<3>




 ウィルソンは二段飛ばしで階段を駆け上がると、塔の上にある鐘楼しょうろうに一番にたどり着いた。


「勝ちー!」


 ウィルソンが後ろを見ると、イザベラとジョセフの姿が見えた。ジョセフの方が少し遅かった。


「また負けた!」

「二人とも速いね……」


 イザベラはまだまだ元気そうに吠えたが、ジョセフは疲れているのか到着してすぐに座り込んでしまった。


「へへっ」


 ウィルソンは嬉しそうに笑って、それからジョセフの隣に座る。イザベラもその隣にしゃがみこんだ。ウィルソンがまた一番に林檎にかじりつく。歯が実を砕く軽快な音が三人の耳に届いた。

 それを聞いて唾液が咥内こうないを暴れ回ったイザベラも、たまらず林檎に齧りついた。ジョセフもまた、同じように林檎に歯を立てる。


「うん、美味しい」


 ジョセフが皆を代弁する。それからもう一口、赤を減らして白を多くしていく。


「ブランディ果樹園の林檎はこの世で一番美味しい。間違いないよ。他の林檎なんて全く、比べものにもならない」


 ジョセフが賞賛の言葉を並び立てて林檎を褒めると、ウィルソンはそれに対して首を傾げた。


「林檎なんてどこの物だろうがあんまり変わらないだろう? 腐ってたら不味いけど」

「良い物ばかりを食べているからそう言えるんだ。一度この肥沃ひよくな土地を離れて北の荒野へ行ってみなよ。きっと君はすぐに故郷に帰りたくなって愚痴を漏らすはずさ」


 ジョセフはそう言ってどこか遠くを見るような目をした。


「僕の生まれた土地なんかそうさ。麦や野菜は碌に育たないし、近くを流れている川は〈蛇の尾〉のように太くなければ魚も少ない。食べ物は美味しくなくて、風はここよりもずっと厳しい。良い点があるとすれば馬は荒野に足を鍛えられて速く、ここの馬よりもずっと多くの物を運ぶことが出来るくらいかな」

「行きたくはないな」


 ジョセフが喋っている間にウィルソンは林檎を芯だけ残して食べ終えていた。残った芯を持ったまま立ち上がって鐘楼の端の方に移動する。


「落ちないでよ」

「勿論」


 イザベラの注意に軽く反応を示して、それからウィルソンは景色を眺めた。丘の上に建つこの街、ジャシー要塞を見渡せる程に高い。


 街を全部丸ごと囲んでいる城壁を越えて、緑の大地が広がっている。その方向に目を向けるだけで特に気になるのが、青空を衝くようにそびえる巨大な山だ。麓はまだ青々としているが、山頂付近になると白い雪が積もっているのが見える。それを見た昔の人々は、その山に〈巨人の禿頭〉と名付けた。

 その〈巨人の禿頭〉の近くを流れている川、街からでも見えるくらいに大きな河川は、この地方の大地を蛇のようにぐねぐねと曲がりながら海まで続いているので、〈蛇の尾〉と呼ばれている。


 この二つはこの土地の豊饒ほうじょうを代表するものだった。〈巨人の禿頭〉は豊かな緑とそこに住まう獣達、そして一年中尽きる事のない雪を人間に分け与えてくれる。そして〈蛇の尾〉は大地に栄養を、人には清水しみずと鮮魚を恵んでくれる。


