第4話 それぞれに見出したもの ①

 季節は秋を迎えていた。

 イギリスの秋は朝晩がかなり冷え込む。日中もあまり気温が上がらないので天気の良い日でも薄手のコートを着込む人は珍しくない。

 公園や街路樹の木々も茶色く染まった葉をひらひらと落とし始めていたが、薄いピンクのクレマチスやアネモネはまだ花をつけていて、人々の眼を楽しませている。

 しかし、夏の明るさから翳り始めた季節は、人々の心に少しずつ穏やかな影を落とし始めていたのだった。


 リアンゼル・コールフィールドは、ロンドン郊外にある芸能事務所「デファイアント・プロダクション」の窓から街路樹から葉が落ちてゆく様子を虚ろな眼差しで見つめていた。

 手にはくしゃくしゃになった手紙を握り締めている。

 それは先週受けたオーディションの不合格通知だった。


「……」


 自分と同じ夢を目指す不届きな虫けらを全力で叩き潰す、とマネージャーに宣言してから既に三ヶ月が経過していた。

 ちょっとの間だけ全力で頑張る。ちょっとの間だけだったはずが……


「頑張ったのに、頑張ったのに……何で、どうして……」


 その気になって努力すれば、すぐプロの歌手になれる天才のはず。その自分が今になってさえ、どうしてもどこからも認めてもらえない。

 リアンゼルのプライドは幾度となく撥ね付けられるオーディションの壁にブチ当たり、さすがに傷だらけになっていた。

 壁に無意味に頭をぶつけるような挑戦を繰り返していた訳ではない。

 オーディションに落ちるたびにマネージャーのヴィヴィアンは練習プログラムを作り直してくれ、リアンゼルは精力的にそのメニューをこなした。

 その中には発声練習やダンスレッスンに混じってストレッチや筋トレといったトレーニングが書かれていることもあった。歌手に向けた修練以前の、基礎体力を鍛える初心者向けのレッスンである。

 そんなものすらあなたには足りないと云われているようで、リアンゼルには屈辱だった。

 だが、彼女はそれでヴィヴィアンに抗議するような真似は絶対にしなかった。彼女のプライドがそれを許さなかったのである。

 抗議の代わりに彼女がしたことは、書かれたメニューのノルマを黙って倍以上やることだった。

 それがリアンゼルなりのプライドの守り方だった。

 そこまで懸命に励んでいたのは、もちろんデブオタとエメルへの憎悪もあったが、ヴィヴィアンの「天才は人から言われて努力しない。自分で始めるもの」という言葉に触発されたからだった。


(自分で始めたんだもの。私にはきっとスターになるべき資格があるはず。だからそれに見合う努力をしてやる)

(エメルとあのデブの虫けら共が到底及ばない、格の違いを努力の結果で見せてやる!)


 今までにないくらい、リアンゼルは精力的に練習した。毎日へとへとになるまで歌やダンスのレッスンに励んだ。他のアマチュア歌手がレッスンを終えスタジオからいなくなっても警備員がビルを閉めると告げるまで居残って汗をかくことも珍しくなかった。

 苦しかったが、自分が成長している手ごたえも感じていた。

 だから、ヴィヴィアンからオーディションや仕事の公募を紹介されるたびにリアンゼルは自信を持って自分をアピールした。


 ……だが、どこからもオファーはなく、オーディションの合格も受賞もなかった。


 握り締めた不合格通知も、彼女は精一杯自分の歌唱力を聴かせて自信があったはずのオーディションだった。

 レッスンを始める前に不合格が今回の通知でついに二桁に達してしまったのを知っては、さすがのリアンゼルも練習する気力が萎えてしまった。

 リアンゼルはアマチェアながらプロダクションに所属しているので、予約さえしておけばダンス用のレッスンルームや音響設備の整った防音スタジオを使うことが出来る。

 だが、ここに来るたびにマネージャーのヴィヴィアンと顔を合わせることになる。

 もっとも、今日はまだヴィヴィアンと会っていなかった。


(また駄目だったなんて、恥ずかしくてヴィヴィアンに言えない)


 不合格という結果に無様な言い訳をしたくなかった。

 まだ何も練習をしていないので躊躇ったが、彼女と顔を合わせないうちに帰ろうとリアンゼルは考えた。同情の目で見られるよりはと、いつになく気弱になった彼女はこそこそと帰り支度を始める。

