第十九節 手折るもの


 未だに、王国最強の二人が激しく激突する最中。

 月の名残りである白い花畑の中で、ライアはゆっくりと目を覚ました。

 浮上したばかりの意識はまだはっきりとしない。

 昨夜はずっと傍にいたはずの温もりがない事に気付き、酷く寂しい気持ちになる。

 寂しい。少し前までは、全く知らなかった感情の名前。

 寂しい。壊したくない誰かが傍にいないのは、酷く寂しい。

 それはアルディオスであったり、フェリミアであったり、また見ぬ誰かであるかもしれない。

 嬉しい。楽しい。壊したくないもの、壊してしまうのが惜しいものが、この世界には沢山ある。

 それもまた、少し前までは思い浮かべる事さえしなかった感情。

 ライアは身を起こすと、風に揺れる花びらに指を触れさせた。

 今では殆ど意識せずとも自らの極光を制御出来るようになっていた。

 壊す事なく、他の何かと触れ合う事が出来る。それはとても嬉しい事で、とても楽しい事。

 くすりと、少女の姿をした神は笑う。

 寂しさはある。フェリミアは何処かへ行ってしまい、アルディオスも姿が見えない。

 一人だけでいるのは寂しい。けれど、アルディオスは約束してくれた。

 きっと果たされる約束。それは喜びでもあり、楽しみでもある。

 あの少し不器用な彼は、最初に出会った時に交わした約束を違える事なく守ってくれた。

 ならばきっと、あの暖かな日々は戻ってくる。フェリミアにも、ちゃんと料理を教えて貰わなければ。

 空を見上げる。穏やかな風を感じて、ライアは心地よさそうに目を細めた。


「…………?」


 ふと、その風に何か嫌な気配が混じっているのに気付いた。

 肌の下から粟立つような、恐ろしく不快な何か。分からない。この感情が何であるのかを、ライアは知らない。

 同時に、その気配を発する何者かについては、ライアの記憶の中に確かに存在していた。

 黒い闇。初めて少女が意識というものを得た時に、最初に目にした醜悪な何か。


「ッ………!」


 いけないと、そう思い至った時には全てが手遅れだった。

 花畑から立ち上がるライアの前に、それは蜃気楼のように突如として現れた。

 影のように佇む、影そのものであるかのような男。全てを蔑み、全てを冒涜する全き暗黒。

 ライアはそれを見た。凶暴な獣に射竦められた哀れな小動物の如き様で、ただ呆然とその男の顔を見上げた。

 ―――笑っている。


「迎えに来たよ、名も無き私の花よ」


 笑っていた。亀裂のような笑みを浮かべて、男は―――ザルガウムは、震える少女を見ていた。

 然程時間は経っていないはずだが、随分と違う表情が出来るようになったようだ。

 色のない花にも趣きはあるが、知らぬ間に色付いた花もまた味わい深い。

 ザルガウムは満足げに笑い、未だにライアの魂に絡みついた見えない鎖をその手で手繰り寄せた。


「ッ、ぁ………!?」


 唐突に全身の力が抜けていく感覚に、少女は無力に喘ぐ。

 苦しげに息を吐き出しながらその場に跪き、ただ必死にもがこうとする。

 その様を見下ろして、ザルガウムは静かに微笑み続けている。


「無駄だよ、私の花よ。不完全とはいえ、私の手により“降臨”した君の魂には、私が施した《誓約ギアス》が根付いている」

「あ………っ、な、に………ッ?」

「抗う事に意味はない。君はただ隷属すれば良い。私の手の中で、永遠に咲き続けたまえ花よ」

「そ、んな………のっ………!?」


 じわり、じわりと。支配という毒がライアの四肢を侵していく。

 抵抗に意味はない。ザルガウム自身が語っている通り。それは最初から付けられていた首輪だ。

 術者当人も初めて試みた神威の“降臨”。暴走する神の力に対する驚きもあり、男は繋がった鎖を手放してしまったに過ぎない。

 神さえも縛り付ける術式は、今や完全な形でザルガウムの手で脈動している。

 嫌だと、拒絶さえも言葉にならない。ただ押し潰すような隷属だけが少女の意識をかき消そうとする。

 無力な小鳥が手の中で足掻いている様を、ザルガウムは無上の快楽と共に観察していた。