 ウィルソンはこの眺めが大好きらしい。それはウィルソンだけではなかった。イザベラも、ジョセフも同じだった。自分達に優しくしてくれるこの世界が大好きだった。


「俺さ、大きくなったら」


 ウィルソンが、多分景色を眺めていた間に考えていたと思われる事を口に出して言う。


「衛兵になりたい。街を守りたい」


 風が吹き抜けた。イザベラの髪を攫ってしまう程の強さだったが、ウィルソンは仁王立におうだちのまま不動だった。


 しかしイザベラは、次には笑い出していた。


「あははは!」

「何がおかしいんだよ!」

「だって、肉屋の息子が何を言ってるの」

「肉屋が衛兵になっちゃいけないのかよ」


 顔を紅潮させてウィルソンはそう怒鳴るが、逆に冷静なままの口調でジョセフはウィルソンに問いかけた。


「じゃあマルコムさんのお店はどうなるの?」

「それは……」

「肉屋なんてって思うかもしれないけど、マルコムさんは立派に仕事をしているよ。鋭くがれた剣じゃなくて不格好な厚い肉切り包丁なんかに魅力は感じないのかもしれないけどさ。でも、派手さはなくても堅実な仕事だよ。分かってるだろう?」

「分かってるよ!」

「衛兵になったら肉屋は継げない。あのお店は、誰か別の人に渡す事になる。それも分かってるの?」

「だから、分かってるって!」


 苛立ち交じりにウィルソンは近くの柱を拳で叩いた。鈍い音が一瞬だけ響く。

 イザベラは驚いたように肩を震わせたが、すぐに表情を険しいものへと変化させた。


「ねえ、確かに衛兵の人達はすごいわ。特に〈巨人〉ギガースって人は。でも、ビリー。あなたがそうなれるとは私は思えない」


 イザベラは、試しに山のような巨漢の衛兵の姿をウィルソンに重ね合わせてみた。しかし、いくらウィルソンの体躯が同年代の子ども達と比べて優れていると言っても、あんな大岩を人間の形にしたような人外じみた人物になるとはどうしても思えないのだった。


「……分かってるよ」


 ウィルソンは、力なく頷いた。


「俺だって分かってる。親父の仕事は地味だけど、誇りを持ってやっている。俺はずっとその背中を見てきた。街の人のためになる仕事だ。俺はそれを笑えない」


 でもな、とウィルソンは呟く。


「ジョーの話を聞いて、世界は広いって知った。俺は今ここから見える景色が好きだ。でも、世界はここだけじゃない。肉屋をやっていても、世界は広がらない。でも衛兵になれば、少しは変わるかもしれない」

「ビリー……」

「ヴィンスは気弱で臆病だけど、それでも聖職者として頼りないわけじゃないって分かっただろ。向き不向きは見た目だけじゃ分からない」


 確かに、ウィルソンの言う通りかもしれないとイザベラは思った。更にウィルソンが思っていた以上に物事を考えている事も理解した。


「俺は衛兵に憧れている。肉屋よりも危険で大変だけど、肉屋よりももっと広い世界を見れて誰かを直接守る事が出来る仕事に憧れている。家業を継ぐ事も大事だけど、俺は俺の本心に偽りたくない」


 愚直な言葉だった。しかし、愚かなまでに自分の気持ちを真っ直ぐ吐き出したからこそそこに裏も偽りもない。イザベラはそれを簡単に否定する事は出来なかった。ただしジョセフはそうではなかった。


「ビリー。あのさ、気持ちは分かるけど」


 ジョセフの口調はおずおずとしたもので、発音に明瞭さがなく、まるで気おくれしている時のヴィンスのようだった。


「僕はビリーに衛兵になって欲しくないな」

「なんで?」

「だって、僕みたいなのの相手にしているならいい。ビリーなら余裕で勝てる。でも、相手が〈巨人〉ギガースみたいなのだったら? 今回はたまたま衛兵の人達が強かっただけ。立場が逆転する時だってあるかもしれない。僕はビリーがあの盗賊達みたいに斬り殺されているのを見たくはないよ」


 その言葉は皆の心を抉った。

 つまりジョセフはこう言いたいのだ。お前は英雄にはなれないと。少なくともイザベラの耳にはそうにしか聞こえなかった。それは尤もであり、しかしイザベラの言葉とは違いなまじ感情が籠っているが故に一切のたわむれも感じられない冷酷な意見だった。