 だが、帰り支度が終わらないうちに扉を開けて「ハイ、リアン」と、ヴィヴィアンが現れた。


「あら、もしかしてもうお帰り?」


 リアンゼルはギクッとなったが、「ハイ、ヴィヴィ」と挨拶しながら素早く口実を考えた。


「今日ここに来たのにレッスンをお休みにするだなんて。もしかして身体の調子でも悪くした?」

「そうじゃないの。その……傘を忘れてしまったのよ。今日は曇ってるから雨が降る前に帰ったほうがいいのかなと思って」


 嘘だった。気まぐれな雨の多いこの国に住むイギリス人なら、自前の傘を持ち歩くくらい当たり前のことだった。リアンゼルも、お気に入りのバーバリーのトートバッグの中に折りたたみ傘を入れている。ちょっと雨が降ったくらいで困りはしない。

 そんな見え透いた嘘など海千山千のヴィヴィアンにはお見通しだったが、大仰に両手を挙げて応えた。


「まあ、そんなことでレッスンせず帰るだなんてもったいないことしないでよ。私、予備の傘くらい持ってるのに。このマネージャー様にそれくらい頼ってちょうだいな」

「そ、それもそうね」


 リアンゼルはきまり悪そうに「ごめんなさい」と、照れ笑いした。

 滅多に人前に見せない素直な笑顔。それは歌姫を夢見る純粋な一六歳の少女の姿だった。

 そんな彼女を優しい目で見ながら、ヴィヴィアンは「あなたにいいニュースと悪いニュースがあるの。どっちから聞きたい?」と切り出した。


「悪いニュースって先週のオーディションのことでしょ」


 リアンゼルは顔を背けるときっぱり言い切った。


「駄目だったのよね。私もさっき通知を受けたの。ごめんなさい、せっかくヴィヴィに紹介してもらったオーディションだったのに。も、もう少しだけ時間をくれる? 今度こそ結果を出すから……」


 我知らず、声が震えてしまった。

 それでも、言われるより先に自分から潔く言おうと思ったリアンゼルは正直に謝った。

 ところが当のヴィヴィアンは「ああ、それはいいのよ」と軽く流してしまった。


「先方はリアリティショー(バラエティ番組)向けに歌とトークの両方で視聴者を笑わせる歌手がご要望だったみたい。それなら歌手じゃなくてタレントを探すべきでしょうにね。リアン、それはあなたの染まる色じゃないわ。そもそも紹介した私に責任があるから気にしないで」


 意外な返答に、リアンゼルは背けた顔をもう一度ヴィヴィアンに向けた。


「悪いニュースって、オーディションのことじゃなかったの?」

「今結果が出ないことが悪いことじゃないわ」


 悪いニュースと言う割にヴィヴィアンの顔は暗くなどなかった。むしろ誇らしげだった。


「昨日社長が出張先のアイルランドから帰国したの。で、さっきあなたのことで社長に叱られたのよ」

「私のことで?」

「帰社したのが昨晩遅い時間だったの。それで、私が呼ばれたのよ。そこのレッスンルームでまだ練習している奴がいる。誰なんだって」

「……」

「リアンゼルですって答えたら、あなたの練習メニューを見てこのプログラムを消化するのに彼女はこんなに時間がかかるのかと聞かれたわ」

「それは……」

「あなたがこの三ヶ月、私が指示した練習量を自分で倍以上にしていると答えたら何も言えなかったみたい。熱心に練習しているのにケチのつけようなんかないもの、フフフ……」


 自分が倍以上練習していることを知っていたのか、とリアンゼルは驚いた。


「で、さっきまた社長室に呼ばれたの。この練習メニューの量は適正に出来ている、練習量は厳格に守らせろ、ですって。昨晩言い返せなかったのがよっぽど悔しかったのね」


 負け惜しみの強い社長なもんでね、と苦笑するヴィヴィアンにリアンゼルは「勝手に練習の量を変えてごめんなさい」と謝った。

 プライドの高い彼女も、自分の為に尽力してくれるこのマネージャーには虚心で自然に頭が下がった。彼女に謝罪することには、少しも屈辱を感じなかった。


「いいのよ。それで社長はこう言ったのよ。練習を怠けた奴は幾らでもいたが、練習を勝手に増やして守らなかったなんて、このプロダクションであなたが始めてだって」

「え?」

「このデファイアント・プロダクションで、これほど練習熱心なのはリアンゼル・コールフィールド以外にいないって社長が呆れてたのよ。しかも呆れてた癖に感心していたわ。変な社長よね」