「まるで人のようだな、破壊の神よ。恐るべき滅びの娘よ。脆く崩れる砂に価値などないのに、感化されてしまう程に愛しさを見出したか」

「ッ…………!」

「怒り。憎しみ。悲しみ。焦り。意味はない、何もかも意味はない。それは世界という水面に浮かぶ、儚い泡沫に過ぎないのだから」


 黒い男が何を言っているのか、ライアには理解出来ない。

 最早聞こえる声も遠く、この数週間で培われてきた少女の精神は汚泥の如き深淵に沈みつつある。

 抗う。意味などないと嘲笑われようとも、ただ諦めを拒絶し続ける。

 こんなものは欲しくない。彼も、彼女も、必ず自分のところへ戻ってきてくれる。

 だから、待っていなければ。約束が果たされる時を、待っていなければならないのに。


「い、や………っ………たす、け………!」


 けれど、今この時にその声は届かない。魂を縛る鎖は、少女の自由を欠片たりとて許さない。

 闇は笑う。無慈悲な暗黒が嘲笑っている。支配と隷属、ただそれだけを積み重ねてきた悍ましい現象が微笑む。

 深淵に沈んだ魂に指を這わせ、それを無遠慮に弄る。

 見知らぬ時間を過ごしたこの花が、一体どのような過程を経て色付いたのか。

 その輝きが如何程のものであるのか。それがどれほど無意味な砂粒に過ぎないのか。

 それら全てを嘲笑うために、闇は少女の魂を紐解いていく。


「………ふむ?」


 魂に刻まれた記憶を半ばほど読み取ったところで、ふと気付く。

 ライアの中で強く輝く生命の光が、ごくごく近い場所に揃っているという事実に。

 この光こそが、無色であった滅びの花に鮮やかな色合いを施した。

 ならばその輝きを、彼女自身の手で尽く灰に変えてしまったのなら、一体どうなるだろう。

 その悲嘆は、その哀惜は、この無垢な魂にどんな色彩を与えるだろうか。


「試すのも、また一興か」


 抵抗する力を失ってしまった少女の魂から、その穢れた指を引き抜く。

 絡め取った《誓約》の鎖を手繰り、ライアの肢体に邪悪な意識を張り巡らしていく。

 この世で最も美しく、最も恐ろしい人形。

 光の潰えた瞳を間近で覗き込み、ザルガウムは満足そうに笑む。


「さぁ、祝祭の日だ」


 価値なきものを刈り取り、意味なきものを刈り取り、名も無き花の装いにしよう。

 全てが終わった後、沈んだ少女の意識を一時取り戻させてやったなら、どんな色の涙を流してくれるだろう。

 その一雫は、きっとこの世に並ぶことない至高の甘露に違いない。

 この荒れ果てた闇の内も、永劫に実りの訪れぬ致死の乾きも潤されるに違いない。


「は、はは」


 笑う。闇は笑う。救い難い暗黒は嘲笑う。


「はははははは、ははははははははははははは」


 笑う。影の如き男はこの世の全てを嘲笑う。

 光が溢れる。破滅をもたらす極光。天を覆う翼のように広がる。

 狙うべき場所は分かっている。それは少女自身が求めている輝きだ。

 その輝きに向けて、ただ手を伸ばすよう促してやるだけで良い。


「さぁ、歌え。闇夜に鳴く鳥のように」


 命ぜられるままに、歌声は響き渡る。空そのものを楽器に変えて。

 人ならざる歌。極光が描く円が一瞬膨らむと、小さな輝きの形に収束する。

 ほんの少しの間、世界から音が消えた。神威の顕現に、世界の全てが頭を垂れたかのように。

 爆発もまた、音を伴わない。圧縮された極光が爆ぜ割れて、巨大な柱となって天を貫く。

 雲を消し飛ばし、空を引き裂いて。光の柱は一条の矢となって、大地に向かって降り注ぐ。

 万物を真っ白い灰へと焼却せしめる破滅の極光。

 無音の世界で光が弾け、闇の声だけがそれを嘲笑う。



 その光を見て最初に動き出したのは、他ならぬアルディオスだった。

 それが騎士達に大きな隙を見せる結果になるのも構わず、大剣を肩に担ぎながら地を蹴る。

 恐らくは数秒の暇さえない。程なく全てを滅ぼす死の一撃が頭上から落ちてくる。

 予想通り、光が来る。目を奪われてしまいそうな程に美しい極光。


「全員下がれッ!」


 その光に正面から挑みながら、アルディオスは吼える。