「俺は、それでも、分かってるけど」


 一つ一つ、口から漏れ出すように言葉を吐いていく。


「夢は、諦めたくない。まだ、絶対無理だって分かるまで、俺は、走っていたい」


 この中ではウィルソンが最年長だ。イザベラやジョセフよりも一つだけ。

 たった一年の違いが、イザベラやジョセフとは違う景色を見せているのか。先程のジョセフが知的さを見せつけた時とはまた違った感覚で、イザベラはその背中に大人びた雰囲気を感じ取っていた。


 自分達は子どもだ。

 でもいつまでも子どもではいられない。


 ウィルソンはすでに未来を見据えている。ジョセフもいずれ知能に追いついた大人らしい、そして男らしい肉体を身に着ける。イザベラは、なんだか一人置いて行かれている気分を味わっていた。


 不安でしょうがなく、足先がそわそわと落ち着かない。将来を思い描こうとしても漠然とした未来しか見えてこない。どころか、この三人が三人のままでいられる世界すら、イザベラは想像できなかったのだった。


「ん」


 自分の世界に浸っていたイザベラを強制的に外部へと注意を向けさせたのは、ウィルソンの声だった。彼は鐘楼の上から崖下がいかを覗き込んでいた。


「どうしたの?」


 ジョセフが尋ねると同時に自身も縁の方へと歩み寄った。慌ててイザベラも、彼らに置いて行かれまいとその背中を追い掛けた。二人と同じように街を上から見下ろしてみた。しかし普段通りの街並みは、何かが起こっているようでもない。


「あれって……ヴィンスじゃないか?」


 鐘楼から少し離れた場所を、人が豆粒のように小さく見える程の距離の辺りをウィルソンが指差した。確かにそこに数人、いやイザベラの目でも四人という正確な数を数える事は出来た。その四人が修道服を着衣しているのも。しかしその顔までははっきりとは見えなかった。


「どんな目をしてるのよ。全然分からない」

「そうか?」

「僕も……ちょっと分からないな」

「じゃあ確かめようぜ」


 ウィルソンはそう言って跳ぶようにその場を離れると階段を降りていく。


「ちょっと!」

「待ってよ!」


 残った二人も慌ててその後を追いかける。ウィルソンは二人の意見なんかお構いなしに勝手な行動に出る時がある。だから今回も彼の唐突さに戸惑う事なくすぐにその後ろ姿を追いかける事が出来た。そうでなければどこかで見失っていたかもしれない。そのくらい、ウィルソンは駆け足で移動していた。


「ビリー!」


 その後ろからジョセフが話しかける。


「なんだよ!」

「急ぐ必要ないじゃん!」

「いなくなってたら困るだろ!」


 何が困るんだろう。別にヴィンスに用事があるわけでもないのに。

 イザベラは心の中でそう思った。しかしそれを言うだけの余力はなかった。それだけウィルソンは速く走っていて、イザベラは彼の背中を見失わないように走るだけで精一杯だった。


 ようやくウィルソンが走りを緩めた時、イザベラもジョセフも息切れを起こしていた。二人が後ろで息を整える間にウィルソンは家屋と家屋の間の路地を覗き込んでいた。

 その姿は少し怪しかった。彼は普通に見ているわけでなく、建物の影からこっそりと様子を窺うように覗いていた。


「はぁ……はぁ……もう、ウィルソンったら。何してるのよ」

「しーっ」


 後ろを向いてウィルソンがイザベラに忠告する。彼は二人に対して手招きをして同じように覗き込むように指示した。


「だからそれをこっちに渡す。それだけでいいんだって」


 建物と建物の間の小さな路地の真ん中でヴィンスは、正面にいる三人の男をそう言われていた。その声は反響してウィルソン達にも辛うじて届いた。男達はヴィンスと同じ教会の関係者が着るローブを着用している。だが、その口調や立ち振る舞いはどうにも、街のならず者に近いものだった。