 クスクス笑いながら「これが悪いニュースよ」と、ヴィヴィアンは告げた。


「そう……」


 ぼう然とするリアンゼルに笑いかけると、彼女は「……で、ここからいい方のニュースね」と続けた。


「リアン、ここから話すことは守秘義務を守ってね。デファイアント・プロダクションのデータベースに登録されているあなたの総合評価はCランクだったの」

「C……?」


 初めて聞かされた社内での自分の評価にリアンゼルは愕然とした。天才と思っていた自分は、そんな下位に見られていたのか。


「ま、まあ仕方ないわ。私、ブリテッシュ・アルティメット・シンガーに一次予選で落選してしまったもの。それに実績がまだ何も……」

「リアン。私は“だった”と過去形で言ったわよ」


 ヴィヴィアンは一瞬、鋭い目でリアンゼルを睨んだ。


「データベースの評価は今日、社長の指示で書き換えられた。今、あなたはBランク歌手として登録されている」

「えっ?」

「そして、社長命令で私、ヴィヴィアン・ラーズリーは今日付でリアンゼル・コールフィールドの専属マネージャーを仰せつかったの」


 ポカンとしているリアンゼルの手を取ると、ヴィヴィアンは「今日からよろしくね」と強引に握手した。


「ちなみに、この配属はイレギュラーなのよ。大きな含みがあるの」

「含み?」

「このプロダクションでは通常、専属マネージャーはAランクの歌手しか付かないの。だけど社長命令でBランクのあなたに私が専属で付いた」

「……」

「つまり、このプロダクションで最も努力しているあなたはAランク、もしくはそれ以上の可能性がある、社長はそう判断したの。これがいいニュースよ」


 そう言うとヴィヴィアンは「良かったわね、リアンゼル」と微笑んだ。


「そう……」


 何ともいえない奇妙な表情で、リアンゼルはそうつぶやいただけだった。

 彼女はずっと自惚れていた。

 決意してからはずっと独りで自分を信じ、独りで努力してきたのだ。

 頑張ってもなおオーディションは落選してばかりいる。プロ歌手としてはまだ誰からも認められていない。

 それでも……歯を食いしばって懸命に努力している姿に、プロへの可能性を見出した人が現れたのだ。そして、彼女に大きな期待を掛けてくれたのだ。

 ちょっとの間だけ全力で頑張る。最初はちょっとの間だけのはずが結果が出ない悔しさに耐え、努力し続けたことで何かが動き出したのだ。

 小さく、ゆっくりとだが、見えない大きな歯車のように。


「じゃあ、今よりもっともっと頑張らなきゃ……」

「リアン、あなたはもう社長に認められるほど頑張っている。頑張りすぎると却って弊害が出るわ。メンタルや体調の面でね。これからはその努力のベクトルと量を私が指導するから任せて」

「え、ええ」

「今日からはあなたへ厳しいことを色々言わせてもらうわよ。だけど誤解しないでね。それはあなたが厳しい指導に応えられる強さを認められた証なんだから。ちょっと厳しいことを言われてすぐ泣きだす娘、努力を放棄して諦めてしまう娘なんかとは、あなたは違う。そうよね?」

「もちろんよ、ヴィヴィ。私を誰だと思って」


 胸を張ったリアンゼルだったが、俯くと掠れたような声で「私、何で帰ろうなんて思ったんだろう。練習しなきゃ」と、ブツブツつぶやきながらまるでロボットのような足取りで自分のトートバックに近寄った。