 戸惑う時間も一瞬。フェリミアと騎士達は、すぐさまその言葉に従う。

 一度天へと立ち上ってから、神の下した裁きそのものとなって降り注ぐ破滅の光。

 アルディオスは迷いなく踏み込む。総身に力を漲らせて、ただ一刀に全てを込める。

 振り下ろされた刃と、神が放った極光がぶつかり合う。

 凄まじい衝撃に身体を吹き飛ばされかけながらも、アルディオスは全力で剣を振り抜いた。

 光が弾ける。本来であれば森を丸ごと塵に変える力を持っていた極光が、ただの剣の一振りでバラバラに砕け散った。

 神を切り裂いた無二の剣。アルディオスの刃は、光の持つ滅びの力を減衰させ四方へと散らせる。

 細かな破片になっても、それもまた破壊の神が持つ力の一端。

 触れてしまった木々や大地が青白い炎を発して燃え上がり、騎士の何人かも光の余波を受けて負傷を受ける。


「っ………ぐ………!」


 その中で、最も大きな被害を受けたのはアルディオス自身だった。

 渾身の力で放った一撃は傷ついた身体を更に痛めつけ、そこに弾いた光の欠片を一身に浴びてしまった。

 鎧による防御など殆ど気休めでしかない。

 青白い炎に焼かれながら、アルディオスはその場に膝を着く。


「アルディオス様ッ!?」


 思わず駆け寄ろうとするフェリミアを、どうにか手を動かす事で制する。

 状況はまだ終わっていない。むしろ破滅的な事態は、今まさに進行中なのだ。

 光が舞う。周囲の木々は半ばまで消し飛び、ぽっかりと開いたその空白に降り立つように光を纏った少女が現れた。

 ライアだ。白いドレスを風に揺らして、美しい極光を幾重にも重なったヴェールとして纏っている。

 それは見知った少女の姿ではあったが、何かがおかしい。

 アルディオスもフェリミアも、直ぐにその異変に気が付く。

 その瞳に、何も映っていない。生の輝きは失せ、ただ闇だけが虚ろの如く満たしている。

 一体、何が―――その疑問を言葉にするよりも早く、原因の方がライアの影から姿を現した。


「ふむ、今の一撃を防ぐのか。思った以上にしぶといようだ」


 ライアの影から現れた、影の如き男。仕立ての良い白い服に身を包んだ、醜悪極まる闇の具現。


「っ………貴様は………」

「はじめまして、価値のない原住民の諸君。私の名を君らに語るつもりはないし、君らの名にも私は一切興味がない」


 淡々と。感情の一欠片も見当たらない淡々とした声で、ザルガウムは一方的に言葉を発する。

 話しかけているのではない。ただ一方的に宣言をしているのだ。

 知恵を持たぬ猿に対して預言をもたらす神のように。


「これは余興だ。正直に言って、特に意味のある行いではないが、私の花の輝きで君らを残らず焼却する事にした」


 だから大人しく焼かれ果てろと、アルディオス達に死を宣告する。

 騎士達は動かない。動けない。下手な動きを見せれば、無慈悲な神の手が我が身に伸びると理解してしまったから。

 アルディオスは動けない。思ったよりもダメージが大きい。

 傷ついた身体が力を取り戻すには、今少しだけの時間が必要だった。

 フェリミアは動かず、宙に浮かぶライアとその傍らにある影を見ていた。

 彼女は今まさに、確信を得ていた。何らかの手段で操られてしまったライア。それを見て嘲笑う闇の男。

 あれこそが、今この地に起きていた異変の元凶なのだと。


「一体、何が目的だ。貴様………!」

「ふむ?」


 よく分からない事を言われた。そんな体で、ザルガウムは緩く首を傾げる。


「目的? 目的か。私が望むのは彼女一人。私が求めるのは、この名も無き花のみだ。その他全てが瑣末事に過ぎん」


 闇が触れる。ライアの身体に。無邪気に世界の美しさを喜んでいた、少女の魂を穢すように。

 激しい怒りで頭の中が弾けそうになるのを、フェリミアは必死で抑えた。

 敵が尋常ならざる相手である事実が、ギリギリのところで歯止めを掛けていた。

 相手の素性は不明であるが、“降臨”した神威を束縛して操るなど人間の領域を超えた御技だ。

 それが可能である者を、フェリミアは知っている。《既知領域》における最高位の魔導師であり、五人の《封神到達者》の一人。