「大体お前が大事な物を運ぶように言われることがおかしいだろ。どんな手を使ったんだよ。なぁ、教えてくれよ。こびの売り方をよ」

「おいおい、他人の靴をめるやり方を教えられても俺達には真似出来ないだろ。こいつみたいに恥知らずじゃないんだからさ」


 げらげらと聞こえてくる神経を逆撫でするような下品な笑い声にイザベラは眉根を顰めた。どう考えても彼らが好意的な態度でヴィンスに迫っているようではない。


「わ、私はこれを必ず届けるように言われたので……」

「だからそれを俺達が代わってやるって。お前は腹を下したことにでもして口裏を合わせればいい」

「司祭様に荷物をお届けするんだ。鈍くさいお前が失敗するかもしれないから代わってやろうって言ってるんだよ。な、俺達にその仕事譲ってくれよ」

「でも――」

「おいおい、ヴィンスよぉ。お前のその頭は俺達が口答えを望んでいるように思ってるのか? 俺達がなんのためにこんな人目の付かない場所にお前を連れ込んだのか、一々教えてやらないと分からないっていうんなら、俺達もやりたくはないんだが、ちょっと酷い事になるかもしれないな」


 どうにも良くない方向に進んでいる。イザベラはウィリアムとジョセフに目を向けた。

 ウィリアムはその若さに相応しい正義心の炎を目に宿している。今にもその足は彼らの間に割って入ろうと動き出しそうだ。ジョセフは、何故か争いの方を向いてなかった。キョロキョロと辺りを見回している。


「どうするの?」

「決まってんだろ。止めに――」

「待った待った、ちょっと待ってよ。ビリー」


 ジョセフがウィルソンの袖を掴んで止める。ウィルソンは睨みつけるような視線でジョセフに振り返ると、焦燥と義憤ぎふんに駆られて早い口調で喋った。


「なんだよ、このままだとヴィンスが殴られるかもしれないんだぞ」

「そうだけど……僕達がこのまま出て行った所でその結果が大して変わるとは思わない。殴られる対象が増えるだけだよ」

「俺は大人だろうが相手に出来る!」

「確かにウィルソンなら、大人相手でもなんとかなるかもしれない。でも僕やイザベラは無理だ。僕達が応戦してもヴィンスが加わるとは限らない。そしたら、ビリーは大人三人を相手にしなくちゃならないんだよ」

「なら助けに行かないっていうのか、ジョー!」


 責める口ぶりでウィルソンは言った。その声は最初の内緒話のような小ささの倍くらいに大きくなっており、ヴィンス達に聞こえてしまっているのではないかとイザベラははらはらしていた。しかし、内心ではウィルソンと同じ気持ちであった。

 ジョセフは利口だ。でも、冷徹な判断を下せるような利口さを持つ少年であってほしくはなかった。


 ジョセフはウィルソンの眼差しに対して、真っ向から視線をぶつける。その目に気おくれや後ろめたさを感じているといった揺らぎはなかった。


「僕はヴィンスを助けるのをやめようと言ってるわけじゃない」

「え?」


 イザベラは首を傾げた。ウィルソンもジョセフが言わんとすることが分かっていないようだ。イザベラは二人の会話に割って入る。


「どういう事?」

「負けの見えている戦いに身を投じる事が馬鹿げていると言っているだけで、何も戦いを止めようとは言ってないんだ。さっきも言った通り、僕達が参入しても勝てる可能性はすごく低い。これは分かるよね?」

「ああ」

「分かってるわ」

「そしてその後の話。仮にそれに対してあいつらが暴力を振るったとしても、聞き分けのない子どもに対する説教だったってことで終わる。ヴィンスは彼らの言うことにほとんど逆らえない。当事者であるヴィンスが丸め込まれたら、僕達がいくら真実を並べたてたところで子どもの戯言たわごととしてみんな聞いてくれない」