 ジッパーを開けて中からトレーニングウェアを取り出そうとする。

 ところが、どうしたことか、手が震えてジッパーを開けられない。


「あれ、おかしいな。どうしたんだろう……」


 奇妙なリアンゼルの様子をヴィヴィアンは見て、思いついたように言った。


「いけない、うっかりしてたわ。新しいトレーニングメニューを持ってこなくちゃ。あなたに貸す傘もね。十分はかかる。だから十分間は絶対にここには戻れない。待っててね」

「うん……」


 廊下から見えないようにカーテンを閉めると、ヴィヴィアンはレッスンルームの扉を開けた。

 外に出ながらそっと振り返った。

 バッグの傍に跪いたリアンゼルは背中を向けたままで、その表情は見えない。

 ただ、俯いたままの彼女の肩は細かく震えている。

 扉を閉めると、ヴィヴィアンはそのまま背中をもたれてそこから動こうとしなかった。

 これから十分間、誰も部屋の中に入れないために……



**  **  **  **  **  **



 イチイは、日本では神社でよく見かける木である。

 しかし、イギリスでは必ずといっていいほど墓地で見かける。

 こんもりと茂った枝葉は、墓地に眠る人へ降り注ぐ陽光や雨を適度に遮ってくれるのだ。

 だから、多くのイギリス人はこの針葉樹を決して死を連想した不吉なイメージではなく、自然の墓守を見るような眼差しで見ている。

 雨の気配はないが雲の多い空の下、この小さな墓地にはそんなイチイの樹やトチノキがあちこちに植えられていた。

 芝生も綺麗に手入れされベンチもあちこちに置かれているので、そこは一見すると墓地というよりも公園に近い趣があった。


 そして、そんな墓地の中で傍に他に誰もいないことをいいことに、日本人とおぼしき一人の巨漢がだらしない格好でベンチに座り込み、先ほどからしきりにブツブツ言いながら携帯の端末らしいものをいじっている。

 自称アイドル歌手の音楽プロデューサー、デブオタは何故こんなところにいるのだろうか。


「困ったな……」


 彼は、タブレットPCの画面を何度もスライドしたりタップしたりしていた。

 画面にはバーチャルアイドル育成ゲーム『ドリームアイドル・ライブステージ』のデータリストが表示されていた。

 各アイドルの顔がサムネイル形式で並んでいる。

 それは、タップすればプロフィールや持ち歌、ランキング、クリアしたイベントや受賞歴までがすぐに確認出来る上、イベントやプレイ動画も再生出来るようになっているという、凝った仕様だった。

 デブオタがゲーム内で育て上げたバーチャルアイドルは既に全員が最高ランクに達している。そんなアイドル達のイベント歴を捲って、彼はしきりに何やらブツブツつぶやいていた。


「レナレナ、かえで、アーヤ、るるな、みぽりん……ううむ、ダメだ。みんな地道に歌唱力とかダンステクとかのパラメータを蓄えないとランクアップしねえ。いきなりレベルアップとか最終ステージにショートカット出来る裏技とかなかったかなぁ?」


 墓地の雰囲気におよそそぐわない文明の利器をいじくりまわしながら、彼は未練気に何度も画面をスライドさせたが、しばらくして「エメルを一気にデビューさせる裏技なんてある訳ねえかー」と、諦めたように肩を落とした。