 だが目の前の相手とその人物は異なる。他に同じ頂きに至った者がいるとして、その噂さえ耳にした事もないなど有り得ない。

 ならば答えは一つ。この男は、この《断片世界》の人間ではない。


「《世界移動者》………」

「思ったより知恵はあるらしい。驚嘆すべき事実だ」


 恐るべき神威災害の他に、次元の狭間を渡る術を手に入れた最高位の魔導師。

 その事実に行き当ったフェリミアに賞賛の言葉を贈り、そして直ぐに興味を無くした。

 全ては余興。全ては戯れ。無価値な原住民を相手にこれだけ言葉を重ねるなど、本来ならば有り得ない。


「終わりにしよう。地虫は這いずる様よりも、潰れた後の無情さこそ愉しめる」


 闇は命じる。今や傀儡に過ぎぬ神に、眼前の全てを焼き滅ぼせと。

 光が揺らめく。極光は再び収束し、破滅の一撃となって撃ち放たれるだろう。

 フェリミアや騎士達にそれを防ぐ手段はない。先ほどは見事に防いで見せたアルディオスも、今は動けない。

 動けぬままで、アルディオスは顔だけを上げた。

 出血と疲労が合わさり、視界は霧が掛かったようにはっきりとしない。

 油断すれば断絶してしまいそうな意識を何とか繋ぎ留めながら、アルディオスはそれを見た。

 ライア。恐るべき破壊の神でもある、何でもない一人の少女を。

 その表情に色はない。本来の彼女の魂は、ザルガウムが施した《誓約》の鎖により深淵の底へと沈められている。

 縛られ、自由を奪われ、ただの操り人形として望まぬ破壊を強いられようとしている。

 それはどれほどの苦痛か。どれほどの屈辱か。

 アルディオスは動けない。動けない身体で、それでも少女の魂に届かせようと力を振り絞る。

 剣は持ち上げる事さえ出来ない。傷つき、力尽きた肉体に戦う術はない。

 だから、彼に出来る事は一つだけ。


「―――ライ、ア………!」


 名を呼んだ。アルディオスが与えた、彼女のためだけの名前を。

 ザルガウムはその意味が理解出来ず、ほんの少し訝しげな表情を見せただけ。

 無意味な呼びかけだ。死にかけた愚者が今際の時に放った、取るに足らない戯言に過ぎない。

 少なくとも、闇の具現たる男はそう考えていた。


「………なに?」


 だが、変化は劇的だった。

 既に極光で焼却するよう命じたはずの破壊神が、唐突にその動きを止めたのだ。

 抵抗すら許さなかったはずの《誓約》による拘束に、少女の魂が抗おうとしている。

 起こり得るはずのない現象を目の当たりにし、ザルガウムの精神が僅かながらにも揺らいだ。


「何故―――いや、まさか………そういう事なのか?」


 浮かび上がる疑問符に対し、論理的に導き出される結論は一つしかない。

 自我と束縛の狭間で足掻く神を前に、人の姿をした闇は己の思考の内に没頭する。

 ―――その決定的な隙を、フェリミアは見逃さなかった。


「総員、撤退!」


 騎士団長が命令を飛ばすと同時に、騎士達は弾かれるように駆け出した。

 決して一塊にはならず、無数の木々で複雑に入り組んだ森の中を思い思いに散っていく。

 フェリミアは自身の動甲冑にアルディオスの身体を担がせた上で全力で離脱を試みる。

 この場に留まっても勝ち目はない以上、これが最善の選択だ。

 分かっていても、屈辱と無力感で胸を掻き毟りたくなる。

 フェリミアは軋む音が立つ程に奥歯を噛み締め、アルディオスはその意識だけを置き去りにした光景へと向ける。

 闇は他に興味など無いと言わんばかりに、ただ思索に耽っている。

 ライアは、色を失った表情のままに縛られ続けている。

 何もかもを踏み躙られながら、それでもたった一つの名前を縁に抵抗を続ける少女。


「………………ッ!」


 その痛みを思い、アルディオスは吼えた。

 声は音として響かず、それでも男は吼え続けた。

 それは神の歌声の如く空に届く事はなく。

 ただ、有り得ないはずの涙の雫を、少女の眦に浮かべるのみだった。

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