「うん、それも分かるけど」


 イザベラは頷いた。しかし、まだジョセフの言いたい事は分からなかった。一体彼が何を考えているのか、全然見えてこなかった。


「つまり僕達がこのまま出ていっても負ける。負けるだけなんて損にしかならない」

「じゃあどうするんだよ」


 ジョセフは、一旦視線をウィルソンやイザベラから外した。路地をもう一度覗き込む。イザベラもジョセフの背中から覗くと、まだヴィンスは要求を拒否していた。彼はぎゅっと袋を握りしめたまま放そうとしていない。しかし、他の三人の男はそんなヴィンスに対して手が触れられる距離まで寄っている。どう見ても、これ以上時間をかければ暴力によってヴィンスは袋を奪われるだろう。


「だから、僕達があれを盗むんだ」

「あれ?」

「ヴィンスの持っている袋だよ」


 ジョセフはまたヴィンス達から視線を外すと、今度は隣の建物を見た。


「ビリー、この建物の屋根まで登ることが出来る?」

「は? 何を言って――」

「出来る?」

「え、ええと、そうだな。あそこの柵に足を掛けて跳べば多分屋根に手は届く。木登りの要領で登れば、時間さえあれば出来る……とは思うけど」


 いつもよりも強気な態度のジョセフの言葉に、ウィルソンは少し怯みながらそう答えた。目の前の少年の豹変ひょうへんぶりにイザベラは言葉を失っていた。


「君は屋根の上を静かに歩いてヴィンスの背後の上空近くに行く。準備が出来たら、僕達が彼らの前に出て気を引く。きっと僕達の方を何とかしようとするだろう。みんなの注意が逸れたらチャンスだ。ウィルソンが上から現れて、ヴィンスの手から袋を盗む。その後ビリーはヴィンスの背後の方向に暗がりを抜けて逃げる。僕とベルはこっちから。その後は、秘密基地で集まる。どうだい?」

「屋根から飛び降りろっていうのか?三階建てだぞ」


 ウィルソンの言葉を聞いたジョセフは唇をゆっくりと歪ませて挑発的な笑みをウィルソンに投げかけた。


「衛兵に憧れてるんでしょ。なりたいと思ってるんでしょ。〈巨人〉ギガースなら、そのくらいやってのける」


 ウィルソンはその言葉に口を一文字に結んだ。その名は鋼のような筋肉を身に着けた巨漢の衛兵の名前であり、そして少し前まで街で何度も叫ばれた英雄の名前であった。その名前はウィルソンの夢の代名詞だった。

 ウィルソンは一度目を閉じた。イザベラにはもう彼が次に頷く事は分かっていた。ジョセフの言葉はウィルソンに対してこれ以上なく効果的である。ジョセフが狙ってその名前を出した事をイザベラも理解していた。


「言ったな。見せてやるよ、俺の勇気を」

「急いで。準備が出来たら合図を」


 ウィルソンは柵の方に駆け出した。それから見分するように屋根を見つめている。登りやすい所を探しているのだろう。

 後はウィルソン次第だ。ジョセフはもう言う事はないのか路地の暗がりをもう一度覗き始めた。イザベラもウィルソンから目を離す。まだヴィンス達は押し問答をしていた。


「ヴィンス、なんだか今日は強情だね。いつもなら重要な物でもすぐに渡しそうなのに。少し様子がおかしいな」

「あなたも今日はなんだかおかしいと思うけど」


 イザベラはジョセフに囁きかける。


「何かあったの?」

「僕の何がおかしいの?」

「だって、あんなことビリーに言うなんて。いつものジョーらしくない。いつもならビリーか私の意見に従うのに。それか、あのまま何もしない事を選ぶかと思った。大人には勝てないんでしょ。それは変わらないんでしょ」