「ドリステなら経験やスキルが表示されてるしイベントも自然に発生するんだけどなぁ。現実って奴はパラメータは見えないし、イベントフラグもさっぱり立たねえときた」


 彼は「参ったな、こりゃ」と、言ってため息をついた。


「イギリスが舞台で、アイドルが生身の人間、バックアップの事務所はなしでパラメータは非表示とはなんつーハード設定だよ。やっぱり勝手が違うよなぁ」


 彼は眼を落とし「これでいいんだろうか……」とつぶやいた。

 暗い顔に弱気な色が浮かんでいる。それはエメルにはまだ一度も見せたことのない、自信のない表情だった。

 と、離れた場所に植えられていたイチイの茂みの影から「デイブ、お待たせ」と、エメルが現れた。


「お、おう」


 独り言を聞かれたかとデブオタは一瞬うろたえたが、幸いエメルの耳には入っておらず、彼女は笑顔で近づいて来る。

 デブオタはホッとしながら「まぁ、ここに座れよ」と、自分の横にエメルを招き寄せた。


「花屋さんにシュウメイギク(アネモネ)あって良かったな」

「うん。デイブ、花束買ってくれてありがとう」

「なあに、そんな高い花じゃなかったし。オレ様はエメルのプロデューサーなんだからお母さんへのお花代くらい出させてくれ」


 目許の涙をハンカチで拭うとエメルは静かに微笑んだ。

 今日は、エメルの母親の一周忌。

 デブオタは練習はお休みにしてエメルを自転車に乗せ、墓参りへ連れて行ってくれたのだった。


「天国のお母さん、私の『アメイジング・グレイス』聴いてくれたかな……」

「エメルの歌だもの、お母さんが聴いてないはずないさ」


 優しくそう答えると、デブオタはタブレットPCの画面にちらっと目を落として電源を切り、ケースにしまうと薄汚れたリュックサックに放り込んだ。

 それはかつてアニメキャラが印刷されていたが長年酷使されているうちに色褪せ、幽霊じみたシルエットがうっすら残った不気味なリュックサックになっていた。


「歌手を目指して今頑張ってるって、お母さんに話してきたわ。デイブのことも」

「オレ様のことなんか話さなくたっていいのに」

「ううん、どうしても話したかったの。お母さんに一番伝えたかったの」

「そ、そうか」


 デブオタは、鼻をこすって照れくさそうな顔をした。


「ここ、風が気持ちいいな」

「うん」


 そのまましばらくの間、二人は黙り込んだ。

 近づく冬を感じるひんやりした風が頬を撫で、髪を靡かせて吹き過ぎてゆく。

 エメルはふと、思った。


(もう半年以上になるんだ)


 公園のトイレの傍で彼と出会ってから。

 プロの歌手にしてみせると彼が宣言してから今まで、彼女の身の上はまだ何も変わっていない。だけど、確かに変わったものがある。

 毎日のロードワークは、ヘタばらずに四キロを完走出来るようになっていた。

 クラシックバレエのレッスンもよろけたり躓いたりすることはなくなった。低い塀なら飛び越えられそうなほどの跳躍力を身につけ、ターンだって四回程度なら優美に回転出来るくらいになった。それはシューズを四足履きつぶし、地べたに置いたゴムマットが擦り切れてとうとう穴がうっすらと開くまで練習した成果だった。

 発声も上達した。少し離れた場所にあったオークの高い木の梢から鳥が驚いて飛び立つほど明朗でよく響く声を出せるほどになった。息も継がずに長いフレーズを歌えるようにもなった。

 オーディションは……もうどれくらい受けただろう。

 エメルはもう正確な回数を思い出せなかった。


「デイブ、明日のオーディション頑張るからね。お母さんにもそう言ってきたの」

「おう。お母さん、きっと見守ってくれてるさ。頑張れよ。でもエメル、リラックスな、リラックス」

「うん、大丈夫よ」


 エメルが笑いかけると、デブオタはちょっと眼を見開いて驚いた表情になった。


「エメル。お前、綺麗になったなぁ」

「き、綺麗?」


 今まで親以外に自分の容姿を褒められたことのないエメルは、裏返った声で「突然何言い出すの!」と叫んだが、デブオタは大真面目に頷いた。


「いや、本当だってば。最初会ったときは躓いたらそのままゴロゴロ転がりそうなぽっちゃり体型だったのに、モデルみたいに痩せたし」

「そ、そう?」


 実際にエメルの容姿は、以前とはずいぶん変わっていた。


「おお。それに笑うとかわいくなった。前はオドオドしてばっかりだったのに」

「デ、デイブったら! 私、そんなに変わってないよ」


 エメルは恥ずかしそうに笑った。怯えることがなくなった彼女は以前よりよく笑うようにもなっていた。

 痩せたこともあったが、デブオタのせいで明るく朗らかになったエメルの雰囲気は、見違えるように変わった。控えめで慎ましい佇まいから十六歳の少女だけが持ち得る、あのみずみずしい魅力が見えそうなくらい滲み出ていた。

