第四章 二人の決戦

第十七節 戦う理由

 月の残り香をかき消すように、太陽は空高く上っている。

 陽光に照らされる雲は風に細く棚引いて、ただ穏やかに過ぎ去っていく。

 それは本当に静かな朝だった。鳥の声はなく、虫の音もない。

 ただ死の静寂に抱かれた瓦礫の街に、白い花だけが揺らめいている。

 夜が過ぎても語り明かしていたせいで、すっかり眠ってしまった少女を花畑に横たえる。

 あどけない寝顔を暫し見下ろして、男は一人立ち上がる。

 身を固めた鎧の具合を確かめ、ベルトに仕込んだ投剣や腕に巻いた鎖に綻びがないかも確認する。

 問題はない。全て万全だ。一つ頷いて、背には神を切り裂いた無二の大剣を背負う。

 花畑で眠る少女に背を向けて、アルディオスは歩き出した。

 向かう先は分かっている。何か取り決めがあったわけではない。

 分かるのだ。自分に向けられている意志が、そこに秘められた熱い思いが。

 その突き刺すような戦意を道標に、男は迷いなく決戦の地に向かう。

 それは森の中。普段であれば、多くの魔物がうろついている危険地帯。

 しかし今日は酷く静かであった。覚めぬ眠りにある《廃棄都市》と同様に、森全体もまた死んだように沈黙している。

 理由は誰かに問うまでもない。これから起こる戦いの邪魔にならぬよう、予め排除されたのだろう。

 その程度の事は容易いはずだ。アルディオスが知る彼女であれば、苦もなくやってのける。

 ガシャリ、と。鎧同士が触れ合う音がした。

 前方、太い木々の間。アルディオスはそちらへ視線を向ける。

 本来であるなら、鍛え上げた王国騎士の鎧は微かな音さえ立てる事はない。

 音が立ったという事は、その騎士の鍛錬がまだ不完全であるか――あるいは、己を示す為にわざとそうしたか。

 この相手の場合は、勿論後者だ。使い込まれた胸甲鎧、不可思議な紋様が刻まれた籠手と脚甲。

 右眼を覆っていた眼帯は今は無く、猛禽にも似た金色の瞳が晒されている。

 王国騎士団長、フェリミア=アーサタイル。

 彼女は鎧の響きと共に、己が師とも呼ぶべき男と相対していた。


「………やはり来られましたね」

「あぁ、来たとも」


 声に混じる憂いは、お互いにどうしても拭い難い。

 戦う覚悟は決めた。双方共に譲れない事も分かっている。

 それでもやはり、人の心は簡単に割り切れるものではない。

 フェリミアはそれを惰弱だと恥じた。

 王の許しは得た。己の役割に徹するのだと、そう決めたというのに。

 心の弱さを噛み潰して、フェリミアは腰に佩いた剣の柄に手を添えた。

 抜き放てば、戦いが始まる。十年という月日を経て、相容れない二人が刃を交える瞬間が。

 ………それに対し、アルディオスはまだ動かなかった。

 背負った大剣に手は伸ばさず、戦意を燃やすフェリミアの目を真っ直ぐに見返す。

 何を、と。僅かに戸惑いを抱いたフェリミアに、アルディオスは一つ一つ言葉を選びながら口を開いた。


「………本当に、やるつもりか? フェリミア」

「………今更、何を言うのですか」


 ライアが神の御業を振るった時から、二人の道は別れたはずだ。

 神を殺そうとする者と、それを守ろうとする者。決して相容れない思想。

 アルディオスも分かっている。戦いが避けられない事は。その覚悟は当たり前のように出来ている。

 だからこそ、今この瞬間にしか言葉は重ねられない。

 剣を抜き、戦う以外に何もなくなる前に、アルディオスは自らの胸の内をフェリミアに向けた。


「ライアと、俺達に、一体何の違いがある」

「………何が言いたいのですか」

「アイツは神で、俺達は人間だ。………俺は少々、化物みたいな身体にはなっているがな」


 思わず漏れてしまった自嘲。その暗い感情は直ぐに拭って、アルディオスは言葉を続ける。


「お前は、あの時に言ったな。ライアの放った光が、人の住む街に向けられない保証はないと」

「ええ。それが神威という災害。故にこそ、葬らねばならない」

「あぁ、そうだな。降臨した神は災害と変わらない。それは確かにその通りだ」


 だが。


「それは本当に、ライアだけに言える事か?」

「………それは、どういう意味ですか」