「うん、そうだね」


 ヴィンスの方に視線を向けたまま、ジョセフはイザベラの顔を見ずに答えた。

 落ち着いている、ように見えた。しかし彼の声は幾分か震えているようにも聞こえた。


「ヴィンスがさっき林檎をくれた」

「え?」


 一体何を言い出しているのか、とイザベラはジョセフに気の抜けた声とともに疑いの眼差しを向ける。ジョセフはそれには応えずに、ただ話を続けるのだった。


「僕はその時思った。僕には真似出来ないって。僕は父さんや母さんから施しを与える事も教えてもらった。でも商人である父さんから言えば、それは未来への投資だって。将来役に立つかもしれないから施すのだって。それは、損でしかないのなら施さないって事だ」


 ジョセフは平静を保っているようで、怒っているようにも見えた。もしくは悲しんでいるようにも見えた。

 イザベラは彼の事が分からなくなった。まただ。また――ウィルソンの時と同じで――長い時を一緒に過ごした親友のはずなのに、赤の他人のように感じる。遠い人のように思えてしまう。イザベラの背中が震えた。


「だから僕はヴィンスが理解出来ない。子どもに林檎を買ってあげるヴィンスが。自分のためではなく更なる他人のために施せるヴィンスが。それって何の役に立つの?」

「役に立つかどうかじゃないと思うわ」

「そう。そうなんだ。だけどそれは、僕がこのまま父さんの跡を継いで商人になったとして、多分一生理解出来ないんじゃないか。なんとなくそう感じてるんだ。僕はそれが知りたい。それを知ったらただ人の後ろについていくだけじゃなくて、僕もビリーみたいに知らない道に踏み出せるかもしれない。確かに僕は臆病だよ。でも何かを立派な事を成し遂げたいという気持ちはあるんだ。今回は、ヴィンスを助けたい。それじゃダメかな、ベル」


 ジョセフはそう言った。その後、誤魔化ごまかすように彼は情けない程に小さく笑った。

 何という事だろうか。ウィルソンが夢を語った。それはジョセフの言葉によって知らない世界と言う者への憧れを抱いたからだ。そして今、ジョセフもまた夢を語った。それはヴィンスの行動もそうだが、ウィルソンという前を行く存在に刺激を受けたからでもある。


 二人はお互いに知らない世界を持っていて、それを夢見ている。イザベラは秘密基地で味わった時と同じような孤独感に再び襲われた。それは激しくイザベラの心を深々と穿うがった。

 まるで手が届くのか確かめるようにジョセフの背中にイザベラは手を置いた。まだ二人に置いて行かれたくなかった。三人は一緒、そう思いたかった。


「ダメな事なんかないわ。私は良いと思う」

「実際に助けるのはビリーだけどね。僕にはこの建物を登ることさえ出来ない」

「あなたは十分立派よ」


 イザベラの言葉にジョセフは小さく微笑んだ。さっきよりはましな笑顔だった。そしていつものジョセフらしい笑顔だった。イザベラもそれに微笑み返した。


 その時、上から物音がした。二人が上を見上げると、建物の上にウィルソンがいて二人を覗き込んでいた。


「おい、準備出来たぞ」

「分かった」


 ジョセフは手を挙げて答えると、ウィルソンが配置につくために顔を引っ込めた。

 いよいよだ、とイザベラは気持ちを昂ぶらせる。


「行くよ。追って来た時は僕とベラは別方向に逃げる。足の速さは負けるかもしれないけど、秘密基地までの裏通りは迷路だ。そこまで行けば僕達でも逃げ切れるさ」

「あなたがそう言うのなら、私は信じるわ」


 嘘だった。本当は怖かった。ウィルソンよりも体の大きな青年に追いかけられ、そしてその後どうされるのか想像すると足が竦んだ。ジョセフの言う通り逃げ切れるとは思わなかった。


 しかしどうしてか、ウィルソンとジョセフが一緒だと思うだけでイザベラの体は自分が思うよりも簡単に、足を前に出した。

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