 エメルは顔を真っ赤にしたが、デブオタはそんなことなど気にも留めず、コブシを握り締めて嬉しそうに自分に言い聞かせた。


「うん、間違ってない。エメルの嬉しそうな顔を見ろ。オレは……オレ様は間違ってなんかいない」

「デイブ、そろそろ行きましょう」


 エメルがソワソワして照れ隠しのように言うと、デブオタは頷いて「じゃ、帰るか」とベンチから立ち上がった。

 彼が墓地の入り口に停めてあった自転車のサドルに跨ると、エメルはいつものように後ろに座って彼の腰に手を添えた。

 彼の漕ぐこの自転車に乗って、オーディション会場に何度連れて行かれたことだろう。

 プロの歌手なんて、どこかまだ夢物語のように思える。

 だけど、エメルの中には、もしかしたらいつか自分に光が当たる日が来るかも知れない……そんな期待がいつしか芽生えていた。

 その「もしかしたら」は、明日のオーディションかも知れない。

 そうなったら天国のお母さんはどんなに喜んでくれるだろう。

 何よりいま、自分の前で自転車を漕いでいるデイブはどんな顔をしてくれるだろう……

 さっきのデブオタの優しい顔が浮かんでくる。

 エメルの顔は我知らず綻び、胸は高鳴った。

 だけど……


「合格者を発表します。一四番、二六番、四一番です。番号を呼ばれた方はそのまま残って下さい。呼ばれなかった方はそのままお帰りいただいて結構です。お疲れ様でした」


「もしかしたら」と思った、その日。

 オーディション用に用意されたスタジオに並んだ少女達は、番号を呼ばれ目を輝かせた三人を除いて皆、一様に肩を落とし、三々五々と帰り支度を始めた。

 そんな少女達の中にエメルもいた。


(また、駄目だった)


 あの合格した少女達が持っていて、自分に足りなかったものは何なのだろう。

 毎日あんなに練習してるのに、まだ何かが足りないのだ。足りなかったものはたくさんあるのだろうか。それともあと僅かに足りないだけなのだろうか。

 ロッカールームで着替えながらエメルが思わずため息をつくと、偶然隣の少女が同時にため息をつき、二人は思わず目を合わせた。


「お疲れさま」

「うん、お疲れさま」


 ふふっと笑ったエメルに少女も苦笑して挨拶した。

 オーディションを受け始めてから半年以上にもなって、エメルは同じオーディションを受けていたライバルの一人と初めて言葉を交わしたのだった。


「残念だったわね」

「まぁね。私はまた次のチャンスを狙うわ」

「私もそのつもりよ。お互い、頑張りましょうね」


 エメルが微笑んでエールを贈ると、少女の瞳に好意めいた色が浮かんだ。


「あなた、綺麗なブルネットの髪をしているのね。名前は何て言うの? 私はマリーベルト・スアリス」

「ありがとう。私、エメル・カバシ。ハーフで半分日本人なの」

「ワオ! エメルの雰囲気が何となくエキセントリックだったのは、半分サムライだったからなのね」


 突飛なリアクションにエメルは一瞬戸惑ったが「デイブだったらどう言い返すだろう」と思った時、切り返す言葉をすぐに思いついた。


「ああ、どうしていつもこう誤解されるのかしら。私が本当にサムライなら、オーディションに失格した時、切腹してるはずなのに……」


 わざとらしく大仰にため息をついたエメルの言葉に、周囲にいた二、三人の少女達もマリーベルトと一緒に噴き出してしまった。


「これは失礼。イギリスを代表して偏見を謝罪するわ」

「マリーベルトったら、エメルにイギリス流のジョークと理解されなかったらどうするつもりだったの?」

「日本との時差が百年ぐらいあるなんて思われるんじゃない?」

「やあねえ。私、コメディアンじゃなくて歌手のオーディションに来たのに」

「ねえ、良かったらこれから一緒にお茶していかない?」

「あ、いいわね」

「エメルも一緒にどう?」


 エメルは嬉しそうに頷いた。


「ええ、外で待ってるデイブも一緒で良かったら」

「デイブ?」

「うん、私のプロデューサーよ。正真正銘の日本人だけど刀も手裏剣も使ったところを見たことがないの。だからたぶん彼もサムライではないと思うわ」

「それは残念ね」

「エメル、それはまだ分からないわ。あなたに正体を隠しているだけかも知れないわよ」

「まさか!」


 笑いさざめきながらオーディション会場のビルから外に出ると、通りの向こう側にあるオープンカフェでデブオタがブツブツ言いながら携帯の端末を弄っている姿がエメルの眼に飛び込んできた。