「言葉通りの意味だ。俺達を見てみろ、フェリミア。竜を屠り、神にさえも刃を届かせる。………人は俺達を、英雄と呼ぶのだろうが」


 それもまた正しい。人を超え、人の為に力を振るう者。

 無力な者達では抗い難い災厄を打ち払い、時には神威さえ封じる《既知領域》の希望たる存在。

 英雄。万民はその者の名をそう讃えるだろう。それは決して誤りではない。


「だが、もし―――もし、俺達がその気になったなら、リンベルンの街を陥落させる事だって、そう難しくはない」

「っ…………!」


 何を言っているのかと、フェリミアの眼差しに初めて怒りの色が宿る。

 王国を守るべき騎士たる身が、守るべき者達に刃を向ける。

 そんな事は有り得ない。有り得ないからこそ、想像さえした事がない。いや、最早それは妄想と呼ぶべきものだ。

 考えに上らせるだけでも最上級の侮辱に等しい。

 激しい怒りを覚える若き騎士に対して、神を墜とした男はあくまで冷静だった。


「無いと、本当に言い切れるのか? 英雄と呼ばれた者が狂い、人に仇なす事などないと。………勿論、お前に限ってそんな事はないと俺は信じている」

「ならば何故、そんな訳の分からない話を………!」

「同じように、ライアの事も信じているからだ。もう理由なく、人にあの極光を向ける事はしないはずだ、と」


 だから、何も変わらない。人も、神も。本質的には何も変わらないのだと。


「人は変わる。十年なんて短い時間でも、大きく変わってしまう。俺があの月が墜ちた夜から、変わってしまったように」

「…………」

「お前も変わった。もう弱さに泣いていた頃とは違うはずだ。今のお前は堂々と、この国の騎士団長として俺の前に立っている」

「………アルディオス様」

「アイツも変わった。ライアも、この地に降りてきたばかりの時は、確かに破壊の神そのものだった」


 無邪気に笑いながら、全てを滅ぼす輝きを纏う恐るべき女神。

 恐らく、その本質が変わる事は永遠にないだろう。人が人以外にはなれぬように、神はあくまで神のままだ。

 それでも、ライアは変わった。僅かな時間で多くを学び、破壊の神は「壊したくないもの」が世界に在る事を知った。

 ならば人も神も変わらない。愛しいもの、尊いものの為に生きられる同じ生命のはずだ。


「今なら、まだ止められる。………もう一度、話し合う気はないか。フェリミア」


 あの暖かい陽だまりの日々と同じように、共に言葉を交わして分かり合う事は出来ないか、と。

 届かぬと理解していながら、アルディオスは言った。

 フェリミアは答えない。男の言葉は理解出来る。理解出来るからこそ、どうしようもない程の葛藤がある。

 あるいは十年前の自分であれば、それに頷く事も出来たかもしれない。

 だが、駄目だ。駄目なのだ。彼自身が言った通り、人は変わる。十年という短い歳月でも。

 弱さに泣くだけだった少女はいない。今此処にいるのは、王国騎士団長フェリミア=アーサタイルなのだから。


「………ライアは、討たねばなりません。彼女は神だ。貴方が言う通り、彼女はもう人に災いを為したりはしないかもしれません」


 それは事実だろう。あの少女の善良さは、共に過ごしたフェリミア自身がよく分かっている。


「ですが、彼女の神としての強大さが、崩れてしまったこの世界の境界線と干渉している可能性は否めない」

「………それが、今起こっている《巨獣》の異常発生の原因だと?」

「推測に過ぎません。根拠はなく、不正確な結論である事は否定しません」


 だが、誤りでない可能性も十二分に存在する。

 ほんの少しでもその可能性がある以上は、見過ごすわけにはいかない。

 音もなく、フェリミアは腰の剣を抜き放った。同時に魔力が脈動し、陽炎となって騎士の背に揺らめく。

 それは戦いの始まりを告げる合図だった。最早問答は無用と、フェリミアは行動によって示す。


「もう退いてくれとは言いません、アルディオス」


 籠手と脚甲。そこに刻まれた紋様に魔力が通い、青白い輝きを帯びる。

 フェリミアが誇る固有魔術の発動。その証たる光を見て、アルディオスも背に負った大剣の柄を握り締める。

 必要な言葉は出尽くして、相容れない事も再び確かめ合った。

