技ではなく自分の足が震えているのに気が付いたデブオタは、更に「オレ様も今からここのオーディション受けようかなぁ」と妙なことを言い出したので、エメルは目を丸くした。


「突然どうしたの?」

「だって見ろよ、足がこんなにカクカクしてるんだぜ。このままタップダンスでデビュー出来そうだし」


 デブオタは、いい思いつきだとばかりに「よし、見てろよ!」と、踊り始めた。

 もちろん、足がガタガタ震えているからといってそんなものがタップダンスになるはずもない。ゾンビがギクシャクと踊っているようなイビツなダンスにしかならなかった。


「うーむ、やはり無理かぁ」


 デブオタは苦笑したが、彼が踊る様子を見ていたエメルはハッとなった。


『だ……誰だ貴様は!』

『彼女のバックダンサーだ』


 惨めな結果の初回に続いて受けた二度目のオーディションが脳裏に甦る。

 デブオタの捨て身の踊りが審査員の厳しい視線を逸らし、人目を気にして怯えがちだった自分を解き放ってくれた。痛快だったあの日の出来事が、自分にどれほど自信を与えてくれたことか。

 そのときデブオタが言った言葉を、エメルは思い出したのだった。


「デイブ」

「お、おお。どうした」

「最初の予選、今からでも曲を変更出来るよね」

「ああ。確かエメルの出番はほとんど最後だったろ。たぶん大丈夫だろう」


 オーディションの出場者六十四人中、エメルの出番は六十二番目なので時間なら充分余裕がある。デブオタは頷いた。


「じゃあさ、アレやらない?」

「アレ?」


 エメルはデブオタの真似をしてニカッと笑った。歌姫というより、まるで悪戯を思いついた悪童の顔である。


「カム・トゥ・ライク・ミー(愛しておくれ)」


 デブオタは「何ぃ!?」と、今にも目玉が飛び出しそうな顔になった。


「お、お前、まさかこの大舞台で……」

「 “歌手が審査員や客を前にして怖じ気づいたら歌う前から負けだ。ビビるくらいならいっそ逆に奴らの度肝を抜いてやれ”」

「うっ……!」

「……そう言ってくれたのは、デイブだったわよね」

「お、おお」


 首をガクガクさせてうなづいたデブオタだったが、しばらくするとエメルと同じようにあの日のことを思い出したらしい。

 次第にその顔に落ち着きと、そして笑いが込み上げてきた。


「……面白ぇ、挨拶代わりにひと暴れしてやるか!」

「うん!」


 エメルの顔が、パアッと輝いた。

 観客がどれほどいようと、同じステージの上でデブオタが一緒に踊ってくれる! それだけで怖いものなんか何もないという気持ちになってしまう。嬉しさと安心感で、さっきまでの緊張や怯えなどエメルの心の中からどこかへ吹き飛んでしまった。

 ステージではオープニングセレモニーが始まったらしく、司会者の声と客席の歓声が聞こえてきた。

 だが、デブオタは例によって意にも介さず「ドゥフフフフ、もうすぐお前らの度肝を抜いてやる。待ってろよ!」と、いつもの不敵な笑顔で嘯いた。


「よし、オレ様はダンボール箱を探してくるぜ」

「じゃあ私、キャリーカートを借りてくるわ!」

「おう、見つかったらここに集合な!」


 悪だくみ顔のデブオタと笑顔でワクワクしているエメル、互いに頷き合った二人はそれぞれの探し物を求めて身を翻した。

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