「デイブ!」


 顔を上げたデブオタへエメルは走り寄ると「オーディション終わったわ」と報告した。


「おお、お疲れさま」

「結果はその……駄目だったの、ゴメンなさい」

「なあに、気にすんな。それより後ろの女の子達はなんだ?」

「さっき友達になったの。これからお茶をしましょうって。ねえ、デイブも一緒に来て」


 デブオタは目を丸くして、エメルから少し離れた後ろに固まって自分に視線を注ぐ少女達をしばらく見ていたが、静かに笑って首を横に振った。


「オレ様は行かないよ」

「えっ、どうして?」

「オレ様なんかいない方がいいから。さあ、今日はもう終わりだ。あの娘達と一緒に遊んでおいで」


 そう言うとエメルの身体をぐるっと回れ右させて押し出した。

 エメルが振り向くと、デブオタは「また明日な」と手を振ってさっさと歩き出していた。

 その笑顔はいつもの豪快で自信たっぷりの笑顔だった。

 だけど。


「デイブ……」


 彼の顔に寂しげなものが見えたような気がした。

 それは、ほんの僅か垣間見えただけだった。もしかしたら気のせいだったかも知れない。

 しかし、エメルはその場から動き出すことが出来なかった。

 何故、少女達と一緒にいることを彼は拒絶したのだろう。

 エメルには分からなかった。


 胸が痛い。鋭い痛みではなく、鈍い痛み。

 何だろう、彼とこのまま別れてはいけない気がする。明日にはまた会えるのに。

 だけど、このまま別れたら大切な何かをきっと失ってしまうと心の声が告げていた。



 ――何故胸が痛むんだろう。何故このまま別れたくないんだろう……



「エメル、どうしたの? 行きましょう」


 立ち竦んだエメルに、近寄った少女達が声をかけた。

 振り向いたエメルはつい今しがたのデブオタの不可思議な言動を話そうとした。

 だが、話す前にマリーベルト達の笑いと嘲るような言葉が全てを解き明かした。


「あれ、本当にエメルのプロデューサー? あんな人、初めて見たわ!」

「体重何キロなのかしら。私、イギリス大陸が沈むんじゃないかと思ったわ」

「どうやら、私達と一緒になるのを断ったみたいね。賢明な人だわ」

「確かにサムライじゃなさそうね。お相撲さんかと思ったわ」


 哄笑する少女達は、さっきとは別人のようだった。エメルの眼にはまるで初めて見る人達のように見えた。

 胸の中にあるものを感じた。彼女達と相容ることの出来ない、大切な何か。

 そして……


「酷い顔ね、ちょっと怖かったわ。あんまりお近づきになりたくないタイプの人ね」


 マリーベルトがどこか蔑んだように笑った瞬間、エメルはデブオタの言葉を理解したのだった。


 ――オレ様なんか、いない方がいいからさ


 エメルはデブオタの去っていった方角を見た。


「エメル、どうしたの? 行きましょうよ。美味しいお茶のお店があっちにあるのよ」


 袖を引こうとしたマリーベルトの手をエメルは優しく振り払った。


「ごめんね。悪いけど私やっぱり行かない。みんなで楽しんできて」

「えっ、どうして?」


 デブオタを笑っていた少女達はみな一様にキョトンとした顔になった。

 エメルは静かに言った。


「あの人はお相撲さんじゃないの。私の大切な人なの」

「エメル?」

「私、人の痛みや悲しみを思いやってあげられる歌手になってくれって、彼に言われたの」

「エメル、何を言ってるの?」

「私も、そんな歌手になりたいの」

「……」

「だから、みんなとは多分友達になれないわ。ごめんね」


 そう言って微笑むとエメルは踵を返して走り出した。

 デブオタの去っていった方角へ。

 彼女が望んだ側へ。


「何よあれ!」

「まさか、あんな気味の悪い男の肩なんか持つの?」

「友達になれないなんて何様? ハッ、こっちからお断りだわ」

「もういいわ。あんな娘、放って行きましょう」


 訣別された少女達は一斉に口汚く反駁したが、エメルはもう振り返りもしなかった。


「デイブ! デイブ、待って!」


 通りの向こうに遠く小さくなってゆく人影に向かって大声で呼びかけた。発声練習で鍛えたよく響く声に、周囲の人々が驚いたようにエメルへ視線を向ける。


「私、デイブと一緒に行くわ!」


 彼女の声は届いたようだった。去りかけた人影が立ち止まる。

 訝しげに振り向いた彼の許へ、エメルは頬を紅潮させて一散に走り寄っていった……

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