 後は戦いで決する他ない。刃を交えるように、両者は同時にその結論に至る。

 瞬間、アルディオスの巨体が弾けた。

 大地を蹴り砕く勢いでその場から跳ね飛び、一瞬遅れて無数の何かが地面に突き刺さった。

 それは投槍だった。森の大地を深々と射抜く無数の槍。

 風切り音さえしなかったのは、槍そのものに《静寂サイレント》の魔術が施されていたのだろう。

 槍はフェリミアの方から放たれたわけではない。文字通り四方八方、あらゆる場所からアルディオス目掛けて襲いかかってきた。

 何の気配もなかった森の木々の隙間から、今は剣の如き殺気が溢れ出している。

 片手で大剣を構えながら、アルディオスは油断なく周囲に気を配った。


「お前の技をちゃんと見るのも、十年ぶりだな。今は“何騎”動かせるんだ?」

「精々が五十騎程度です」


 軽口に近い言葉にも、フェリミアは真面目に受け答えする。

 同時に、木の陰から姿を現すもの。それは青白い輝きを宿す全身甲冑の騎士達だった。

 騎士。そう、それは紛れもなく騎士の姿だ。

 フェリミアの籠手と脚甲と似た紋様が鎧には刻まれており、手にはそれぞれ盾や剣、槍等の武装を構えている。

 しかし兜の隙間からは黒々とした闇しか見えず、生き物が持つ特有の気配が欠片も感じられない。

 動甲冑リビングアーマー。現れた五十騎の鎧全て、フェリミアの魔力により駆動する人形のようなものだった。


「確か《白霊騎士団》だったか、お前の固有魔術。森の魔物も、こいつらで纏めて片付けていたわけか」

「ええ、その通りです。貴方もご存知の通り、昔は精々二十騎か三十騎程を動かすのが限度でしたが………」


 ゆっくりと、フェリミアは剣を掲げる。

 それに合わせて、動甲冑達も手にした武器を同じように掲げてみせた。

 操られているだけの傀儡とは到底思えない、驚く程に滑らかな動き。

 だがアルディオスを真に驚愕させたのはまったく別の事柄だ。

 フェリミアと五十騎に及ぶ動甲冑の動き。そのイメージが完全に重なっている。

 僅かな劣化もズレもない。全ての動甲冑達は完璧に、フェリミアと同じ動きをしているのだ。

 それが何を意味するのか。フェリミアは自らの口で、誇るようにその事実を告げる。


「今はご覧の通り。五十騎までなら、ほぼ完璧に私自身と同じ性能を持たせる事が出来ます」

「…………」


 ただでさえ王国騎士団の頂点に立つ程の実力を持つ騎士が、本体含めて五十と一騎。

 その戦力は総和は単純に五十倍では済まないだろう。一つの意志の元に、完璧に統制された五十一騎の連携。

 どれほどの脅威となって具現するのか、考えただけで苦い笑みが溢れる。


「………興味本位で聞くが、性能を落とす前提なら最大で何騎同時に動かせるんだ?」

「一騎辺りの性能が三割程にまで落ちてしまいますが、千騎までなら何とか」

「文字通りの一騎当千というわけか。流石だな、フェリミア」

「お褒めに預かり光栄です」


 師であった男の偽りなき賞賛を素直に受け取りながら、フェリミアは剣を構える。

 痛みも、揺らぐ心も、今は遠くに忘れる事が出来る。

 迷いも葛藤もあったが、今この瞬間からは関係のないものだ。

 戦う。戦える。神を墜とした英雄に、この国最強の大剣士に。これから自分は挑むという事実。

 賞賛は受け取った。それは本当に嬉しかった。確かな喜びを噛み締めながら、彼女は更にその一歩先を目指す。

 十年前から、自分は変われたのか。月へ向かう男を泣いて見送るしかなかった弱い自分から、どれだけ変わる事が出来たのか。

 知りたかった。痛む心はある。役目を果たす覚悟もある。

 その上で、フェリミアは己の意志で刃を向ける。いずれ届きたいと願った、たった一人の男へと。


「いざッ――――!」


 吼える。それは悲しみと喜びが綯交ぜになった、慟哭に似た咆哮。

 アルディオスはそれを真正面から迎え撃つ。後ろめたさも、運命に対する嘆きもない。

 今は一人の人間として、そうする事が正しいと信じて剣を取る。

 両者の激突は、凄まじい衝撃となって禁域全体を揺るがした。

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